ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

子供の気持ち<大人の責任

2012-05-31 08:07:47 | Weblog
「子供の気持ち」5月28日
 内閣府政策統括官の村木厚子氏が、新しい子育ての仕組みについてインタビューを受けていました。その最後に村木氏は、『子育て世代は日々の生活で一杯で、子ども自身は声を上げられない。誰かがちゃんと代弁してあげないといけない』と語っていました。
 特別目新しい主張ではありません。しかし、私は、待機児童を減らすという政策自体が、当事者である子供たちの「声」を尊重したものだとは思えません。子供たちが、親と離れ他人の中で過ごしたいと考えているとは思えないからです。
 保育園を増やすというのは、働きたい、働かなければならないという親側の必要性、人口減の中女性の就労者を増やしたいという施政者の考えが優先された政策に過ぎないと思うからです。子供は、乳幼児の間は、実の親の側で甘えて過ごしたいと思っているはずなのです。
 もちろん、だからいけないと言っているのではありません。待機児童を減らすことは、子育て支援として意味のある施策だと思います。ただ、大人の都合であるものを「子供が望んでいる」などと誤魔化してはいけないと思うだけです。
 同じようなことが、学校を巡る議論にも言えます。学校教育に関する議論では、「子供のため」というフレーズは、黄門様の印籠のような効き目があります。それを持ち出されては、反対派は黙らざるを得ないという状況に追い込まれてしまいます。しかし、実際には、子供のためではなく、親のためであったり、国家のためであったりすることが少なくありません。
 15年ほど前、行政職から学校管理職を選抜するという構想が検討されたことがありました。学校に新しい風を吹き込む、という趣旨が掲げられましたが、実際には、行政職で課長級に該当する年齢のの職員が増えすぎ、ポスト不足を補うことが主たるねらいでした。
 全国一斉学力調査の実施に当たっては、一人一人の子供の躓きを把握し指導に生かす、という効果が喧伝されましたが、実際には学校教育に競争原理を導入することが隠れたねらいでした。
 小学校における英語教育の導入は、国際化した社会に生きる子供に適応力をもたせるという建前でしたが、実際には外国人と渡り合える人材がほしいという経済界の要請に応える面が大きかったですし、理科教育の振興も、国力の減退を防ぐという国家戦略に沿ったものです。
 それでよいのです。繰り返しになりますが、「子供のため」ではなく、「大人の都合」でやらせているのだという自覚が必要だというだけです。こうした自覚をもって、学校教育について話し合うとき、「我のみ正義」というような独善的な議論が排除されるのです。
 また、こうした視点から見れば、子供自身がカリキュラムを決めるというような「理想論」が、義務教育においては、基本的には成り立たないということも明らかです。学校教育は、その時代の大人たちが、自分たちの都合で内容や仕組みを決めて子供に押し付けている、という冷厳な事実認識が必要です。それだからこそ、大人全員の責任は重いのです。

