ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

贔屓の引き倒し

2021-03-31 08:06:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「贔屓の引き倒し」3月25日
 『余禄 』欄に、生類憐みの令についてのエピソードが紹介されていました。『中野犬小屋には、たちまち10万匹の犬が集められたという。犬1匹に1日白米3合が与えられ、その総量は1日300石を上回ったそうな▲それで犬は幸せになったかといえば、そうでもなさそうだ。「山野を走ることもなく、小屋に詰められ、白米を食べて……病犬死犬はおびただしく。穴に埋められた」とは当時の文書だ』というものです。
 犬というものの本質を考えることなく、人間が考えた「幸せ」を押し付けた結果、かえって犬を苦しめ不幸をもたらしたということです。過保護の弊害と言うこともできそうです。私はこのエピソードを読んで、子供たちと大人のことを連想してしまいました。
 世の中には、子供を守ってやるのが大人の務めだとし、子供社会に介入することの危険性から目を背ける人たちがいます。学校に不審者が侵入した事件が起きれば、各学校にガードマンを派遣して巡回させるべきだと言い、いじめが問題になると、教職員や保護者有志で学校の敷地内を見張るべきだと要求したり、学校内の監視カメラを設置すべきだと主張したりする人たちです。近年は、さらにエスカレートし、我が子の安全を確保するためにスマホの位置情報ソフトを活用して24時間子供がどこにいるかを確認できるようにするサービスの購入者もいると言われています。
 たしかに子供の生命保護、安全確保は大人の務めです。しかし、行き過ぎた介入は、子供の世界を狭め、そこでの人間関係を含めた様々な体験を委縮させる副作用があるのです。子供同士のトラブルや行き違いを自力で処理する経験、小さな悪事を共体験することによって得る連帯感や仲間意識の醸成、無駄遣いの後悔、ルールを破ることによって直面した危険、みんな子供の社会性を育み、成長する上で欠かせない体験です。そこで負うた小さな傷は、成長の糧なのです。
 もちろん、小さな傷では済まずに、取り返しのつかない大きなダメージを負うようなことは避けなければなりませんが、要するに程度問題なのです。転倒を恐れ、中学生になっても補助輪付きの自転車に乗せるような過剰な保護は有害だという当たり前のことを言いたいだけです。
 犬を閉じ込め米の飯をたらふく食わせる、というのはある意味楽なことです。それに比べて、犬本来の生活ができる環境を整え維持する方がはるかに大変です。子供も同じです。過剰な保護が大人が手を抜くための管理になってはいないか、常に自省する必要があります。

 

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これからも?今までは?

2021-03-30 08:21:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「過去の話?これからも?」3月24日
 法政大総長田中優子氏が、『進学率過去最高』という表題でコラムを書かれていました。その中で田中氏は、『コロナ禍で見えてきたのは、人それぞれの適性と要望に沿った学びへの転換や、生涯にわたって学ぶ仕組みの導入だ。しかし、それは一斉教育によって教育の裾野を広げたからこそ、次の段階が見えてきたということだ。』と書かれていました。
 私は、どういう意味なのだろうか、と考え込んでしまいました。分からないのは、後段の「一斉教育によって教育の裾野を広げたからこそ、次の段階が見えてきた」という部分です。まず頭に浮かんだのは、我が国が長期的には明治以来、より短期的には戦後の学校教育において、一つの教室で数十人の子供が一人の教員から同じ内容を指導されるという一斉教育を全国に浸透させ、知識注入などの批判を受けながらも、ほぼ全ての子供に一定の知識や技能を身に着けさせてきたことが土台となり、個に応じた学びや生涯学習がかのうとなったという解釈です。つまり、時間軸的な考え方で、明治以降の一斉教育中心の学校教育で国民全体のレベルで一定の基礎が築かれたので、これからの教育は古い一斉教育から離れ、個の適性と要望に応じた教育にモデルチェンジしていくべきという捉え方です。
 一方、小中学校段階の初中等教育では、一斉教育で一律に基礎を身に着けさせ、その上に大学などの高等教育では、個の伸長を測り、生涯学び続ける意欲と能力を形成するという在り方を示したものだという解釈もあり得ます。
 田中氏は、『世界にはまだ、江戸時代のような状況の国がいくつもある』『アフリカ諸国を中心とした小学校教師の不足』とも書かれていて、まだ「一斉教育」すらも実現できていない国や地域の教育振興を考えていらっしゃるようですから、まず最低限の目標として世界のどんなところでも日本式一斉教育を、と言っているとも考えられます。前者の解釈に近い考え方です。
 私は、学校教育というシステムや制度を考えるとき、幼少中高大院をまとめて考えるのではなく、それぞれの担う役割に応じて考えていくことが望ましいと思っています。そして、小中といった義務教育は全国一律、画一的であるべきであり、高等教育は選択制を基本に一人一人の個性や適性に応じた学びを深めていくべきだという考えです。
 当然の帰結として、小中は一斉授業が基本形となり、高等教育では個別や小グループのゼミなどが中心となっていくイメージをもっています。ですから、田中氏の一斉教育と適性と要望に沿った学びの関係が後者の解釈でよければ、我が意を得たことになりますし、前者であるならば、義務教育段階においても一斉授業は望ましくないということになり、私の考え方は否定されることになります。どちらなのでしょう。気になります。

