ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

校長が学ぶこと

2013-03-31 08:09:16 | Weblog
「校長が学ぶこと」3月26日
 読者投稿欄に『こんな人が教育長に?』という見出しのS氏の投書が掲載されました。その中でS氏は、次期大阪府教委教育長に就任予定の中原徹氏について、『中原徹・府立和泉高校長は府教委が校長を対象とした研修会に着任年度の1回を除いて全て欠席し、大半が無断欠勤だったという』と書き、教育長としての適格性に疑問を呈しています。
 S氏の指摘が仮に事実だとして、そこにはいくつかの問題点がひそんでいます。まず、中原氏の欠席理由は「校務優先」などではなく、橋下現大阪市長に起用された中原氏が、橋下氏を党首とする「維新の会」が敵視している府教委主催の研修会の意義を否定しているということでしょう。また、中原氏は、校長職について、民間での自分の経験だけで十分に務めることができると考えていることも下地としてあるはずです。さらに、本来は教委の権限である校長に対する人事評価や賞罰権が、実質的には府知事が握っているという事実も「無断欠席」の背景にあるはずです。
 S氏は、中原氏の「無断欠席」という行動について、『自らには甘い姿勢』と述べていますが、中原氏は自分が楽をしたいからではなく、首長や維新の会の意向の代弁者としての自らの役割に忠実であっただけなのです。
 今、教育改革の一環として、地教委を廃止し首長が教育行政を統括するという主張が力を得ています。おそらくすぐに実現することはないでしょう。ただ、廃止への移行期として、地教委は残しながらも首長の関与を強める方向性は間違いないと思います。そのとき、大阪で起きていることが、全国で起きてくる可能性があります。首長の意向を受けた校長が任用され、多くの校長が教委よりも首長の方を見、教委の指示や指導よりも首長の意向を忖度して行動するようになるのです。業績評価も人事異動も実質的に首長が握っているのですから、自然な流れです。そしてこうした状況こそ、首長にとっての理想なのです。
 なぜなら、実質的に権限をもちながらも、何か事故や事件が起きたときには、教委の無能と怠慢を責めればよいのですから。こうした無責任体制下で地方教育行政が混乱するのは必至です。
 しかし、残念ながら、教委側に抵抗する手段はほとんどありません。唯一の方法は世論を味方につけることですが、それには一つ条件があります。それは、教委の施策や対応が価値あるものだと認められることです。大阪府教委が実施していた校長研修の内容について、府民に公開し、多くの府民から「こうした内容ならば是非全ての校長先生に学んでほしいものだ」という評価を得ることができるのであれば、中原氏の行動への批判が高まることになり、そうした行動を促した首長側の専横を咎めることになるからです。
 府教委にそれだけの自負と自信があるのでしょうか。全国の教委は、校長研修について胸を張れるのでしょうか。

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英語よりも理科よりも-偏った改革

2013-03-30 07:56:16 | Weblog
「偏った改革」3月24日
 『TOEFL大学入試・卒業要件に』という見出しの記事が掲載されました。自民党の教育再生実行本部の第1次提言についての記事ですが、私が注目したのは、別の部分です。記事には、付け足しのように『文系も含め大学入試で理数科目を必須とする』という記述がありました。『文系・理系両方の素養を持つ人材を増やす』ことがねらいだそうです。
 このこと自体には賛成です。しかし、どうして「文系でも理数科目」であり、「理系でも人文科目」という提案がないのか、不思議でなりません。以前にもこのブログで書いたことですが、私は、我が国で足りないのは文系の素養だと考えています。これだけの経済大国でありながら、ノーベル経済学賞の受賞者がゼロということに象徴されていると思います。政治家などのリーダーに求められるのは、法と経済と歴史についての造詣の深さです。そして我が国のリーダーは、こうした面で劣っているという評価は国際的に定着しています。日本史も世界史も知らずに、国際社会で活躍する人材になどなれるはずもないのです。イスラム教やキリスト教のことを知らずに、西欧や中東の人たちと相互理解を深めることはできませんし、儒教的発想法を理解せずに、中国や韓国の人たちとわたりあえるはずもないのです。
 実際、今、我が国が評価されているのは、「クールジャパン」という言葉に象徴されるように、独自の文化面です。また、ハードは発展途上国に譲り、ソフトで優位性を保つというのが先進国の定めです。ソフトとは、つまるところその国の歴史が育んできた文化や社会の力に他なりません。日本初の新たな思想潮流を世界に向かって発信するような取り組みにこそ力を注ぐべきだと思います。そうしたことから考えても、理数系人材の育成にばかり偏った教育改革には疑問符を付けざるをえません。
 戦争学、宗教概論、世界思想史、経済環境史などこそ、これからの人材育成を目指す学校教育が従事すべき項目なのではないでしょうか。

