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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

平易に話す技

2015-01-31 08:02:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「平易に話す」1月26日
 三木陽介記者が、『大事な句読点』という標題でコラムを書かれていました。三木氏は、先日行われた大学入試センター試験での出題ミスを取り上げています。少し長いのですが、引用してみます。『「貞享歴は、中国の(ア)の時代に、(イ)によって作られた授時暦を改訂して、日本の実情に合うようにしたものである」。本当の正解は(ア)=元。授時暦が「作られた」のは元の時代。だが、「(ア)の時代に」が「改訂して」にかかるとも読めなくはない。改訂したのは清の時代だから「清」も正解ではないか。こんな質問が受験生から出て、結局両方とも正解になった』ということです。そして、三木氏は『中国の(ア)の時代に(イ)によって作られた授時暦を、日本の実情に合うように改訂したものが貞享歴である』としておけば問題なかったと書かれています。
 読点の位置が問題文の解釈を変えさせてしまったというわけで、『大事な句読点』という表題になったと思われますが、私は別の感想をもちました。それは、この問題文を作った方は、おそらく歴史学の専門家で我が国の第一級の学者なのでしょうが、小中学校で歴史の授業はできないな、ということです。
 私は、教員は教えることの専門家であり、学問の専門家ではないという趣旨の主張を何十回と繰り返してきました。もし、この問題を作った「学者」が授業をしていて、子供に対して、2通りに解釈することができるようなあいまいな説明をしてしまったとしたら教員失格です。教員の言ったとおりに憶え、試験で回答したら間違いでした、というのでは子供も保護者も納得しないでしょうし、それ以後、その「学者」氏の話すことについて、「先生、それって~っていう意味?」といちいち確認しなければ納得しないということになってしまうでしょう。授業以外の場面において問題行動が発生しても、「先生の言うことよく分からないから。やっちゃいけないならちゃんと言っておいてよ」などと、教員の分かりにくい話し方に責任転嫁しようとするでしょう。こんなことが続いていき、やがて教員の権威も、教員への信頼も崩壊してしまいます。
 私は教委に勤務し「指導力不足」とされた教員の指導を担当していたとき、授業に当たっては、教員が発する「質問」「説明」「指示」などについて事前に書き出し、子供の発達段階から考えて理解できるか、誤解される余地はないか、吟味するようにさせていました。指導力のある教員は、長年の経験の中で事前の書き出しをしなくても、分かりやすく話すことができるのですが、「指導力不足」とされた教員はそれが出来なかったのです。
 今回の歴史の専門家の「学者」氏が、小中学校の教員になれば、「指導力不足」教員の烙印を押される可能性が高いと思います。このコラムは、教員というものに必要なのは、学問の造詣の深さよりも分かりやすく伝えることだというよい例だと思いました。

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本質論の悪用

2015-01-30 07:30:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「本質論」1月25日
 京都大学長山極寿一氏が、『道徳の低下と孤独な社会』という標題でコラムを書かれていました。その中で山極氏は、『道徳は自分が属したい共同体があってこそ成り立つ。それがなければ、道徳は心に宿らない』と書かれています。まったくその通りだと思います。そして、『道徳を教える前に、恥と罪を意識する審理できる共同体づくりが先決』とも述べていらっしゃいます。これも頷ける指摘です。
 しかし、山極氏のこの本質的な指摘を、具体的に学校における道徳教育にどのように生かしていけばよいのかということになると、大変難しいというのが実情です。信頼できる共同体ができるまで道徳教育は行わない、という選択肢が指示される可能性は限りなく0に近いと思われるからです。
 山極氏がご専門である類人猿の例から説き起こしてきた共同体=道徳論にあるように、道徳が成り立つ共同体は、ある程度濃密な人間関係が前提条件になります。しかし私は、濃密な人間関係の弊害も無視できないと考えています。例えば、我が国の学校においていじめ問題が深刻化しやすいのは、学校という場が閉ざされていて否応なしに子供の人間関係が濃密にならざるを得ないという点に原因があると考えています。別の言い方をすれば、学級なり部活なりが子供にとって唯一の共同体となり、他の共同体をもたないため逃げ場がないということでもあります。
 本来であれば、学校、地域、家庭、その他において共同体が形成されており、一人の子供がそれぞれ複数の共同体に所属していたはずです。私事で言わせてもらえば、小学校時代を振り返ると、学校のクラス、毎日通っていたそろばん塾(他の学年、他の学校の子供もいた)、家の近くの小さい頃からの友人たち、祖母や両親、姉といった家族、などいくつもの生活の場がありました。濃淡の差はありましたがどれも「恥と罪」意識をもたされる共同体でした。
 私は山極氏の主張に大賛成なのですが、一方で山極氏の主張は、だから学校において確固たる共同体を作ろう、という主張に転化、利用されるような懸念を拭いきれないのです。そしてそれが、おかしな集団主義として学校の性格を変化させてしまう可能性を捨てきれないのです。我が国の体質である、子供の問題は何でも学校で解決しようという考え方から見て、十分あり得ると思います。その結果、学校での濃密な人間関係に窒息してしまう子供が増え、いじめなどの学校不適応が増えてしまうのではないか、と。杞憂であればよいのですが、安倍首相や下村文科相は集団主義が好きそうですから。