 

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匙加減が難しい

2021-03-29 07:47:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教委と学校も」3月24日
 連載企画『原発のたたみ方』の最終回は、原子力規制委員会委員長更田豊志氏へのインタビューでした。その中で更田氏は、規制委員会の課題を問われ、『規制委が非常に高圧的に強く接すると、電力会社は委縮し考えなくなる。逆に、電力会社の自主性を非常に重んじる規制委になったとしたらどうだろうか(略)地元自治体の意見を聞いていると、求められるのはとにかく「強い規制」「厳格な規制」だ。確かにそれは当然だ。だが、それも極端になると電力会社は何も考えなくなり依存的になる。規制委として、どういった姿勢がふさわしいか。これは永遠のテーマだ』と答えていました。
 よく分かります。電力会社と規制委の関係の在り方という問題は、学校と教委の関係の在り方に重なるからです。教委は、校長をはじめ教職員の評価権と人事権をもちます。教育課程届を「審査」し、事実上の修正強制権をもちます。その他、各種委員への推薦、研究奨励校等の指定、一部予算の割り振りなどの権限を有しています。
 教育行政は、指示・命令によらず、指導・助言が中心になるという特殊性をもっていますが、それでも学校にしてみれば、何かとその意向が気になる存在です。そこで、何事も教委の判断を仰いで決定すれば無難というような事なかれ主義に陥る傾向があります。
 例えば、移動教室の最中に台風が来るという天気予報が流されると、校長から「予定を切り上げて帰校させた方がよいでしょうか」と電話が入ります。子供のことも現地のことも一番情報をもっているのは校長なのですが、教委に判断を求めてくるのです。
 また別の依存もあります。保護者から要求が出され、それに応えたくないとき、教委に連絡して「対応しない」という言質をとり、「私は皆さんの要望に応えてもよいと思っているのですが、教委は否定的なんです」と教委を盾に利用するしたたかさもあります。
 私は教委勤務時、出来るだけ学校、つまり校長が主体的に判断し実行することを重んじたいと考えていました。公教育、特に義務教育は学校ごとの特性を打ち出すことよりも、全国一律に決められた内容をきちんと実施することが大切だというのが私の考えですが、学習指導要領等の法令を守ってさえいれば、指導の方法や体制などは大いに創意工夫してほしいし、それでこそ成果が上がると考えていたからです。
 ここで目を学校外に向けてみると、保護者や市民は、そして役所の他部課や議員は、教委は学校に指示・命令を下して従わせるべきという発想の者が多いのです。私が、「基本的な考え方は示してあるので、具体的な方策は校長の判断に委ねたい」と言うと、「責任逃れではないか」と苦言を呈されてしまうのです。
 そうかと思うと、主に革新系の議員などは、教委が学校を管理しているから学校は子供を管理するようになる、というような屁理屈で「弱い教委」を求めて来ることも少なくないのです。もっともそう言いながらも、何か事件や事故が起きると、教委はもっとしっかり管理を徹底すべき、と言ってくるのですから、ご都合主義もいいところです。
 甘くてもいけないし、厳しすぎてもいけない、癒着はいけないが疎遠なのもよくない、望ましい教委と学校の関係はどうあるべきか、やはり「永遠のテーマ」なのです。

