ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

お葬式に黒い喪服

2020-07-13 07:10:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どこまで」7月5日
 放送タレント松尾貴史氏が、『今なお有色人種差別 「美白」意識から転換を』という表題でコラムを書かれていました。その中で松尾氏は、『ある会社は白くなることを売りにする美容関連商品の製造を取りやめたり、「美白」やそれに類する表現を使わないようにしたりすることにした。「白い肌が良い」という単一の理想を設定しているので好ましくないそうだ』と最近の人種差別を巡る動きを紹介なさっています。
 うろ覚えで恐縮なのですが、かつて、ボクシングヘビー級のチャンピオンモハメド・アリ氏が、「天使は白で悪魔は黒、どうしていつも美しいもの正しいものは白で、醜いもの邪悪なものは黒なんだ」と問題提起したことを思い出しました。それから40年、やっと世界が変わり始めたのだとしたら、良いことだと思います。しかしその一方で、こうした動きはどこまで進むのか、学校は、教員はどう対応すればよいのか、という戸惑いが生じてしまっていることも事実です。
 学校における代表的な黒白問題と言えば、「くろんぼ大会」です。かつては、夏休み明けに、子供らしく外で元気に遊んだ子供を表彰するくろんぼ大会がありました。陽光の下、真っ黒に日焼けした子供に賞状を渡したりしていたものです。しかし、40年ほど前には、くろんぼという言葉は差別的だとされるようになりました。ちびくろサンボという「名作」も図書室から追い出されました。学校は、一般社会以上に、差別や人権侵害に敏感でなければならないのですから。米国の白人警察官による黒人男性暴行殺害事件に端を発した今回の反差別運動も、我が国にも影響を与えるはずです。
 負けは黒星で勝ちは白星、というのは問題になるのでしょうか。「シロクロはっきりさせよう」というのは、善悪ではなく違いを際立たせているだけだからOKということになるのでしょうか。容疑者が犯人であることを、「あいつは黒だ」というのは差別表現になり、ドラマでは使えなくなるのでしょうか。囲碁の黒先というルールはどうなのでしょうか。元々は未熟な者が黒をもつことになっていたように記憶しているのですが。喪服の黒もそのうち問題になって来るかもしれません。死という不幸は黒、祝い事は白、結婚式のタキシードは白なのに、と。そしてそうした影響が学校にも及んでくるとすれば。
  今から150年前まで、多くの日本人は黒人も白人も見たことがなかったはずです。「色の白いは七難隠す」も、白人を念頭に言われたものではないでしょう。そして我が国の文化や慣用句等に見られる「黒白」は、もっと昔から生み出され使われてきたはずです。神道における穢れと祓いの感覚に由来するものも多いでしょう。そうした歴史を考えず、黒白問題に対応することが良いことなのか、迷ってしまいます。
 学芸会で悪魔役の子供に黒い衣装を着せてはいけない、という配慮が当然の時代になるのでしょうか。

 