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「敵視」の間違い

2013-03-29 07:55:59 | Weblog
「敵か味方か」3月24日
 原発新安全基準を論点に、3人の専門家がそれぞれの立場から意見を述べていらっしゃいました。おっしゃっていることの是非については判断できないのですが、学校教育について考える際にも重要となる指摘が含まれているように思いました。
 日本原子力協会理事長の服部拓也氏は、『NRCは、規制のあり方として、「独立性、開放性、効率性、明瞭性、信頼性」の5要件を掲げている。しかし、今の規制委は「独立性」を強調するあまり、孤立しているように見える』と述べ、産業界が蓄積してきた豊富なデータが十分に活用されていないことを懸念されています。その上で、『規制庁と事業者が意見交換品柄基準を作るのが本来の姿ではないか』と主張しています。
 また、京都大学名誉教授の木村逸郎氏は、『規制法になお抜け道』という指摘をし、その具体例として『「原子炉等規制法」に基づく国家資格である炉主任は原子炉ごとに置くように義務付けられている。しかし、原子炉の型式が同じ場合には兼務を認めるという「抜け道」があるのだ~』と述べています。実際、東京電力福島原発では4炉を一人の主任が兼務していたのだそうです。
 さらに、東京大学教授の岡本孝司氏は、『具体的な機器や方法まで原子力規制委員会が指定するのは問題が大きい。なぜなら、すでにあるシステムに新しい機器をつけ加えると、ある部部ではプラスになるが、必ずマイナス面も出てくるからだ』と述べています。
 引用が長くなりましたが、3人の専門家が指摘しているのは、「独立性を強調するあまり専門性や経験の乏しい者だけで仕組みを作ることに危険性」、「現場を知らない者だけで作った仕組みには抜け穴ができる」「新たな組織を設けるとそのことに伴うマイナスが生じる」ということだと思います。
 いま、学校改革において多くの賛同を得ているのが、教委改革です。しかも、そこでは既存の教委は、「自己保身に走り、事実を隠蔽し、問題解決能力も自浄作用もないダメな組織」として位置付けられ、長年積み上げてきた教育行政の経験や専門的な知見まで価値のないものとして無視されています。そこで、教委抜きで改革案が話し合われているのが現状であり、このままでは服部氏の懸念がそのままあてはまってしまいます。
 そして、現場を知らない人々による改革では、木村氏の指摘のように抜け道ができ、理論上はうまくいくはずでも実際には機能しない仕組みができてしまう可能性が高いのです。さらに、教委を廃止せず、第三者からなる監視機関を設けるような案も出されていますが、岡本氏の指摘するように、そこには必ずマイナス面、例えば教委が第三者機関に過度に依存してしまう、自らの責任を自覚しなくなる、両者の間でいずれの分担でもない空白地帯が生まれてしまう、などの弊害が生じることも予想できます。
 教育改革は、教委や教員を「敵」と見なしていては成功しません。
 
