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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

感性で説明責任は果たせるか

2014-11-30 08:25:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「芸術といっても」11月25日
 『芸大が英才教育』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、東京芸大が『地方在住で音楽の才能があふれる小学生を発掘、直接指導する初の「早期英才教育」に乗り出す』とのことです。私はこの記事を読んで、同じ芸術であっても、美術や書ではどうして「早期英才教育」を計画しないのか、という疑問が湧いてきてしまいました。
 学校教育では、音楽と図画工作・美術は、芸術系の教科とされています。そして高校での書道も含め、芸術系の教科については、評価基準における客観性、透明性の問題が指摘されています。さらに、感性・感覚的な側面と技能的側面のせめぎ合いという課題もあります。
 前者について単純化して言うと、AとBという2つの作品について、なぜAが「5」でBが「4」なのかということについて、誰もが納得のいく説明をすることが難しい、ということです。ですから、担当教員が恣意的に決めているのではないかという疑念を完全には打ち消せないのです。私は、美術教育の専門家と私的に本音で話し合ったことがありますが、明確な説明は聞けませんでした。
 そして後者の課題については、同じ芸術系でも、音楽は技能についての指導が体系的に行われやすいのに対し、美術ではあまり明確ではなく教員によってアプローチが異なるという違いがあるように思えます。分かりやすく言えば、リコーダーで演奏するときに指使いや唇の当て方、息の吹き込み方についてどの子供にも教え込む「基礎」があるということです。ですから、少なくとも、評価において、演奏中に一度も間違えなかった子供Aと1回間違えた子供Bでは、Aが技能的に優れているという評価に苦情は少ないのです。
 要するに、美術系では、技能指導が体系的でないため、音楽系より感性が重視され、その分評価の客観性を確立することが難しいということです。
 私は、こうした捉え方を芸術教育に造詣が乏しいための誤解かとも考えていましたが、今回、我が国の芸術教育の総本山ともいうべき芸大が、音楽についてのみ「早期英才教育」という形で技術指導を行うということを知って、間違っていなかったという思いを強くしました。大胆な言い方をすれば、美術系では英才教育は不可能であるということであり、それはそもそも美術系において教育することの意味はあるのか、という疑問につながります。教員がいくら時間をかけて指導しても、まったく教育を受けたことのない天性の才に恵まれた子供には及ばないというのでは、学校教育において教科として行うことは相応しくないのではないかと言われても仕方ありません。
 私は、小学生のときに、リコーダーで演奏できた曲は1曲だけでした。でも、図工では、全国の展覧会で特選を受賞したことがありましたし、区の絵画展でも入賞しました。そんな個人的な経験もあり、美術系の授業が無くなってほしいとは思いません。美術教育の実践家の方が、評価の客観性・透明性、技能指導の体系について門外漢にも分かるようにきちんと説明してほしいと思っています。
 今、学校には説明責任が求められています。美術系の評価等についても同じです。保護者や世間が美術系の教科の評価等についての説明を求めることはほとんどありませんが、それは納得しているのではなく、受験に関係がないと「軽視」しているからです。その点を誤解してはなりません。

 

