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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

いけない思い出

2012-09-30 08:02:32 | Weblog
「この立場で」9月24日
 北海道教育大学学長の本間謙二氏が『私と学校』というコラムの中に、恩師とのエピソードを書いていらっしゃいました。『剣淵中で野球部の監督も務めていた姥子稔先生。「夏目漱石全集の新版を買いそろえたので、旧版を貸してやる」とリヤカーに積んで自宅まで持ってきてくれました』というものです。
 本間氏は、教員養成大学の学長という職にある方です。中教審の専門委員も務めていらっしゃいます。当然、自分なりの「あるべき教員像」というものをもっていらっしゃるはずです。そのイメージから見たとき、姥子教員の行動が、望ましいものとして評価されていることに、強い疑問を感じました。
 もし私が管轄する学校に姥子氏のような行動をする教員がいたとしたら、私は校長を通じて彼を指導するはずです。彼の行動には、特定の教え子を特別扱いしている、全集の貸し出しを通じて特定の価値観を押し付けようとしている、という問題点があります。
 仮に、「先生が読まなくなった漱石全集があるんだけど、読みたいという人がいたら貸してあげるから、今日中に申し出てください」という問いかけをし、複数の申し出たものの中からクジなどで、本間氏に貸すことになったというのであれば、問題は生じないでしょう。そこには、不公平も押し付けもありません。
 姥子氏のやったことはそんなに悪いことではない、という人もいるかもしれません。教員と教え子の微笑ましい交流と見る見方もあるかもしれません。しかし、もし、リヤカーに積んでいたのが、マルクスの資本論だったり、ヒットラーの「わが闘争」だったりしたらどうでしょうか。誰もが問題だと言うでしょう。同じことなのです。子供にとって教員は権力者という一面を持ちます。ですから、子供は教員から与えられた全集に対しては、他の書物とは違う思いをもちます。そして、読書には、読者にその作家の世界観を注ぎ込むという面があります。即ち、大量の全集を教え子の元に持ち込むというのは、特定の価値観に誘導する行為にほかならないのです。
 また、子供が好きな「ワンピース」の全集を貸すという行為を想定すれば、姥子氏の行為が「便宜供与」というえこひいきに当たることも明らかです。少なくとも、他の子供や保護者がその事実を知ったとき、「なんで本間君だけ?」と思う行為、疑いを抱かせる行為であることは確かです。
 ですから、こうした行為は教員として慎まなければならない行為なのです。これからの教員を育てる大学のトップが、全国紙にこうした「思い出」を語ることは、未来の教員たちに誤解を与えかねないと思います。
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「沖縄」への違和感

