ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

30年前の小さな試み

2014-09-03 07:41:28 | Weblog

「いくつもの矛盾」8月29日
 論説委員福本容子氏が、『点数にならない力』というタイトルでコラムを書かれていました。その中で福本氏は、『点数で表せる学力で日本は、子どもも大人もすでに世界のトップ級だ~(中略)~でも、誰も考えつかなかったことに挑むとか、価値観の違う相手を説得するとか、バラバラな人たちをまとめるとか、点数にならない力はパッとしない』と述べていらっしゃいます。そして、『学力テストの平均点で数点も差がない他県と競い、出題の傾向分析と対策にいそしんでいる』現状を批判しています。
 福本氏の指摘は目新しいものではありません。また、間違ってもいません。そして、簡単に答えが出せる問題でもありません。
 全国学力テストを実施し結果を公表するというのは、競争原理により学力向上を狙う政策です。競争である以上、勝ち負けをはっきりさせなければなりません。そのためには客観的な基準が必要になります。それが「点数」です。
 では、なぜ昨今急に学力向上が強く主張されるようになったかというと、資源のない我が国が、国際競争力を低下させ、経済成長が鈍化またはマイナスに陥る中で、世界に通用する人材の育成が求められるようになったからです。ここでいう世界に通用する人材の条件こそ、福本氏が指摘している、「誰も考えつかなかったことに挑むとか、価値観の違う相手を説得するとか、バラバラな人たちをまとめる」ような能力なのです。
 つまり、目的と手段がずれているのです。だからといって、競争主義を止め「点数にならない力」の育成を目指せばよいのかといえば、そんな簡単な話ではありません。雑な言い方ですが、今では否定的に見る人が多いいわゆる「ゆとり教育」こそ、「点数にならない力」の育成を重視した施策だったのです。
 私見ですが、いわゆる「ゆとり教育」が批判されたのは、「点数で表せる学力」が低下したからだったと思われます。「点数で表せる学力」を基礎として確実に定着させることが出来てこそ、「ゆとり教育」による「点数にならない力」の向上が実現できるということ、別の言い方をすれば基礎が身についていなければ応用力も身につかないという当たり前のことが軽視されてしまったのです。
 「点数で表せる学力」と「点数にならない力」を対立概念として捉えたり、二者択一的に考えることが間違いなのです。基礎が応用に先行するのは当然です。そして応用過程の中で基礎がバージョンアップされていくというスパイラルの構造が最も妥当な形だと思われるのです。
 こうした考え方で、小学校から大学院までの役割や位置づけを考えていくのです。全体としては、小から院に向かうにしたがって、基礎重視から応用重視に移行していくことになるでしょう。細部を見ていくと、基礎→応用→より高次な基礎→よりハイレベルな応用というように、学習内容と学習形態をいくつかのサイクル構造として構築していくことになります。
 こうして作り上げられた全体像の中での「点数で表せる学力」を教育施策の評価に基準として用いるということになれば、学力テストも意味のあるものになると考えます。そんなことができるのかという批判もあるかと思いますが、およそ30年前に小学校の社会科という狭い範囲でのことですが、私も末端に連なっていた「社会科勉強会」が提唱した「1週1小単元1サイクルシステムによる典型教材と具体教材の構造」は、そうした発想で作られ、一定の成果を上げたものだったと自負しています。

 

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