ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

大学と間違えている?

2016-11-30 07:53:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「勘違い?」11月26日
 作家柳田邦男氏が、『見失った教育の原点』という表題でコラムを書かれていました。原発事故で避難してきた男児が、避難先の横浜市立小学校でいじめを受けていた問題についてのものです。その中でとても違和感のある言葉にぶつかりました。『学校自治』という言葉です。
 柳田氏はこの言葉を、『両親は市教委にも訴えたが、市教委は「学校自治」を理由に介入しなかった』『学校は~(略)~「重大事態」と見なさず、市教委は「学校自治」を理由に介入しなかった』というような文脈で使われています。長年、学校教育、地方教育行政に携わってきた私ですが、この「学校自治」という言葉は初めて目にしました。
 正直な感想として、大学において使われる「自治」や教育内容や研究内容への介入への警鐘として使われる「学問の自由」と混同されているのではないか、とさえ思いました。また、「介入」という言葉もおかしいと思います。「介入」とは、本来関与すべきでないことに無理矢理関わって影響力を行使するというニュアンスがあります。「学校自治」も介入も、教委は学校で発生したいじめ問題に対して、指導または命令を発してはいけないという前提で使われているのですが、それは明確な間違いです。
 教委の職務権限を定めた「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第19条5項では、「学校の組織編制、教育課程、学習指導、生徒指導及び職業指導に関すること」が挙げられています。生徒指導即ちいじめ問題への対応は、教委の職務権限内なのです。
 小難しい法律論を抜きにしても、実態として東京都内の区市教委は、いじめ問題に関して学校を指導しています。私自身、指導室長時代には、保護者からのいじめの相談を受け、ただちに校長に対して事実確認の指示を出し、その日の放課後には校長を教委に呼んで、直接事実関係を確認しました。その上で、該当学級の担任に対しての指示と指導について、細かく校長に伝えました。翌日には再度校長を呼び、担任の受け止め方について聞き取りをしました。そのとき、担任がいじめではなく子供同士のトラブルに過ぎないという認識であり、校長の指示に不満をもっていることが分かったので、指導主事を学校に派遣し、校長の面前で直接担任教員を指導させました。
 こうした私の措置に対して、校長から「校長の学校経営権を侵害する行為だ」というような不満はありませんでしたし、学校内で「教委がこんなことにまで口出しするのはおかしい」というような疑問もありませんでした(ただし、担任本人は不満だったようでしたが)。そして、こうした私の対応を知った他校の校長たちからも、不適切な介入だという不満は全くありませんでした。
 これが普通の教委と学校の関係です。「学校自治」などという概念が入りこむ余地はありません。京都市教委は、本当に「学校自治」などという考え方をしていたのでしょうか。メディアの勘違い、もしくは拡大解釈で、こんなおかしな言葉が独り歩きしているのではないでしょうか。教委は具体的な事例についても学校を指導できるのです。もちろん、直接対応の矢面に立つことも可能です。

 

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頼りにならない

2016-11-29 07:39:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「大人の自覚」11月24日
 『いじめ止めよう はなわさん講演』という見出しの記事が掲載されました。警視庁新宿署が開いた「いじめ防止キャンペーン」についての記事です。その中で講師を務めた一人である新宿調理師専門学校の上神田梅雄学校長の言葉が紹介されていました。『大人が頼りにされていないから陰湿ないじめが起きる。子どもたちを命がけで守る責任感を持つべきだ』というものです。
 上神田氏は、ご長女がかつていじめに遭っていたという経験をもつ方のようです。ですからここで言う「大人」とは、教員に限定したことではなく、保護者を含む大人全体を意味していると解するべきだと思います。
 その上で、大人が頼りにされていない、という指摘について考えてみたいと思います。いじめを起こすのは加害者の子供たちです。彼らにいじめをしよう、しても大丈夫だと思わせるのが大人の頼りなさということになります。
 まず、大人社会にもいじめがあること、大人がいじめを肯定もしくは是認するような言動をしていることがいじめの誘因になるということです。子供と接することがある大人は、この点で自らの言動を振り返り反省する必要があるということです。
 次に、いじめは悪いことであり、いじめが発覚したら加害者である自分たちが厳しい罰を受けるという認識がいじめのブレーキ役を果たすはずなのに、有効に作用していないという点です。子供たちがこうした認識をもってしまうのは、それまでの「学習」の結果です。つまり、過去に目にしたいじめ問題において、喧嘩両成敗的な対応がとられるのを目にしたり、表面的な仲直りの握手で解決済みとされるのを知ったり、加害者側が強く出れば教員も周囲の子供も黙ってしまうという状況を経験してきたり、保護者やPTA関係者など外部の大人が介入してくることによって問題の責任が曖昧になる例を見聞きしたりというような、悪しき事例を繰り返し体験することで、いじめをしても大丈夫という価値観を育ててしまうのです。
 さらにこうした悪しき「学習」は、加害者だけでなく、被害者にも悪影響を与えます。つまり、いじめのターゲットにされたらもう誰も助けてくれない、という諦めを生むのです。そして、被害者からの反撃がないことを見越した加害者のより深刻ないじめを誘発するという悪循環を生むのです。
 この「ターゲットにされたら助からない」という認識は、いわゆる傍観者層にも、うかつに手を出せば自分がやられるという恐怖感となって、結果としていじめ問題を深刻化させます。
 大人、特に教員は自分の責任をどれだけ自覚しているのでしょうか。