2012-09-29 07:57:51 | Weblog
「沖縄は日本?」9月24日
 沖縄県在住の弁護士である池宮城紀夫氏が寄稿され、その中で沖縄で行われたオスプレイ配備反対デモについて触れていらっしゃいました。そこには、『普天間飛行場に接した普天間第二小学校の校長が、「子供たちの命を危険にさらすオスプレイの配備は何としても阻止したい」と、教職員や父母らの先頭に立って大会に参加』と書かれていました。
 とても驚きました。私の「常識」では、考えられないことだからです。民主主義社会では、様々な社会運動が行われています。それは沖縄に限りません。私が勤務していた自治体でも、学校の統廃合反対、清掃工場建設反対、学校給食の民間委託反対、総合娯楽施設建設反対などの運動が市民主体で行われました。
 運動の主体となっている住民の中には、それぞれ、「子供が慣れ親しんだ学校がなくなり、大規模校で一人一人の子供に目が行き届かなくなる」「清掃車の出入りが激しく、子供の登下校時の交通事故が心配」「子供には安全で真心の籠もった食を提供してほしい」「不良の溜まり場となり、子供に悪影響がある」という理由で、学校にも関係があるのだから、先生方も運動に協力してほしいという意見の方がいらっしゃいました。
 しかし、公務員という立場、特に校長という立場のある者としては、個人的な意見や信条がどうであれ、一方の側に立って行動することは慎みたい、というのが我々の業界の「常識」でした。
 実際に何らかの形で運動に参加したり、一方に賛意を表明したりした校長は皆無でした。また、私自身、教委の管理職として、市民から「校長や先生方の参加を禁じているのか」という問い合わせを受けたことがありましたが、その度に「望ましくない」という見解を伝えてきたものでした。特に不満を聞かされたことはありませんでした。それは、公務員であり、多様な意見が存在する保護者や地域住民から信頼される教育者として信頼される教員・校長としてのあり方であるという「常識」が存在していたからだと思います。
 大阪市の橋下市長が、公務員の政治活動の制限を打ち出しています。そのことについては賛否が分かれているようですが、少なくとも、校長が自らの勤務地で保護者や市民と一緒にシュプレヒコールを挙げるという行為については、「望ましくない」という見解をもつ人が大部分でしょう。
 沖縄の歴史から考えたとき、基地問題は特別なのだという意見もあるかもしれません。しかし、もし、校長が「我が国の安全保障のため、オスプレイ配備賛成」というデモをおこなったとしたら、非難囂々となったはずです。もし、今回の校長の行動を是とするのであれば、賛成デモ参加も是としなければならないはずなのに。
 この校長の行動に違和感を感じてしまう私が間違っているのでしょうか。
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石原氏の指摘に不足するもの

2012-09-28 07:52:22 | Weblog
「授業に、ではない?」9月22日
 先週に続いて、『デジタル授業への賛否』が掲載され、今回は賛成派の登場でした。論者は岐阜聖徳学園大の石原一彦教授です。石原氏の指摘は、その通りだと思うのですが、標題とのズレが気になります。
 石原氏は、①『作文は書いて終わりではなく、互いに読んで良い点を評価し合うことが大切。手書きでは終わらない子がいるし、字も読みにくい。「内容の勝負」までいかないのです。パソコンを使えばそこまでたどりつける』②『機器を使うことで文章をまとめる速度が上がり、推敲したり、編集したりする力が付く』③『学習履歴を保存し、できた点できなかった点を分析すれば、学力向上にも役立ちます』④『勉強や運動が苦手でもITが得意な子が出てくれば、子供同士の関係が変わり、それまでとは違う「教え合い」が生まれる』を利点として挙げています。
 私は、「授業」を、「教員の意図的な誘導の下に、子供が自分とは異なる見方や考え方、発想や思考の筋道に触れ、自分の問題解決を豊かにしていく場」と捉えています。一方、石原氏は、授業という概念を大変広く捉えていらっしゃるように思えるのです。例えば、③は、エータ管理上の利点と言えますし、④は人間関係改善の側面からの考え方だと思います。①や②も、ワープロでも同じ効果が見込まれ、デジタル授業の利点と言えるかどうか疑問です。
 ここまで書いてきて、そもそも「デジタル授業」の定義が曖昧なまま賛否の議論が展開されてきているのではないか、という気がしてきました。これでは、議論がかみ合いません。
「デジタル授業」の本質は、授業中に獲得する情報と発信する情報の量と質と手段の変化にあります。手段の多様化は基本的には望ましいことです。「デジタル授業」で情報の量が増えることも確かです。問題は、「質」なのです。情報の「質」を左右するのは、思考を刺激し、疑問を起こさせ、新たな予想へ導くか否かです。石原氏の主張の中に、質が高まるという指摘がないことが残念です。

