ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

ポイントはそこじゃない

2013-09-30 07:53:32 | Weblog
「そこじゃない」9月26日
 『教育行政の権限「首長に」を併記』という見出しの記事が掲載されました。中教審の改革案について報じる記事です。記事によると、『教育行政の最終的な決定権限を持つ「執行機関」を首長に位置付ける案と、従来通り教育委員会に残す案』の両論併記の形で中韓まとめのたたき台が示されたということです。
 この問題については、このブログで再三持論を述べてきましたので、ここで繰り返すことはしません。ただ、今回の記事の「書きぶり」には、不満があります。記事には、『両案とも日常業務の責任者を教育長と明示。ただ、教育長を執行機関とした場合は、教育長が首長から教育行政を委任され、首長の「部下」となる』と書かれていました。この記事を読む限りでは、両案の違いは「教育長が首長の部下になるかならないか」という点だけのように誤解されてしまう危険性があると思うのです。
 制度上の建前はともかく、現行制度下においても、教育長は実質的に首長の部下なのです。首長が選挙で落選すれば、教育長もそれに殉じて退職するのが通例ですし、教育予算は、首長が決定権を持っています。さらに、教育委員会事務局のスタッフの大部分が首長部局で採用され公務員としてのキャリアを積み重ね、数年後には再び首長部局に戻っていくのですから、スタッフは教育長よりも首長に対する「忠誠心」をもっているのが普通です。つまり、もし、両案の違いが「教育長が部下になるかならないか」だけであるのであれば、実質的には何も変わらないということになります。これならば、変革への抵抗感は少なくなります。
 しかし、首長が教育行政の最終権限をもつようになるということは、教育に対する政治の介入が容易になるという大きな変化を伴うことなのです。この点こそ、最大の問題点なのです。しかし、その点に言及せずに「部下云々」に焦点を当てることは、いわば根幹に触れずに枝葉の問題に世間の関心を誤誘導する行為となるのではないでしょうか。
 教委改革がどのような結果になるにしろ、きちんとした情報提供が前提となるべきだと思います。

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なぜメダリストが

2013-09-29 08:08:31 | Weblog
「なぜメダリスト」9月26日
 桜宮高校の元教員への有罪判決を報じる記事に併せて、陸上選手為末大氏の『暴力は未来も奪う』という標題のコメントが掲載されました。顔写真入りで4段にわたる長文です。為末氏が語っていらっしゃる内容については何ら問題はありません。至極真っ当な意見です。ただ、どうして為末氏なのかということが疑問なのです。
 為末氏は、『元プロ陸上選手』という肩書きで紹介されており、話されている内容も、『体罰を受けた選手は萎縮し、指導者の顔色ばかりうかがうようになる』『自分の頭で考え、自分の足で歩く選手を育てる。そんな指導文化を日本スポーツ界全体でかんがえる時です』など、スポーツ限定なのです。ここ数カ月議論されてきた体罰は、スポーツ界の問題だったのでしょうか。
 そもそも「体罰」という用語は、学校教育法で用いられ、関連法規として、国家賠償法や民法、刑法に記載されるときには、「体罰」の用語は使用されません。スポーツ振興法にも記述はありません。私は、「体罰」とは、学校教育の問題だと考えています。日本柔道連盟や日本相撲協会で問題になったのは、「体罰」ではなく「暴行」であり、両者は重なり合うところもありますが別の問題なのです。
 ですから、「体罰」問題について、学校教育関係者ではない外部の方のコメントだけが掲載されることに違和感を感じてしまったのです。そんな小さなことはどうでもよいではないか、と言う人がいるかもしれませんが、そうではありません。
 学校教育現場で起きる「体罰」は、体育の授業や運動系の部活に限っているわけではありません。他の教科の授業中にも、清掃や給食の時間にも、生活指導の場面でも起きているのです。トータルで見れば、体育や部活のときよりも、その他の教育活動中の方が多いのです。そして、そうした場面で起きる体罰の背景には、教員の指導力不足があり、人権意識が不足しているという問題があるのです。
 したがって、学校から体罰を減らしていくためには、教員の指導力向上や人権意識の定着などが必要になのですが、「体罰」をスポーツの分野の問題と捉えてしまっては、「成績至上主義」など、異なった視点からのアプローチが重視され、学校現場で発生している多くの「体罰」問題の解決を遅らせてしまう結果となるのです。
 メディア人にも、掃除の時間にふざけていて叩かれたり、授業中にふざけていて耳を引っ張られたり、遠足のときに整列せずにデコピンをくらったりした人がいるはずなのですが、忘れてしまったのでしょうか。それともそれらは「体罰」ではないという認識なのでしょうか。