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美保さんやかおるさんはいいけれど

2012-05-30 07:42:35 | Weblog
「一人前気取り」5月27日
 川柳欄に『芸能人ちょっと農業やり威張る』という湖西市の宮司孝男氏の句が掲載されました。確かにそんな芸能人の方がいます。俳優のN嶋さんや女優のS田さん、T木さんなどが有名です。私は、S田さんやT木さんのファンなので、別に嫌な感じはもっていません。彼らは、農業の素晴らしさ、難しさ、喜びを語りはしても、農民を批判したりはしませんから。
 ただ、宮司さんの句にあるように、ちょっと経験しただけでそのことについて分かったような態度をとる著名人には、閉口します。短期間学校の非常勤教員を務めただけで学校批判の本を出版したり、期間限定の体験教室を主宰した経験から学校教育のあり方を提言したり、教委がお膳立てした優良校の校長を務めただけで管理職のリーダーシップについて語ったりする人たちです。
 20年あまり昔、文部省(当時)の教科調査官を務めていたT氏は、高等学校の教員から抜擢された人でした。彼は小学校の社会科担当の調査官になり、小学校の授業を見て回りました。そして3カ月、彼は、全国小学校社会科研究会の幹部の校長たちの集まった会合で、「小学校のことはすべて分かった」と豪語しました。なんといっても、教科調査官です。校長たちは、「さすがT先生」と笑顔で対応していましたが、彼が帰った後、「あれはバカだ」と会長を務める校長が吐き捨てるように言ったものでした。
 その後、私もT氏とは様々な場で接触することになりました。残念ながら、私のT氏観も、会長と同じものでした。同じ学校教育でも、高等学校と小学校では、大きな違いがあります。3ヶ月間に10数回授業を見ただけで、分かったというような傲慢さゆえ、T氏は、社会科指導を専門とする指導主事や校長から、敬して遠ざける扱いを受け続けたのでした。
 文部省の教科調査官であるT氏が「授業を見たい」といって見せてくれるのは、都内でも社会科の実践家として名の知れた指導力のある教員ばかりです。そんな授業だけを見て、小学校の社会科の授業の実態や問題点が分かるはずはないのです。彼は最後まで、自分が「お客さん」であることに気がつかなかったのです。
 野田内閣の田中防衛相について、野田首相が「無知の知」という言葉を使ってかばったことがあります。田中防衛相にはあてはまりませんが、自分はそのことについて十分には知らない、ということを自覚していることは大切なことです。
 何事も半可通は困ります。

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あなたにできますか

2012-05-29 07:52:59 | Weblog
「あなたにできますか」5月26日
 放送タレントの松尾貴史氏が、『ここにも関西、関東の違いが…』という標題でコラムを書かれていました。その中で松尾氏は、『女性ナレーターが「はっぷんにじゅうななびょう」と言っていた。~(中略)~「はっぷん」ではなく「はちふん」ではないのか』『「東京03…」を、放送局によるけれども、アナウンサーでも「ぜろさん」という人が多数派になっている。しかし、明らかに「れいさん」が正解だと思う』『「十分」「二十回」「三十周年」「四十本」「五十兆円」は、それぞれ「じっぷん」「にじっかい」「さんじっしゅうねん」「よんじっぽん」「ごじっちょうえん」だが、「じゅっぷん」「にじゅっかい」「さんじゅっしゅうねん」「よんじゅっぽん」「ごじゅっちょうえん」という人が過半数ではないか』というような例をあげ、放送に携わる人は『もっと言葉に対して謙虚であるべきではないだろうか』と述べていらっしゃいます。
 放送人のことはさておき、学校の教員にも、正しい日本語を使う義務が課せられています。私はこれが苦手でした。正しい日本語とは、松尾氏が指摘するようなことに加え、なまりのない発音、正しい筆順、きれいな字なども含まれます。
 俗に、「子供は言ったことには従わないがやったことは真似をする」と言われます。教員の話す言葉や黒板に書いた字が、子供の言語に与える影響は大きいのです。それも、年齢が低いほど、教員の「癖」の影響を受けやすいのです。
 私が通った高校は、地域の名門校でした。教員も優れた学識をもつ人が多かったように思います。しかし、彼らの多くは、小学校の教員は務まらないと思われます。ミミズがのたくったような字を書いていた政経の教員や訛りがひどくて「○ペーシ」と言っていた数学の教員、「僕の筆順はめちゃくちゃだからまねしないように」と断って板書していた生物の教員などがいました。
 そんな教員が相手でも、「成績優秀な生徒」が集まる高校ならば、生徒への影響はほとんどありません。しかし、小学校であったなら、おかしな話し方、間違った筆順が定着してしまうのです。
 私は、教員生活の大部分を5.6年生の担任として過ごしました。生来の悪筆で、江戸訛りのある私は、1年生の担任になることを恐れていました。補教で1年生の教室に行くときには、とても緊張したものでした。そして、毎日、正しい筆順で綺麗な楷書の字を書き、ゆっくり明瞭に正しい話し方をする低学年担任の同僚に対して、敬意をもっていたのでした。
 そんな私からすれば、「小学生、それも低学年の子供を教えるなんて、誰にでもできる」というような世間の見方には反発を覚えます。そうした見方の裏には、教員の専門性=ある学問分野の知識の量という、間違った思い込みがあります。小学校の低学年を教えることこそ、教えるという意味で最も専門性が求められるのです。
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さあ大変