 

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2つは別物

2021-03-28 08:05:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「違うもの?」3月23日
 連載企画『14歳の君へ わたしたちの授業』は、ミニチュア写真家田中達也氏が、美術について語っていました。鹿児島大教育学部美術科で学んだ田中氏ですので、美術教育について参考となることが書かれているのではないかと思い、読んだのですが、分からないことが増えてしまいました。
 田中氏は、『美術には正解がありません。本来、うまいか下手かで評価されるのではなく~』と書かれています。技術は評価対象としない、もしくは評価対象として重視しないということです。でも別のところでは、技術をみがかなければ大学受験に合格はできないとも述べていらっしゃるのです。
 また、『自分の好きなことを表現できるのが美術のいいところ(略)「絵じゃなくて立体にしちゃえ」とかなんでもあり』とも書かれていました。そうだとすると、図工・美術の授業で、「今日は夏休みの思い出を絵に描いてみよう」などという指示は間違っていることになります。何でもありが理想だとしても、それで授業は成り立つのかと言えば、難しい気がします。
 さらに、『美術の点数を上げたいのなら、意欲は重要。ぼくが先生なら授業態度を重視します。完成した作品だけでなく、製作途中でどれだけ手を動かした、工夫したかをよく見ます』と語ってもいるのです。評価の4観点の中で「関心・意欲・態度」を重視するということです。でもその詳細は分かりません。「手を動かす」という観点は、画用紙の隅々まで絵の具を塗り、しかも何回も重ね塗りすればOKとも受け取れます。そんなはずはないですよね。空白を生かした山水画などは、絵が動いていないからダメなんてはずはありませんから。
 もう一つの観点として「工夫」をあげていますが、これって「意欲」や「態度」なんでしょうか。センスや感性といった概念に近しいイメージがあるのですが。
  素人の私が、プロの芸術家である田中氏の美術論にケチをつけるつもりはありませんし、出来もしません。ただ、田中氏が述べているのは美術論であり、美術教育、特に公立学校における美術教育について述べたものではないという気がしたのは事実です。美術論は美術の授業論とは全くの別者なんでしょうか。どこかに参考となる部分、方向性を同じにする部分、内容が重なる部分があると思うのですが、手掛かりはつかめませんでした。
 芸術系の授業は、表現したいことを自由に決めさせ、各自好きな形で、使いたいだけの時間を使って取り組ませ、特に評価はしないということでよいと割り切れば、案外良い授業が実現するのかもしれませんが、それではカオスが生まれるだけでしょうし。

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学校はあるだけで

2021-03-27 08:31:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校は役に立っている」3月23日
 『影落とすコロナ一斉休校 学習格差や孤立広がる』という見出しの記事が掲載されました。『安倍晋三首相(当時)の突然の要請で最長3カ月にも及んだ異例の措置は、子どもたちの学習や心身に影響を及ぼし、今後もそれらが表面化する可能性がある』ことを報じる記事です。
 記事の本筋とは関係ないのですが、気になる記述を見つけました。『昨年1年間で自殺した小中学生・高校生は前年比140人増の479人(暫定値)で過去最多を更新した。高校生では特に女子が前年の約2倍に急増した』というのです。
 異例の措置=3か月の一斉休校という事象が一方にあり、子供たちの自殺増という現象がもう一方にあるということです。自殺が増えたことが一斉休校の原因であるということはあり得ないのですから、一斉休校が自殺増に影響を与えたということでしょう。
 休校になったから自殺が増えたのだとすれば、逆に言うと、休校がなければ=学校が子供を受け入れていれば自殺は増えなかった、ということになります。近年、学校については、子供を過剰に管理しているしている、いじめなどで子供にとって苦しみを与える場所になっているなどマイナスのイメージで語られることが多くなっていました。戦後70年余、学校という制度や仕組み自体が、時代の変化に合わず、子供への抑圧装置になっているという指摘です。
 もし、そうした指摘が的を射たものであったならば、その抑圧装置から、3カ月という長期にわたって解放された昨年は、自殺が減っていなければならないことになりますが、そうではなかったということです。子供の気持ちを分かろうとせずやたらに管理しようとする口煩い教員、陰湿ないじめが横行する教室、勝利至上主義で過酷な練習を課すブラック部活、退屈な授業、そうしたものの負荷から自由になった子供たちは、生き生きとするどころか、死を選択するほど追い詰められていったというのですから、理屈に合いません。
 もちろん、自殺増には、コロナ禍による家庭の経済問題その他、多くの要因があります。上記のような単純な図式ではないことは分かっています。また、学校が重荷になっている子供がいることは、長期休業日明けに自殺が増えることでも明らかです。しかしそれでもなお、学校という存在が、多くの子供たちにとってかけがえのない居場所を提供していたということは紛れもない事実だと言ってよいと思います。家庭や地域だけでは担うことができない居場所を提供していたという事実は、学校は役に立っているという現実を表しているのです。
 あくまでも副次的な役割ではありますが、学校は社会の安定装置でもあるということです。