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今まで言っていなかったのに

2015-01-29 07:53:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どうして急に」1月24日
 作家柳田邦男氏による『公立小中学校の統廃合 排すべき教育の効率主義』という表題のコラムが掲載されました。文部科学省が発表した公立小中学校の統廃合に関する「手引案」を批判するものです。その中で柳田氏は、『小学生がバスで1時間近くかけて遠方の統合された学校に通うのが、全国的に日常化することになる』と問題点を指摘しています。
 私も問題だと思います。しかしそれは、登下校に要する時間のために子供が疲弊することが主たる理由です。疲れてしまって授業に集中できず、学習効果が薄れるという懸念です。柳田氏が言う『年間400時間をバスの中で過ごすことになる。道草して自然に親しみ、故郷意識が体に染み渡る時間。能の前頭葉の発達や人間にとって自然環境を欠かせないものと受け止める人格形成に必要な時間を~(中略)~国家が奪ってしまう』という理由ではありません。
 柳田氏の主張は、登下校の時間の教育的意義、価値について述べたものです。私の記憶では、今まで学校教育について論じるとき、登下校の時間の教育的意義や価値という視点はほとんどなかったように思います。それだけに柳田氏の主張には唐突感が生じてしまうのです。
 そういえば、登下校の時間の教育的意義や効果という視点からは、文部科学省の「手引案」が発表された直後に、バスの中で英会話のテープを聴かせる、タブレットを配布して活用させるというように、柳田氏とは全く異なる発想ながら、やはり登下校の時間には教育的意味があるという立場からの提言がなされていました。
 どうして急に登下校の時間の教育的意義や効果が注目を集めるようになったのか、不思議でなりません。私は基本的にこうした発想には反対です。登下校の時間は、規則上では学校管理下とされます。そして、登下校の時間の教育的意義や効果を強調する考え方には、学校管理下にある時間はすべて何らかの境域的意義のある活動に費やされるべきであるという発想が潜んでいるように思えるからです。そうした発想は、学校管理下のすべての時間を学校が管理するという発想につながり、最終的には学校管理下のすべての時間の子供の活動を把握し評価するというところに行き着く「危険性」があるからです。
 言うまでもないことですが、学校生活には、登下校、休み時間、放課後など、実際には子供の自由裁量の時間となっている時間があります。給食や清掃、部活や委員会活動、学校行事などについても、授業中に比べて学校の拘束はやや緩やかです。そうした時間が学校生活にメリハリを生み、子供の生活のリズムを作っているのです。子供はロボットではありません。息抜きも必要ですし、成長のためには大人の目の届かない子供だけの時間と場がなければなりません。登下校の時間の教育的意義や効果への着目は、そうしたバランスを崩す危険性があると思います。
 柳田氏にはそうしたいとはないはずですが、タブレット派に「悪用」される可能性は大です。

 