2012-05-28 07:50:03 | Weblog
「大人になること」5月23日
 評論家西部邁氏が、原発報道について、コラムを書かれていました。その中で西部氏は、『国際原子力放射線影響科学委員会の委員長がこの1月、福島第1原発事故についての重大な発表をした~(中略)~「福島」において現在も今後も、健康被害が出るとは考えがたいという~(中略)~それが本当だとすると、ミリシーベルトやらをめぐるこの1年間余りの騒ぎは、一体、何だったのか』と書いていらっしゃいます。
 そして、こうした『放射能被害の虚報』によって、瓦礫処理拒否、「福島」産品購入拒否などの愚劣な行為が生じたのかもしれないという見方を示しています。その上で、国際原子力放射線影響科学委員会委員長の重大な発表がなおざりにされている背景を、『要するに、「さあ大変」に固着してしまった集団心理、そして「さあ騒ごう」に固定されてしまった集団行動、それがこの発表への注目を妨げたのに違いない』と喝破しています。
 おそらくそうなのだと思います。ある事象について、「衝撃的な事実」が報じられると、そのインパクトに引きずられ、一種の思考停止状態になり、後になって「衝撃的な事実」と反する情報がもたらされても、それを受け入れ吟味しようとはせずに、「さあ大変」という興奮状態が継続してしまう、という性が人間にはあるのでしょう。そして、それは、同一性が強い日本人において、より強烈に作用するのだと思います。
 こうした状況では、冷静な議論は成り立ちません。「さあ大変」を煽るような見解だけが、真実を説く誠実な意見とされ、それに反する見方は、圧倒的な罵倒に晒されることになるのです。
 この「性」を利用すれば、特定の意見や見方を広めることができます。その情報が後日「間違い」であることが分かったとしても、動き出した世論を止めることはできなくなってしまうのです。例えば、大阪維新の会の議員がもたらした、大阪の公務員が組織的に選挙に関わっていたという情報が公務員たたきの発端となり、その後ガセネタだと判明しても、一度公務員たたきに動いた世論は、維新の会を責めるよりも、公務員たたきの継続を支持しました。
 学校叩き、教員バッシングにも、こうした構図が見て取れます。ごく一部の教員の不祥事、教職員団体の偏向、教委の特殊な慣行など、何らかの発火点を見つけ、火を点じさえすれば、後は世論がより過激な方向へと導いてくれるのです。良識ある意見、慎重な見方、常識的な判断は脇に追い遣られ、断定口調で煽るアジテーターが英雄視されるのです。
 これが、大阪維新の会の掲げる教育政策の本質だと思います。西部氏の持論である「良識ある保守」的思考と行動こそが、学校教育を守るのだと考えます。

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幸運な出会い

2012-05-27 08:16:30 | Weblog
「出会い」5月21日
 猪飼順記者が、『さび』という標題でコラムを書かれていました。その中で猪飼氏は、愛用の包丁が欠けたときのことについて、『研ぎ直してもらうと、刃にゆがみも見つかった。曲がった砥石で研ぐと包丁も曲がる。砥石も研ぎ直しが必要だと知った』と書かれています。
 包丁は砥石で正しく研がれてこそ、ゆがみなく優れた切れ味を保ちます。また、ゆがんだ包丁を研いでいると、砥石も曲がってしまいます。この砥石と包丁の関係は、子供と教員の関係に似ているように思います。
 教員は、実際の授業を通して、自分の授業力を研ぎ澄ましていきます。子供も、優れた授業の中で学び方や考え方を確立していきます。それとは逆に、授業力の乏しい教員のつまらない授業が子供を学びから遠ざけ、学ぶ意欲も能力もなくした子供と向き合い続けることで、教員は自信を失い授業力向上への意欲を減じていきます。
 どちらが原因でどちらが結果だとはいえません。鶏と卵のような関係です。もちろん、教えることで給与をいただくプロの教員が、「子供が悪いから授業が上手くいかない」と責任転嫁するのは、理念として許されないことです。しかし、現実は、教員と子供は、「包丁と砥石」の関係なのです。
 特に、教員として未熟な新卒のときに、どのような子供と出会うかということは、その教員の一生を左右しかねないのです。私は、新卒のとき、5年生を担任しました。今思い返すと、ひどい教員でした。私が親であったなら、我が子の担任にこんな教員は嫌だ、と反対運動を起こしたくなるような教員でした。でも、子供と保護者は、私を「温かく」見守ってくれました。私は、運が良かった、のです。
 学級や学年担任は、校長が決めます。新卒の教員を迎えたとき、校長には、自分の判断がこの教員のこれからを決めるのだ、というくらいの責任感をもって熟慮してほしいものです。「無難なところで3年生に」というような安易な考えではなく、その教員の顔と子供たち一人一人を思い浮かべて授業風景を想像してみてほしいものです。
 改めて、新卒のときに5年3組の担任に指名してくれた内藤校長に感謝したい気持ちです。
 