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相応しい、ということ

2020-07-12 08:17:18 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「相応しい、ということ」7月4日
 『服装ラフ過ぎて御用』という見出しの記事が掲載されました。オレオレ詐欺の受け子が逮捕された事件を報じる記事です。記事によれば、『弁護士事務所の人なのにネクタイもしていないの-。(略)オレオレ詐欺の「受け子」の三原容疑者の服装がカジュアル過ぎたことで不審に思われ、逮捕につながった』ということです。
 具体的な状況は、『(弁護士事務所を騙り)電話で町田市の町田簡裁を現金の受け渡し場所に指定した。簡裁を舞台にしたが、現れた「受け子」はTシャツにジーンズ、野球帽、リュックサックという身なりだった。場所や職業にふさわしくない身なりを怪しみ~』ということだったようです。
 私が犯人だったら、髪をきれいになでつけ、髭を剃り、色付きの眼鏡を透明なレンズのものに変え、地味なスーツを着用し、書類ケースを抱えて登場します。それが私が抱く弁護士が依頼者の関係者に会うときに相応しい身なりだと考えるからです。私が教委勤務時に接してきた弁護士さんたちもおおむねそうした格好をしていました。
 容疑者が、どうしてそんなラフな格好で登場したのかは分かりませんが、私は「相応しい服装」ということについて考えさせられました。私は、人には職業や地位によって、あるいはそのときに会う相手や場所、用件などによって相応しい服装や身なりというものがあると考えています。しかし、その感覚は人によって随分違うのです。私は教員時代に、ほとんどスーツで出勤していました。靴は当然革靴です。社会人とはそうしたものだと思い込んでいたからです。ところが、職場には、運動靴やサンダル、体操着やジャンパーなどで出勤してくる同僚がたくさんいたのです。若かったので、おかしいと思う一方で、そんなものなのかな、とも思っていましたが、彼らは家庭訪問や保護者会のときにも、体操着だったのです。ある男性教員は、Tシャツに短パンという格好で家庭訪問をしていました。さすがにそれはダメだろうと思ったものでした。
 抱いていた違和感を、校長にぶつけたことがありました。校長は私の話を聞き、そのとおりだけど、注意するのはなかなか難しくてね、と言いました。職員団体の力が強かったので、校長も余計な反発を買う行為には慎重だったのでしょう。まあ、余り堅苦しいのはよくない側面もありますし、人の価値観には微妙なずれがあり、それを否定するのはよくないという考え方も理解できないではありません。
 しかし、今思えば、そうした状況はまだましだったのです。少なくとも、本来はこうあるべきだが~、と考えている人の方が多かったのですから。ところが最近の風潮として、人を服装で判断するのはおかしい、服装はその人の自己表現の一つなので制限すべきではないというような考え方をする人が増え、相応しい服装という考え方自体が、旧態依然な遅れている価値観であるかのように見なす人が増えてきているように思えるのです。
 また、そうした考え方とは別に、ある服装についてその歴史的な経緯を語り、例えば男性のスーツは欧米の貴族階級の服装が簡略化され~階級制を肯定する思想を表したものなのにその自覚をもたずに云々、というような批判をする人がいます。兵士の軍服に由来する~、女性抑圧の象徴として~、などの理屈を持ち出されると、相応しい服装などと安易に口にしてはいけないのか、などと思わされるほどです。
 そんな中、弁護士事務所の人、簡易裁判所という場所、大切な金銭の授受をするという状況、69歳という年齢、諸々の条件下においては、相応しい服装という概念が健在であることに、少し安堵したのです。
 教員に相応しい服装、出勤時、授業のとき、行事のとき、保護者会や家庭訪問、個人面談のとき、公務で出張するとき、校外に子供を引率するとき、それぞれに相応しい服装を心掛けることは、保護者や市民から信頼を得るための大切な手段でもあります。そうした自覚はあるか、常に自省が必要です。

 