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選んだ責任

2014-11-29 07:39:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「選択の有無」11月25日
 精神科医の香山リカ氏が、『少子化を防ぎたいなら』という表題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、幼い子供が犠牲になる事件が相次いだことをあげ、『資格を取ったり就労のトレーニングを受けたりする前に子どもを持った若いカップルは、その後の就職もうまくいかず、経済的に苦しい状況になることも少なくない』と事件の背景を説いた上で、『社会は若くして親になった人を徹底的にサポートする必要がある』と述べていらっしゃいます。
 香山氏らしい主張だと思います。しかし、『行き詰った親が一時的にでも子どもを預ける児童養護施設の充実や世間の理解も必要だ。高齢者の介護では「ショートステイ」が一般的になりつつあるが、子どもに関しては抵抗を感じる人が多い』と述べ、児童一時預かり施設の拡充を求めていることについては、納得いきません。
 私は、そうした施設が不要だと言っているのではありません。子育てと高齢者介護を比較する発想に違和感を感じるのです。自分の意思で高齢者になる人もいなければ、自分の親に自立が出来なくなって介護が必要となってほしいと願っている家族もいません。自然の摂理として、歳を取り、体の自由が利かなくなり、認知症などの機能低下が生じてしまうのです。 
 一方で、子供の親となるということは、あくまでも本人の自由意思による「選択」の結果です。相手と肉体関係をもつのも、避妊をしないのも、中絶をしないのも、全て本人たちがそれを「選択」したのです。
 そこが、不可避的に介護が必要な状況に追い込まれた高齢者とは異なるのです。避けられない不運については、社会の助けが必要です。高齢者、障碍者、病人、子供などが保護されなければならないのは、非選択で責任がないからです。しかし、自由意思で選択した結果については、自分で責任をもつことが大原則です。くまでも、原則ですから、社会の状況に応じて子供一時預かり施設という例外施設を設けることに異存はありませんが、原則そのものを曲げてしまってはいけないと思うのです。
 私はこのブログで、子供の健全な成長のためには、学校だけに責任を負わせるのではなく保護者にも責任と自覚を求めるべきだと繰り返し主張してきました。そんな自覚もなく親になる人が増えたのでは、少子化は改善できるかもしれませんが、劣子化が進行してしまいます。まさか、子供は産みますから、劣子化防止は学校の責任でというのではないでしょう。
 親になる自覚、親としての責任という旗は決しておろしてはならないと思うのです。

 

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そもそも論

2014-11-28 07:51:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「聞いたことがある」11月24日
 『給食への導入課題も』という表題の、和食会議会長熊倉氏へのインタビュー記事が掲載されました。その中で熊倉氏は、『小中学校の給食への和食導入がなかなか難しい』と述べ、そのことに付随して『漬物の扱いが難しい』『牛乳も、カルシウムを摂取する大事な食材ですが、和食に合うのか、というと疑問です』などと語っていらっしゃいます。
 熊倉氏のお立場としては、当然の発言だと思います。しかし、この記事には大切な点が欠けていると思います。それは、学校給食に和食を導入すること自体についての是非についての記述です。
 私は、「愛国伝統尊重主義者」ですので、給食への和食の導入に反対なわけではありません。ただ、学校教育に○○を導入する、△△を採用するという議論一般において、そのこと自体のプラスマイナスが論じられず、導入や採用自体は教育的効果とは別の次元の動きによって決定され、些末な技術論に終始する傾向が気にかかるのです。
 例えば、米飯給食の拡大においては、米余りという問題を解消するという経済的動機が優先されました。この大方針の下、米飯給食拡大の教育的意義がこじつけられ、、米飯に相応しい調理器具の整備や調理員の技能研修などの細目が決められていくという形がとられました。良く言えば政治のリーダーシップですが、悪く言えば農協団体の圧力に迎合したとも言えます。
 和食の導入については、我が国の伝統についての理解を深めるという教育的意義が語られています。それは間違いではありません。しかし、それを学校給食という形で行うべきなのか、そもそも学校給食の狙いとは何なのか、和食への理解については家庭での浸透を図ることこそ本道ではないのか、国際化の時代を迎え諸外国の食に触れさせることこそ学校教育の使命ではないのか、子供に人気のカレーライスやハヤシライス、コロッケやアジフライは和食ではないのか、等々、様々な意見や議論があることを紹介した上で、熊倉氏へのインタビューを掲載するのでは、多くの読者が、学校給食に和食を、という前提そのものに対する批判の目を摘み取られてしまいます。
 ところで、学校の制服への和服の導入を主張する人も団体もありません。これも我が国の伝統文化に対する理解の深化という効果が期待できるはずですが、なぜなのでしょう。和服業界の政治力が足りないのでしょうか。