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話題にしてどうなる

2013-09-28 07:05:53 | Weblog
「話題」9月25日
 読者投稿欄に、兵庫県のY氏の『口元監視ではなく温かい目を』という標題の投書が掲載されました。卒業式等で教員が国歌斉唱をしているか口元を監視することに対する反対意見を述べたものです。この問題については、以前も取り上げて論じていますのでここで繰り返すことはしません。今回気になったのは、別の記述です。
 Y氏は、『君が代問題は常日ごろの論議が大事で、儀式の時だけ話題にするようでは解決しない』と書かれています。このY氏の主張が理解できないのです。まず、誰が議論するのでしょうか。市民でしょうか。児童・生徒でしょうか。保護者でしょうか。教員でしょうか。それら全員でしょうか。話し合いで何かを決める場合、一定のルールが必要です。少なくとも参加資格者の範囲、議決の方法を定めておかなければ何も決まりません。この問題について、上記の2点を誰もが納得する形で決めることはとても難しいと思います。
 市民の意見、つまり世論調査の結果に従えという主張をすれば、直接の当事者の意見は無視してよいのかという反論が出されるでしょうし、その学校ごとに決定ということになれば、議論は不要です。学校という組織の意思決定は校長の権限であり、教員も保護者も児童・生徒も地域住民も、校長の意思決定権を侵すことはできません。つまり、Y氏が主張する「議論」は解決には役立たないのです。我が国では、「議論」という言葉に肯定的なイメージをもつ人が多いようですが、見通しもなく話し合いを続けることは無責任と同意語です。
 次に、「君が代問題」とは何でしょうか。公立学校の卒業式等における国歌斉唱の問題だというのであれば、それは個人の思想信条の問題ではなく、地方公務員法に定める上司による職務上の命令、それも関係法規である学習指導要領に則った職務命令遵守という法令上の問題です。法治国家である我が国においては、素人の議論よりも裁判所の判決によって適否が決まる問題なのです。そして、各地の裁判所で処分の重さが裁量権の範囲か否かということについて多少の幅がありますが、校長の職務命令自体は適法であるという判決が固まりつつあります。法的問題については結論が出ているとも言えます。
 最後に、「君が代問題が解決する」とはどういう状態を指しているのでしょうか。常識的に考えれば、関係者(どこまでかは別にして)が皆納得する状態になるということだと思われます。しかし、そんなことはあり得ないのです。国歌斉唱に不満を持ち続ける人も、国歌を歌わせないことに不満をもつ人もおり、両者が満足する結論はないのです。教育問題に限らず、成熟した民主的で自由のある社会において全員一致はありえません。だからこそ、問題毎に決定の手順が定められており、卒業式等の国歌斉唱については、学校の意思決定権者である校長が自らの責任で決定するという方式が、長年の試行錯誤の結果、確立されてきたのです。