 

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思いやる、のではなく

2016-11-28 07:49:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どこまでも私たち」11月20日
 作家中島京子氏が、『差別とは何か 「私たち」の視点が必要』という表題でコラムを書かれていました。その中で中島氏は『往々にして、人々を「我々」と「やつら」に分けてしまう。「やつら」を知らず、「やつら」が見えなければ、「やつら」を人間扱いしないことが容易になる。軽蔑するようにもなる。でも本当は、「彼らは私たち」なのだ。差別とは、本来対等で同じ価値を持つ私たちが、私たち自身を「usとthem」に分けてしまうことなのだ』と述べていらっしゃいます。
 差別についての考察ですが、中島氏の指摘はいじめ問題にも当てはまります。一つの集団があります。部活の○○部の場合もありますし、学級の場合もあります。教員はその集団を仲間と呼び、「このクラスは~」「うちの部は~」と一つにまとまりチームワークを発揮し、相乗効果で高めあう集団として関わろうとします。
 しかし、いじめが発生するとき、その部や学級内には、いじめ加害者集団という「私たち」、いじめ被害者という「やつら」が存在しているのです。それはほぼ100%間違いなく、どのいじめ問題でも見ることができる構造です。つまりいじめ問題は、差別問題という側面ももっているということです。
 中島氏は、「やつら」を知らないことが、「私たち」と「やつら」を分けてしまう原因であるとしています。確かにそうでしょう。だとすれば、いじめ問題も、いじめ被害者が加害者についてよく知ることで、未然に防いだり、解決したりすることが可能になるということになります。
 これはよく言われる「いじめられている子供の立場に立ってその苦しみを理解する」という発想とは異なります。そうではなく、優れている(と思い込みたい)私たちと劣っている(と思い込んでしまった)やつらが、まったく対等の同じ価値がある人間であると認識するということなのです。可哀そうとか、大変だったんだねという、ややもすると優越者が下位者に上から目線で抱くような心情ではなく、科学的な人権教育によって鍛え抜かれた強固な信念に近いものなのです。
 実はこれは、現在の我が国の学校教育が苦手としている分野なのです。学級経営でも、特別活動でも、道徳の指導でも、優しさとか思いやり、相手の立場に立って、といった心情面に価値を置く指導が主流を占め、理知的に人と人の関わり、人と社会の関りを考えさせることが少ないのが現状だからです。
 いじめ問題を、人や社会の在り方から根源的、哲学的に考察する試み、そんな実践が待たれます。

 

