「この立場で」9月24日
北海道教育大学学長の本間謙二氏が『私と学校』というコラムの中に、恩師とのエピソードを書いていらっしゃいました。『剣淵中で野球部の監督も務めていた姥子稔先生。「夏目漱石全集の新版を買いそろえたので、旧版を貸してやる」とリヤカーに積んで自宅まで持ってきてくれました』というものです。
本間氏は、教員養成大学の学長という職にある方です。中教審の専門委員も務めていらっしゃいます。当然、自分なりの「あるべき教員像」というものをもっていらっしゃるはずです。そのイメージから見たとき、姥子教員の行動が、望ましいものとして評価されていることに、強い疑問を感じました。
もし私が管轄する学校に姥子氏のような行動をする教員がいたとしたら、私は校長を通じて彼を指導するはずです。彼の行動には、特定の教え子を特別扱いしている、全集の貸し出しを通じて特定の価値観を押し付けようとしている、という問題点があります。
仮に、「先生が読まなくなった漱石全集があるんだけど、読みたいという人がいたら貸してあげるから、今日中に申し出てください」という問いかけをし、複数の申し出たものの中からクジなどで、本間氏に貸すことになったというのであれば、問題は生じないでしょう。そこには、不公平も押し付けもありません。
姥子氏のやったことはそんなに悪いことではない、という人もいるかもしれません。教員と教え子の微笑ましい交流と見る見方もあるかもしれません。しかし、もし、リヤカーに積んでいたのが、マルクスの資本論だったり、ヒットラーの「わが闘争」だったりしたらどうでしょうか。誰もが問題だと言うでしょう。同じことなのです。子供にとって教員は権力者という一面を持ちます。ですから、子供は教員から与えられた全集に対しては、他の書物とは違う思いをもちます。そして、読書には、読者にその作家の世界観を注ぎ込むという面があります。即ち、大量の全集を教え子の元に持ち込むというのは、特定の価値観に誘導する行為にほかならないのです。
また、子供が好きな「ワンピース」の全集を貸すという行為を想定すれば、姥子氏の行為が「便宜供与」というえこひいきに当たることも明らかです。少なくとも、他の子供や保護者がその事実を知ったとき、「なんで本間君だけ?」と思う行為、疑いを抱かせる行為であることは確かです。
ですから、こうした行為は教員として慎まなければならない行為なのです。これからの教員を育てる大学のトップが、全国紙にこうした「思い出」を語ることは、未来の教員たちに誤解を与えかねないと思います。
北海道教育大学学長の本間謙二氏が『私と学校』というコラムの中に、恩師とのエピソードを書いていらっしゃいました。『剣淵中で野球部の監督も務めていた姥子稔先生。「夏目漱石全集の新版を買いそろえたので、旧版を貸してやる」とリヤカーに積んで自宅まで持ってきてくれました』というものです。
本間氏は、教員養成大学の学長という職にある方です。中教審の専門委員も務めていらっしゃいます。当然、自分なりの「あるべき教員像」というものをもっていらっしゃるはずです。そのイメージから見たとき、姥子教員の行動が、望ましいものとして評価されていることに、強い疑問を感じました。
もし私が管轄する学校に姥子氏のような行動をする教員がいたとしたら、私は校長を通じて彼を指導するはずです。彼の行動には、特定の教え子を特別扱いしている、全集の貸し出しを通じて特定の価値観を押し付けようとしている、という問題点があります。
仮に、「先生が読まなくなった漱石全集があるんだけど、読みたいという人がいたら貸してあげるから、今日中に申し出てください」という問いかけをし、複数の申し出たものの中からクジなどで、本間氏に貸すことになったというのであれば、問題は生じないでしょう。そこには、不公平も押し付けもありません。
姥子氏のやったことはそんなに悪いことではない、という人もいるかもしれません。教員と教え子の微笑ましい交流と見る見方もあるかもしれません。しかし、もし、リヤカーに積んでいたのが、マルクスの資本論だったり、ヒットラーの「わが闘争」だったりしたらどうでしょうか。誰もが問題だと言うでしょう。同じことなのです。子供にとって教員は権力者という一面を持ちます。ですから、子供は教員から与えられた全集に対しては、他の書物とは違う思いをもちます。そして、読書には、読者にその作家の世界観を注ぎ込むという面があります。即ち、大量の全集を教え子の元に持ち込むというのは、特定の価値観に誘導する行為にほかならないのです。
また、子供が好きな「ワンピース」の全集を貸すという行為を想定すれば、姥子氏の行為が「便宜供与」というえこひいきに当たることも明らかです。少なくとも、他の子供や保護者がその事実を知ったとき、「なんで本間君だけ?」と思う行為、疑いを抱かせる行為であることは確かです。
ですから、こうした行為は教員として慎まなければならない行為なのです。これからの教員を育てる大学のトップが、全国紙にこうした「思い出」を語ることは、未来の教員たちに誤解を与えかねないと思います。