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こんな質問どうですか

2014-11-27 08:03:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「こんな質問」11月21日
 論説委員の福本容子氏が、『何を、どう問う』という表題でコラムを書かれていました。その中で福本氏は、『サダム・フセインを倒すため、アメリカがイラクで軍事行動をとることに、あなたは賛成ですか、反対ですか』という質問と『同じ質問に、「たとえその結果、米軍に数千人の犠牲者が出たとしても」を加え』た質問とでは、賛否が逆転したという例を示し、次期総選挙において、『問いは無限。国民が作り、答える』としています。
 要するに、政府や政党の問いかけにそのまま答えることは、知らず知らずのうちにある傾向へと誘導されている可能性が高いので、自分で自分が気になっていることが明らかになるような「問い」を作って、各党の政策吟味をしようという呼びかけです。私は、同じことが学校教育を巡る「問い」と「回答」にも必要だと思います。
 例えば、小学校への英語科導入です。単に「小学校で英語を教科とすることに賛成ですか」と尋ねるのではなく、「他の教科を学ぶ時間が減ってしまいますが、それでも小学校で英語を教科とすることに賛成ですか」と訊いた場合、賛否がどのように変わるか、変わらないのか、ということです。
 まだまだありそうです。「授業をした経験がないまま10年近くを社会人として過ごしてきた企業人を教員として採用することに~」「コストパフォーマンスを最も重視する傾向が強い企業経営者を校長として任用することに~」「選挙を意識し自分に有利になるか否かの視点で教育行政を考えがちな首長に教育行政を委ねることに~」「地域の核であった身近な学校がなくなるかもしれない学校選択制の推進に~」「教員が保護者には分かりにくい校務に関わることを避け、学校運営が円滑に進まなくなる可能性が高いにもかかわらず保護者による教員評価に~」等々。
 このように列挙すると、私が自分の主張に都合がよいように質問を操作していると思われる方がいるかもしれません。その通りです。こんな質問では、やはり意図的な誘導があると指摘されても反論できません。
 しかし、単に賛否を問うことも、予見されるマイナス要因を排除しているという点で誘導なのです。薬に副作用があるように、何事にもプラスとマイナスがあります。プラスだけのうまい話には疑いをもつ癖をつけることが大切です。学校教育についても、です。

 

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甲論乙駁

2014-11-26 07:42:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「甲論乙駁」11月20日
 『「在庫減少」読めず』という表題の解説記事が掲載されました。7~9月期のGDPが予想外のマイナスとなったことについての記事です。記事では、在庫減少について、『販売が好調で在庫が予想以上に減った』『消費低迷を予測して生産を抑えた結果、在庫も減った』という相反する2つの見方があることを紹介し、専門家の間でも見解が分かれていることを指摘していました。
 私はこの記事から、先日問題になった、財務省による「40人学級復活」要求を思い出してしまいました。あのときのも、いじめが減っていないという現象について、「35人学級の効果がなかった」という見方と、「35人学級導入でいじめを発見できるようになったから」という見方が、対立していました。
 ある政策や方針を採用し推進するとき、現実に基づいて、実態に即してということが大切だといわれます。そのことに反対する人はいないでしょうが、現実や実態は、だれにとっても同じではなく、それを見る人の立場や思惑によって何通りもあるということなのだと思います。
 ではどうしたらよいかというと、私は現場の人間の声を聴くということが解決策につながると思っています。「事件は会議室で起きているんじゃない」というセリフが有名な映画がありましたが、役所の中や研究所の中でいくらデータをいじくっても、議論を重ねても、見えてこない現実や実態は、現場に出て確かめるしかないのです。
 在庫減少についても、自分の考えに都合がよいように解釈し相手を言い負かすことに力を注ぐよりも、個々の企業の声を聴くべきですし、いじめや体罰などについても、教員に一斉アンケートを実施すればよいのです。民間企業とは異なり、公立校の教員はすべて教委の管轄下にあります。これだけITが発達している現在、ネットワークを活用して短期間に調査を実施し集計することは難しくないはずだと思います。
 教員総ID番号制の出番です。もちろん、個人名が当局には分からないようなシステムが前提ですが。