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「重大事態」じゃなくても

2016-11-27 08:20:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「根本的なおかしさ」11月19日
 『原発いじめ 子供を守れぬ学校とは』という表題の社説が掲載されました。その中にどうしても引っかかる記述がありました。一つは『(いじめ防止対策推進)法や制度を生かすには、学校全体の情報伝達や共有、連携のあり方の充実、工夫も問われよう』という部分です。
 私は先週のブログでも、情報の共有や伝達、連携をいくら強調してもいじめ対策としては不完全であると書きました。最も重要なのは一人一人の教員のいじめ対応力の向上であるという趣旨でした。無能な教員が何人もいて、情報を共有したところで、それだけでは何も解決しないのです。でもこのことはすでに述べているので、ここでは詳しく述べることはしません。
 今回特に違和感を感じたのは、『いじめ防止対策推進法は、こうした深刻な状況を「重大事態」とし、学校や教育委員会にただちに対応する調査組織の設置などを義務付けている』『いじめ被害を察知した保護者が学校に相談しても、学校は重大事態とはとらえない』という記述です。事実なのでしょう。しかしここでは、重大事態と認識したか否か、という点に焦点が当てられています。この記述を読んだ人は、今回の事例が重大事態でなかったのなら、学校や教委が対応しなかったことには問題はなかった、という風に受け止めてしまいかねません。
 平均的な学校では、年間何十件といういじめが起きています。そのほとんどは、メディアが取り上げることのない「軽微ないじめ」です。しかし、そうしたいじめにも傷つき苦しんでいる被害者がおり、客観的には軽微であっても、被害者本人は深刻に悩んでいるのです。ですから、どんな「軽微ないじめ」であっても、教員は、そして学校はその解決に全力で当たらなければならないのです。
 また、自殺に至るような「重大事態」に該当するいじめも、その始まりは「軽微ないじめ」なのです。ですから、「軽微ないじめ」の解決に全力で当たることは、「重大事態」の解決同様、教員と学校の責務なのです。
 社説を書いた方にそうした意識はないのでしょうが、社説の論調は、重大事態と認定すべきなのにしなかったという過失に焦点が絞られすぎており、重大事態→迅速な対応、非重大事態→対応の必要性少、というような誤解を与えてしまうのです。この事例で問題であるのは、重大事態という認識の有無ではなく、被害者からの訴えがあったら、その被害の程度が如何に軽微であろうがすぐに対応すべきであるのに放置した、という点にあるのです。そのことを明確に指摘しておかなければ、学校や教員、教委に「重大事態以外への速やかな対応は不要」、子供や保護者には「重大事態に該当しなければ助けてもらえない」という誤った認識を植え付けてしまうのです。
 いじめ対応は、法の制定とは関係なく、「被害の訴えがあったら、いじめが存在するとの前提で直ちに事実関係の確認に入る」という原点に立ち戻ることが求められているのです。
 

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現実はそんなに甘くはない

2016-11-26 07:47:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そんなに甘くない」11月18日
 『いじめ授業 道徳で 文学相、学校向けメッセージ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、松野博一大臣が『いじめに関して考え、議論する授業を展開してほしい』と訴えたということです。そして、その場としては道徳の授業を考えていらっしゃるようです。
 別に悪いことではありませんが、誤解を与えかねない舌足らずな提言であると思います。それは、議論という言葉から連想される、話し合って子供たち自身が決める、というイメージに問題があるからです。経験の浅い教員が、「いじめについてどう思うか、本音で話し合ってほしい」などと呼びかけ、学級での話し合いが始まったとします。
 経験の浅い教員も、松野大臣も、識者とされる方々も、そして世間の多くの人も、話し合いが進んでいけば、子供たちは「いじめはいけない」という結論に到達するはずだという思い込みをもっているようですが、実態はそんなに生易しいものではありません。
 子供の多くは、そして実は保護者の大部分も、いじめられる子供に問題があり、その問題の大きさによっては多少のいじめは許容される、もしくはいじめが正当化される場合もあると考えているからです。「4年生の時には私がいじめられていた。だから少しだけ復讐する権利がある」というような論理が展開される可能性は低くはありません。あるいは、「一緒に決めた班のルールを守らないし、掃除をサボるなど責任を果たさない。そんな人は仲間とは思えない」というような形をとることもあります。最も多いのが、「いじめいじめと騒ぐけど、私たちはもっとひどいことを言われても我慢してきた。我慢が足りず自分だけが被害者のように大げさに騒いでいる」というような見方です。
 もっともこうした意見が出されるのは、皮肉なようですが、教員の「本音で~」という指示がきちんと受け止められている、教員と子供の信頼関係がある程度成り立っている学級なのです。誰も教員を信頼していない学級では、本音は出ませんから、かえって「いじめはいけない」というきれいな結論が出るのです。
 もし、経験の浅い教員が、子供にフリートークさせた結果、いじめ容認論が大勢を占め、その結果を「子供たちが真剣に話し合ったことだから」と認めてしまえば、その学級ではいじめの指導は成り立たなくなってしまいますし、意図した展開と異なると慌てて子供たちの結論を否定すれば、それじゃあなんで話し合わせたんだと反発を受けてしまいますし、その学級の子供たちは、「いじめが許される場合もある」という本音をもったまま、二度と本音を言わなくなってしまいます。
 いじめの指導では、教員自身が「いじめという行為は誰であっても絶対に許さない。でもそれはいじめという行為を許さないのであって、この学級の子供はみんな私の大切な教え子であることに変わりはない」という信念を力強く語ることがスタートになければなりません。議論を万能のように考えている識者、学校現場も子供の実態も知らない評論家の戯言に惑わされてはいけません。議論は指導の目的を達成するための一つの有効な手段だととらえておくことが必要です。議論という手段をうまく使って、教員のいじめは許さないという信念を子供に刷り込んでいくことが正しいいじめ指導なのです。

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良いこと?悪いこと?

