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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

義務教育は○○だった

2023-06-30 08:06:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「義務教育ってそういうことだったのか」6月25日
 毎週日曜日掲載の『てつがくカフェ』、今回のテーマは『毎日宿題が出て…なぜ勉強するの』という小5の子供からの質問について考えることでした。その中の1人マツカワさんの「回答」の中の記述に、なるほど!と膝を打ちました。
 マツカワ氏は、『日本では、皆に教育を受ける機会が与えられている代わりに「小中学校で習ったことはわかるし、できるよね」という前提で社会制度がつくられている』と述べているのです。
 私はこのブログで学校教育について語る際に、義務教育とそれ以降の高等教育は分けて考えるべきであると一貫して主張してきました。そして、義務教育にはある程度の画一性が必要であり、多様性は高等教育移行において重視されるべきとも主張してきました。しかし、私の表現力の拙さから、いまいちその主張を分かりやすく伝えることができていないと感じていたのです。それが、マツカワ氏の言葉で、実に簡潔に表現されていることに感動してしまったのです。
 義務教育は社会制度の前提をなしていたのです。義務教育修了者は少なくとも全員日本語の読み書きはできるという前提があるからこそ、電車の駅やバス停では、行き先が文字で書かれているのです。もちろん、盲目の人や日本語を理解しない外国の方にとっては、平仮名であったとしても伝達の意味をなさないものではありますが、我が国の社会制度は義務教育が前提なのですから、そこまでは考える必要がなかったのです。もちろん、今は多様性への配慮が進んでいますが。
 この字が読める、ということを私たちは当たり前のことのように考えていますが、人類の歴史を見れば、字の読み書きができない人が大半を占めているという時代は数百年も続いたのです。そして字が読めない人のために、ここは○○をするところですよ、と知らせるために、絵の看板や記号が作られていったのです。我が国でも、江戸時代には、そうした看板が町中に数多く存在したことは、北斎漫画などで知ることができます。
 こうした義務教育の特性を逆に見ると、義務教育の内容は、そのときの社会制度が必要とするもので構成され、不要なものは削除されていくということになります。例えば、今は簡単な英語は社会制度上必要だとされていますが、数十年後、米国の影響力が劇的に低下し、中国やインドが大国として大きな影響力を行使するようになったとしたら、小中学校で習う外国語は、中国語やヒンズー語になるかもしれないということです。
 字を書くことがなくなり、パソコンなどで「打つ」ことが普通になれば、「読み」だけが国語の指導内容となり、「書く」は授業では扱われない、まして筆順など不要な知識ということになるかもしれないのです。
 さらに言えば、社会の変化を後追いするだけではなく、こうした社会にしたい、その社会では、○○という知識や能力は必要ないから、指導内容から削除する、あるいはその逆にそうした社会で求められる能力は△△だから、今からこの内容を加えておく、というような形で、学習指導要領の改訂が進んでいくということにもなっていくかもしれません。
 こうした変化は後戻りが難しいものです。後になってやっぱり文字は手書きで掛けなければ、となってもそのじてんでは、99%の国民が字を書く能力を失い、教える人もいないというようなことになりやすいのです。現に、多くの少数民族の言語はそうして失われているのですから。そうそう、ハングルの発明により、漢字が書けなくなるように。
 日本人は新しい物好き、です。性急な先取りで、何か大事なものを失ってしまうことはないでしょうか。

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『何か」なんだけど

2023-06-29 08:27:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「人間も」6月23日
 『AIは村上春樹になれない』という見出しの記事が掲載されました。『人間とAIの境界はどこにあるのか』という問題意識の下、作家小川哲氏にインタビューした記事です。ちなみに、小川氏は、『AIの父と呼ばれる英国のアラン・チューリング』について東大大学院で研究していたことがある方だそうです。
 記事の中に引っ掛かる記述がありました。『足し算のできるゴリラは朝食のあとにブラックコーヒーを飲むか?』という問いに対して、チャットGPTの答えは、『ゴリラは一般的には足し算を理解することはできませんし、ブラックコーヒーを飲むこともありません。果物や葉っぱ、植物性の食物を摂取します』だったそうです。
 そしてこの答えについて小川氏は、『質問の答えになってない(略)足し算のできる「ゴリラ」はコーヒーを飲むかと聞いているのだから、問題の趣旨を理解していない』と評しているのです。だから人間のする答えではないと。そうなのでしょうか。
 私はこのチャットGPTの答えは実に人間的だと思いました。私が上記の質問をされたとして、その相手のと関係性によって答えの内容は大きく異なる(それこそが人間的)でしょうが、「ゴリラはコーヒー飲まねえよ」という趣旨の回答をするケースは少なくないと思います。
 あるいは、「ゴリラに朝食とか昼食とかいう概念はあるの?」と聞き返すかもしれません。質問に質問で返すというのは、日常的によくあることです。会話をつなぐ一つのテクニックとも言えます。また、「お前変人だな。どうすればそんなおかしなこと考えつくの」と答えではなく感想を述べてしまうかもしれません。
 もし、「特別な訓練を施した哺乳類や鳥類においては、ごく簡単な整数一桁の足し算の類に正解をする能力を有するという研究成果があり、その真贋については確定した結論は出ていませんが、高等哺乳類であるゴリラにおいて足し算ができると判断することが可能な個体が存在する可能性は否定できません。そうした個体についての質問と解釈し、後段の朝食後にブラックコーヒーを飲むことの可能性について考察すると、目に前にカップ等に入れたブラックコーヒーが用意されているという条件に加え、当該ゴリラが喉が渇いた状態であり、なおかつ人間がコーヒーカップから茶色い液体を飲む姿を目にする経験を重ねていた場合、飲むという行為を模倣し、口にすることはあり得ると考えます。ただし、その可能性はいくつもの条件が満たされた場合にのみ起こり得るものであり、実際にはその実現確率は相当に低いと考えます」とでも答えたとすれば、それが人間らしい答えとなるのでしょうか。
 私にはこの答えの方が非人間的な気がするのですが。AIについては素人中の素人なので、言っていることが的外れかもしれませんが、私は、問と回答の不整合、非論理性にこそ、人間ならではの「能力」が表れているように思うのです。
 学校教育でチャットGPTを活用する際、論理の枠に収まらない部分にこそ、これからの学校教育が重視し育てていかなければならない「何か」があると考えることが必要だと思います。「何か」を端的に言えないのですけれど。