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自殺さえしなければ

2020-07-11 08:22:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「パワハラは誰が」7月2日
 『教諭自殺2500万円賠償命令 北海道の高校 校長、配慮義務怠る』という見出しの記事が掲載されました。『北海道立稚内高の男性教諭が自殺したのは、先輩教諭によるパワハラなどで精神的に追い詰められたことが原因として、仙台市在住の両親が道に約7000万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で(略)裁判長は「先輩教諭からの度重なる注意で男性教諭がうつ状態になっていたのに、校長らが配慮義務を怠った」と述べた』ことを報じる記事です。
 私が気になったのは、度重なる注意を行った先輩教員ではなく、校長の違法性を認定していることです。記事によると、先輩教員は、『「(教師に)向いてない」と約40分にわたり注意』をしていたようです。これは注意ではありません。単なる罵倒であり暴言です。
 私は、教委勤務時に、指導力不足教員研修と服務事故再発防止研修を担当していました。どちらの研修に際しても、注意や指導はしても罵倒や暴言、人格攻撃はしないということを心掛けていました。別に私が高潔な思いやりのある人間だったからではありません。罵倒や暴言は、人権侵害であり、そうした行為が認定された場合、私個人の責任では済まず、教委の落ち度となり、対象の教員に対して教委が決定した処置や処分そのものが否定される結果になってしまうことを警戒していたからです。
  では、注意や指導と罵倒や暴言との違いは何かといえば、前者は、具体的な事実の中から問題点を指摘し、なぜその行為が問題なのかを説明し、どのように改善を図ればよいかということについて考える時間と場を与え、必要な助言をし、改善に着手させるという手順が必要なのに対し、後者にはそうした要素が欠け、何が問題なのかなぜ問題なのかという指摘もないまま、感情的に相手を否定することに終始するということになります。
 教員に向いていないという言葉には、何が悪かったのか、なぜ問題なのか、どのように改善に向けて努力すればよいのか、といった情報が欠けています。単に、お前はダメだと言っているだけで、言われた方は相手の負の感情を押し付けられるだけです。罵倒であり、暴言であるということです。
 つまり、この先輩教員の言動はパワハラと認定されてしかるべきものだということです。それにもかかわらず、裁判長は『(自殺した)男性のうつ状態を知らなかったとして「さらなる注意で自殺に至ることを予見するのは困難だった」と行為の違法性を否定』したのです。極言すれば、パワハラは、相手が自殺する可能性が高いと予見できなければ違法性はないということです。こんなことを言えば、相手は傷つき、精神的にダメージを受け、職務につくことができなくなり、休職し、やがては退職していくかもしれないけれど、自殺まではしないだろう、と判断していた場合、違法性はないということです。
 おかしいと思いませんか。

 

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面倒臭いけどその場で対応

2020-07-10 08:13:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校と家庭」7月1日
 大沢瑞季記者が、『テレビから広がる好奇心』という表題でコラムを書かれていました。その中で大沢氏は、『先日、小学1年の娘が「温暖化で海の水が増えて大変なんだって」と話していた。「なんで知っているの」と聞くと「テレビで見た」と言う~』と親子のやり取りを紹介し、『中学受験に役立つと、ニュースやドキュメンタリーを見せる知人の話も聞いた。テレビは、たまたま見た番組が思わぬ出会いをもたらす。子育てにうまく取り入れたい』と書かれていました。
 「あー、惜しい」という気がしました。テレビでは、様々な番組が放送されています。テレビ関係者であってもすべてを知る人はいないでしょう。ですから、大沢氏が書かれているように「思わぬ出会い」があるのです。そしてそれが、大人が、というよりも子供本人にさえ予期できない驚きや感動、衝撃や印象を与え、その後の子供の興味・関心や嗜好や価値観に大きな影響を及ぼすことがあるのです。
 コラムの表題通り、テレビから好奇心が広がっていき、大げさに言えば、それが主体的な学習姿勢の礎になっていく可能性があるのです。そうした意味で、大沢氏の意見には概ね賛成なのですが、最後の「うまく取り入れたい」が問題なのです。
 教育というとき、家庭教育、社会教育、学校教育という3機能が挙げられます。学校は、学習指導要領によって学習内容が定められており、それに基づいてどの時期にどの内容をどの程度の時間をかけて履修させるということが明らかにされている、意図的計画的教育の場です。それに比べて、家庭教育と社会教育は、非意図的偶発的教育の場だとされます。
 その時その場で起きた出来事や事態に応じて、臨機応変に行われるということです。良いことをしたから褒める、悪いことをしたから叱る、困っているから助ける、迷っているから相談に乗るというような行為の繰り返しの中で子供を育てていくのです。もし、「明日は早起きさせて、早く起きられたねと褒め、その後朝食を残させて、好き嫌いはダメと叱ろう」という計画を前夜に立てている親がいたしたら、不気味ですし異常だと感じるでしょう。非意図的偶発的とはそういうことです。
 この非意図的偶発的教育という立場に立てば、テレビ視聴を親がコントロールし、うまく生かそう、という考え方は本筋を外れているのです。まして、中学受験のために計画的に、などという考え方は、テレビのもつ偶発性の魅力を消してしまう愚行なのです。
 テレビは子供に委ね、相応しくない視聴態度が窺えたら、そのとき、叱責、相談、助言などの行為を対応的にいくことで、テレビのもつ良さを生かすことができるのです。

