ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「ほめればよい」信仰

2010-03-31 08:05:50 | Weblog
「正確に」3月27日
 『ほめる育児が適応力高める』という標題の記事が掲載されました。科学技術振興機構の調査によると、『1歳半以降の行動観察で、親によくほめられた乳幼児は、ほめられない乳幼児に比べ、3歳半まで社会適応力が高い状態を保つ子が約2倍いることが分かった』のだそうです。調査を主導した大学教授は、『経験としてしられていたことを、科学的に明らかにできた』と語っているそうです。
 この調査結果に異論はありません。ただ、「ほめる育児が適応力高める」という見出しには問題があると思います。いくつかの誤解を生じかねないからです。
 まず、ほめることがよくてしかることは悪いという誤解を生じかねないということです。ほめることと叱ることは子育てや教育の「車の両輪」です。適切にほめることと同じくらい適切に叱ることが大切なのはいうまでもないことです。
 次に問題なのは、ほめるにしても叱るにしても「適切なやり方」で行うことが大切であり、なんでもほめればよいというものではないということが、きちんと理解されない恐れがあるということです。
 さらに、発達段階による違いへの考慮が大切であるという点にふれていないことです。乳幼児と学童期では、親の対応は違ってこなければなりません。小学校の高学年になれば、ほめる場合でも、ただ「よしよし、いい子だね」と頭を撫でていればよいわけではありません。私は、教委勤務時代に、研修会などで「ほめるのはその子供の行動を具体的にほめる」という原則が大事だと指導してきました。例えば、「あなたは優しい子」とほめるのではなく、「水槽の水を換えてくれてありがとう。お陰で金魚が元気になったね」というほめ方をするということです。
 もちろん、今回の調査が、私が危惧したようなことをいっているわけではありません。また、新聞の限られた紙面の中で、長ったらしい見出しを付けるわけにも行かないでしょう。それでも、経験のない若い教員や初めての子育てに悩んでいる人が、「そうか、とにかくほめればいいんだ」と誤解してしまうような表現は極力避けてほしいと考えてしまうのです。学校や保護者の中に蔓延している「ほめればよい信仰」を悪化させないためにも。

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素人の異見の生かし方

2010-03-30 07:56:31 | Weblog
「分かっていない人の意見」3月26日
 経済記者の福本容子氏が、「ジョセフの疑問」という標題でコラムを書かれています。
 「なぜ猫はタマなんですかと聞くジョセフ」という川柳を引用した後、『猫といえばタマ。理由は知らなくても日本人同士だと聞かない。それを外国人のジョセフは聞く。つき合うのは大変だけどそこがポイントだ。仲間内ではありっこない疑問や発想が日本企業を強くしてくれるはず』と述べています。
 その世界のことを理解していない人の話には、確かに「ハッ」とさせられる疑問や発想が含まれていることがあるものです。それを「何を言っているんだ、ばかばかしい」と切り捨ててしまうのではなく、受け止め生かすことができる感性をもつことは大切なことです。しかし、間違えてはいけないのは、主体は「専門家」の側にあり、「分かっていない人」が、実際の企画や運営、実施や評価を行うのではないということです。また、「ハッ」は、1/10、1/20の確率でしかないこと、9/10、19/20を選別し排除するためにも時間と労力は必要であり、その部分があまりにも大きくなりすぎると、かえって組織の運営の阻害要因になるということです。
 外国企業と日本企業の問題であれば、「企業」という共通点があり、「仲間内ではあり得ない疑問や発想」が有意義なケースは多いでしょう。どちらも「専門家」なのですから。しかし、学校の場合はどうでしょうか。我が国の場合、学校に通ったことがない人というのはほとんどいません。そのせいか、すべての人が「学校」というものについて分かっているつもりになっています。しかし、それはあくまでも「顧客」として学校を体験したことがあるということに過ぎないのです。
 教員を目指し大学で学んできた教育実習生が、必ず漏らす感想は「学校ってこんなふうになっていたのですね」であり、「先生は授業だけしていればよいのかと思っていました」です。通常に人よりも教職について関心をもち知識をもっているはずの彼らにしてもその程度なのです。
 学校評議員制など、「開かれた学校」の考え方は、地域住民や保護者の意見を参考にする段階から直接運営に関わる方向に進みつつあります。しかし、今まで述べてきたように、、学校のことを知らない人たちが「関わりすぎる」ことのデメリットを考え、私は疑問を感じています。学校への要望提出や行事等の評価に留めておくべきではないかと思っているのです。人事や教育課程編成にまで関わるのは、混乱をもたらす結果になると思います。