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国民的議論?

2012-05-26 07:53:39 | Weblog
「国民的議論」5月19日
 スポーツライターの玉木正之氏が、『プロ野球人気を拡大するには』という標題でコラムを書かれていました。その中で玉木氏は、『どんなファンサービスを期待するか?どんな野球を見たいか?といった声を集めていたが、それが球場の前で野球を見に来た人へのインタビューなのだ。つまり彼らは既に球場に足を運んでいる人たちだ~(中略)~セ・リーグは今季から先発投手の前日発表を始めたが、投手名を聞いて球場へ…と思う人は既に野球ファン』と書き、そうした人気拡大策に疑問を呈しています。
 そして、『どうもスポーツ好きな人たちは、好きな人たちだけで集まって満足する傾向が強いようだが、それではスポーツの新たな発展につながらないのでは』と結んでいます。耳が痛い話です。ある問題について、元々関心がある人たちだけを対象に議論を展開し、それを無意識のうちに、国民全体の意見とすり替えてしまうという傾向は、学校教育についての議論に於いてもみられることだからです。
 私の母は84歳です。孫も成人し、小中学校についての関心はほとんど0です。私の姉は58歳です。アラサーで未婚の息子と娘を抱え、小中学校との接点は皆無です。私の母や姉のような人は、決して特別な存在ではありません。そんな母も、私が小中学生のときには、PTAの役員をやり学校への関心も高い方でした。姉も2人の子供が小中学生だったときには、私立学校を受験させ、学校の情報集めに奔走していました。当時、教委に勤めていた私もいろいろと答えにくいことを尋ねられ、閉口したものでした。
 我が国では、教育問題、特に学校教育についての関心が高いと言われています。その通りでしょう。しかし、その関心度をグラフに表せば、特定の年代で高く、他の年代では極端に低くなっていることでしょう。また、未婚者と既婚者の間でも大きく違うことでしょう。
 しかし、学校教育論議は、すべての国民に情報を提供し、その関心を高めた上で行われてはいないと言わざるを得ません。極論すれば、そのときの小中学校の保護者とこれから就学する子供をもつ保護者という一部の人と有識者の間だけで行われているということなのです。学校教育は長期的な視野に立って制度設計されるべきものです。それなのに、ある時期の一部の人たちの議論だけでその後十数年の制度が決められてしまうというのはおかしな話です。
 年金問題は、以前は高齢者だけの関心事でした。最近になって、若い人たちが自分の問題として関心をもつようになり、新たな視点が提示されるなど議論が活発化してきています。学校教育問題も、そんな形を目指すべきです。