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恵さんに学ぶ

2012-09-27 07:28:56 | Weblog
「授業の達人」9月21日
 タレントの恵俊彰氏がインタビューに答えていました。恵氏は、某番組のパーソナリティーとして2000組のゲストと出会ったそうです。インタビュー記事の中で恵氏は、『人と会って、しゃべることが好きなんですよ。大いなる疑問をもって、それを楽しみ、話を面白がる。僕の役目は、ゲストに興味をもってもらうことなんです』『テレビでも2時間は打ち合わせをします。台本を作るというより、いろんなことの「確認」。本番では台本を離れます。ちゃんと練習しておかないと、本番が面白くないんです』と語っています。『徹底して稽古し本番で脱線する』スタイルなのだそうです。
 恵氏の言葉の中に、2つの授業のコツが潜んでいます。まず、「相手の話を楽しみ、面白がる」ということです。授業の場合、子供の発言を楽しみ、面白がるということになります。「どんなことを言うのだろう」「どうしてこんなことを言うのだろう」「なぜ、この子だけ違うことを言うのだろう」「へぇー、そんな考え方もあるのか」と、子供の話す内容に興味をもち、感心するという感性こそ、良き授業者の条件なのです。子供の発想に学び、「今日は面白い見方を知って得したな」と思えることが大切なのです。
 授業が下手と言われる教員は、この逆です。「どうせ大したことは言わないだろう」「何でこんな間違ったことを言うのか」「くだらないことを言って時間をとるな」というような態度です。初めから、子供を無知で未熟な存在で、博識な大人である自分よりも数段劣ると見なしているのですから、子供の側もそれを敏感に感じ、「何言ったってしょうがない」と、教員とやりとりしようという意欲などもてなくなっているのです。
 もう一つは、「徹底して稽古し本番で脱線する」という姿勢です。授業の前に、学習指導案を作成し、発問計画や板書計画を練り上げ、学習活動ごとの所要時間を想定しておくという緻密さをもちながらも、実際の授業では、子供の発言や反応に応じて、融通無碍に変化させていくということになります。子供を生かすためにきっちりとした計画は立てないという教員がいますが、それは間違いなのです。こうした主張をする教員の多くは、単なる怠け者であると考えて間違いありません。また、自分の計画に固執する教員もいます。計画を立てるだけましですが、計画に固執するのは、自分の計画に自信があるというのではなく、臨機応変に対応する自信がないということである場合がほとんどです。
 逆説のようですが、徹底的に準備するからこそ、柔軟に修正できるということなのです。私は指導力不足教員の研修を担当してきましたが、彼らは一人の例外もなく、本心の部分で子供を見下し、自分の計画に固執していました。実は、私自身、若い頃はそうした傾向がある教員だったのです。だからこそ、恵氏の言うことの重みが分かるのです。
 相手が芸能人や著名人であろうが、小中学生であろうが、人と接し、その人の良さを引き出すという意味では、教員もパーソナリティーも同じなのだと思います。

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いじめ調査委の仕事

2012-09-26 07:57:57 | Weblog
「何の役に立つ」9月20日
 『第三者調査委中学校を視察』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『大津市で昨年10月、市立中学2年の男子生徒が自殺した問題で、市の第三者調査委員会の委員が20日、男子生徒が通っていた中学校を初めて視察した~(中略)~男子生徒の同級生らの授業も参観した』ということだそうです。
 何が目的なのでしょうか。尾木直樹委員は、中学校教員の経験がある方ですから、授業の見方を身に付けていらっしゃるでしょうが、弁護士など他の委員は授業を見ても何も得るものがないのではないでしょうか。
 この場合の「得るもの」とは、いじめ自殺問題の原因解明という委員会の目的に対して、という意味です。そもそも教委や学校関係者を除く形で第三者委員会を設けたのは、学校教育についての理解よりも調査能力を重視したからだと思います。そうだとすれば、授業参観などに無駄な時間を費やさずに、一刻も早く聞き取り調査に着手すべきだと思うのです。
 何も役に立たないだけならともかく、授業の見方も分からない「素人」が、授業参観で間違った先入観をもってしまう危険性さえあると思います。私は皮肉で言っているのではありません。
 何回も繰り返し述べてきたことですが、「いじめ」という同じ言葉で表現されていても、すべての学校で毎日のように起こっているいじめと、自殺に至る深刻な「いじめ」とは全く別のものです。前者は学校生活とは切っても切り離せない「教育課題」であるのに対し、後者は「犯罪」で、警察や司法の領域の問題なのです。ですから、大津市のいじめ自殺問題は、教育的配慮などとは無縁に、調査や捜査の専門家が、その専門性を駆使して事実解明に取り組めばよいのです。
 私は、授業や教員の専門家でした。だからというわけではありませんが、教員の不祥事なのでは、十分な捜査能力を発揮することは難しかったという自覚があります。私のような立場や経歴の人間では対応しきれない性質の「犯罪」であるからこそ、弁護士など違う分野の専門家の力が必要になったということを忘れずに、教員や生徒の記憶が薄れないよう、少しでも早期に調査を開始すべきだと思います。
 いじめ自殺という「犯罪」捜査には、学校教育を理解することなど無用だということを、今後の対応でも原則として確立してほしいものです。もちろん、学校はあくまでも教育の範疇で最善を尽くしていきます。
 