2016-11-25 08:09:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「これは良いこと?」11月16日
 『反トランプ 高校生デモ ワシントン』という見出しの記事が掲載されました。しかも写真入りで、夕刊一面に掲載されています。記事によると、『トランプ氏のホテル前に1000人近い高校生らが集まり、シュプレヒコールを上げた』そうです。気になったのは、『正午すぎに授業を抜け出した高校生らはホテルまで行進』という記述です。
 それ以上の説明はないのですが、素直に読めば、午後の授業をサボってデモに参加していると受け取ることができます。それは、良いことなのでしょうか。この記事を掲載しているM紙は、選挙権が18歳から賦与されることを受け、繰り返し高校生向けの主権者教育の充実を主張しており、政治の実際に学ぶ米国の事例を、「モデル」として何回も取り上げてきています。今回の記事では、「評価」はありませんが、授業をサボってのデモについて、M紙の評価を聞きたいと思いました。
 我が国では、主権者教育について、積極的なリベラル派と慎重な保守派という形で議論が続いており、具体的には、郊外でのデモや集会への参加を届け出制にするか否か、という点について、教委や学校の対応も分かれているという状況です。私はこのブログで、届け出や許可は無用という立場で論じてきました。しかしそれはあくまでも、放課後や休日の活動という範囲での話でした。授業を抜け出して、となれば話は別だと考えています。
 しかし、議論が平行線をたどったまま、我が国でも「授業サボりデモ参加」という事態が起きないという保証はありません。最も考えられるのは、自衛隊の新任務「駆け付け警護」で死者が出たり、外国の民間人を射殺してしまう事態が発生し、それを契機に全国で反対デモが行われるというような状況です。そのとき、授業を抜け出して参加した生徒を処分するのか、主権者として当然な権利行使として認めていくのか、世論が分かれると思われます。処分派と良いことではないが処分すると政治的意見の表明は悪いことだと委縮させてしまう派という形になるでしょうが。
 これは政治家だけでなく、各教委や学校にとっても、事前に意思統一をしておくべき課題だと考えます。

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こちらも「慎重に」

2016-11-24 06:52:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「同じではないか」11月15日
 『介護報酬 「成果主義」は似合わない』という表題の社説が掲載されました。介護施設に成果主義報酬制を導入するという安倍首相の方針について、問題点を指摘するものです。その中に、『高齢者の心身がどう変わったかという結果で報酬を決めること自体は間違っていない。しかし、改善の成果が介護サービスによるものか、高齢者本人や家族の努力によるものかわからない場合が多いのが実情だ』という記述がありました。
 私の両親は共に認知症を患いました。父は亡くなり、母は入院中です。父の認知症発症から10年、多くの施設を見学し、実際に入所させ、お世話になってきました。だからこそ、上記の指摘には納得です。
 そしてこれと同じことが学校教育についてもいえるのではないでしょうか。つまり、「子供の学力がどう変わったかという結果で評価を決めること自体は間違っていない。しかし、改善の成果が学校の指導によるものか、子供本人や家族の努力によるものかわからない場合が多いのが実情だ」ということです。つまり、高齢者という人と接する営みである介護において成果主義が問題であるならば、同じく子供という人と接する営みである学校教育においても成果主義は問題を孕んでいるのではないか、と考えることは妥当であると思うのです。
 さらにこの社説は次のようにも述べています。『自立できそうな高齢者は事業所から歓迎され、自立が難しそうな人は敬遠されることにならないだろうか』と。これも「本人の資質や家庭のバックアップ度から見て学力向上が期待できそうな子供は学校から歓迎され、学力向上が難しそうな子供は敬遠されることにならないだろうか」と当てはめることができます。
 そして実際に、期待可能な子供だけを集めているのが、私立校であり、国立大の付属校なのです。そこでは注目を集めている教育課題について先進的な試みがなされ、メディアにも取り上げられ、評価される一方、困難校とされる公立校では、次々と起きる問題行動への対処に振り回され、疲弊した教員たちがどうにか子供を学校に引き留めておくことに精一杯になっているのです。そして評価されることもないままに。
 社説の結論である『慎重な制度設計を求めたい』は、学校や教員に対しても同様であってほしいと思います。