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向かい合わせの鏡

2014-11-25 07:49:07 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「双方が変わらなければ」11月19日
 中央大教授の山田昌弘氏が、『男性の働き方見直しが先』という表題でコラムを書かれていました。その中で山田氏は、安倍政権の女性活躍推進政策について触れ、『女性問題は、男性問題でもある。主婦がいる男性を前提とした働き方を見直し、男女とも、長時間労働をしなくても管理職に昇進し、活躍できるような施策を進める必要がある』と述べています。さらに結びとして、『男性の働き方の見直しがない限り、女性の活躍推進は絵にかいた餅になってしまう』と改めて、女性だけに焦点を当てた改革では不十分であることを強調しています。
 まったくそのとおりです。世の中は男性と女性で成り立っているのですから、女性の生き方を変えるためには、男性の生き方も変えていかなければならないのです。そうではなく、女性にだけ変革を強要することは、女性を苦しめるだけでなく、結果として改革の成果が上がらないことになってしまうのです。
 教育についても同じことが言えると思います。子供が成長していく場は学校と家庭です。子供の成長を支えるのは教員と保護者です。ですから、子供の健全な成長を願って政策を展開するのであれば、学校と家庭、教員と保護者の双方に変化を促す必要があるのです。
 学校や教員に対しては、様々な改革が試みられています。その中には効果が疑問なものもありますが、少なくとも何らかの働きかけが続いているのは確かです。しかし、家庭や保護者に対しては、その変革を促す取り組みは進んでいないように思えます。
 具体的には、子供と保護者が共に過ごす時間の充実を促す施策ということになります。このように書くと、母親は子供が3歳になるまでは働かず子供のそばにいるべきだ、というような復古調の主張と思われてしまいがちですが、そうではありません。いくら、子供と保護者が同じ部屋の中で長時間過ごしても、保護者がイライラして子供を怒鳴っているというのでは、子供には悪影響が募るだけなのですから。
 保護者が精神的、物理的、経済的に余裕をもって子供と過ごすことを可能にするということなのです。そうした視点で、社会政策、経済政策を進めていくことが、家庭と保護者を良い方向に変えることにつながり、それは向かい合う鏡のように学校や教員にも跳ね返り、何よりの学校改革、教員改革に結びつくはずなのです。
 私は経済問題や社会問題には素人ですが、まず、ワークシェアリングを導入し、多少収入は減っても、失業の恐怖を減じ、勝利への不安を解消し、家族間の接触を増やし、精神の安定を図ることが有効なのではないかと思っています。
 私の素人考えはともかく、家庭と保護者の復興という視点での教育改革を望みたいと思います。

 

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教員のままだった

2014-11-24 07:48:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「やはり教員だった」11月18日
 作家の奥泉光氏が、『消費増税 得するのは誰か』という表題でコラムを書かれていました。その中で奥泉氏は、『およそ官僚組織にとって権限の拡大こそは一番の欲望の対象である。これは役人個々人がそうだというのではなく、組織としての欲望であり~』と書かれています。
 私は教員から、指導主事となり、その後統括指導主事、指導室長として10数年教委に勤務してきました。つまり、「お役人」をしてきたのです。その間、奥泉氏が指摘するような、権限拡大欲のぶつかり合いを目にしたこともありました。
 しかし、私はどうしても自分の権限を拡大したいと思うようにはなれませんでした。私の感覚で言えば、権限の拡大は、仕事の多忙化に結び付き、自分や部下を苦しめることになるというマイナス現象でしかなかったのです。さらに言えば、権限と仕事が増えるということは、不都合が生じたときに取らされる「責任」も重くなるという面もあります。
 学校教育において、成果が上がるか否かは、9割がた教委の施策や努力とは無縁のところで決まります。一例をあげれば、私が指導室長として勤務していた地域は、第1回の学力調査において、全都1位の「成果」を上げました。しかし、教委の施策は近隣市に比べて特に優れていたわけではありません。高学歴で経済的に豊かな家庭が多く、家庭には子供の教育に関心をもって関わるだけの余裕があったということが「成果」の原因だと思っています。もし、以前私が勤務していたS区、中学生同士の抗争で警察が入って手打ち式を行うような地域であれば、何をしても1位はおろか、ベスト10に顔を出すこともできなかったでしょう。
 もちろん、私にも名誉欲や他人から認められ称賛されたいという欲はありました。といよりも、人一倍強かったかもしれません。しかしそれは、大きな権限をもち他人を意のままに動かしたいというようなものではなかったのです。教委勤務時代の私の本心を言えば、学校教育の様々な分野の専門家として、研究や研修でのアドバイス、教員の不祥事等様々なトラブルでの対応、他人が思いつかない新たな提言などによって、「○○室長は出来る人だね」と言われたいというようなところだったように思います。
 結局、私は最後まで、「お役人」にはなれなかったということなのかもしれません。教員から教委に入った人間には、同じタイプが多かったような気がします。