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とんでもない奴だけど許す?

2021-03-26 08:13:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「異教徒ならOK?」3月22日
 特集ワイドは、『あえて苦難を求める人生』という見出しで、写真家小松由佳氏へのインタビュー記事でした。小松氏は、『日本女性初のK2登頂』を成し遂げた方でもあるそうです。前向きでエネルギッシュな方のようです。
 そんな小松氏の夫ラドワン氏はシリア人だそうです。私はこのラドワン氏に関する小松氏の話が気になって仕方がありませんでした。『育児も家事も全くやらない人なんです(略)収入もあまりないので、家事も生活費も私が担っています』『夫はなぜ私が文句を言うのか、わかっていない状態で、「どうして家事も育児も私が」と言っても、そんなの当り前と思っているんです』『彼は彼で「毎日家にいて育児家事を完璧にやってほしい」とアラブ女性のイメージを語ります』。
 こうした夫に対し小松氏は、『ことあるごとに思いをぶつけてきたんですけど、それは私の価値観、日本人の意見じゃないかと気づいたんです』と話し、『理解できないということを理解し、前に進むことにしました』と語るのです。
 なるほどそれが異文化理解ということなのだな、と頷かれる方もいるかもしれません。でももし、夫がシリア人であることを明らかにせず、この夫について人生相談欄に投稿したとしたら、どんな回答が返ってくるでしょうか。おそらく、夫ととことん話し合う、あるいはきちんと要求を示し受け入れられないなら離婚を考えると宣言する、もしくは即離婚すべき、というようなアドバイスがなされる可能性が高いと思われます。
 また、回答者が、夫には夫の考えもあるのだろうから相談者が一方的に思いをぶつける態度を改めて~、というような、つまり小松氏が選択したような回答をしたとしたら、その回答に対して厳しい非難が殺到すると思います。私も、そんな勝手な夫を許せませんし、夫の行動を容認するような考え方には、男尊女卑の臭いを感じてしまいます。
 でも、外国人なら、異教徒なら、異文化で育った人なら、人権侵害もモラハラも受け止めるべき、となるのかという疑問が頭を過ぎるのです。それが異文化理解で、それが寛容ということになるのでしょうか。
 話は飛躍しますが、中国共産党幹部は「中国には中国の民主主義がある」と言います。だから、ウイグル自治区の漢風文化強制も、香港の弾圧も外国は口を出すなという論理です。シリアの属するアラブ文化では、女性が家事も家計も育児もすべて行うのだから~、というのも「アラブにはアラブのやり方がある」のだから口を出すなという考え方だとすれば、この世の中に普遍的な正しさなどないという理屈になってしまいます。
 我が国では、民主的社会の良き形成者を育てることを目的として学校教育を行っています。でもその民主的にもいろいろあるということなのでしょうか。私が行ってきた社会科の授業って何だったんだろう、と思ってしまいます。

 

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自分で~、はいいのか?