 

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強制する力

2020-07-09 07:16:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「加速化を食い止める」6月30日
 連載企画『著者の言葉』欄では、『岩波新書 「勤労青年」の教養文化史』の著者福間良明氏が取り上げられていました。福間氏の研究調査によると、『60年に神奈川県で行われた定時制高校生対象の調査では、通学目的の問いに「できるだけ教養を高める」と答えた人が半数を超え、「高校卒の資格を得る」よりもはるかに多かった』のだそうです。
 高校に通うのは『実利を超越した知識への欲求』であったということです。こうした60年前の状況について福間氏は、『今、人文・社会科学の教養は価値が低く見られるが、「かつては一般人々の厚みのある関心に支えられていた」ことを実感する』と述べ、『ネット社会は便利ですが、知識の対象が自分の興味あるものだけに特化し、視野が狭くなったり、極論に陥ったりしがち』と語っていらっしゃいました。
 とても大切な指摘だと思います。社会科を専門に教員人生を送ってきた私は、人文・社会科学を他の人よりも過大に評価しがちであることは自覚しています。このブログでも、再三再四、人文・社会科学再評価につながる社会科教育の重視を主張し続けてきました。ですから、ここでは別の視点から論じてみたいと思います。
 それは、ここ数十年教育界で定説となってきた考え方についてです。子供自身が興味・関心をもった事柄について意欲的に学ばせることが望ましいという学習観、授業観には、問題があるのではないかという疑問です。福間氏は、ネットを駆使した学びについて、「興味あるものだけに特化しやすい」する特徴を問題視しています。それは逆に言うと、子供の興味があるもの以外にも学びを広げることが必要だという主張になります。
 もちろん、そんなことは常識です。学校の授業について言えば、学習指導要領によって学習内容が定められていて、子供の思いや気分がどうであれ、決まった内容をこなしていきます。すべての教員がそうしているはずですが、同時にそうした授業について、良心的な教員ほど、若干の後ろめたさを感じているのも事実です。「子供たちの興味・関心・意欲に応えることなく、無理矢理に押しつけている」というような罪悪感に近い感情です。
 そこで、元々興味・関心のない内容にも主体的に取り組むことができるように、導入を工夫し、驚かせたり、矛盾を発見させたり、謎に直面させたりして、意欲を喚起させるため日々努力しているのです。私もそうでした。しかし、限界があります。そもそも、子供が興味・関心をもっていた内容であっても、授業時間数の枠の中では学習者としての子供の要求に全て答えることは不可能であり、どこかで教員が強権を発動し、あるいは教員の権威で暗黙の圧力をかけ、授業を方向付け強制終了的に週末に向かわなければならないケースが多いというのが実情だからです。
 しかし、考えてみれば教員は子供の声にすぐさま答える検索機能ではありませんし、そうであってはならないものなのです。子供が学びたくない事柄についても、これは視野を広げ、知の厚みを増すために必要なのだからと言って強制的に学ばせる、それもまた教員の役割であり、それができるだけの「権威」と「信頼」と「技術」をもつことが教員にとって必須の資質であると考えるのは間違っていないと思うのですが。

 