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1/100の平凡

2013-09-27 07:49:53 | Weblog
「別の生き方」9月24日
 『血縁超えた家族の形 寛容な社会へ』という見出しの特集記事が掲載されました。その中で自民党総務会長であり、卵子提供を受けて男児を出産した経験のある野田聖子氏は、『家族の形は、政治がこうあるべきだと決めてはいけない』と述べ、我が国において選択的夫婦別姓や事実婚などについての取り組みが進まない背景について、『自分の歩んできた人生以外は受け入れられない人たちが、国会議員に多すぎるんです。イマジネーションの欠如です』と語っていました。
 私は家族のあり方については保守的な考えですので、野田氏に全面的に賛成というわけではありませんが、「自分の歩んできた人生以外は~」という指摘については共感を覚えます。教員は、「自分の歩んできた人生」を絶対視してはいけません。
 私は、サラリーマンの父と専業主婦の母(内職はしていたが)、祖母、姉という5人家族で育ちました。結婚して家を出るまでずっと東京の下町で暮らしていました。小学校から大学まですべて共学の公立と国立でした。浪人も留年も就職浪人もしませんでした。そもそも就職活動をしたことがありません。別にドラマチックな人生ではありませんが、ここまで書いただけでも、私と同じような人生を歩んでいるという方は1/100もいないはずです。ご両親が離婚したり、死別したり、一人っ子だったり、何回の転居を繰り返したり、家が農家や自営業だったり、男子校や女子校に通った経験があったり、浪人や留年をしたり、という人が1/10ずついたとしても、全体では「1/100」になってしまうのです。
 ありふれた平凡な小市民である私でさえ、1/100の存在であるとすれば、1人の教員が受け持っている子供たちも、誰一人としてその教員と同じような人生を歩んではいない確率が高いと考えて接することが大切なのです。もちろん、子供だけでなく保護者についても同様です。
 新卒のときの私には、そのことが分かりませんでした。養父母に育てられそれを知らされていない子供、在日韓国人であることを隠して日本名で生活している子供、日常的に父親の暴力にさらされている子供、父親の競馬馬が勝つたびに1万円(35年前)の小遣いをもらっている子、弟が自殺したトラウマを抱えている子供、そんな「分かりやすい」違いをもっている子供に対してでさえ、自分の尺度をあてはめ、勝手にイライラしていたものでした。
 若い教員の皆さん、イマジネーションが欠如してはいませんか。

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トップの言葉

2013-09-26 08:08:38 | Weblog
「トップの言葉」9月21日
 『自治体次第で容認』という見出しの記事が掲載されました。静岡県の川勝知事による学力テストの上位校の校長名公表に関わる記事です。記事によると、下村博文文部科学相が、『全国学力テストについて、来年から各自治体が成績結果をすべて公表すると決めた場合、公表を認めていく考え』を表明したとのことです。
 これは大変大きな意味を持つ発言です。学力テスト結果の公表の是非という「小さな問題」ではありません。地方教育行政の根幹に関わる問題なのです。下村発言は、「各教委の判断」ではなく、「各自治体」の判断と言っています。つまり、学力テストの公表の有無を判断する権限は、教委ではなく首長にあると言っているのです。教育行政トップが、地教委の権限を狭める発言をしたという意味で、画期的なのです。
 下村氏は、元々、競争原理の導入による学校教育の活性化を主張してきた方です。また、現在の教委制度に不満をもち、地方教育行政における首長の関与強化を主張してもいました。ですから今回の発言は、同氏の長年の主張を実現すべくその第一歩をさりげなく踏み出したものだと言うことができます。
 今回の発言を報じる記事はそのことには触れず、単に「事実」として報じているだけですが、それでは結果として下村発言が定着することになり、教委の権限縮小を進めることに力を貸すことになります。もちろん、メディアにもその新聞社やテレビ局なりの意見はあって当然ですし、それが下村氏と同じものであるならば、そうした態度も理解できますが、M社の見解はそうではなかったはずです。方向転換したのでしょうか。
 私は、学力テストの結果公表というような教育問題に首長が関与することには反対の立場です。公表の是非という視点からではなく、教委と首長という視点から、教育委員委員長、教育長、校長会などの意見を聞きたいと思います。積極的な発言を期待します。