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楽をしていては

2010-03-29 07:57:36 | Weblog
「壁になる」3月25日
 作家の宗田理氏が、インタビューに答えていました。その中に次のような一節がありました。『子供は子供同士で遊べばいい。長男なんか、神社の屋根を滑り台にして遊んでいたそうです。後から知りました大人がいたらそういう遊びをさせないでしょう。子供たちとは、大人になってからよく話すようになりました』というものです。そして最後に、『新しい発想をもつよう子供たちを育ててほしい。親は、乗り越えたり、突き崩すための壁になってほしい』とも語っています。
 宗田理氏の主張に同感です。子供の健全な成長には、「子供社会」が必要なのです。子供だけで、悪さをしたり、人間関係の不条理さを味わったり、人の醜さに傷つけられたりする体験が、人を人として成長させるのです。これは、親や教員といった大人が管理する「疑似社会」では体験できないことなのです。大人がいれば、「そんなことはやめなさい」「みんな仲良くしましょうね」といった建前でその場を支配してしまい、本当の人間関係調整力は育たないのです。それにもかかわらず、最近は、大人が管理する「疑似社会」を広げる方向に世の中が動いています。放課後や休日に学校施設を開放し、○○スクールといった学校生活の延長のような場を提供する試みなどがそうです。また、子供を対象とした犯罪が起こると過剰反応し、大人が通学路に立ち、街全体に大人の目が行き届くようにしようとするなどの実例も見られます。これでは、子供の生きる力は細る一方です。
 このように書くと、「大人が上から子供を管理するのではなく、子供と同じ目線で子供と接するようにすればよい」と言う人がいます。とんでもない間違いなのです。それでは、大人と子供が一緒に神社の屋根を滑り台にして遊ぶ、ということになってしまいます。もし、そうなったら、その子供は、神社の屋根を滑ることはよいことなのだと思い込んでしまい、信仰の意味も、世の中にはルールがあることも理解できないまま大人になってしまうことでしょう。大人はガンコに分からず屋で、既成の価値観を子供に押しつけてこそ、存在価値があるのです。そんな大人に反発し、ぶつかって叱られはじき飛ばされることを繰り返して、社会のルールやその基になっている人々の価値観を理解し、同時に自分たちの新しい価値観を創造していく力を蓄えていくことが大切なのです。つまり、「壁」になることなのです。物わかりのよい大人では、役に立たないのです。
 しかし、近年は、「物わかりのよい大人」全盛です。それは、頑固な大人であるよりも、物わかりのよい大人である方が楽だからです。しかし、楽をして子育てはできません。子供の壁、それも厚い壁になる覚悟をもちたいものです。