2021-03-25 08:16:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「困惑」3月19日
 『「ルッキズム 日本は疎い」 東京五輪侮辱演出』という見出しの記事が掲載されました。『人気タレント渡辺直美さんの容姿を侮辱するような企画を開閉会式演出の総合統括を務めるクリエイティブディレクター、佐々木宏氏が提案していた問題』について報じる記事です。
 この問題自体については、呆れるほどとんでもない事案で、改めて論じるまでもありません。ただ、その記事の、『差別に詳しい社会学者の矢吹康夫・立教大助教は「本人が自分のルックスについて表現することと、他人がそのことをネタにして一方的に消費することは次元の違う話です」』という記述が気になりました。
 それは以前にもこのブログで取り上げたことがある、教委勤務時代のある出来事を思い出させるからです。私と同じ課に属していた同僚の指導主事が、都内の教員を引率して某私鉄企業の見学に行き、そこで行われた説明会で「事件」が起きたのです。
 担当の社員は話の中で、「私たちポッポ屋は~」と発言しました。すると、参加していた教員が挙手し、「ポッポ屋というのは鉄道事業に従事する方々に対する差別的表現であり、撤回してもらいたい」と言ったのです。社員は怪訝な顔をしていましたが、担当指導主事も撤回を求めたため、その要求に応じました。その日の午後、その鉄道企業の広報担当者から、「自分たちのことを自分でポッポ屋といったことが差別に当たるという指摘には納得できない。当該社員も不満に思っている。今後都教委の事業に協力することはお断りさせていただく」という抗議の電話が入り、幹部はその対応に追われたという「事件」でした。
  当時、私は人権教育を担当していたこともあり、上司から「○○さんだったらどうした」と問われ、慎重に言葉を選びながら、「一般的な指摘としては、教員の差別的表現に当たる可能性があるという指摘は正しいと教員の発言への評価を口にし、本人が自分に対して愛着や誇りをもってその言葉を使われた場合、それは糾弾されるべきことではない旨を伝え、発言の撤回は求めずそのまま会を進行し、会終了後、担当社員には、教員という職業柄差別には敏感であるよう指導しており、それが先ほどの発言につながった。まだ私たちの指導が十分浸透していなかったようで申し訳ないと謝罪し、今後ともご協力よろしくお願いしますと頭を下げてくる」というような趣旨の話をしました。上司は黙って頷いていましたが、それでよいとも悪いとも言いませんでした。
 その後、私はこの「本人が口にする差別的表現」の対応についていろいろな場面を想定しシミュレーションを繰り返しましたが、差別的意味合いの度合い、その場にいる人の属性や立場、全体の流れなどによって微妙に違いがあるように思え、いわゆる「正解」にたどり着けないことが多かったのです。
 矢吹氏の言葉を素直に読むと、本人が強制されたのではなく全くの自由意思で差別的な表現、デブとかチビ、ブスとかブタというような言葉で自分を表現することは問題ないと受け取れます。しかし、教員として子供たちに接してきた経験から言えるのは、自分の意思でそういう言葉を口にした子供が実は傷ついていることが多かったり、自分の意思でとは言いながら周囲の圧力や雰囲気でそう言わされているケースが少なくないこと、さらに、子供にとって、その子供が自分から口にしているということはその言葉を嫌がっていないということであり、それなら自分がその言葉をその子に向かった発してもいいはずと考えがちなことを知っています。ですから、自分をブタというようなことはさせない指導をしたいのです。
 困惑は今も続いています。