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「おままごと」では分からない

2015-01-28 07:38:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そんなものではない」1月24日
 『知事会見ダイジェスト』欄で、舛添都知事が、江戸川区にある都立葛西臨海水族園で飼育しているクロマグロが大量死している件について問われて答えていました。舛添氏は、『私も自宅で熱帯魚と金魚を25ぐらいの水槽で管理しているんでショックだ。病気になったら、私も一生懸命、金魚の治療をするんだけど、なかなか治らないのがあって、ある日、突然、死んだりすることがある~』と述べていました。
 私は、舛添氏のこの答えはどうなんだろう、と思いました。金魚の治療と水族園のマグロの飼育を比較して語ることが適切なのか、疑問でならないのです。確かに、魚類という共通点、病気で弱って死亡という共通点はあります。しかし、単なる愛好家が自宅で飼育していることと専門家がわが国有数の設備の中で飼育していることを、金魚の飼育という多くの家庭で行われていることとクロマグロの飼育という世界でも珍しい先端技術を比べることで、何らかの意見を述べるのは、間違ったメッセージを伝えてしまう可能性が高いように思うのです。もちろん、舛添氏に悪意はないでしょうし、単に憂慮していると言うよりも、個人の感想を含めた方が親切だという思いがあったのだとは思いますが。
 こうした似たようで実はレベルが異なる比較で物事を語る事例は少なくないように思います。草野球の経験でメジャーリーグを語ったり、中学校の職場体験で介護現場を語ったり、高尾山へのハイキングでエベレスト登山を語ったりすれば、「それは別でしょ」という突っ込みが入るはずです。
 しかし、学校教育については、こんな無茶な比較がまかり通っていることが多いのです。学生時代に家庭教師をした経験で授業のあり方や教員論を語る人、実は私の甥と姪ですが、こんな例は珍しくありません。外部講師として数時間の授業を担当した人が考えさせる授業について持論を展開したり、一度だけ校長研修の講師に招かれた企業家が校長のリーダーシップのあり方を批判したりするのです。
 確かに、共通する部分が皆無ではないでしょう。しかし、それらの多くは誤解と早呑み込みに基づく極論であったり、実現不可能な空論であるケースがほとんどなのです。そしてこうした発言の多くは、自分は分かっている、自分は素人ではないという「思い上がり」がある分だけ、たちが悪いのです。
 どんな分野でも、短時間に表面をなぞったような経験だけで理解できるほど簡単なものではないのです。そうした自覚の下、専門家の見解に対する敬意をもつことが必要です。

 

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間違ってはいなっかったはず

2015-01-27 07:08:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「間違っていないはずだが」1月22日
 勝田友巳氏が、『ザ・オーディエンス 歴代首相の女王との謁見』という表題でコラムを書かれていました。英国首相が週1回女王と2人きりで話すという慣習を題材にした部隊映像についての小文なのですが、その中にあるフレーズに目をひかれました。本論とは関係のない部分なのですが、『同じ立憲君主制とはいえ日本では作れないであろう、名舞台』という文末まとめの表現です。
 私が初任者として赴任した小学校は、東京S区の職員団体の拠点校と言われていた学校で、卒業式の時期を迎えると、国旗国歌問題で何日も夜遅くまで職員会議が開かれるのでした。私以外は全員職員団体に加盟しているというような状況の中で、孤軍奮闘したものでした。まだ、国旗国歌法が成立する前でした。
 私は、最もリベラルと言われる朝日新聞の世論調査でも国旗として「日の丸」を認める者が7割を超えていることをあげるとともに、「君が代」が天皇の世を讃える歌だとしても、「立憲君主制の我が国においては、それは我が国、我が国民の繁栄を願うことにつながり問題はない」という趣旨の意見を述べました。
 それから数日後、区の社会科研究部の集まりに参加した私は、他校の教員から、「○○さん、勇気あるねえ」「すごい人だったんだね○○さんは」「さすがだね、驚いたよそんな人だったとは」などと言われたのです。私の「我が国は立憲君主制」発言は、あっという間に区内に広がっていたのです。若造だった私はよく認識していなかったのですが、当時の教員の世界では、日本が立憲君主制の国であるというような意見は保守反動、極右、時代錯誤などのレッテルを貼られる問題発言であったのです。
 今思えば、立憲君主制だから「君が代」の歌詞に問題はないという論理展開は確かに緻密さに欠けますが、そうだとしても当時の私としては「我が国は立憲君主制」という点については単に事実を指摘しただけという思いであったので、反響の大きさに驚かされたものでした。
 英国もオランダも王室が存在していますが、誰しもが認める先進民主主義国です。ですから、我が国に皇室があっても民主主義国であると胸を張っていてよいというのが私の感覚でしたし、今でもそうです。ただ、当時の教員の世界では違っていたようですが。
 それ以来、この立憲君主制という言葉は何となく胸につかえるような感じで私の中に残っていました。久しぶりに英国も日本も立憲君主制という表現を見て、当時を思い出したのです。今、小学校の教員が「我が国は立憲君主制」と言ったら叩かれる、なんてことはないのでしょうね。