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誇りが夢に

2010-03-28 08:04:56 | Weblog
「国を教える」3月24日
 前横浜市副市長の野田由美子氏が、「30年後の日本への責任」という標題でコラムを書かれていました。野田氏は、平均年齢27歳の若手女性による会合にかかわっているそうですが、そのメンバーの女性たちの特徴を『物心ついたときから常に日本は低迷し、日の昇る国ニッポンという実感はない。従い、「再生」への焦りも期待もない』と書いています。そしてメンバー世代を『何でも手に入れられるが、常に不安を抱え、社会を自分らの手で変えられる実感が持てない次の世代』としています。さらに、『30年後の日本を生きる若者にも、自らの努力で社会は変わりうるという可能性と、希望が人に与える力強さだけは実感してほしい。そのための責任を痛感している』と結んでいます。
 私も、野口氏を同じ世代であり、「若手女性」の感覚には、同調できません。でも、彼女らがそう考えるのは無理もないとも思います。
 それは、我が国の歴史教育に原因の一つがあると思うからです。時代は変えることはできませんし、事実をねじ曲げることもできません。しかし、自国の栄光ある歴史を、誇るべき先人の歩みを学ぶことはできたはずです。野田氏によれば、彼女たちは、『日本を代表する企業や中央官庁のキャリア、有名大学の学生』なのだそうですから、小学校から大学(大学院?)までの学校教育の中で、繰り返し我が国の歴史を学んできたはずなのです。そして、そこでは、先人は、外国を侵略し、国内では多くの庶民を圧迫してきたと刷り込まれてきた可能性が高いのです。また、経済成長は、公害を生み、発展途上国の資源を奪い、環境を悪化させ、家庭を顧みない仕事人間を生み出したというイメージをもたされたのではないでしょうか。
 現代は、欧州の中堅国家であるオランダやスペインも、かつては世界に影響力をもつ大国でした。国家の盛衰は、歴史の必然でもあります。我が国が世界第2位の経済大国の座から滑り落ち、さらに下降していくのは避けられないでしょう。では、オランダやスペインの国民は、ここ数百年、意気消沈して生きているのでしょうか。そうではないはずです。自国の歴史と先人の遺業に誇りをもっていれば、前向きに生きることが可能になるはずなのです。
 かつてNHKで人気番組であった「プロジェクトX」ではありませんが、素晴らしい先人の業績や営みを学校教育の中で取り上げていく必要があるように思います。そうしつぃてんからの歴史教育の見直しこそ、将来に希望を持つ若者を創り出すと考えます。

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家庭は家庭、学校は学校

2010-03-27 08:08:41 | Weblog
「教員という公と親という私」3月23日
 小児科医細谷亮太氏が、インタビューに答えていました。細谷氏は、現代の子供について、『保育園でけがしただけでも「だれがやったんだ」と親がどなりこんでくる。公園でも「知らない人について行っちゃ駄目」ではすまずに「大人と話しちゃ駄目」というようになった』と語り、少子化を背景に『1人の子を大切に育てたいという親の思いは強まるばかりだ』と指摘しています。
 さらに、『「子どものために」を合言葉に親の価値観を押しつけすぎていないだろうか』と問題提起し、『少年時代、偉人の伝記に夢中になった。黄熱病の研究でアフリカに渡り感染して病没した野口英世の生涯を知ることは、その後の医師の仕事につながった。「今の子は、遠い場所で研究した末に亡くなるなんて損だと思ってしまうかも。放射線を研究したキュリー夫人についても「危険なものに近づかないのよ」って親が諭すかもしれない』と危惧しています。
 私も、「近ごろの親」にはうんざりしています。しかし、細谷氏の感慨とは少し異なります。私が教員になった30数年前にも、視野が狭くて目先の利害にしか目がいかず、、自分の子供のことしか考えられない保護者はたくさんいました。ある意味では、それが自然だとさえ思います。しかし、その頃の保護者と今の保護者が違うのは、「自分の価値観」の押しつけが、家庭内で留まるか、学校という公的な場にまで及んでしまうかという点にあるように思うのです。
 一つ例をあげましょう。トラブルがあったとき、「決定的な証拠がない限り自分で非を認めて謝るな」ということをわが子にたたき込んでいる母親がいました。彼女の長年の人生経験の中で、弱みを見せたら負けという人生訓ができあがっていたのでしょう。彼女の娘さんは、彼女の教えそのままに決して謝ることがなく、おいつめられると大声で泣き自分を被害者の立場におこうとするような子供でした。家庭訪問で、そうした学校の様子を知らせたとき、彼女は「それがわが家のやり方ですから」と言い放ちました。しかし、私が、「大人の世界ではともかく、学校という基本的な道徳観を身に付ける場においては、悪かったと思ったら素直に認め謝る、ということについて指導していきます。そうでないと、○○さん自身が友だちから嫌われ、学校生活がつまらないものになってしまいます」と話すと、「学校は先生の領分ですから、お好きなように。でも、私は私のやり方を変えません」と話されました。今思えば、40過ぎの彼女から見て、20代前半の私の話は、「世間知らずの若造が理想論言ってるよ」というように思えたことでしょう。それでも、彼女には、「学校における指導方針は学校が決めるもの」という意識、「どうやら私の育て方は他人様と違うらしい」という認識があったのです。だからこそ、自分流を学校でも認めろ(よその子供にも認めさせろ)という無茶は言わなかったのだと思います。
 今の保護者は、「学校の指導方針は学校が決める」という感覚に欠け、「わが家のやり方が普遍的なものではないかもしれない」という自省的態度が乏しい傾向にあるのです。自分の思い描くような子供に育ってほしい、という願いは当然のものです。しかし、大勢の子供が共同生活を営む場では、わが子は大勢の中に1人にすぎず、その中では親としての自分の主張を抑えることが必要であるという、「常識」をもたなければ、わが子への思いは、単なるわがままになってしまうのです。家庭という「私」と学校という「公」を区別する感覚こそが、今の保護者にもっとも欠けているところだと思います。