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21世紀の教育の原点に立ち返れ

2020-07-08 07:55:46 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それはどこで」6月29日
 江畑佳明記者が、『「野球を楽しむ」とは』という表題でコラムを書かれていました。その中で江畑氏は、野球未経験の江畑氏が、低学年野球チームのコーチをしていることについて書かれています。
 『これまでは野球経験のある親がコーチだったが、今季は私を含め全員が未経験』ということで、『ノックをしようと、私はバットを握った。が、「スカッ」。またまた「スカッ」。バットが空を切る。そのたびに子どもたちは「ぎゃははは!」と大笑い』という状況だそうです。
 その一方で、『素人コーチゆえの長所を感じている。スパルタ式のチームと異なり、「とにかく楽しく」「全力でほめる」の意識が強いからだ。先日の練習試合では1対10と大敗した。相手の悪送球で三塁走者が生還すると、ベンチは「よく走った!」と大はしゃぎしてたたえた』とも書かれています。
 練習や試合の光景が目に浮かぶようです。私はこうした光景こそが、スポーツが根付いた社会、スポーツが人生を豊かにしている社会だと思います。30年ほど前から、生涯学習、生涯スポーツという概念が教育行政に持ち込まれました。教育委員会に会った社会教育課が生涯学習課に名称変更するようになったのもこのころです。学校教育は、生涯学習の中に含まれ、生涯学習の基底をなす重要な時期であり、機能を有することになったのです。
 学校で、基本的な知識を得るとともに、学ぶ楽しさ、知る喜び、出来るようになる達成感を経験し、生涯にわたって学び続けようとする姿勢を培うことが期待されたのです。同じように、スポーツの分野においても、体を動かす爽快感、仲間とともに汗を流す連帯感、ゲームをする楽しさ、上達する喜びなどを経験し、生涯にわたってスポーツとかかわる意欲を養うことが期待されているのです。
 こうした視点から、学校教育におけるスポーツを見直すことが必要です。体育の授業では、勝利至上主義などあり得ません。スパルタ式の授業も論外です。私のような運動音痴の子供も参加するのですから。
 一方で体育の授業と並びスポーツ観の形成に大きな影響を与える運動系部活動はどうでしょうか。江畑氏がコーチを務めるような和気藹藹の認め合い褒め合う雰囲気、負けや失敗を責めない雰囲気に満ちているでしょうか。残念ながらそうではない部活が多く見られます。
 このようなことを書くと、生徒の中には低レベルのお遊びに毛が生えたような活動では満足できない者がたくさんいる、真剣に技能の向上を願い生徒の思いにどうこたえるのか、我が国のスポーツのレベルが低下する、というような反論が予想されます。しかし、その答えは明確です。そうした自己を厳しく鍛えトップレベルを目指す場が必要なのは当然です。ただ、そうした場が学校である必要性、部活である必然性があるのか、ということが問題なのです。そして、先ほどの生涯スポーツ社会の基底をなすという使命から考えたとき、トップレベルを目指す場は学校ではないことは明らかでしょう。
 学校の運動系部活は、江畑方式で、トップを目指す場は別に設けるという施策を推進すべきなのです。