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正直者と小心者

2021-03-24 08:31:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「明日がある?」3月17日
 専門編集委員与良正男氏が、『もうけ主義の落とし穴』という表題でコラムを書かれていました。その中で与良氏は、元文部科学省事務次官前川喜平氏と共にシンポジウムに招かれたときのことに触れていらっしゃいました。そしてコラムの結びで、『加計学園問題で、安倍、菅両氏に反旗を翻した前川氏は、東大時代、およそ金もうけとは無縁のインド哲学に傾倒し、独自に学んだそうだ。若い人たちも、損得勘定を優先して、お上に従うだけでは明日はないぞ』と書かれていました。
 全くその通りだと頷きかけましたが、与良氏の言っていることには無理があると思いなおしました。若い人の目に、前川氏はどのように映っているのでしょうか。私は前川氏の権力に屈しない姿勢を評価しています。しかし、多くの若者の目には、東大を出て、官僚トップの事務次官にまで上り詰める能力を持ちながら、高額な給与と退職金を得ることができる天下りも許されない哀れな敗者、人生の失敗者、大馬鹿者として映っているのではないでしょうか。
 そうであるならば、明日がないのは損得勘定のみで生きる汚れた人、安倍、菅両氏の権力にしっぽを振ってすり寄った人ではなく、前川氏のような損得勘定を無視して生きる人だと考える若者の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。
 前川氏の生き方を良しとする若者が増えれば、我が国の明日は明るいものになるでしょう。そのためには、そうした生き方を良しとする価値観を培う教育を推進する必要があるのです。今のままで、損得勘定を優先するなと言っても、それに代わる基準や価値観をもてていない若者にそれを期待するのはない物ねだりというものなのですから。
 そうした新たな基準や価値観を培う役目は、第一義的に道徳教育が担うべきです。その具体的な在り方は詳細な研究が必要ですが、私は「正直者が馬鹿をみる」という考え方への対応がカギを握ると考えています。通常この言葉は、正直に行動したのにそれが報われず不遇な状況のままに置かれていることを表すとされています。もしその通りなら、私もまた正直者です。
 しかし私は、自分を正直者だと思ったことはありません。確かにあまり嘘はつきません。ただしそれは正直なためではなく、小心なためです。何か事が起こったとき、私は正直に行動しただけです、という言い訳、責任逃れの道を残しておきたいため、嘘をつかないだけなのです。嘘をつき、他人をだましていたとなればその悪意や謀略を厳しく追及されるでしょうが、正直に行動した結果であれば、無知や不注意ゆえの失敗として責任が軽くなるという思惑が、嘘をつかせないだけなのです。そんな私は、自分が正直に行動したのに報われず、うまく嘘を貫き通した他人が成功したり高評価を得たりすると、妬ましく思います。
 一方、私のような似非正直者ではない正真正銘の正直者は、そんなことは思いません。正直に生きるという自分の信条に忠実に行動できたことに誇りと喜びを感じ、満足します。けっして、あんな嘘つき野郎が…、などと妬んだりしないのです。つまり、「正直者は決して馬鹿をみない」のです。
 「正直者が馬鹿をみる」から「正直者は馬鹿をみない」へ、この考え方を学校教育で身に着けさせる道徳性の最重要項目にすることが大切だと思います。

 

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無視せずに

2021-03-23 07:57:02 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「淋しい」3月17日
 安達一正記者が、『制服の新潮流』という表題でコラムを書かれていました。その中で安達氏は、『かつてはツッパリ文化と結びついた制服だが、高校を中心にブレザー型が主流となって久しい(略)スラックスなど性差のないデザインを導入する学校が増えているという。制服の変遷とともに、卒業式にまつわる第2ボタンの伝承はいずれ消え去るかもしれない。中高年世代としてはさみしい気もするが、新デザインに込められた思想が若者に浸透し、清新な文化を生むと期待したい』と書かれています。
 安達氏がおっしゃりたいこととは無関係なのですが、私はこの中の「さみしい」に注目しました。さみしいは感情であり、感傷に過ぎません。安達氏自身、さみしいから昔の制服を残してくれと言っているわけではありません。全国紙の記者という冷静かつ合理的な思考の結果として、淋しさを振り切り、制服がもたらす新しい未来に期待する、頭の良い人だなという気がします。
 しかし、世の中は「頭の良い人」ばかりではありません。私が教員時代に、複数の母親と雑談をしていたとき、私立中学受験の話から女子校の制服の話題になったことがありました。私が、「最近は制服が可愛いからと言って志望校を選ぶ子供もいるらしいですよ」と口にすると、一人の母親が、「私は○○学園の出身なんだけど、最近ブレザーになってしまって、あのセーラー服が可愛かったのに。髪は三つ編みにして」と話しだしたのです。そうすると他の母親も、次々に母校の制服が変わったことを「非難」し始めたのです。
 たわいのない会話でしたが、母校というものに対する人々の感傷というものを強く感じたものです。その後、教委に勤務するようになると、市民の方々から様々なお電話を頂戴し、それに対応するのが仕事の一つになりました。その中の少なくない割合が、その人の学校教育というものに対する感情や自分の子供時代への感傷に基づくものだったのです。
 感情や感傷は、主観的なものです。別の言い方をすれば、合理的でなく、論理的でもなく、建設的でもないものだと言えます。だからといって、それはあなたの個人的な感傷に過ぎないのではありませんか、などとは言えません。そんなことを言えば、穏やかに話している相手を激昂させるだけで、何のメリットもありません。辛抱強く話を聞きながら、相手の気持ちがおさまるのを待つしかありませんでした。
 ですから当時の私は、そうした電話対応を無駄だけど仕方がないものと認識していたような気がします。しかし、私も年を取って合理性よりも感情に左右されるようになってきたのでしょうか、あるいは「頭が悪い」人になったのかもしれませんが、こうした人々の感情や感傷について、もう少し肯定的に考えるべきではないかと思うようになりました。
 かつて、地域の学校という概念が提唱されたとき、地域とは何かということが議論になりました。そのとき、地理的な地域だけではなく心理的な地域という視点も大事だという指摘がありました。学校の校歌を変えるというとき、在校生とその保護者、教職員だけで議論していたところ、卒業生やかつて在職していた職員などから意見が寄せられたのです。私にとっては面倒な仕事が増えたというのが当時の正直な思いでしたが、彼らにとっては、今もその学校は心理的に身近であり、その感傷的ともいえる思いに配慮することは、学校という組織を盛り上げる応援団を広げるという意味でも意味のあることだと今にして思うようになりました。
 学校のOB、OGや古くからの地域の住民などの「さみしい」に少しだけ配慮することは学校にとって大切なのではないでしょうか。