 

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その優しさの結末は

2016-11-23 07:51:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「マナーは有害?」11月15日
 作家金原ひとみ氏が、『排除されていく私たち』という表題でコラムを書かれていました。その中で金原氏は、『電車内での化粧、ベビーカー、携帯、飲食、などがマナー違反であるという指摘』がなされる現状に触れ、『まず社会があり、人々がそれに合わせる。併せられない者は排除。結局マナーを口実に維持される清潔な社会は、多数派にとって生きやすい社会でしかない』と問題提起なさっています。
 さらに、『(誰しもが)永遠に多数派であり続けるなど不可能』という真理を提示し、『マナーという偏見と排除に基づいた社会を積極的に破壊していく』べきだと主張なさっています。
 金原氏の前段の主張「(誰しもが)永遠に多数派であり続けるなど不可能」には賛成です。私がこのコラムで、学校教育は荒唐無稽な夢を追い続けることを称賛するのではなく挫折と敗北の価値を見直すべきだと主張し続けてきたのは、金原氏流に言えば、「誰しもが永遠に勝ち続け勝者であり続けることは不可能」という事実に基づくものであり、自分だけは常に社会的強者であり続けるという幻想を批判するという共通点があると思うからです。
 しかしそうだからといって、金原氏のように、電車内での化粧や飲食、携帯などについてまで、『電車の中で化粧をしなくてはならない人の事情に思いを巡らせ』て、「社内での化粧は止めましょう」というマナーを、偏見と決めつけることには賛成できません。
 マナーやルールには、確かに少数派を排除する機能があります。しかし、マナーやルールのない社会は、それこそ弱肉強食の弱者にとって過酷な社会に陥ってしまうと思うのです。
 学校教育とは、子供に、集団生活、人間社会に適応するためのマナーとルールを教え込む場であるという性質をもっています。特に文明が発達し、自分たちとは文化や思想や生活習慣、価値観といったものが異なる広い範囲の人々と交流し共に暮らすようになってくるに従って、家庭教育では担いきれないルールやマナーを教え込む学校教育の必要性が増してきていると考えます。自分たちにとってはごく当たり前の言動が、相手を傷つけ不快にするということを教え、相互主義に基づいて共存の在り方を考えさせることが、今後ますます大きな課題となってくるはずです。
 通勤電車内で、化粧をし、カップ麺を啜り、携帯で話し続けることを容認する社会が、外国人や異教徒、障碍者や高齢者に優しい社会になるとは思えないのですが。それは、若い女性が人前で化粧する姿を見るのを苦々しく感じる人の不快感を無視し、カップ麵の汁がとぶのではないかとハラハラしている人の嫌悪感を否定し、隣から聞こえる大声をうるさく感じる人の迷惑を軽視する社会です。そんな行動に優しさも寛容さも感じられません。金原氏は、学校はマナーについてどのような立場を取れというのでしょうか。
 そもそも、授業中教室内で「おしゃべりをし、席を立ってふらつく子」の事情に思いを巡らせていて、学校というシステムが成り立つのでしょうか。子供の問題行動に潜む悩みや苦悩に目を向け、受容的態度で接するということとは次元の違う話ですが。