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ありすぎても困る

2012-09-25 07:42:42 | Weblog
「不足と過剰」9月19日
医療コミュニケーション研究者の岡本佐和子氏が、ご自身の連載コラム『診察室のワルツ』の中で、『医療事故と過剰治療、するべき治療をしない治療不足が、医療において患者を傷つける3大要因といわれています』と書かれていました。
 学校教育においても、学校事故が問題になります。いじめ自殺もその一つでしょう。また、教員の指導力不足も大きな問題になっています。授業が成り立たない、子供にどう対応していいか分からない教員の事例が、各校から報告されています。しかし、過剰治療に当たる「指導力過剰教員」のことが話題になることはありません。
 実は、この問題は、メディアを含め、一般の人にはほとんど認識されていないのです。私は、様々な理由で処分を受けた教員を再教育する研修を担当していました。その経験を通して分かったのは、偏向教育を行う教員、特に長年にわたって偏った教育を行い続けている教員は、「指導力過剰教員」であるケースがほとんどだということなのです。
 偏向教育を行う教員は、保護者からの苦情、校長からの指導、教委での処分など、いろいろなレベルの「障害」に直面します。普通の者は、それで「転向」していくのです。
 しかし、その一歩で、何年、何十年と偏った教育を続ける教員が、少数ながら存在します。彼らは、教え子を「洗脳」し、保護者の一部を言いくるめ、地域住民の中に支持者を作っていきます。処分を受けそうになると、保護者や支持者が「○○先生は信念の人。立派な教育者だ」と教委に押しかけ圧力をかけ、子供たちが「先生は他の先生とは違うことを教えてくれる」と教員を庇い、そうした動きに幻惑されたメディアが、「真の教育者」ともて囃す、という事態を招くのです。
 もちろん、常に教委や校長の評価が常に正しいなどというつもりはありません。しかし、こうした偏向教育常習者のケースでは、教員の異動後、または子供が卒業してしまうと、子供や保護者は催眠術から目が覚めたように、「○○先生はおかしかった」と言い出すことが多いのです。
 子供に言うことを聞かせられないのが「指導力不足教員」だとすれば、子供ばかりか保護者まで洗脳し催眠術にかかったように自分の言いなりにさせるのが、「指導力過剰教員」なのです。もちろん、これは、「我々の業界」の隠語であり、公式な研究や文書に登場する言葉ではありません。でも、医療においても「過剰」が問題になるように、学校教育においても「過剰」は問題なのです。教員は、子供に君臨する絶対君主になってはいけないのですから。