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~のために、思いは同じでも

2020-07-07 08:05:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「良かれ、のイメージ」6月29日
 一面トップに『「NHKの大問題」前会長抗議 かんぽ報道厳重注意覆らず』という見出しの記事が掲載されました。関連記事が、3面、8面にも大きなスペースを取って報じられ、この日のトップニュースという扱いです。
 事件は2年前、問題発覚は昨年、国会でも取り上げられ大問題になった事案の続報です。事件の内容は周知のことで、今更なぞる意味はありません。ただ、3つの面に記述された当事者の発言から、組織の在り方について考えさせられたのです。
 記事によると、かんぽ側の苦情に対し、当時の石原会長は『「番組編集の自由」が侵されることへの危惧も示し、「番組の編集過程を(会長が)しっかりと見ていけといったことになる。個別の番組に絡む形での対応は難しい」とも語った』とされています。つまり、公共放送機関として最も大切である、編集権への侵害だけは防がなければならないという思いを抱いていたことが察せられるのです。
 一方、経営委員会の委員長石原氏と代行の森下氏は、今後も何か苦情が来るたびに『対応しなければならないという、きっかけになる』と悪しき前例となることを懸念する声を押し返し、『「きっかけになってもいい」と強弁』し、『「相手の社会的立場によって対応を取るのか」と郵政側を特別扱いすることになる』という指摘にも自説を曲げません。
 記事ではこうした『森下氏と石原氏の強硬姿勢について「郵政グループは放送行政を所管する総務省と関係が深いので、配慮したのではないか」と指摘』する声があることを紹介しています。
 引用が長くなりました。私は石原氏と森下氏の「不当な介入」を批判する立場ですが、そのこととは別に、3者の主張の違いの原因について考えました。経歴を見ても、3人とも、組織のトップとして豊富な経験と能力をお持ちの方だと推察します。人脈や情報も豊富にもっておられたはずです。さらに、NHKという巨大且つ重要な組織を牽引する立場に誇りをもち、NHKという組織を発展させ守っていきたいとも願っていたはずです。
 もちろん、個人の名誉や権力といったものについて無関心であったとは思いませんが、いずれもすでに功成り名を挙げられた方で、高齢でもあり、いわゆるここで功績をあげもう一段上を目指すという個人の出世欲のような感情は乏しかったと考えます。
 つまり、3人とも保身や私的な利益を考慮したのではなく、NHKのためを思っての発言であり行動であるということです。しかし、思いは同じでも出した結論は180度違ったのです。それは、NHKという組織の存在意義、目的、最も大切にすべきことなどについてんの認識がずれていたからなのではないでしょうか。
 上田氏は、放送の自由、番組編集権の独立などを守ることがNHKを守りその使命を全うすることができるために最も大切と考え、石原、森下両氏は、放送行政を司る総務省とそれに大きな影響力をもつ日本郵政との円滑な関係維持こそがNHKにとって重要だと考えたのでしょう。この食い違いが、NHKという組織のことを考える善意の、そして有能な3人の意見が対立する不幸を生んだのだと思うのです。
 ある組織やシステムに悪意を抱き、それを破壊しようとする者に対しては、組織の構成員が一丸となって対抗するということは難しいことではありません。しかし、良かれと思って行動する善意の構成員同士が対立するとき、組織は機能不全に陥りやすくなります。それは、NHKに様な巨大組織でも、学校や小さな区や市の教委レベルでも同じです。
 例えば、学校でいじめがあり子供が自殺を試みるといった事件が起きたとします。市民の教委や学校、教員に対する信用を守り、子供が教員を信頼し、保護者が安心して子供を学校に通わせることができるようにしなければ、という思いは関係者に共通します。しかし、そのためには隠蔽を許さず、何もかもすべて公表し、事実を明らかにしたうえで謝罪することが不可欠と考える者と、小さな問題点はどんな組織にもあるのが当然で、何もかも公にすることはかえって不信感を不必要に高め、今後の教育活動に支障をきたすと考える者とがいて、両者の力関係で対応が歪められていく、という結果に陥ってしまうのです。
 学校の目的は何か、使命は何か、学校というシステムにとって最も大切なことは何か、学校が存在する意義は何か、こうした根本的なことについて常に全関係者で共通理解を図っておくことが大切です。それは、定款のような1枚の紙っぺらを読むことで済むようなことではなく、いくつもの事例を想定し、事例研修を積み重ねることで骨身に染み込ませるくらいの覚悟で行わなくてはならないのです。