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日米格差

2013-09-25 07:11:11 | Weblog
「日米格差」9月20日
 庶民文化研究家の町田忍氏による『スクールアイドル』という見出しの小さなコラムが掲載されました。今テレビを賑わしているアイドルグループの一つではありません。二宮金次郎について書かれたものです。その中で町田氏は、昭和初期に二宮像が多くの小学校に建てられたことを述べ、その上で『現在も多くの二宮像が残っているのはなぜなのか。信頼できる研究書によると、終戦直後に進駐軍により撤去命令が下されるかと思いきや、米国で金治郎が、その勤勉さなどから「日本の生んだ最大の民主主義者の一人」として高く評価されていたからだという』と書かれていました。
 面白い話です。昭和初期は、我が国が軍国主義に突入していく時代、暗黒史の始まりの時代です。その時代に小学校に二宮像が建てられたということは、全体主義、軍国主義精神を象徴する存在であると考えられていたということです。しかし、米国では、我が国とは正反対の評価を受けていたということになります。この違いは何なのでしょうか。
 さて、最近、道徳教育を巡る議論が盛んになっています。そうした中、ここ2~30年、金治郎は、道徳の授業で取り上げられる機会が減ってきていました。それは、日本人が考える理想の人物像からは遠い存在であるとみなされてきたということです。そこで描かれる金治郎のイメージは、歩きながらも本を読む猛烈な努力家というものでした。この猛烈な努力家というところが嫌われたのです。そこには、他のすべてのことを犠牲にする、人生を楽しむという発想がない、堅物で面白みのない人物というようなマイナスイメージがついて回りました。これは金治郎の一面しか見ない偏った見方です。
 一方米国では、金治郎はフォードやカーネギーらと同じような社会改革の理念をもち、勤勉な努力の積み重ねによって自らに課した使命を果たし、社会改革を成し遂げ多くの人々に豊かな生活をもたらした人物という評価なのでしょう。確かに、金治郎は疲弊した農村改革に大きな成果をあげました。
 我が国の道徳教育は、「こうした人々の生活を変えた金治郎」像には着目しませんでした。勤勉や克己心、社会を変えるという強い意思などの価値観を軽視してしまったということです。そしてこうした発想は、単に道徳教育にとどまることなく学校教育全体を覆う「雰囲気」でもありました。努力や勤勉、真面目さを揶揄するような風潮、全人教育という理想を曲解した学校には勉強よりも大切なことがあるという主張、覚えさせることが詰め込み教育として否定され「楽しい授業」が過剰に追求されるようになり、その結果、「学びの崩壊」が起きてしまったのです。
 二宮金次郎の勤勉さが、我が国の学校で見直される日は来るのでしょうか。

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校長職の魅力

2013-09-24 07:44:02 | Weblog
「そもそも」9月20日
 『民間出身校長の不祥事、新たに3人 セクハラなど』という見出しの記事が掲載されました。記事によると『大阪市の公募で就任した民間出身の校長の不祥事が相次いでいる問題で、市教委は19日、新たに3人の民間出身校長にセクハラやパワハラの疑いがあることを明らかにした。市教委は事実関係を調べ、処分を含めて検討する』のだそうです。
私は以前から民間人登用に否定的な意見を繰り返しこのブログに書いてきました。正直、「だから言ったじゃないか」という気分もないわけではありません。読者投稿欄などでも、民間人登用を疑問視する意見が目立ち始めています(9/17「橋下流の民間登用失敗では」)。しかし、ここでまた同じ話を繰り返すつもりはありません。ここでは違う視点から考えてみたいと思います。
 それは、民間人に校長職が務まらないということではなく、そもそも民間人の中の「カス」が公募に応じているのではないか、ということです。今回問題になっている3人の言動を見てみると、『6人の女性教職員に、「結婚せえへんの?」「なんで子供作らへんのか」などと質問。教職員の指摘を受け、校長は6月の職員会議で謝罪』『修学旅行で川下りをした際、ふざけて生徒を川に落とした』『地域との連絡を巡って教頭と口論になり、「間違っていたら謝罪すべきだ」と問い詰め、教頭は土下座して謝った』『出張や休暇の手続きを取らずに計3回、職場を離脱した。市外に長時間出かけたこともあった』というもので、学校と企業の風土や文化、慣習の違いが原因というレベルではなく、普通の社会人ならば絶対にしない類の「愚行」です。
 この3人の他にも、『1人は3カ月足らずで退職。他の1人はセクハラ行為を繰り返したとして減給処分、別の1人は虚偽のアンケートを保護者らに配ったとして厳重注意を受けた』というのですから、そもそも最初から社会人失格者が公募に応じてきたとしか考えようがありません。
 別な言い方をすれば、まともな社会人は現在の職を擲ってまでも校長職に就こうとは思わないということです。それは、校長職の魅力のなさを示しているという意味でもあります。世間では、この不況下に公務員は恵まれているという意識の方が多いかもしれません。そして、教員は一般の公務員よりも高給であり、まして学校トップの校長ともなれば、かなりの高給取りというイメージなのかもしれませんが、多少なりとも実情を知っている「まともな社会人」からすると、まるで魅力のない職なのでしょう。そして、そんな報われることの少ない立場でも、子供のために日々努力しているのが、多くの教員出身校長なのです。
 大阪市は来年度も公募を続けるということですが、今のままでは「カス」しか集まらない公算大です。どうしても続けるというのであれば、日本一魅力ある校長職を橋下市長のリーダーシップで作り上げるしかないように思います。教委や校長、教員を無能視し攻撃するだけの橋下氏には難しいかもしれませんが。