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教員にとっての聞く力

2013-03-28 07:53:14 | Weblog
「聞く力」3月24日
 ライターの荻原魚雷氏が、新連載コラム『雑誌のハシゴ』の中で、大ベストセラー「聞く力」について触れています。その中で著者である阿川佐和子氏についての某週刊誌関係者のコメントを紹介しています。
 『大物政治家から対談相手に指名されていることに対し、「相手にとってくみしやすいと思われているのも事実で、ジャーナリストとしての阿川さんに「聞く力」があるか言えば、それは明らかにノーでしょう」と批判』というものです。この指摘が的を射たものなのか、そもそも阿川氏がジャーナリストなのかどうか、私には分かりませんが、考えさせられる内容だと思います。
 それは、「聞く」という行為には、様々な種類があるということです。教員にとっては子供の話を聞くことは職務の一つです。面談で進路希望を聞く、授業中に発表を聞く、生活指導で友達を殴った理由を聞く、いじめの目撃者として事実確認をする、泣きじゃくっているわけを聞くなど、学校にも様々な「聞く」があるのです。そして、そこで求められる「聞く力」は、同じではないのです。
 泣いている子供に対したとき重要になるのは、待つことと共感でしょう。授業中の「聞く」では、発言内容に含まれている子供自身も気付いていない「価値」を発見し評価するするアンテナの感度です。事実確認の際には矛盾点に気付く力が必要ですし、殴った理由を聞く際には、行為への評価と心情への共感を峻別する能力が必要になります。
 そして教員にはジャーナリストと同様に、相手に「くみしやすい」と思われない、別の言い方をすれば「なめられない」だけの威厳が必要となる場面もあるのです。実際、経験の乏しい教員の場合、子供の問題行動について聞き取ろうとしても、強かな子供になめられてしまい、翻弄されるだけということも多いのです。
 それにもかかわらず、阿川氏が説く「何も分からないからこそ相手の話に必死に食らいつく」「相手よりも低い位置に立つ」という手法を万能の聞く力の根源だと誤解してはいけないのです。反感をもつ人がいるかもしれませんが、教員は、検察官や警察官のような訊問力も必要だということを肝に銘じてほしいものです。

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10年以上経っても

2013-03-27 08:44:07 | Weblog
「10年以上経っても」3月23日
 『授業のデジタル化 懸念と可能性』という標題の特集が組まれ、国立情報学研究所の新井紀子教授と東京大学の山内祐平准教授が、それぞれ懸念派と推進派の立場でインタビューを受けていました。私自身は、懸念派ですが、今回は直接是非を考えるのではなく、記事の中から印象に残ったことについて触れてみたいと思います。 
 山内氏は、『スカイプで世界中の専門家による「出前授業」も可能だ』『教員だけでなくチームで学習を支える仕組みに移行する時代だ』『教員の役割も変わり、外部の協力者を連れてくる「調整役」になる。子供たちに必要な学習を見極める専門家としての能力が求められるようになる』など、授業のデジタル化が成功するためには、教員の位置付けが変わらなければならないと述べています。
 ここにある「レジュメ」があります。そこには、教員は知の権威者から問題解決の支援者に」「教員に求められてくるのは、他(他分野の専門家)の指導力を生かす力」「教員に求められるのは狭義の授業技術から学習環境の構成力」などの表現が並んでいます。実は、この「レジュメ」は、私がS区の指導主事であったときに、教員の研修会で使用するためにまとめたものです。今から15年ほど前のことになります。
 山内氏の、「チームで学習を支える仕組みづくり」と私の「学習環境の調整力」、「調整役」と「他の指導力を生かす力」、「必要な学習を見極める専門家」と「問題解決の支援者」、はほぼ同じ意味です。
 つまり、授業のデジタル化については、この15年間、同じような議論が交わされてきたということです。別の言い方をすれば、15年の長い間、教員の役割や位置付けについての意識は変わっていないということです。変わっていないからこそ、山内氏は、今も変わる必要性を訴えているのですから。
 ちなみに、私は当時のレジュメで、「教員は教科指導だけを行えばよい、という現状にはない。人格の陶冶には、指導者に対する何らかの尊敬の感覚が必要。知の権威者でなくなった教員は何で尊敬を得るのか」と述べています。「よく間違える教員よりも、決して間違えないコンピューターの方が信頼できるという考え方が芽生え、教員軽視につながる」とも書いています。必要な学習を見極める専門家という新たなステータスは確立されるのでしょうか。

