ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

不適切発言、不適切なのは表現?思想?

2020-05-08 08:16:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どこが不適切」4月30日
 『岡村さん発言を謝罪「深く反省」』という見出しの記事が掲載されました。お笑い芸人岡村隆史氏が、地震のラジオでの発言について謝罪したことを報じる記事です。岡村氏の発言とは、『コロナが明けたら、なかなかかわいい人が、美人さんがお嬢(風俗嬢)やります』『短時間でお金を稼がないと苦しいですから』というものだそうです。
 また、岡村氏の謝罪コメントは、『世の中の状況を考えず、また苦しい立場におられる方に対して大変不適切な発言だった』『深く反省しております』というものだったようです。不適切な発言であり、謝罪は当然です。発言が24日ということから考えると、5日後の謝罪は遅すぎるとも思います。
 それはそれとして、では岡村氏の発言のどこがどういう理由で不適切なのでしょうか。私が教委に勤務しているとき、問題発言の謝罪というのは、自分はこう言ったという事実、その内容が不適切であるという認識、不適切と考える理由、取り消しまたは訂正、という流れで行うのが基本でした。
 例えば、「~は片手落ちであると~」と言ったとします。その場合、「先ほどの私の発言の中で、片手落ちという表現を使ってしまいました。片手落ちという表現は、肢体不自由者、特に隻腕の方にとってはご自身の障害を取り上げられたかのようで大変不快に感じられる表現、不快語に当たる表現でした。ここでお詫び申し上げるとともに、バランスを失したという表現に訂正させていただきます。大変申し訳ありませんでした」というような謝罪と訂正になります。
 それは、不適切な表現について謝罪は必要ですが、批判されたからといって何がどのように問題であったのかを明らかにせずに、とりあえず誤って事態を収拾しようという態度では、今度は逆に表現の自由を損なう危険性があるとの認識からです。だから、今回の岡村氏の発言の問題点が気になるのです。
 「コロナが明けたら」は、全く問題ありません。「なかなかかわいい人が、美人さんが」という部分については、不快に感じる人はいるでしょう。女性を外見上の美醜で区別するという価値観が窺えるからです。でも、これだけならば謝罪までする必要があるかは疑問です。お嬢という表現はどうでしょうか。教員をセンコウと、警察官をマッポというように、ある職業に就く人に対して隠語のような表現があります。これについては、公の場では使ってはなりませんが、岡村氏が出演しているラジオ放送の場がそれに該当するとは思えません。
 となると、核心は「風俗嬢やります」になります。風俗嬢というのは、風俗関係の店で働く女性のことです。風俗業は違法でも反社会的でもない一つの業種に過ぎません。ですからそこで働く女性も、立派な労働者です。そうした意味では、教員や看護師、介護士などと同じです。コロナ感染が収束したら介護士として働く女性が増える、という発言が問題になることはありません。その予測にどれほどの根拠があるかは別にして、です。今回の岡村氏の発言では、予想の根拠や確率が問題になっているのではないのですから、現実のそうなるかは関係ありません。
 また、短時間でお金を稼がないと~、という表現にも問題性は皆無です。そうした事態に追い込まれる人が予想されているからこそ、国も自治体も様々な施策を打ち出しているのですから。
 あれっ?岡村氏の発言の問題点が、見えなくなってしまいました。では、岡村氏の発言は不適切でも何でもなかったのでしょうか。そうではありません。岡村氏の発言は、個々の表現、使用された言葉に差別性や偏見、事実誤認があるから問題視されたのではなく、発言全体の背景にある価値観、世界観そのものが不適切だったということなのです。
 簡単に言えば、女性を性の対象、性の快感を得るための道具として見ているという岡村氏の価値観、世界観が多くの人を不快にさせているのです。私も好色な人間です。女性に対し、性的な興味関心の目で見てしまうことはあります。褒められたことではありませんが、単に頭の中で思うだけであれば、許容されるべきだと考えています。そして、さらに大切なのは、女性に対してそうした部分で見ると同時に、同じ人間としてその生き方や考え方、夢や希望、悲しみや苦悩などについても考えが及ぶのが、人としてのあるべき姿であるということです。
 かつて女性を「生む機械」視する発言で大臣を辞職した政治家がいました。女性を性の快楽を得る道具視した岡村氏は、女性を機械に例えた大臣と同じ過ちを犯してしまったのです。
 私はいわゆる風俗に言ったことがありません。決して崇高な思想の持主だからではありません。ケチなこともありますが、最大の理由は、自分の妹や娘が、好きでもない男に体を弄られているシーンを想像すると、やり場のない悲しみが沸き上がってくるからです。もし自分が風俗の客として女性の体を触ったりしているところをその女性の家族が見たらどう思うだろうか、と思うと、そういうことはしたくないと思ってしまうからです。
 何も私のような感じ方をしろと言っているのではありません。ただ、相手を道具や機械ではなく、自分と同じ感情をもった人であるという感覚があれば、岡村氏のように、お得な品物が格安で手に入りますよ、的な発言は出なかったと思うのです。
 前述したとおり、私は多くの謝罪を見、自分もしてきました。その中でも、いわゆる差別語を使ってしまったことに謝罪は、その言葉や表現についての自分の無知や誤認が原因であり、そのこと自体は問題ですが、それがその人の人間性全てに関わるものではありません。そうした意味では罪が軽いとも言えます。しかし、個々の表現ではなく背景となる価値観、世界観、人間観に問題がある場合は、より罪が重いと考えます。
 教員は、自分の発言を責められたとき、そこに自分の誤った価値観や世界観、人間観が潜んでいないか、じっくりと見つめなおす必要があります。

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