「芸術といっても」11月25日
『芸大が英才教育』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、東京芸大が『地方在住で音楽の才能があふれる小学生を発掘、直接指導する初の「早期英才教育」に乗り出す』とのことです。私はこの記事を読んで、同じ芸術であっても、美術や書ではどうして「早期英才教育」を計画しないのか、という疑問が湧いてきてしまいました。
学校教育では、音楽と図画工作・美術は、芸術系の教科とされています。そして高校での書道も含め、芸術系の教科については、評価基準における客観性、透明性の問題が指摘されています。さらに、感性・感覚的な側面と技能的側面のせめぎ合いという課題もあります。
前者について単純化して言うと、AとBという2つの作品について、なぜAが「5」でBが「4」なのかということについて、誰もが納得のいく説明をすることが難しい、ということです。ですから、担当教員が恣意的に決めているのではないかという疑念を完全には打ち消せないのです。私は、美術教育の専門家と私的に本音で話し合ったことがありますが、明確な説明は聞けませんでした。
そして後者の課題については、同じ芸術系でも、音楽は技能についての指導が体系的に行われやすいのに対し、美術ではあまり明確ではなく教員によってアプローチが異なるという違いがあるように思えます。分かりやすく言えば、リコーダーで演奏するときに指使いや唇の当て方、息の吹き込み方についてどの子供にも教え込む「基礎」があるということです。ですから、少なくとも、評価において、演奏中に一度も間違えなかった子供Aと1回間違えた子供Bでは、Aが技能的に優れているという評価に苦情は少ないのです。
要するに、美術系では、技能指導が体系的でないため、音楽系より感性が重視され、その分評価の客観性を確立することが難しいということです。
私は、こうした捉え方を芸術教育に造詣が乏しいための誤解かとも考えていましたが、今回、我が国の芸術教育の総本山ともいうべき芸大が、音楽についてのみ「早期英才教育」という形で技術指導を行うということを知って、間違っていなかったという思いを強くしました。大胆な言い方をすれば、美術系では英才教育は不可能であるということであり、それはそもそも美術系において教育することの意味はあるのか、という疑問につながります。教員がいくら時間をかけて指導しても、まったく教育を受けたことのない天性の才に恵まれた子供には及ばないというのでは、学校教育において教科として行うことは相応しくないのではないかと言われても仕方ありません。
私は、小学生のときに、リコーダーで演奏できた曲は1曲だけでした。でも、図工では、全国の展覧会で特選を受賞したことがありましたし、区の絵画展でも入賞しました。そんな個人的な経験もあり、美術系の授業が無くなってほしいとは思いません。美術教育の実践家の方が、評価の客観性・透明性、技能指導の体系について門外漢にも分かるようにきちんと説明してほしいと思っています。
今、学校には説明責任が求められています。美術系の評価等についても同じです。保護者や世間が美術系の教科の評価等についての説明を求めることはほとんどありませんが、それは納得しているのではなく、受験に関係がないと「軽視」しているからです。その点を誤解してはなりません。