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指導もなれ合い?

2013-09-23 07:38:13 | Weblog
「緊張関係?」9月19日
 東京科学環境部の岡田英記者が、『事業者との緊張関係を保て』という標題でコラムを書かれていました。原子力規制委員会の独立性について論じたものです。その中で岡田氏は、『独立性という肝心の部分で目標が達成されたとは言い難い』と述べ、その理由を『規制委が事業者に「ヒント」を与え過ぎている』としています。具体例として、『四国電力伊方3号機の審査で、規制委は、事故を防ぐための重要機器を複数用意しなくても済む条件を説明した。合格を誘導しているように映る』をあげています。
 「ヒント」を与えるのはいけないことなのでしょうか。それは、独立性を侵し、なれ合いに陥ることなのでしょうか。逆に言えば、規制委は、「こうすればうまくいくのに」と思いながらも、その専門的な知見を提供せず、事業者が困っているのを「高みの見物」していればよいのでしょうか。
 私が教委に勤務していたとき、年度末の一大イベントであったのが、教育課程届の受理でした。各校が作成した次年度の教育課程届を、副校長と教務主任が教委に持参し、1校につき2人の指導主事が細部まで目を通し、質問を繰り返し、不都合な部分については修正を求めるというものです。これを「相談」と称していました。「相談」は、最低でも2回は行われ、場合によっては4回、5回と繰り返された末にやっと受理されるということもありました。「相談」とはいいながらも実態は、教委による問題点の指摘と改善策の助言でした。教委にとっては、この「相談」こそ、各校の本年度の教育活動の成果と問題点を把握し、その反省に立った次年度の計画を指導し、同時に教委の方針を周知徹底する最も重要な機会でした。指導主事にとっては、教育課程の専門家として、各種の助言を通してその専門性を最大限に発揮する場でもありました。
 原子力行政と学校教育行政という違いはありますが、監督許認可権限をもつ行政機関とその管轄下にある組織という意味では同じ関係にあると思います。それだけに、専門性を生かした「ヒント」の提供が「なれあい」だという捉え方に違和感を感じたのです。岡田氏は、教委の「相談」も癒着だと断罪するのでしょうか。

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差別と喫煙

2013-09-22 07:52:38 | Weblog
「喫煙シーン」9月18日
 『揺れる喫煙シーン』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『映画や舞台で表現方法の一つとして使われてきた喫煙シーンが、時代の中で揺れている』のだそうです。大ヒットアニメ「風立ちぬ」でも問題になりました。『禁煙団体が「未成年者の喫煙を助長する」などとクレームをつけ、話題になった。健康志向もあいまって作り手側は苦慮している』ということです。
 私はこの論争から、差別表現の問題を連想しました。今回の「喫煙騒動」と似ていると思うからです。昔の小説などには、「どめく○」「ちん○」「つん○」などの差別表現が使われています。こうした表現を巡って、「障害のある人の心を傷つけ差別するものだ」という理由で使用すべきでないという主張がある一方で、「目の不自由な方」「耳の不自由な方」などと言い換えたのでは原作のもつ雰囲気が壊れてしまう。それは表現の自由を侵害することにもつながる」という反論がなされます。
 今回の問題で、『原作に喫煙シーンがあるのに、削るようなことをすれば表現を狭めることになる』という懸念の声があるのと重なるわけです。私は教委に勤務しているとき、人権教育の担当をしており、差別表現の問題を巡っては様々な経験をしてきました。そのときの私の立場は、「差別表現、不快表現は使わないことを原則にする。ただし、どのように工夫してもその言葉を使わなければ意図した表現ができない場合に限って、そのことを断った上で使用する」というものでした。もちろん、こうした判断は、それぞれの立場の人から批判をされましたが、私なりに考え抜いた末の結論でした。ある意味、当たり前の結論だと思います。今回の喫煙シーンを巡る議論も、似たような結論になるべきではないかと考えています。
 それにしても、この喫煙シーン問題について、学校現場はどの程度議論が進んでいるのでしょうか。子供が目にする小説の類においては、どのような名作であっても喫煙シーンがあるものは避けるとか、映像の場合は~というような話し合いがなされているのでしょうか。実は、私が教委勤務時代に人権資料として購入を決定した啓発ビデオにも、多くの喫煙シーンがあったのですが。気になるところです。