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若い日の工夫

2012-05-25 07:54:29 | Weblog
「若い日の工夫」5月17日
 高本良彦氏が、『昭和30年代の東京の音』という標題でコラムを書かれていました。高本氏は、冒頭で『昭和30年代の半ばの東京の様子を、楽しい音楽と効果音、それも実際に街で録音したものを使いながらLP一枚に収めた「少年少女のための音楽 ファンタジー/東京のうた」というアルバムを買った』と書き、『自動車、ビル、地下鉄、成長期の典型といえるようなものが登場すると、その音も随分と張り切って聞こえてくる』と続けています。
 音が時代を表すということです。「音が表す」というと、思い出すことがあります。私は20代の頃、社会科の授業で東京都の檜原村を取り上げました。当時私は品川区の小学校に勤務していました。人口密集地である品川区と過疎の村檜原村の暮らしを比較し、それぞれに生活の工夫がある、ということに気付かせることを狙った授業でした。
 私は、学区域にあった商店街と檜原村の「よろず屋」を取り上げて比較させることにしました。それは私の独創ではなく、当時最も一般的な学習計画でした。そして、よく行われていたのが、写真を使う、OHPシートを使う、商店街で売っているものと「よろず屋」一軒で売っているものを比べて塗りつぶさせるなどの活動でした。
 しかし、私はそれまでの実践をなぞるだけの授業はしたくありませんでした。そこで、考え出したのが、商店街に置いた録音機と「よろず屋」に置いた録音機から流れる音をじっと聞かせるという手法でした。目ではなく、耳で状況を浮かび上がらせるという発想でした。3分間、常にガヤガヤと話し声や足音、自転車や自動車が走り去る音が聞こえてくる商店街と、シーンとして何一つ音が聞こえてこない「よろず屋」、その違いは、子供に強く印象づけられました。
 なぜこんなことを長々と書いたかというと、こうした「些細な工夫」こそが、教える専門家、授業のスペシャリストとしての教員の真骨頂だからです。「私たちの住む品川区の住民は生活に必要な日常品を近くの商店街で購入していますが、檜原村の住人は村に一軒しかない「よろず屋」で購入しています。檜原村では利用者が少ないため、商店街が形成されず、一軒の「よろず屋」が商店街の機能を果たしています」。言葉で説明すればそれだけのことを、どれだけ子供自身に発見させ、強く印象づけるかということに力を注ぐことが、教員の務めなのです。
 そこで必要なのは、商圏や消費行動についての専門的知識ではなく、子供の興味関心、理解のあり方についての洞察なのです。若い教員は、今もこんな「些細な工夫」に頭を絞っているのでしょうか。

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一時だけの得

2012-05-24 07:54:25 | Weblog
「コピー文化」5月16日
 精華大学米中センター高級研究員の酒井吉廣氏が、『ドレミの歌と中国製品の高度化』という標題でコラムを書かれていました。その中で酒井氏は、ドレミの歌の原曲は英語であり、これを日本やフランスでは、工夫して自国のタンゴに訳したのに対し、中国では英語を直訳したものが使われていることを紹介した上で、『中国人は、良いものであれば、丸ごと模倣する』と指摘しています。
 そして、『しかし、コピー商品を作ることは、デザインや技術面で競争力を高めることとは一致しない。日本やフランス型のドレミの歌の工夫をする方が、高品質で長持ちする良品を創りだす技術を蓄積する源泉となるのではないだろうか』と、コピーと創造性の関係について述べていました。
 そう思います。実は、私は教委勤務時代に、この「中国式」の考え方に直面させられた経験があります。私が、教育研究所に勤務していたとき、研究所を廃止し、研修センターとするという決定がなされました。研究機能は残すが、それはあくまでも教委の施策の効果に対する調査研究に限るという方針でした。
 当時、教員の資質向上が最大の課題とされ、その実現のために研修機能を強化するということ自体に異論はありませんでしたが、調査研究だけでは、教科の指導法の研究がなくなってしまうという趣旨の疑問を呈したのは、私だけでなく、多くの指導主事の思いでした。こうした疑問に対する回答が、「教科の指導法の研究は文部科学省も他の道府県の教委も行っている。そうした研究の中で優れたものを選び出し、その成果を活用させてもらえば問題ないし、費用対効果の面でも優る」というものだったのです。
 要するに、よそ様の研究成果を模倣して使おう、という発想です。以前も書きましたが、教員の世界には特許権はありません。優れた指導法はすぐに広まり、多くの教員がそれを基に自分なりの工夫を加えて新しい指導法を創り上げていくのです。そうしたことから考えれば、こうした「コピー主義」は合理的なのかもしれません。
 しかし、酒井氏の指摘にもあるように、最初から「コピー主義」では、長い目で見たときに、教員の創造性が損なわれてしまう危険性を排除できないと思います。実際、近年、教科の指導法の研究は、停滞気味だと思われます。それは、教員全体の授業改善力の低下として、ジワジワと効いてくるはずです。そうなってからでは遅すぎます。「失われた○年」を取り戻すのは、教育界においても大変な作業になるはずです。