 

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下手な授業を見る「効用」

2014-11-23 08:27:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「下手な授業を見ると」11月16日
 『下手なダーツ見るな 情報通信研究機構が実験』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『ダーツの上級者が下手な人のプレーを見て結果を予測しているうちに自分も下手になるとの実験結果』が出されたとのことです。この研究に携わった研究員は、『「下手な選手の動きは見ない方がいい」と言う一流選手がいるが、その理由が科学的に実証された』と語っているそうです。
 教員が授業力の向上のために行う研修で最も一般的なのが、研究授業です。一人の教員が授業をし、それを多くの教員が見て、授業後に一堂に会して話し合うという形で行われます。そして、この研究授業は、若手から中堅の教員が授業者となる場合が多いのです。正直に言って、授業者は様々な準備で多忙になり、多くの仲間の前であまり下手なところは見せられないという心理的なプレッシャーも感じるもので、内心ではやりたくないと考えている教員は少なくありません。
 そこで、授業者を決めるときに、「私は今までに何回もやってきたから」「若いうちにやっておくと勉強になるよ」などという理屈が持ち出され、若い教員は先輩に逆らうことも難しいため、若手が授業をするということになりやすいのです。
 授業の上手下手は、年齢や経験に比例するものではありません。とはいっても、新卒1年目の教員全般と15年目の教員全般を比べれば、前者の方が下手であることは間違いのない事実です。
 そんな事情で、教員は、授業力向上のための研修で、「下手な授業」を見せられるのです。もし、ここでも今回の実験と同じ理屈が成り立つのであれば、こうした研修は逆効果であるということになります。どうなのでしょうか。どこかの教育研究所で確かめてみてほしいものです。
 しかし、私自身、300回以上の研究授業に参加した経験からすると、むしろ下手な授業ほど、参観している教員の授業力向上に役立つように思います。それは、研究授業が成功した原因は、その日の授業だけでは分からない日頃の指導が背景にある場合がほとんどであるのに対し、失敗の要因の多くはその日の授業だけでも目に見えるからです。つまり、反面教師として役に立つのです。
 私は授業の下手な教員でした。でもその分、他の教員の授業力向上に役立ってきたような気がします。指導主事試験に合格する年まで、授業研究をしてきた意義はそこにあったのかもしれません。
 