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何が必要なのか

2012-09-24 07:25:53 | Weblog
「何が必要か」9月18日
 前回に引き続き、東大名誉教授の御厨貴氏と明大教授の鹿島茂氏の対談からです。対談を締めくくったのは、鹿島氏の『(維新ブームは)この国の教育の欠如の表れでしょう。教育の根本は、自分にとって何が得かを長期的視野でしっかり考えられる能力を育てること。最も正しい投票姿勢は、正しく理解された自己利益の追求です。橋下さんがこの国で支持を集めていること自体、日本の教育の貧しさの証明じゃないでしょうか』という言葉でした。
 耳が痛い指摘です。それでは、「何が得かを長期的視野でしっかり考えられる能力を育てる」のは、学校教育のどの部分が主に担うのでしょうか。私は「社会科」だと思います。体育・保健体育、音楽、図工・美術、技術、家庭、算数・数学、理科、英語、国語などの教科も関係なしとはしませんが、関わりは薄いでしょう。道徳や特別活動では、何が自分にとって得か、という視点が強調されることは少ないですし、総合的な学習の時間は、各校ごとに内容がバラバラで、何とも言えません。
 要するに、鹿島氏の指摘は、社会科(歴史や政経、倫社や地理などを含む)が、その責任を果たしていないと言っているのです。社会科を専門に研究し、社会科の指導主事として教員の研究を指導し、都の社会科指導主事会の副会長を務めてきた者として、この指摘は堪えました。
 しかし、責任転嫁と言われるかもしれませんが、少し言い訳をしたいと思います。それは、我が国では、「社会科」が重視されたことがないということです。現在は理科教育の充実が叫ばれています。先端科学技術の分野で諸外国に遅れをとり、国力を削ぐことがないようにという理由からです。また、長寿社会が到来し、健康やスポーツの価値が見直され、その関連で体育・保健体育が注目されてもいます。さらに、国際化の進展を受け、英語教育の充実が重要課題となり、英語教育と対比する形で母語である日本語、つまり国語教育こそ重要という意見も強まっています。
 しかし、「社会科」がそうした形で取り上げられることはありません。尖閣や竹島の問題が起きると、「我が国固有の領土であることを学校で教えるべきだ」という議論が起きますが、そ子で問題になっているのは「知識」であり、社会の捉え方考え方を身に付けるという社会科本来の目的ではありません。我が国の歴史や伝統を見直すということが提唱されていますが、そうした動きはすぐに愛国心の強制などという警戒の目で見られ反発を受けるという始末です。
 以前、我が国では、長年世界第2位の経済大国でありながら、ノーベル経済学賞の受賞者がいない、ということを指摘し、自然科学が軽視される風土について問題提起をしたことがありますが、我が国は、我が国の教育は、「社会科」復権に取り組む必要があると思います。
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損をするのは

2012-09-23 07:56:01 | Weblog
「損をするのは」9月18日
 東大名誉教授の御厨貴氏と明大教授の鹿島茂氏が、大阪市長の橋下氏についての対談を行っていました。その中で鹿島氏は、『歴史を振り返る限り、革命や維新でシステムが壊れて最も損をするのは貧しい民衆。これは万古不易の真理です。しそれに民衆が気が付かない』と述べていらっしゃいました。
 まったくその通りだと思います。橋下氏が、全国規模で進めようとしている教育改革も、同じ結果に終わると思われます。東京都を例に考えてみましょう。東京都では、私立や国立の学校に進学する子供は相当数に上ります。小から中へ、中から高へと進むにしたがって、非公立校の占める割合は増していきますが、小学校や中学校段階から私立校に通うことができるのは、経済的に恵まれた家庭の子供がほとんどで、彼らの保護者は、高学歴高収入の経済的社会的強者が大部分を占めています。
 こうした人々は、実は公立校を対象にした「教育改革」に対して、ほとんど関心をもっていません。自分たちには無関係なことだと考えているのです。当然、橋下氏が主導する「教育改革」にも無関心です。
 一方、我が子を公立校に通わせざるを得ない経済的社会的弱者は、橋下改革に期待している人が多いと言われています。彼らは、より強く社会の閉塞感、不公平感を感じているからです。しかし、実際に橋下流の「教育改革」が進めば、競争原理の導入の下、一部の成果を上げた学校(成績の良い学校)に教育資源が集中され、公立校の統廃合が進みます。過剰な統制を嫌う若者が教職を希望せず、教員志望者が減ることで教員の質の低下をもたらし、更なる公立校沈下が進みます。予算の適正配分の掛け声の中で教育予算は削られ、就学援助が必要な家庭の子供は学び続けることが困難になります。そうした被害は、「我が子を公立校に通わせざるを得ない経済的社会的弱者」が被るのです。
 自分で自分の首を絞める、という図式です。特に継続性が十される教育においては、革命や維新ではなく、経過を見ながら冷静に考えることができる緩やかな改革、漸進的な改善こそ、一般市民にとって望ましいものになる可能性は高いはずです。
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社会全体で、よりも