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「遺伝」への対応

2020-07-06 06:55:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「遺伝が教えること」6月29日
 『知的刺激のある環境を』と題された、行動遺伝学者安藤寿康氏へのインタビュー記事が掲載されていました。とても興味深い内容です。いくつか考えさせられた言葉を取り上げてみます。
 まず、『勉強の「やる気」に遺伝の影響はありますか。◆あります。おおむね4割程度とされています。しかし、その子どもの遺伝的素質にぴったり合った先生との出会いがやる気を生み、成績が伸びることもあります』という記述です。
 それはそうだろうと思います。私自身、愚図な子供だったのに、高学年の担任だったN先生によって、それなりにお勉強のできる子供に変わったという実感をもっています。では、N戦線は素晴らしい教員だったのでしょうか。大学生になって同じ学級だったS君と話す機会があり、S君が「N、ひどい奴だったな」と言うのを聞かされたとき、正直言葉が出ないくらい驚かされたものです。私が「恩人」とまで感謝しているN先生がひどい奴なんて、と驚いたわけですが、自分が教員になってみると、そうしたことは珍しくないということが分かりました。
 学校のルールを守らず、子供を放任して好き勝手にさせているM教員。教員仲間からも、管理職からも、保護者からも評判が悪く、本人もそのことを自覚し、「自分は嘱託で残れないかな」と口癖のように心配しているようなありさまでした。とても真面な教員ではありませんでしたが、Hという女児だけは、M教員に心酔していました。干渉されず、何をしても叱られず、放置されたままで、好き勝手なことができるというのが嬉しかったようでした。
 もちろんその逆に、多くの保護者や子供から好かれ支持されている教員が、特定の子供だけからは蛇蝎の如く嫌われているというケースもあります。私はこのブログで、「著名人が語る心に残る恩師」のような企画に対して、それは良い教員ではないというような批判をすることがありますが、安藤氏の言う「遺伝的素質にぴったり」という偶然の要素に左右されるからです。子供や保護者個人の評価を教員の評価に直結させてはいけないのです。
 もう一つは、『例えば、歴史の中でも特に縄文土器に関心を引かれるなど、ピンポイントで面白いと思う瞬間があったとします。それで自分でいろいろ調べたりする。でも一般的な入試では、縄文時代の知識だけではだめで、歴史全体の流れや専門用語、年号を正確に覚えておかないといけない。それで歴史を研究する道を諦めてしまう子どももいると思います』という言葉です。
 遺伝的素質を生かすにはという記者の問いに対して、『何か心にひっかかったものに対して適切な方向付けを』と答え、その具体例を述べたものです。私は社会科を専門としてきました。それだけによく分かるのです。小学校の歴史の学習では、3時間程度で一つの小単元の学習を終えることが多いです。そうすると、それまであまり授業に関心を示さなかった子供が、とても意欲的になるということがあるのです。
 私としては、やっとやる気になってくれたか、歴史の面白さが分かったくれたのかな、今まで色々と工夫して授業してきたのが報われた、というような思いを抱くわけです。ところが、次の小単元に移ると、急に元に戻って意欲が見られなくなってしまうのです。その原因は、安藤氏が言うところの「遺伝的素質に由来する引っ掛かり」だったのです。
 とはいえ、個人教授の家庭教師ならともかく、学習指導要領によって学習内容が定められ、学級という30数人の子供全員に目配りしなければならない学校において、縄文時代ばかりに学習を深めていくことはできません。
 現在の学校というシステムの中で、「何か心にひっかかったものに対して適切な方向付けを」とは、どうあるべきか、大きな課題を投げかけられたような気がします。