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あなたにも好運を

2015-01-26 07:30:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「好運」1月21日
 『そこが聞きたい「一流への道」』という表題で、米フロリダ州立大教授アンダース・エリクソン氏へのインタビュー記事が掲載されました。その中でエリクソン氏は『強調したいのは、才能の有無にかかわらず、1万時間の訓練でとても高いレベルに達しうること~(中略)~でも単に時間を費やせば熟達すると考えるのは間違いです』と語っていらっしゃいます。
 教員が授業の達人になるときにも、この「1万時間の法則」は適用できるはずです。では、1万時間とは、何年にあたるでしょうか。小学校の教員の場合、平均して週22時間ほどの授業を受け持っています。1単位時間が45分ですから、週16.5時間になります。年間43週ほど授業がありますから、700時間余りになります。ですからおよそ15年弱で1万時間に達することになります。
 この計算に対する私の捉え方は微妙だとしか言いようがありません。20代前半で大学を卒業し教員になる人が多いと考えれば、15年後の30代半ばから後半にかけて教員として脂ののった時期を迎えるというのは、大まかに言って正しいでしょう。ただ、授業の達人の域に達しているかというと、そう言える人はほとんどいないと思います。
 この、「1万時間の法則」とのギャップは、次のエリクソン氏の言葉で説明できます。『自分の動きや技能を振り返り、過ちや改善点を知ることが重要です。次に適切なステップは何かを考え、具体的な小ゴールを設定します。一流になる人は意図的な訓練を行い、常に能力の限界を伸ばす努力をしています』、です。エリクソン氏は運動選手や音楽家の熟達についてがご専門なので、動きや技能という言い方をしていますが、教員に当てはめれば授業を振り返るということになります。つまり、漫然と授業を繰り返していたのでは、「1万時間の法則」は成立しないのです。
 また、記者の『熟達には建設的で厳しい意見を言う指導者が不可欠ですか』という問いに対してエリクソン氏は、『少なくとも私たちが調査して音楽家やバレエや体操選手では、熟達した教師なしに一流になった人はいませんでした』と答えています。ここから明らかになるのは、教員が授業力を高める上で、日々の授業を問題意識をもって振り返る習慣と適切な助言をしてくれる授業の達人の存在が必要だということになります。
 ここまで書いてきて、私は自分の好運に感謝したい気持ちでいっぱいになりました。私は何の自覚もないまま、当時私が所属していた区の社会科研究部の副部長のI氏から、授業記録を取るように半ば強制され、振り返りが習慣化していきました。また、教育実習生のときからお世話になっていたM氏から、M氏は学習指導要領の指導書を執筆するような社会科授業の第一人者でしたが、授業のあり方について頻繁に指導を受けることができました。その過程では「教員に向いていない」というような厳しい批評もいただきました。すべて、エリクソン氏のいう「一流への道」をたどっていたのです。それも、無自覚のまま流れに任せていただけで。
 残念だったのは、そうした好環境にありながら。私の教員としての才能が乏しく、最後まで一流には成れなかったことですが、それはないものねだりというものです。それに、才能のない自分が曲がりなりにも教員として大きな失敗もなく勤め続けられたのですから、感謝の念が薄れることはありません。
 いまだ1万時間に達さない若い教員の皆さん、授業記録と厳しい先輩という好運はあなたの側にいますか。

 

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誰か教えて!

2015-01-25 08:22:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教えて」1月19日
 『競争相手は「ロボット」?』という見出しの記事が掲載されました。『ロボットやコンピューターが人間の職を奪うのではないか』という懸念についての特集です。記事の中では、『2030年にはホワイトカラーの半分が機械に代替されてもおかしくありません』『今後はITに置き換わらない職をどれだけ作れるかが課題になる』『今後は薬剤師、営業職、銀行の窓口業務など多様な職種が対象になる』『医師、弁護士、公認会計士といった専門職まで影響を受ける』などの様々な立場の専門家の見解が紹介されていました。
 私は今までもこのブログで、IT化が学校教育に及ぼす影響について語ってきました。しかし、ITの活用で教員が不要になるとか、英語の自動通訳機が開発されても英会話力は必要なのかといった内容であり、あくまでも学校教育の一部分にしか関わりのないものでした。
 でもこの記事を読んでもっと根元的な危機感を覚えました。記事に、『こうした労働環境の変化に対応できるよう、学校教育も変えていくべき』という記述があったからです。もし、専門家の予想が的中するのだとすれば、確かに学校教育の内容は大きく変わらなければならないでしょう。とはいっても、どう変わればよいのか全く分からないのです。昨年目にした同じような趣旨の記事では、組織の歯車ではなく専門的な知識・技能を身に着けさせることを目指すべきとされていたのに、今では医師も弁護士も危ういというのですから、もうどうしてよいか分かりません。
 画家や作曲家、小説家や詩人などは、コンピューターに置き換わられることはなさそうに思いますが、そんな職に就いている人は1%もいませんし、これからも増えることはないでしょう。機械にできないことといえば、芸術とスポーツの類が浮かぶのは万人共通でしょうが、音楽と美術、体育の授業を増やすというような策は意味がありません。
 文部科学省がこの問題について研究を進めているという話は聞きません。同省の諮問会議等でも議論されてはいないようです。他の先進国についても同様です。正直、誰かに「今、こんな研究が進められていますよ」と教えてほしい思いです。どうなのでしょうか。私が不勉強なだけであればよいのですが。