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道徳教科化への誤解

2013-03-26 08:12:02 | Weblog
「道徳教育とは」3月22日
 読者投稿欄に『道徳は教科化になじまない』という見出しのI氏の投書が掲載されていました。教育再生実行会議の提言への反対意見です。私も同会議の提言には反対ですので、I氏の意見に概ね賛成なのですが、学校で実際に行われている道徳教育に対する認識という面で気になることがあります。
 I氏は投書の中で、『道徳は、提起された問題についてクラス全員で考え共感したり、討論したりするなどしてそれぞれの考えをまとめるものです』と書いています。これは間違いです。小グループで話し合ったり、自由に席を移動して意見交換をしたりする活動も多く取り入れられており、クラス全員で考えるとは限りません。たしかに話し合いはよく行われる学習方法ですが、道徳では一般的に「討論」ではなく、発表と質問という形の方が多いでしょう。仮に「討論」が「ディベート」的な活動をイメージしているのだとすれば疑問です。道徳に「ディベート」的手法は最も馴染まないと考えます。そもそも、「討論」をしない場合もあります。実際に体験したり、ある体験をした人物の話に耳を傾けたりすることによって感じ取ったり、物語を読んで心を揺さぶられるのも道徳の学習では貴重な経験です。また、自問自答(自己内対話)を深めるために思いを文章化する活動もよく取り入れられています。そして、こうした学習活動は、他の教科でも取り入れられており、学習活動や授業形態の違いが、道徳教科化反対の理由にはなりづらいと思います。
 また、I氏は、『教科にすれば、考え方に一定の基準が設けられ、子どもたちはそれに応じて評価を受けることになるのではないでしょうか。人の考えや行動を基準を決めて評価評価できるのでしょうか』とも述べています。ここにも誤解があります。「考え方」については、まともな教員であれば、現在でも評価しています。道徳教育における評価の基準とは、例えば、「自分の経験に照らし合わせ自分の問題として考える」「一つの見方ではなく異なる複数の立場から考える」などが考えられます。そもそも評価なしに指導は成り立たないのは、あらゆる授業に共通の原則です。ある段階での子供の状況を見取り、それに合わせて次の指導を微調整するという繰り返しこそが授業なのですから。
 さらに人の行動についても、現実に評価をしています。通知票にある特別活動の記録欄などに、「○○について、自分なりに工夫し率先して取り組み、グループをまとめ、みんなから信頼を得た」というような記述がされていることがあります。まさしく、行動を評価しているのです。
 私は、道徳の教科化の問題点は、評価ではなく評定(数値化or順位付け)が行われるのではないかということと教科化によって、現在「全教育活動を通して行う」とされている道徳教育の授業以外での取り組みがかえって弱体化するのではないか、ということだと思います。 

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縦軸と横軸

2013-03-25 07:52:01 | Weblog
「縦軸と横軸」3月21日
 みんなの党所属の衆院議員山内康一氏が、『「ハト派で小さな政府」の軸を』という標題で寄稿されていました。山内氏は、『今の政界を縦軸に外交・安全保障政策のいわゆる「タカ派」と「ハト派」、横軸に「小さな政府」と「大きな政府」を取って、概観してみる』ことを打ち出し、その結果『ハト派で小さな政府』勢力が弱いと指摘しています。
 確かにそんな感じがします。では、現在の学校教育を巡る各政党の立ち位置を同じ手法で概観してみるとどうなるでしょうか。ところが、私の能力不足なのでしょうが、適当な縦軸と横軸が思い浮かばないのです。
 初めは、縦軸に制度改革の視点から、「教委制度維持派」と「教委制度抜本見直し派」を置き、横軸に教育内容の視点から「道徳教育重視派」と「価値観押し付け反対派」を置いてみました。でもこれでは、「教委制度抜本見直し」+「道徳教育重視」勢力が、圧倒的に強く、「教委制度維持」+「道徳教育重視」と「教委制度維持」+「道徳教育重視」は皆無、「教委制度維持」+「押し付け反対」は社民と共産だけで全体の5%程度という結果になってしまいます。この縦軸と横軸では、教育政策の対立軸は描けないのです。
 次に、横軸に「学力重視派」と「ゆとり教育重視派」を置いてみましたが、これも同じ結果です。社民と共産だけが孤立している状況になってしまいます。この他、教職員団体のあり方を縦軸に置いても、社民と共産だけが孤立する図式は代わりませんし、競争原理導入への賛否をおいても、変わりません。いじめを仕方が無いという勢力があるはずもありません。
 もちろん、個別の問題を掘り下げていけば、違いは見つかります。体罰問題への対応では、「教員が萎縮しすぎてはいけない派」と「体罰厳禁派」に分けることができそうですが、この問題が教育政策全体を巡る大きな対立軸にはなりそうもありません。義務教育の教育の地方主権と中央主導という問題も、少なくとも表面的には地方分権へという流れは共通しています。そこから先の、地域住民主導か首長の権限とするかという点で違いが生じるようにも見えますが、両者は首長が住民主体の自治組織を作るという形で融合する可能性が大です。自虐史観教育は深層部分で対立する問題ですが、対外的配慮を含めて表面的にはここ数年間で大きな変化がお切り分野ではありません。
 我が国の学校教育に関する政策では、大政翼賛会状態に陥っているのでしょうか。いじめは許さない、教員の資質向上が必要、OECDの平均並みの教育予算を、など誰もが賛成する課題だけを取り上げるのでは、八百長試合のような論戦になってしまいます。
 私は、「学校教育の担う部分を増やす派」と「家庭教育の担う部分を増やす派」こそ、大きな対立軸としてほしいのですが。