2012-09-22 07:31:30 | Weblog
「社会全体で」9月17日
 『都教委「いじめシンポ」 中高生が学校の実態を語る』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『一般参加も自由で、都教委指導企画課の山本周一統括指導主事は「いじめは学校だけで解決できず、地域住民ら社会全体で許さないという環境を醸成したい」と話す』ということだそうです。
 山本氏の発言は微妙です。学校だけでは解決不能だから地域にも責任を分担してほしい、という受け取り方をされれば、責任転嫁と反発をかってしまいます。おそらくそうではないでしょう。教委としては、あくまでも学校で起きるいじめは学校の責任で対応する、という強い決意を示す必要があります。その上で、協力を求めるという姿勢をしっかり打ち出してほしいものです。
 ところで、「社会全体で(いじめを)許さないという環境を醸成」するとは、具体的にはどういう状態をイメージしているのでしょうか。「いじめ撲滅」とでも書いた幟をあちらこちらに掲げるのでしょうか。「いじめは絶対ダメ」という文書が回覧板で回されるのでしょうか。「いじめは犯罪」という襷を掛けて町会役員が街を練り歩くのでしょうか。まさか、住民らが独自にいじめ相談所を開くということでもないでしょうし、いじめ加害者の家に押しかけて「反省しろ」と叫ぶわけでもないでしょう。いじめ加害者の家族を村八分にして懲らしめるということでもないはずです。
 逆の見方をすれば、「いじめは人間関係を学ぶいい機会だ」などと肯定的に捉えている人は、今現在一人もいないはずです。ただ、「少々のいじめには耐える力も必要だ」とか「いじめはいじめられる側の子供にも問題がある」というような間違った認識をもつ人はいるように思います。
 教委が地域に対して働きかけるとすれば、まずいじめの実態を知らせ、上記のような間違った認識を正すことに力点を置いてほしいと思います。その上で、学校の取り組みに理解をもち、支持してもらうように働きかけることが重要です。
 もっと大切なのは、地域にではなく、家庭に働きかけることです。いじめ対策は学校がしっかりやるので、家庭では学校生活で傷ついた子供の心を癒す役割を担ってほしいということを伝えるべきなのです。学校や地域がいくら努力しても、残念ながらいじめが0になることはありません。いじめで傷つく子供が絶えることはないということです。だからこそ、家庭が心からくつろげる場所、安心して自分の弱さをさらけ出せる場所になり、子供の心の傷を回復させ、また元気に学校に向かわせる機能を果たすことが肝心なのです。
 そこで提案です。いじめシンポは、主催者挨拶などの形式的な部分を削除して編集し1時間程度にまとめてDVD化し、各学校を通じて保護者に貸し出すようにしてほしいものです。10000枚作成し、各学校が作成している緊急連絡網にしたがって家庭から家庭に回覧させるシステムにすれば、ほぼすべての家庭で見てもらうことができるはずです。これだけいじめが社会問題化しているのですから、そのぐらいの予算は知事の一声で出てくるはずです。
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いじめ、3つの異見

