「贔屓の引き倒し」3月25日
『余禄 』欄に、生類憐みの令についてのエピソードが紹介されていました。『中野犬小屋には、たちまち10万匹の犬が集められたという。犬1匹に1日白米3合が与えられ、その総量は1日300石を上回ったそうな▲それで犬は幸せになったかといえば、そうでもなさそうだ。「山野を走ることもなく、小屋に詰められ、白米を食べて……病犬死犬はおびただしく。穴に埋められた」とは当時の文書だ』というものです。
犬というものの本質を考えることなく、人間が考えた「幸せ」を押し付けた結果、かえって犬を苦しめ不幸をもたらしたということです。過保護の弊害と言うこともできそうです。私はこのエピソードを読んで、子供たちと大人のことを連想してしまいました。
世の中には、子供を守ってやるのが大人の務めだとし、子供社会に介入することの危険性から目を背ける人たちがいます。学校に不審者が侵入した事件が起きれば、各学校にガードマンを派遣して巡回させるべきだと言い、いじめが問題になると、教職員や保護者有志で学校の敷地内を見張るべきだと要求したり、学校内の監視カメラを設置すべきだと主張したりする人たちです。近年は、さらにエスカレートし、我が子の安全を確保するためにスマホの位置情報ソフトを活用して24時間子供がどこにいるかを確認できるようにするサービスの購入者もいると言われています。
たしかに子供の生命保護、安全確保は大人の務めです。しかし、行き過ぎた介入は、子供の世界を狭め、そこでの人間関係を含めた様々な体験を委縮させる副作用があるのです。子供同士のトラブルや行き違いを自力で処理する経験、小さな悪事を共体験することによって得る連帯感や仲間意識の醸成、無駄遣いの後悔、ルールを破ることによって直面した危険、みんな子供の社会性を育み、成長する上で欠かせない体験です。そこで負うた小さな傷は、成長の糧なのです。
もちろん、小さな傷では済まずに、取り返しのつかない大きなダメージを負うようなことは避けなければなりませんが、要するに程度問題なのです。転倒を恐れ、中学生になっても補助輪付きの自転車に乗せるような過剰な保護は有害だという当たり前のことを言いたいだけです。
犬を閉じ込め米の飯をたらふく食わせる、というのはある意味楽なことです。それに比べて、犬本来の生活ができる環境を整え維持する方がはるかに大変です。子供も同じです。過剰な保護が大人が手を抜くための管理になってはいないか、常に自省する必要があります。