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奢る、はセーフ?

2021-03-22 07:57:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それはセーフ?」3月17日
 『麻生氏 接待「あんまりない」』という見出しの記事が掲載されました。財政金融委員会での麻生財務相の答弁を紹介する記事です。記事によると麻生氏は、『「疑惑をもたれるような会食や接待を受けた事実はあるか」との質問に対し、「こっちはあんまり、ごちそうするほうが多いもんですから。ごちそうされることはあんまりないですなあ」と答えた』ということです。
 詳細を応えない麻生氏らしい答弁ですが、記事はこの答弁に対し事実を述べるのみで何ら評価をしていません。疑問です。奢ることは問題ないのでしょうか。
 私は教委幹部のとき、公務員倫理について講習を受けたことがあります。そこでは関係者との間での会食について、奢られるのはもちろん、奢ることもいけないという指導を受けました。私が教委の関係者だったからでしょうか、学校に関係のある事例を具体的に示しながら、です。
 そこでは、大学教授が教え子との飲み会に参加し奢ることが取り上げられ、学生が教授の講義を評価することがあり、その評価が教授の考課に影響することを指摘し、教授が金品を使って自分に有利な評価が下されるよう暗黙の期待をもって奢ったという解釈が可能であることから、買収が疑われるという論理展開でした。同じ理屈で言えば、小中高でも、授業中の不適切な言動を隠蔽するとか、体罰についての口封じをするとかいった動機で買収ということは十分に考えられることになります。小中学生の場合、むしろ対象は保護者というケースもありそうです。
 もちろんそのときの研修会の講師は、こうした解釈が成り立つのは特殊なケースで多くはないということも補足していましたが、私には「奢ることもダメなのか」と強く印象に残りました。それというのも、私自身、子供に「奢った」ことが何回もあったからです。 6年生を受け持ったとき教え子たちが「欽ちゃんの仮装大賞」に出たいと言い出し、代表の子供に頼まれ、テレビ局で行われた予選会に「引率」していったのです。帰りに、テレビ局近くの食堂で夕食を奢りました。一人500円程度で、6~7人いたでしょうか。審査員に酷評され落ち込んでいた子供たちを励ましたかったのです。
 でももし後日、私が体罰や差別発言でもして問題になったとき、その子供や保護者達が「奢り」に対する感謝の気持ちで私に有利な話をしたとしたら、それは立派な買収になります。私はその公務員倫理講習を受けた後は、小さな会食でも会計には気を遣うようになりました。だから、麻生氏の「奢ることが多い」発言に違和感を覚えたのです。
 どうなんでしょうか。

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