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本家の知恵

2012-05-23 07:53:31 | Weblog
「本家の知恵」5月16日
 欧州総局の小倉孝保氏が、『英国市民の選択』という標題のコラムを書かれていました。小倉氏によると、先の統一地方選で、『首長を直接選挙で選ぶかどうかを住民投票にかけた10自治体のうち9自治体の住民が、「NO」の答えを出した』のだそうです。つまり、『住民が自分たちで直接、首長を選ぶことを拒否した。リーダー選びを議会にゆだねた』のです。
 小倉氏は、こうした英国流を、『首長選びを政治の専門家(議員)に任せることで、一時の世論や「風」に乗じた独裁者誕生を避けようとの知恵』と指摘し、『ダイナミズムやスピード感の点で物足りないが、安定感があり小さなことにも目配りできる面はありそうだ』と評価しています。
 まったく同感です。英国流に学ぶべきなのは、「一時の世論や風」というものの恐ろしさへの認識です。よく言われることですが、ヒットラーについても、当時のドイツの一時の世論が暴風となり、彼の権力掌握を後押ししたのですから。
 我が国に民主主義が定着して、60年余り、一方英国は、大憲章から考えれば数百年の民主主義の歴史を蓄積しています。さらに、我が国の民主主義が、米国から与えられたものであるのに対し、英国は国民自らが国王などの権力との対峙の中で積み上げてきたものです。だからこそ、英国が民主主義の本家だと言われているのです。
 今、我が国では、橋下大阪市長に代表される改革派首長が、競うように過激な改革像を提示しています。教委制度廃止もその一つです。選挙時の世論を重視せざるを得ない政治家が教育行政のトップとして君臨することが善であり、専門家(教育委員)の合議で動かされる教委制度は悪という前提を、一度疑ってみる必要があると思います。本家の知恵を軽んじてはいけないのではないでしょうか。

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何もしない教育委員会

2012-05-22 08:04:32 | Weblog
「何もしない?」5月16日
 『大阪市職員100人「入れ墨」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『大阪市が市教委を除く全職員に入れ墨の有無を尋ねた調査で「入れ墨をしている」と回答した職員が役00人に上ることが分かった』のだそうです。
 私が気になったのは、100人に「入れ墨」という部分ではなく、『市教委を除く』という部分です。記事では、『市教委は教育委員から調査手法に否定的な意見が多く、調査していない』と書かれていました。私も、橋下流の調査法については、若干の疑問を感じています。しかし、そのことは、市教委だけ調査なしでよいという理由にはならないと思います。
 私は、公務員が入れ墨をするなんてとんでもないことだという意見です。当然、教育公務員である教員についても同じです。より正確に言えば、判断力が十分ではない子供と接する教員は、他の公務員以上に、子供の手本となる厳しい倫理観や態度が求められるべきだという考えです。
 そうした立場の教員の中に、もし「入れ墨」をした者がいたとしたら、大問題だと思います。大阪市の教育委員の皆さんが、私とは違い、教員にも表現の自由があり、その中には「入れ墨」も含まれると考えているのであれば、調査は不要です。しかしその場合には、そうした見解をきちんと公表すべきです。
 でも、記事によれば、「調査手法に否定的」なのです。そこから推測されるのは、教員の「入れ墨」は問題だが、橋下市長と同じ調査法での調査はしたくない、という意見の方が多いということです。そうであるならば、教委として、教員の人権にも配慮した調査法を考え出し、調査を行うべきだと思います。そうした具体的な知恵を出さないから、「教委に任せておいたのでは何も変わらない」と、橋下氏に批判されてしまうのです。問題を指摘するだけで、問題解決能力がないと言われてしまうのです。そして、そうしたことの積み重ねが、教委不要論につながっていってしまうのです。
 保護者や子供からの情報提供を募る、教員からの自主的な申し出を呼びかけるなど、方法はいくつもあるはずです。ぜひ、行動し解決する教委の姿を見せてほしいものです。

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