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らしさと個性

2020-07-05 08:26:41 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「個性の捉え方」6月28日
 作家梨木香歩氏が、『個性(らしさ)は消えない』という表題でコラムを書かれていました。その中で梨木氏は、「個性」に「らしさ」というふり仮名を振っていらっしゃいました。ですから私は、「個性」と「らしさ」を似たような概念と捉えていらっしゃると推察させていただきました。
 そう捉えた上で、次に紹介する記述に首を傾げてしまったのです。『長男らしさ、末っ子らしさ、というものもあり、さらにピンポイントのその個体「らしさ」がある。海外に行って自分の日本人らしさを納得したり、親しくしている異国出身の友人に、あるときふと○○人らしさを感じることと通じるかもしれない』。
 私の読み取りが浅いのかもしれませんが、ここで述べられている見解は、むしろ反個性とでもいうべき内容なのではないかと感じてしまったのです。日本人らしさというのは、1億人を超す人間集団を、単に国籍や居住地などの条件で一括りにする発想です。ブラジル人はみんなサッカーが上手いというのが間違いであることは言うまでもありません。イラン人は全員がアメリカが嫌いというのも、ユダヤ人なら誰でもは金儲けが上手いというのも妄想に過ぎません。
 長子がおっとりとしているというのも、末っ子が甘え上手というのも、偏見や思い込みに過ぎませんし、大阪人は話が面白いというのも、東北人が無口というのも、そう言われることで迷惑に感じている人がいるはずです。高知県人は酒が好きで、秋田県の女性は美人という類も、そうでない人を何人も知っています。
 人をある条件の下、一括りにして決めつけることが差別の第一歩です。そしてある集団に属しているからという理由で、○○らしさを求めることが多くの人に苦しみを与えていることから目を背けてはいけません。私たちはそのことをLGBTの人々の訴えで気づかされたはずです。
 しかし、最も差別や人権に敏感で、個性を尊重することが求められている教員の中にも、○○らしさで一括り、が好きな人たちがいます。さすがに女の子だから~というようなことを口にする人はほとんどいないでしょうが、障害児だから嘘はつかない、というような神話を信じ込んでいる教員は皆無ではありません。
 個性尊重とは一括りを止めること、これは誰もが心に刻んでおいてほしいことです。

 

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下手は下手、上手は上手

2020-07-04 07:37:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「下手は下手、上手は上手」6月28日
 連載企画『シリーズ 疫病と人間』は、立命館アジア太平洋大学長出口治明氏へのインタビューでした。出口氏は、コロナ禍がもたらした変化としてITリテラシーの向上をあげ、その中で次のエピソードを披露なさっています。
 『立命館アジア太平洋大では、4月から全てオンライン授業に切り替えた(略)一部の先生は「大学は学生の目を見て講義しなければ、心の籠った講義ができない」と猛反対したが、他の方法はないので大学を挙げて先生方にやり方を指導した(略)面白いことにオンライン授業に反対していた先生たちが、今は逆にのめり込んでいる。これは合理的に説明できる。オンライン授業に当初反対していた先生方は自分の授業に自信を持っており、生徒のことを考えて情熱を持って授業に取り組んでいた。つまり授業というコンテンツがしっかりしているので、オンライン授業にも適応できたのだ』。
 要するに、対面という従来の講義において、講義とは何かを理解し、良い講義について考え工夫し、実際に良い講義を行ってきた教員。つまり従来型講義における「講義力」のある教員が、オンライン授業においても高い「講義力」を発揮することができるということです。
 私も同じ考えをもっていました。小中学校における授業においても、今までの教室での授業におけるノウハウを身に着けている教員こそが、オンライン授業においても子供が満足する授業を構築することができるということです。逆に言えば、教室での授業が拙い教員が、単にITに関する知識や技術をもっているからといって、オンラインで巧みな授業ができるということはあり得ないということです。その点を共通認識しておく必要があります。
 学習者である子供自身が主体的に学ぶことを可能にする授業は、子供の興味関心を掻き立て引きつける事象の提示、様々な疑問を追究可能な学習問題に昇華、仮説の設定、個性やこだわりを生かした追究の場と環境の設定、個に寄り添った適切な助言と評価、相互交流による結論の研磨、新たな疑問の発生というようなプロセスが必要なのです。それは、教室であろうが、オンライン授業であろうが変わりません。そのことを理解できていない教員が、いくら巧みにIT機器を使いこなしたとしても、良い授業は生まれません。
 授業というものに対する理解を深めること、個々の教員や学校、教委はこのことの重要性を忘れてはなりません。

 

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