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今、学ばせるという選択

2013-03-24 08:19:44 | Weblog
「学ばせるという選択」3月19日
 『虐殺・拷問史学んで』という標題の記事が掲載されました。イラクの「旧政権人権侵害博物館」を取り上げた記事です。イラク人権省が昨年9月、フセイン政権時代に行われた虐殺や拷問の記録を集めた博物館を開き、小中学生が見学に訪れているそうです。記事のよると、『反政府活動家に対する拷問を再現した人形の展示』などがあり、『(子供)らの多くは自身の記憶にない残酷な歴史に恐怖の表情を浮かべる』のだそうです。
 我が国には、こうした博物館はありません。しかし、作ろうと思えば作れるはずです。江戸初期のキリシタン狩りを題材に蓑を着せられたまま火を点けられて殺される信者、奉行所等で行われていた石抱きの拷問、いずれもインパクトがありそうです。
 人権という意識が十分に行き渡っていなかったそんな古い時代のことを取り上げて自国の歴史を貶めることはないというのであれば、戦前の特攻警察の拷問や軍隊における過酷な暴力などを取り上げるということではどうでしょうか。おそらく、我が国で、そうした博物館が開かれ、小中学生の学習に使われるということはないように思われます。
 誤解されると困るのですが、私は、我が国でもイラクのような「人権侵害博物館」を作るべきだという考えではありません。私はそうした「残酷な展示」には反対です。それは自虐史観という観点からの反対ではなく、子供の発達段階から教育効果を考えて有害だと思うからです。
三つ子の魂百まで、という諺もありますが、子供時代に受けた衝撃は強く心の底に残ります。また、小中学生期の子供は、人類の歴史や社会の変遷についての知識が乏しく、その反面正義感が強い傾向があります。したがって、ある事象を同時代の他の事象と比較したり、関連付けたり、前の時代との変化という視点で評価したりすることができずに、単純に善悪二元論で割り切ってしまうものなのです。
 例えば、反政府的な言動をする者に対する「不当な」弾圧はどの国の政府も行ってきたこと、一部の国ではつい最近まで、あるいは現在でも行われていることを知った上でなければ、特攻警察の拷問の歴史的意味を正しく理解することはできないはずです。「軍隊」における上官からの暴力は、現在でも各国で対応に苦慮している問題です。いわゆる従軍慰安婦問題も、軍隊と性という人類の歴史が始まってから連綿と続いている問題と切り離して論じることは間違いですし、米軍による占領期の公娼の状況について知ることも認識の厚みを増すために効果があるでしょう。
 白紙状態の子供の心にインパクトあるぶつけることによって特定の価値観を刷り込むことは教育ではないと思います。歴史を美化するということとは別の次元で、発達段階に応じた事実との出会いをさせることが大切だと思います。