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なんとなく主義

2015-01-24 07:33:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「なんとなく主義」1月17日
 東京大教授本田由紀氏が、『「不寛容時代」さらに掘り下げを』という標題でコラムを書かれていました。我が国に蔓延る「不寛容」の実態を取り上げた連載「不寛容時代」について論評するものです。その中で本田氏は『連載全体が情緒的になんとなく「わかりあう」ことを着地点としている感がある。「わかりあう」ための堅固な知識や、「わかりあえない」まま共存してゆくための苦闘を、さらに掘り下げる記事を期待する』と書かれています。
 私が注目したのは、「情緒的に何となく」と「堅固な知識」という対比についてでした。私は、我が国の学校教育においても、この両者のバランスの偏りが見られると考え、このブログでも再三指摘したからです。
 例えば、人権教育です。教員の中には、特に人権教育を大事にしていますという教員ほど、人間はみな同じ、互いに認め合う、などの美辞麗句を掲げ、子供たちが感想や意見としてこうした趣旨の表現をすれば、それで満足してしまうというような傾向が見られるのです。そこでは、人権課題に関する「堅固」な知識を丹念に学び、磨き上げるという営みが軽視されているのです。
 また、もう一つ例を挙げれば、平和教育です。戦争は悲惨、二度とあってはならない、という情緒的な捉え方で満足し、戦争を科学的に分析するような実践は皆無に等しいのです。
 今、私が注目しているTVCMに、タレントのベッキーさんが出演しているクルマのコマーシャルがあります。「好きになるのに1秒もかからない」というフレーズが印象に残るのです。その通りだと思います。好きというのは正しく情緒的な反応です。そして好きになるのに1秒もかからないのと同様に嫌いになるのも1秒もかからないのです。情緒的な理解や反応は、ちょっとしたきっかけで簡単に冷めたり逆転したりしてしまうものなのです。「堅固」の反対の「脆弱」という言葉こそふさわしいものです。
 情緒を否定しているのではありません。ただ、教員は苦しくとも、困難であっても、安易な情緒主義に陥ることなく、脆弱な情緒を支える堅固な知識の習得を目指すべきだと思うのです。子供に堅固な知識をもたらすには、まず教員が深い知識をもたなければなりません。その時間と労力を惜しんではいけないのです。