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誰を贔屓するか

2016-11-22 07:07:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「与えられたパワー」11月14日
 作家上田岳弘氏が、『判官贔屓』という表題でコラムを書かれていました。その中で上田氏は、『義経だって配下を大勢持ったかなりの強者だったはずだ』と書き、『強者と弱者の関係性は容易に反転しうる』と指摘しています。その上で、『判官贔屓は、贔屓する対象のパワーになることがある。無名の誰かが与えるそのパワーが、必ずしも正しく働くとは限らない』と述べ、『近頃では何を贔屓にしたらよいものやら、戸惑うことが多くてまいる』と、コラムを結んでいらっしゃいました。
 その通りです。判官贔屓は我が国においては、広くみられる感情ですし、多くの場合肯定的に評価されるようです。しかし、判官贔屓の前提には、必ず強者と弱者の対比が存在します。そして、思い込みや先入観に基づく単純な強弱の認定は、ときとして物事を混乱させる結果になります。上田氏の「贔屓」の対象に迷うという述懐は、上田氏がよく考える人であるということの証明でもあるのです。でも、いまだに多くの人は、単純なレッテル貼りのレベルから抜け出せていないように感じるのです。
 私は、教委で長年勤務してきました。そこで市民の代表と称する人たちや国民の知る権利を代行すると称するメディアの方々と接してきました。教員の処分やいじめ問題、不登校や児童虐待など、案件は様々でしたが、いつでも共通していたのは、権力を握る巨大な存在としての教委という組織とその巨大組織に立ち向かうひ弱な個人という対比を描いて、判官贔屓的な態度で教委の「敵側」に立つ我々という自己規定でした。
 会議室には私一人、向かい側には市民代表という10名近い人たち、あるいはカメラマンを連れ録音機を突きつける記者、どうして私が強者なのだろうといつも感じていました。私が勤務していた教委は総勢50人に満たない職員、一方で全国紙やキー局などのメディアは系列を含めれば数千人の社員を抱えています。教委は自分たちの主張を訴えるすべをもっていませんが、メディアはいつでも記事やニュースという形で、さらに自分たちと同じ考え方の識者のコメントという形で社会全体に訴えることができます。
 市民の代表という人たちも、議員を使って圧力をかけることができますし、教委の予算と人事権をもつ首長につながっていたり、メディアに一方的な情報を流して自己主張することもしばしばでした。
 私個人と大勢の人という意味ではなく、組織力対組織力という視点でも、私は自分が強者側にいると感じることはほとんどありませんでした。しかも、私の発言は、その場の雰囲気や話の流れからは切り離されて一言一句吟味され、「問題発言だ」「さべつてきな発言だ」と揚げ足取りをされるのに対し、弱者と定義された人たちの、個人攻撃的な暴言は一切お構いなし、という状況でした。
 以前もこのブログで述べたことですが、我が国では、組織=強者=悪、個人=弱者=善というような図式が無言のうちに物事を考える際の前提になっているようなところがあります。しかし、上田氏が、「贔屓に迷う」とおっしゃっているように多くの場合、どちらが強者の立場にあるかは簡単に判断できるものではありません。自分の意見や行動が、単純な判官贔屓思考に左右されてはいないか、一度立ち止まり考える人が増えていけば、学校や教委よりもクレーマー側に立ってしまうという愚を犯さずに済むのですが。
 

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欲を捨てれば・・・

2016-11-21 07:38:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「欲を捨ててしまえば」11月13日
 作家で僧侶の小池龍之介氏が、『支配欲のむなしさ』という表題でコラムを書かれていました。その中で小池氏は、『「こうしろって言ったのに、なぜ従わないんだッ」という、支配欲に基づく怒り』について語っていらっしゃいました。
 小池氏は、『支配欲に駆られて押し付けると、相手は必ず反発するか不満を感じますから、支配なんてうまく行きっこない定め』と述べ、『他人の世界に入りこみ、変えようとするのは無理、と一線を画して諦めれば、平和なのです』と諭してくださっています。
 複雑です。だって、小池氏が上記のように話すことも、支配欲が強い他人に支配欲を捨てさせようとする行為、相手を変えようとする行為であり、やはり支配欲の発露なのではないかと思うからです。私の認識が浅薄なのかもしれませんが、宗教家は自らが信じる宗教に従って他者を変えさせようとする人なのではないか、という思いを捨てることはできません。
 まあそれはともかく、相手を変えさせようと考えてはいけないということになれば、教育というものは成り立たないのではないでしょうか。字を書けない子供に字を覚えさせるのも、相手を自分の望む方向に変化させることですし、走り回っていた子供を45分間椅子に座らせておくのも相手を自分の思うとおりに行動させる「支配」に他なりません。
 もちろん私も、学校教育に長年携わってきた者として、支配欲をむき出しにして、「いいから私の言うとおりにしなさい」とばかりに、指示や命令で子供を変えようとすることについては批判してきました。人間は他人を変えることはできない、変わることができるのは自分だけ、自分が変わることで他人も変わるのだという考え方を基盤に据え、「この子はなんでこんな態度をとるんだ」と子供に原因を求めるのではなく、「教員である自分の何がこの子にこんな態度を取らせているのか」と振り返り、教員としての自分を変えることで子供の変容、成長を促すのが良い教員であると考えてきました。
 それすらも、結局は相手=子供を自分の思う方向に変えようとする試みなのですから、手段が違うだけで支配欲の発露の一種です。これすら否定されてしまえば、教育は成り立ちません。
 宗教家の考える教育とはどのようなものか、今まであまり考えたことがなかったのですが、小池氏が、引き続きこのテーマで語ってくだされば、何かヒントが得られるかもしれません。

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