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部活のこれから

2013-09-21 07:51:21 | Weblog
「これからも」9月17日
 『福島・相双 中学の部活回復6割』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『福島県南相馬市や双葉郡など相双地区で、中学の運動部活動数が震災前の6割ほどしか回復していないことが毎日新聞の調べで分かった。所属生徒数の回復率も5割強で、各部の少人数化が進み、単独での大会出場が難しくなっている』のだそうです。
 記事では、こうした事態を受けた改善策についての言及はありませでした。私は今回の事態こそ、部活の廃止を考えるよい契機だと思います。今回の事態の何が問題なのかを確認しておくと、活動している運動部が減ったこと自体が問題なのではありません。学校教育の性格や目標から考えると、あくまでも一人一人の生徒にとっての不都合という視点で考える必要があります。一人一人の生徒が部活を楽しみ、そこで貴重な経験をして自分を成長させることができれば、問題はないことになります。
 集団競技においては、練習ができないという「不都合」があります。野球チームが5,6人で練習していても楽しくないでしょう。技能を向上させる充実感や満足感を得ることもできません。試合に出られないのでは、目標を持ちにくくモチベーションを保つことは難しくなってしまいます。また、試合によって自分たちの努力や成長を実感する機会も失われてしまいます。個人競技である陸上や水泳においても、リレーなどチームで臨む種目がありますし、体操や新体操、テニスや卓球、剣道や柔道なども団体という種目があります。ですから、ほとんどの運動系部活で、1つの学校内における部員数が問題になってくるのです。
 生徒が満足感や達成感を得られないことが問題なのであり、ある地区で野球部が10チームから6チームに減ってしまうことは何も問題ではありません。そもそも、我が国の若年層は年々減少し続けるのですから、どこの地域でも運動部の数や活動する生徒数は減っていくに決まっているのです。そうした意味で、部の数や部員数の減少は、相双地区に限らず、これからは日本全体で直面する問題となってくるのです。
 部員数減、大会不出場の問題を根本的に解決する「策」があります。それは学校の部活を廃止し、社会体育・生涯スポーツの一環として地域スポーツクラブ制度に移行することです。学校という狭い単位にこだわらずに、より広い地域の中で複数のスポーツクラブが存在するという状況をつくり出せば、活動する若者を集めるのは容易になりますし、大会の開催も安定的に行えるようになります。
 今回の毎日新聞の調査では、運動部だけを調査しています。しかし、学校には、運動部ではない部活動もありますし、合唱や合奏、演劇など一定の人数が揃わなければ活動が難しい部活もあります。しかし、そうした文化系の部活への目配りはいいのが実情です。その理由として、我が国のスポーツ振興において、中高の運動部の存在が欠かせない要素となっているのに対し、学校の音楽部や演劇部から日本を背負って立つような人材が現れることは期待されていないということがあげられると思います。
 言い方を変えれば、中高で運動部が衰退することは、我が国のスポーツが衰退することであり、2020年招致が決まったオリンピックなど大会でメダリストや入賞者が減り、「国威」にかかわるという意識があるということです。そこには、学校教育における部活動という位置付けよりも、一流選手発掘育成の場という論理が優先されているのです。だからこそ、部活といえば運動部系の部活、というような潜在意識がみられるのです。それは、学校教育に相応しくありません。
 部活を廃止し、その分の教育力を学力向上に集中してはどうでしょうか。

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