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今では検証不能

2015-01-23 07:20:50 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「損得勘定」1月16日
 専門編集委員青野由利氏が、『STAP後遺症』という表題でコラムを書かれていました。その中で青野氏は、『忙しい研究者の時間や資金を不正チェックに投じるより、もっと生産的なことに使えないのかという疑問もわいてくる』と問題提起しています。
 難しい問題です。一般的に言って、研究や創造、開発などの部門が活気づき、そこに多くの経営資源が投入されている組織や業界が伸びていく傾向が強いのに対し、総務や経理など管理的な部分が大きな比重を占める組織や業界はやがて活気を失い衰退していくということが言えます。科学研究において、不正チェックという管理面に力が注がれる状況は望ましいものではありません。しかし、一方で、大学や研究所という組織が、公費を使い、あるいは税制等で優遇される中で研究を行っている以上、監視が必要であることも間違いありません。
 私は同じような葛藤を、教委勤務時代に感じていました。私が教員の業績評価の実質的な責任者であったとき、教員の自己申告制度が本格的に始まりました。教員は年度初めに、学習指導、学校経営等の項目ごとに具体的な目標と到達度を数値で示さなければならなくなりました。そして校長は一人一人に面接し、目標等の妥当性をチェックし、自己申告表の内容を承認するのです。こうした制度がない時代でも、教員はそれぞれその年度にやらねばならないことをイメージしていました。少なくとも、教員時代の私も、私の仲間の教員もそうでした。確かに文章や数値で明確化されたものではなかったですが、自分なりに目標を意識し、焦ったり、満足感を得たり、実態に合わせて修正したりしながら日頃の教育活動をしていたものでした。
 しかし、自己申告、学期ごとの達成状況の確認、最終自己評価などが義務付けられるようになると、そのための業務に少なくない時間を取られるようになってしまったという声なき声がよせられるようになりました。また、自己申告制度本来の目的である教育業務遂行能力の向上は脇に追いやられ、どのようにして「美しい」自己申告と自己評価を作成するかというノウハウの方が重視されるような本末転倒も見られました。
 自己申告と自己評価は、教員の「ぬるま湯体質」を改善し、企業や他の公務員のように成果主義を導入して、教員の資質向上を図り、最終的に学校全体の教育力を高めるという趣旨でしたが、かえって教育活動に費やす時間を減ずるという副作用の方が目立ってきたのです。
 行政では、ある制度やシステムを新規に導入した際には、期限を区切りその効果を検証するというのが常識となっています。しかし、この教員の自己申告・評価制度については本当の意味での検証が行われていません。校長や教員、教委の人事担当者に対するアンケート等で、効果があったとされているだけなのです。
 教員が自己申告表と自己評価の作成に費やしている時間(データ収集当の準備時間を含む)を具体的に算出し、その分削減された業務の内容と時間を明らかにするといった調査研究が必要だと当時考えたものでした。
 しかし現在、教員から「年度初めの一番忙しい時期に、自己申告表を書くのは大変だ」という声はほとんど聞かれなくなりました。馴れてしまい負担感が減っているのでしょう。それ自体はよいことではありますが、別の見方をすれば、昔の教員が年度初めに行っていた、授業や学級経営における入念な準備が疎かになってしまうこと常態化してしまい、そのことが意識さえされなくなっていることなのかもしれません。今では制度導入の損得勘定すらできませんが。

 

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「公」の意識

2015-01-22 08:07:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「公文書の概念」1月15日
 『教員から生徒へ携帯メール禁止』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『埼玉県は、県立学校の全教員に対し、携帯電話のメールや無料通信アプリ「LINE」を利用して生徒と私的に連絡を取ることを禁じる通知を出した』とのことです。
 当然の措置であると思いと同時に、こんな通知を出さなければいけない時代になったということに対して情けない思いがします。そもそも、教員と子供の間に「私的」な連絡などありえないはずです。そのことに対する認識がすべての出発点にならなければいけないはずです。さらに、公的な連絡にも2種類あります。口頭による連絡と文書による連絡です。そして、文書による連絡においては、その文書は公文書であり、外部に対して発するときには、上司の決裁を受ける必要があるということも忘れてはなりません。
 理念としては、口頭による連絡や指示も、その発言自体が学校もしくは教委の公的見解と取られる可能性が高く、その内容によっては公教育に対する保護者や市民の信頼を損なう可能性があるのですから、事前に決裁を受けるべきなのですが、そんなことは実際には不可能です。
 ですが、文書による連絡の場合は、十分に可能です。かつては、学年便りや学級便りんど上司の決裁を受けずに保護者の手に渡ってしまっていたものですが、現在ではほとんどの学校で決裁を受ける体制が整っています。口頭での連絡は後に残りませんが、メールもLINEも文書として残ります。紙に書かれていなくても立派な文書であり、教員が公務上の必要があって発するのですから公文書です。
 私が教委に勤務していたとき、市民からの苦情や質問に対して、メールで答えたことが何回もありましたが、すべて紙の文書とし上司の決裁を仰いでから送信したものです。これは、役所の他の部署でもそうでしたし、企業でも一般的なシステムだと思います。学校だけが例外であっていい訳はありませんし、教員だけが例外であるはずもありません。
 そして公文書である以上、市民からの情報開示請求によって公開されることも覚悟しておかなければなりません。個人名は黒塗りされていても、関係者には破廉恥な内容がすべて知られてしまうのです。今回の埼玉県の措置は、若手の男性教員による女生徒へのワイセツ・セクハラ行為の予防という側面が強いようですが、当該教員には、自分が発した恥ずべき文章が広く公開されるということは想像外だったはずです。しかし、現実の話なのです。
 私は教委勤務中に初任者研修で真っ先に話していたのが、全体の奉仕者としての自覚、公務と私事の峻別、組織と個人など大学生時代との違いをたたき込む内容でした。教員生活のスタートに当たり、こうした基礎基本の徹底を行わなければ、メールを禁止しても別の手段で同じような事件が起きてしまうことでしょう。

 

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