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元ホスト教員

2014-11-22 07:59:41 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員採用の場合」11月15日
 『銀座のクラブでバイト アナ内定取り消し 大学生が日テレ提訴』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、同社にアナウンサーとして、昨秋に採用が内定していた女子大生が、『今年3月に「母親の知人が経営するクラブで短期間アルバイトをした」と申告、「アナウンサーには高度の清廉性が求められる」として内定辞退を求められた』ということです。
 どのようなクラブなのか、どのような内容の業務をしていたのか、短期間とはどの程度の期間か、など記事からは分からないことが多いので、この件自体について論評することはできませんが、もし、こうした事態が教員採用において起こったとしたらどうなのか、ということについて考えさせられました。
 清廉性という言葉はあまり耳にしませんが、おそらく教員にも一定レベルの清廉性が求められているのは間違いないと思います。一方で、ある合法的な職業に就いていることをもって清廉性が損なわれるというのは、その職業を賤業視しているという批判を受ける可能性があります。教委という公的機関が、差別ということに最も敏感でなければならない機関が、職業差別をしたとしたら、大問題です。
 いわゆる「フーゾク」関係には疎いのですが、デリヘルやソープランド、SMクラブ、クラブやガールズバー、などその業種によって、清廉と非清廉の境界線が引かれるのでしょうか。グラビアで下着姿を披露していたら×で、水着ならOKというような基準を作れるものなのでしょうか。男性の場合、ホストは、ディスコの黒服は、どうなるのでしょうか。男性ヌードのモデルはアウトでしょうか。アダルトビデオの男優はダメなのでしょうか。制作スッタフでも問題なのでしょうか。
 あるいは性的な事とは離れて、闇金などのブラック企業での勤務経験はどのように評価されるのでしょうか。違法性の認識がカギを握るのでしょうか。党員ではないままある政党の職員を務めていたというケースは構わないのでしょうか。
 私自身、教委に勤務し教員採用を担当してきたときに、こうした難しいケースには遭遇しませんでした。でも、もし、議論になりそうな職歴をもつ人が面接に来たとしても、あくまでも面接での評価で採否を決めたと思います。ホステスだろうが、ホストだろうが、ストリッパーだろうが関係なく、です。甘いでしょうか。

 

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決闘と和解

2014-11-21 07:55:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「繰り返し」11月13日
 『少年29人 決闘容疑』という見出しの記事が掲載されました。対立する2つの少年グループのリーダー同士が決闘の約束をし、府中市の大國魂神社に集まったところ、相手が金属バットをもっていることに怖気づいた、もう一方のグループが交番に逃げ込んだという事件です。
 記事によると、警視庁の少年事件課が、『少年たちを更生させるため、今月23日に両グループと警視庁チームの合同ソフトボール大会を企画し、併せてグループの解散式も行う』ということです。一読して感じたのは、「懐かしい」という思いでした。と同時に、今でもこんなことをしているんだなぁ、という感慨も抱きました。
 私がS区教委に勤務し生活指導を担当しているとき、M署の生活安全課の係長から電話が掛ってきました。私の勤務するS区と中央線沿線のS区の中学生の間で抗争があり、その手打ち式を兼ねてソフトボールの試合をさせたいので、どこかの中学校の校庭を貸してほしい、教委を代表して私にも立ち会ってほしい、という内容の電話でした。
 翌日の土曜日、K中学校の校庭で副校長と待っていると、髪の毛を緑や赤に染め、モヒカン刈りや頭髪の片側をそり上げた少年たちがぞろぞろとやってきました。人手が足りないので、私が審判をし、試合が始まりました。しかし、仲直りというような感じは全くなく、挨拶のときから、ガンを飛ばし、バッターボックスに入るときには、これ見よがしに金属バットを振り回し「当たったらごめんよ」とうそぶく始末です。ヒットを打って走るときにも、わざと相手にぶつかる寸前まで駆け寄り威嚇するのです。
 当時私は、生活指導担当になって1週間もたっていない時期であり、正直、ビビりで暴力沙汰が苦手な私は恐怖を感じていましたが、警察官が2人いることでかろうじて表情を変えずにいることができました。しかし、注意することはできませんでした。そして、驚いたことに警察官も注意しようとはしなかったのです。少年事件に慣れた彼らの目から見れば、この程度は普通のことだったのだと思います。
  試合は、3回で終了になりました。相手方の少年たちは、固まって校庭を後にしましたが、私の勤務するS区の中学生たちは、「このまま帰ったら途中でボコボコにされる」と言って帰ろうとせず、結局、M署に向かうことになり、警察官と一緒に漸く帰っていきました。
 当時の私は、こんな茶番劇に何の効果があるのかと疑問を抱いたものでしたが、実際にその後は両者の間でトラブルはありませんでした。ですから、それなりの効果があったのでしょう。それにしても、こんなやり方があれから15年以上たった今でも行われているとは、人間とは進歩しないものです。
 そうした思いとは別に、指導主事時代の私は、その後も暴走族の集会や、ナイフを使った暴行事件など様々な事件に遭遇し、「鍛えられ」たものです。学校教育を論じる有識者には、こうした実態も踏まえて議論してほしいものです。

 

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