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甘えかもしれないが

2010-03-26 08:05:17 | Weblog
「忙中閑あり」3月23日
 精神科医香山リカ氏が、連載コラムで、年度末を迎えて多忙な人たちについて触れています。その中に次のような一節がありました。『1時間に5分とか、2時間に15分とか、そのくらいでもかまわない。あるいは、通勤電車の中くらい、経済新聞や英語のテキストを開かずに、ぼんやりと頭の中で俳句や詩を作ってみたり、というのもいいかもしれない』というものです。
 我が国の国民性は、真面目であり勤勉であることです。さらに、最近は、労働効率が重視され、不景気で人減らしが進む中、勤務中に息抜きをするなどとんでもないことという雰囲気が蔓延しています。特に、かつて「休まず、遅れず、働かず」と揶揄された公務員に対しては、世間の目も厳しきなっています。それは、よいことだと思います。ただ、真面目な国民性の下では、それが、勤務外にも延長されてしまうという事態が起こっています。
 教員には時間外勤務手当てがありません。勤務の特殊性から、他の職種のように時間外勤務という概念があてはまらないのです。そして、そのことが、「教員は教職調整手当を受け取っているのだから時間に関係なく働くのが当たり前」という誤った発想に結びついてしまっているのです。問題行動を起こした子供のために深夜まで走り回っても、地域の行事のために休日を潰しても、「教員なのだから当然」と思われてしまうのです。
 教職は、子供という「人」と接する仕事です。「人」と接するといっても、医師や販売員のように、ある特定の分野や場面でだけかかわるのではなく、全人的にかかわるという特徴をもっています。こうした特徴を考えると、子供との関係がうまくいくためには、教員自身が落ち着き安定した精神状態であることが絶対に必要な条件となります。そのためには、教員が「人」としてゆとりのある生活、香山氏の言葉を借りれば、ぼんやりとする時間をもつことが必要なのです。教員が、自分個人の時間に体験したこと、感動したことなどを子供に語ることができないような状況では、ふれあいによる「陶冶」や「感化」の機能は期待できません。
 何を甘ったれたことを、と言われるかもしれませんが、「人」と触れ合う教員だからこそ、人間性回復の時間的ゆとりが必要であることを前提に、教員制度を構想する必要があるように思います。