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個人ではなく制度の問題

2013-03-23 08:05:08 | Weblog
「任命責任よりも」3月19日
 読者投稿欄に『橋下市長は任命責任を果たしたか』という標題のO氏の投書が掲載されました。その中でO氏は、『面接や書類だけで応募者の適格性を見抜けると思ったのであれば、慢心というしかない。任命責任について、「(公募)区長を交代させることで果たすことになる」というのは無責任極まりない。まずは眼力の無さを市民にわびるべきだろう』と書かれています。
 以前、この問題が報道されたときも、橋下氏の任命責任が話題になっていました。もちろん、そのことについての議論は必要でしょう。しかし、私が気になるのは、多くの人がこの件についての問題点を「任命責任」にだけ絞り込んでいることなのです。橋下氏の任命責任を問題視する考え方には、この制度そのものには問題ないが任命権者である橋下氏の意識や眼力に問題がある、という前提があるような気がします。そうなのでしょうか。私は、公募区長という仕組みそのものに欠陥があるのではないか、と感じています。
 区長の職務は多岐に渡り、その多くが行政や地域についての専門的な知識や経験を必要とするものだと思われます。行政の非効率性やおかしな慣習を否定し改めることは大切ですが、そのことは行政に無知であってよいという意味ではないはずです。企業の経営に学ぶことも重要かもしれませんが、全体の奉仕者であるという公務員の原点への意識が希薄では困るのです。
 公募という手法で、ある自治体が、一度に十数人の適材を得ることは可能であるという前提で、公募区長制度は成り立っていますが、その前提が間違っているように思えます。どんな大企業でも、執行役員職を一度に十数人公募するという手法を採ることはないでしょう。仮にそうするとしても、まったくの異業種や官庁の出身者で構成するというような暴挙は行わないでしょう。
 つまり、民間企業の幹部と、市役所の幹部とでは、前者の方が有能であり、後者の職務には専門性など乏しいという認識の下に構想されているのが、公募区長制度なのだと思います。そこには公務員軽視思想があるのです。
 学校の教員も、校長も、教委の幹部も公務員です。教委改革、学校改革の根底にこの公務員を無能視する発想があります。私は公務員が無能なのではなく、企業人とは求められる資質能力が異なっているだけのだと思います。今回の公募区長制度の問題を、橋下氏の任命責任問題で終わらせるのではなく、公務員と民間人というそれぞれの特質を考える契機にしてほしいものです。
 
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たかが学校のことだが

2013-03-22 08:00:58 | Weblog
「命に別状はないけれど」3月19日
 南海トラフ大地震の被害想定が公表されました。『鉄道は津波で大きな被害を受けた区間は復旧まで1年以上を要する』『液状化などにより滑走路が使えず空港の使用不可が長期化』『災害廃棄物は1年を経過しても処理が終わらず、広域処理の調整継続』『猛暑で電力融通が無ければ、供給が需要を満たすまでに関西電力で半年以上、四国電力で8カ月以上かかる』など、原発事故がない場合でも、影響が長期化することが説明されていました。
 この想定には、学校に関する項目はありません。たしかに、生命の危機、我が国の産業の壊滅、ひいては国家の破綻という極限の状況の中では、学校教育のことなど二の次三の次であることは理解できます。しかし、学校教育についても、「被害想定」と対策を考えておくという姿勢は必要だと思います。
 掲載された被害想定によると、通常の社会生活が可能になるまで、8カ月程度が見込まれる地域もあるようです。その間、学校はどうなるのでしょうか。校舎が破壊され、使用不可能になるかもしれません。そうでなくても、避難所として、施設設備の使用が制限されることになるはずです。こうした問題は、主に首長部局の対応する分野になりますから、狭義の教育行政の守備範囲ではありません。
 しかし、そうした状況が解消されても、教員が被災して、必要な人員を確保できなくなることも考えられます。この場合の対策は各教委の管轄です。50人学級、55人学級体制で乗り切るのか、退職した教員を予備役的に登録しておくのか、大手予備校のようにビデオ授業の準備をしておくか、など検討しておく必要があります。
 さらに、実質的に授業ができない機関が長期化した場合の進級や卒業の認定についても、考えておかなければなりません。例えば、年末に被災し、年度末まで授業再開ができないとき、当然のことながら必要な授業日数や単位数が足りなくなります。全員を留年させるのか、進級卒業を認めてしまうのか、という問題が生じます。中高の場合、卒業させても入学する学校がないという状態になってしまいますし、小学校では、翌年の1年生の児童数が2学年分にふくれあがるという問題が生じます。留年させたとしても、彼らを何月に卒業させるのかということも考えておかなければなりません。どのような対応をしても、玉突き的に問題が波及し、正常な4月入学3月卒業という状況に戻すには、単年度の対応では済まない可能性大です。
 こうした対策は、市区町村や都道府県のレベルでは対応不可であり、文部科学省が指揮調整に乗り出すことになるはずです。教委や文科省の準備状況が気になります。

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