2012-09-21 07:36:53 | Weblog
「いじめ、3つの異見」9月16日
 前回に引き続き、『「開かれた新聞」委員会座談会』からです。ここで参加者からいじめ問題について、あまり話題にならない3つの異見が述べられていました。池上彰氏の『いじめられている子どもが「いじめた相手の名前を書いて、遺書を残して自殺すると報復ができる」と自殺することが、過去にもあった』『いじめの分析や解決と、子供がどうして自殺するようになってしまったのかという問題は、やはり若干違うような気もする』若一光司氏の『教育委員会制度が子どもの命も守れないという、深刻な問題を提示している』というものです。
 一つずつ考えてみたいと思います。まず、報復自殺の問題です。俗に「死人に口なし」と言います。死んでしまった人には、その真偽や本意を問い質すことはできません。しかも、日本人には、死に臨んで人は真実を語るはず、という思い込みがあります。必然的に遺書に書かれたことは「真実」であるとみなされてしまいます。
池上氏は、報復するために自殺するケースが増えることに危惧を示しているわけですが、私は、遺書によって「冤罪」が生まれることを危惧します。いじめ以外の原因で死を選ぶとき、ふと脳裏に少し気に入らない教員、かつて諍いをしたことがある級友の顔が浮かび、「いじめられて~」「いじめを相談したが助けてもらえなくて~」と書いてしまうということはないのだろうか、という危惧です。自棄になって、誰でもいいから巻き添えにしてやろうという心の動きは、珍しいことではないのですから。
 しかし、最近のメディアの報道を見ていると、いじめを仄めかす遺書がみつかると、その時点で「自殺の原因はいじめ」と決めつけているように思えます。そこで学校なり、教委なりが「把握していない」と言うと、「隠している」という疑いの目が注がれるのです。
 もし、あなたの子供が、突然、いじめ自殺の加害者としてある子供の遺書にその名前を書かれ、本当にいじめをした憶えがないとしたら。おそらくとんでもない罠に陥れられた思いがするはずです。
 次に「いじめ問題といじめ自殺問題」の違いという指摘です。私は以前から、いじめはずべての学校で起こっている、と言い続けています。一方、いじめ自殺は極めて希な現象です。いじめが原因で自殺に至るケースは、いじめ全体の1/100000程でしょう。つまり、「いじめ問題」と「いじめ自殺問題」は、別の問題という捉え方が必要なのです。当然、いじめ対策といじめ自殺対策は、別途考えることが大切なのです。両者を混同してしまうと、軽微ないじめにも強制転校や停学という過剰な対応をしてしまう愚を犯すことになってしまうのです。まさに「鶏を割くに牛刀をもってす」で、効果なく弊害ばかり大きくなってしまいます。
 逆に、いじめというよりも犯罪と呼ぶことが相応しい行為に対して、加害者の人権への教育的配慮が行き過ぎてしまえば、これもまた解決を遠のける結果になってしまいます。「いじめ問題」と「いじめ自殺問題」を峻別して対策を考えるべきだと思います。
 最後に、「教委」問題についてです。若一氏は、教育委員会制度が子供を守れないと主張していますが、大津市などいくつかの教委固有の問題なのか、教委という制度全体の問題なのか、検証が十分でないように思われます。また、若一氏は、大阪市の教委改革を引き合いに出し、首長主導の教育行政を推奨していますが、首長主導体制になると子供の命を救うことができるという「根拠」が不明です。今のシステムが上手くいっていないからとりあえず別のシステムにしてみようというのでは無責任に過ぎます。
 首長と現行制度の教育委員長、どちらが民意に敏感でしょうか。当然、首長でしょう。ということは、選挙を間近に控えた首長が、選挙が終わるまでいじめ問題を隠蔽するという危険性は、むしろ高まると考えるのも的はずれではないと思います。いじめ問題を教委廃止論に援用することは慎まなければなりません。
 
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