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非専門家の言い分

2010-03-25 07:16:40 | Weblog
「非専門家の言い分」3月21日
 「ニッポン密着」の連載が、新潟市美術館で展示品にカビが生えたり、室内からクモが発見されたりした事件を取り上げていました。記事によると、市長の肝いりで招聘された館長が、生え抜きのベテラン学芸員3人を異動させたことが遠因と考えられるというのです。その間の事情を関係者は次のように語っているそうです。
 (異動させられた学芸員)『まさか全員を異動させるとは。作品の保存と研究という美術館の使命、存在意義を忘れている。(市長は)美術館を完全に壊すつもりか』。(市長)『専門分野に限らず他の職場で行政事務を経験することで、職員の視野が広がり、さらに活躍の度合いが高まる』。(館長)『どの美術館も事務職は2.3年で代わるのに学芸員は10年、20年の永久就職だから学芸員の王国になる。これまでの館長は名誉職で何も言わなかったが、市長が強力な人間(私)を送り込んだ』
要するに、専門家集団による閉鎖的な職場に外部の人材を導入して活性化を図ろうとした結果、改革が行き過ぎて失敗したということのようです。これは、教育界も他山の石とすべき事例だと思います。学校は教員王国です。教員という専門家によって、他の組織、企業や官庁とは異なる原理で運営されています。コスト意識に乏しく、予算や法令を無視しても目の前の子供のことしか考えない傾向があります。長年の経験や勘で問題を処理し外部への説明が下手な人が多いのも事実です。教員には、お人好しの世間知らずタイプが多く、「一生懸命やったんだから」「善意で行ったことだから」許されるはずという甘えの意識も根強く残っています。
 こうした現状は、外部から見ると、「改革が必要」であるとされ、その方策として「頑迷な反対派は出て行ってもらおう」という発想を生み出しやすいものです。教員や管理職への民間人の登用、学校評議員制の導入、数値目標とそれを基にした学校評価など、近年の諸改革は、新潟市美術館と同じ発想の下に進められています。この方向性は覆ることはないでしょう。学校や教員側にも問題が多かったのですから。しかし、行き過ぎた改革、過激な対応が、結果として学校の使命や存在意義を破壊してしまう可能性があることも、この事件は示唆しているように思います。各教委で、改革の点検は進んでいるのでしょうか。
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企業と教育

2010-03-24 08:12:29 | Weblog
「企業>学校」3月21日
 中学校編に移った岡崎勝氏の教育コラム「しかり上手のABC」に、次のような一節がありました。『中学校でトラブルが起きたとき、親を呼び出して来てもらうのは、その日のうちでないといけないという。~(中略)~「会社を早く出ても7時になるんですが」という親の都合もあるから、教員たちは帰れない~(中略)~わが子が大変な思いをしている場合でも、会社で上司に話したり、相対したりしにくい。おそらく、そのことが、日本を子どもの育てにくい国にしてしまった原因だろう』というものです。
 その通りなのです。私は小学校の教員でしたが、教委勤務時代には、地域の複数の教委の生活指導担当指導主事のキャップをしていました。そのとき見聞きした実態は、もっと厳しいものでした。トラブルを起こした生徒の保護者が深夜まで戻れないということで、教員が自腹を切って夕食を摂らせ、日付が変わるまで生徒と保護者につき合うというような毎日を送っている生活指導主任が何人もいました。
 彼らと酒席を共にして話を聞くと、「正直に言って、授業の準備なんかしている時間はないんですよ。それでも、自分が頑張っているから、うちの学校はなんとかなっているという気持ちが支えなんです。ただ、異動したら、生活指導主任はやりたくないですね。授業だけに全力を注いでみたいです」というような本音を聞かせてくれたものです。
 岡崎氏は、『会社のあり方も教育を大きく下から支えている。そのことを経営者や管理職は理解してほしい』とコラムを結んでいますが、仕事>家庭という意識が、企業>学校という考え方になり、そのしわ寄せが教員に、それも熱心な教員に、という図式が生まれているのです。こうした現状を踏まえた「少子化対策」が必要なのですが、政治家の耳には届いているのでしょうか。

