「分かったらいいのだが」2月21日
『小説は書き手の本質さらす』という見出しの記事が掲載されました。吉本ばなな氏、島田雅彦氏、若竹千佐子氏などの著名な小説家を育てた名編集者根本昌夫氏へのインタビュー記事です。その中で根本氏は、『文章指導は一切しない』と言い、『編集者だから、この人が本当は何を書きたいのかということはわかる方だと思います。すると、書いているものと書きたいものとの距離がわかり、それを埋める手伝いをしているのです。その人が伝えたいことに、その人自身がどうすれば近づけるかということです』と語っていらっしゃいました。
すごいな、と思いました。私は教員として、様々な機会に作文指導、文章を書く指導をしてきました。先行実践事例などを学び、いろいろなやり方を試行錯誤してきました。カードに見出しを書かせて文章構成を考えさせたり、教科書の「名文」を写させたり、子供同士で読み合わせ相互批評させたり、短文で新聞記事へのコメントを書かせたりと。しかし、こうした指導をしていても、隔靴掻痒、何だか核心を外した指導に終始しているという感覚がありました。子供たちも「そうか!」という感じで書きだすことはほとんどありませんでした。
今になって振り返ってみると、その理由が分かります。私は逃げていたのです。適切な指導助言ができないので、教員が前面に出ず、とにかく子供が鉛筆を動かすように仕向け、教員が過度の介入をせずに子供の自主性・主体性を尊重するという美名の下、指導しているポーズをとっていたのです。
ではなぜ指導ができなかったかというと、根本氏流に言えば、子供が本当は何を書きたいのか、ということが分からなかったからです。「好きなように書いてごらん」という教員がいます。こうした指示を受けた子供はほぼ例外なく途方に暮れたような顔をします。子の指示は、本当に書きたいものがあり、それが何か自分で分かっている場合にだけ有効なのです。でもそれが分る子供はごく少数です。彼らが何も感じていなかったり、考えていなかったりするわけではありません。読書感想文でも、遠足で感じたことでも、社会科見学で考えさせられたことでも、敬老の日の祖父母への思いでも、上手く言葉にできないけれど何か形にならないモヤモヤしたものが頭に浮かんでは消えているのです。
もし私にそれが分かっていれば、もっと違うアプローチができたはずです。しかし実際には、予定の時間が近づいても筆が進まない子供に対しては、待つことすらできず、「こういうことなのかな?」と疑問文の形をとりながら類型的な、そして私の感性に合う物語に誘導してしまうのでした。
私のつれあいは、国語科の指導で、研究員、開発委員、研究生を経験し、区の国語科研究部長も務めた「国語指導の専門家」です。でも、彼女も子供の書きたいことが分かった経験はないといいます。根本氏のような能力をもった教員はいるのでしょうか。そうした能力を獲得するためには、どのような経験を積む必要があるのでしょうか。私だって2000冊以上の本を読んでいるのですが。