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自信を持って

2010-03-23 07:14:31 | Weblog
「自信をもって」3月20日
 テレビの歴史に触れたコラムの中に、次のような一節がありました。『戦後復興の過程で誕生し、街頭テレビに人々が群がった。「文化人」にはばかにされたが、大衆文化の発展に寄与した。テレビCMによる消費拡大が、今の日本経済の基礎を作ってもいる。放送界はこうした歴史にもっと自信を持っていいのだが声が小さい。数々の間違いもあるが、全体としてどうだったか』というものです。
 「放送界」を「教育界」に、テレビマンを教員に入れ替えて考えてみたらどうでしょうか。学校や教員、つまり「教育界」は、常に様々な批判にさらされてきました。必死に子供の知力向上に努めれば、「詰め込み教育」と批判され、躾のできていない子供に対して熱心に指導すれば「管理教育」と攻撃され、人間性を伸ばすという家庭や社会での役割まで背負い込めば「ゆとり教育」と断罪されてきました。
 しかし、少ない教育予算の中で、世界トップクラスの学力水準にまで高めたのは、まぎれもなく「教育界」の功績であるはずです。こうした「教育界」による人づくりが、戦後の高度成長を支えたのです。欧米先進国のように、キリスト教の教えや教会の存在が子供の情操や規律を育てる仕組みのないわが国において、道徳心や公共の精神を涵養してきたのも、「教育界」であったはずです。
 そうであるにもかかわらず、私が所属してきた「教育界」は、自分たちの功績を声高に主張したことがありません。むしろ、必要以上にへりくだり、批判されるたびに萎縮し、より大きな課題を自ら背負い込んできたのではないでしょうか。
 「謙虚さ」は、我が国伝統に美風です。しかし、それは、個人の人間関係において通じる原理です。公的な性格をもつ大きな組織や集団の場合、必要以上の「謙虚さ」は、人々の判断を誤った方向に誘導し、社会システムを歪めることになってしまいます。「教育は死んだ」などという発想で「教育再生会議」路線が進められたのもそうした弊害の表れでした。もちろん、批判に耳を傾けることは必要ですが、我が国の「教育界」にとって足りないのは、堂々と功績を国民に訴えることだと思います。

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誤解

2010-03-22 06:50:37 | Weblog
「大いなる誤解」3月20日
 新・教育の森が、「教員養成へ独自色 私立大が本格参入」というタイトルの特集を組みました。その中に、どうしても納得できない部分がありました。『教員の資質向上策の一つとして97年、文部省(当時)の教育職員養成審議会は「大学の教員養成教育では教科の専門性が過度に重視され、子どもたちの教育につながる視点が乏しい。専門的職業である教師を養成する認識が共有されていない」と厳しく指摘。知識重視より、教員志望の学生の探求心を育てる教職課程でのカリキュラム改善を促した』です。
 問題なのは、「教科の専門性」という言葉です。この文脈で語られている「教科の専門性」とは、社会科であれば地理や歴史、理科であれば物理や化学といったいわゆる「親学問」についての知識のことを指していることは明白です。そうではないのです。「教科の専門性」とは、社会科の授業をどう行うか、ということでなければならないはずです。教員は、「教える人」なのですから。
 一例として、私の専門であった社会科を取り上げてみましょう。社会科の授業を行うということは、どのような事象を教材としてとりあげるか、取り上げた事象をどのような教材に「加工」していくか、その教材で学習する際にどのような学習活動や学習形態を想定するか、子供のつまずきやこだわりを予想しどのような援助の手だてを考えておくか、評価の視点と方法はどうするか、などを構想し、さらに1時間ごとに授業については、板書計画や発問計画を作成し、必要な資料を探したりつくったりすることが必要になります。
さらに、授業後に、自分の授業を振り返り分析し計画の微修正をしていくことも大切です。ですから、授業記録の取り方と分析の仕方も身に付けておく必要があります。こうしたことの総体が「教科の専門性」なのです。
 私は、上述したような意味での「教科の専門性」は、「過度に重視」されていたのではなく、「過度に軽視」されていたと考えています。さらに、多少は改善されてきていますが、現在でも、不十分であると考えています。
 現在、学校で起きている多くの問題は、その根底には、教員の授業力不足があります。「教科の専門性」への誤解をなくし、教員志望の学生や若い教員を授業漬けにするくらいの改革が必要なのです。

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