 

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田中vs小堀

2023-06-28 08:27:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「小堀氏と田中氏」6月23日
 『田原総一郎の日本の教育の問題は何だ!?』という連載企画が始まりました。初回は、早稲田大学総長田中愛治氏へのインタビューです。その中で田中氏は、我が国の学校教育の問題点を『正解のある問題を出す教育をやっている』『答えのない問題を解くことをさせてこなかった』と指摘なさっています。
 そして辛辣な見方も披露なさっています。『(教員は)自分が想定する答えを言う生徒が可愛く、優等生だと思っている節があることにも問題があります。逆に予想していない答えを言う生徒は可愛くないと思いがちです』と。
 その通りです。私が今もメールのやりとりなどをしている教え子はまさにこのタイプの「優等生」ばかりです。猛反省です。とはいえ、この田中氏の指摘は、私もこのブログで再三してきたことと重なります。
 私は、子供を自分よりものを知らない未熟な者と見下し、子供の思いや発想、考えなど何の価値もないと考えている者は良い教員になれない、良い教員とは、子供がどんなことを口にするかワクワクして待ち、子供の一見奇妙な発言に対して「そんな見方もあったのか。今まで考えたこともなかった。今日は良い勉強をさせてもらったな」と思え、その感動や感謝を子供に伝えることができる者だ、という趣旨のことを繰り返し書いてきました。田中氏の主張と同じことです。私も捨てたものじゃない、かも。
 まあそれはそれとして、田中氏と田原氏のやりとりにはいくつか注目させられる指摘や意見がありました。田中氏は、正解のある問題を解く教育の源泉を『第二次大戦直後、日本の産業は荒廃し、科学技術も遅れていましたどうしようもない状態の中、欧米の戦勝国に追いつこうとしました(略)いかに早く追いつけるかのかを答えられる人材を求めるようになります』と、敗戦後に求めています。
 しかしこのことについては、私が先日このブログで取り上げた熊本大大学院教育学研究科准教授苫野一徳氏は『公教育が誕生した約150年前、その目的は上等で均質な兵隊や労働者の育成だった(略)しかし今の時代には合わなくなっている』と述べていらっしゃいます。戦後78年なのか、明治の学制以来150年なのか、どう捉えるかによって、その根の深さが違ってきます。当然対処法も、です。もし、田中氏の指摘が正しければ、明治・大正期の教育に戻るということも教育改革の一つに選択肢になるはずです。それは一般普通教育とエリート教育の二本立てということになります。もちろん、忠君愛国的な、あるいは歴史修正主義的な要素は除いてですが。どうなのでしょうか。
 次に気になったのは、正解を求める教育の要因として受験戦争を挙げた田中氏が、『基礎学力を問う試験で80%以上の正答があれば、社会貢献活動をしているとか、演劇が上手であるとか、数学の論理性が高いとか、音楽の才能があるとか、俳句が詠めるとか、それぞれの受験生の特徴を評価して、答えのない問題を解けるような人物を合格させてもいいと思います』と述べていらっしゃることです。
 田中氏の視野には、大学入試しかないのでしょうか。今や田中氏は指摘する受験戦争は、小中高の入試の方が激烈になっているのです。大学は定員割れが半数を超える状況ですが、小中高の入試は、「偏差値」が高い子供同士の競争となっているのです。しかも、受験生である幼少中の子供に対して、社会貢献活動だとか、演劇だとか、音楽だとかの才能を求めるということは、新たな習い事の負担を増やすことに直結します。しかもそれは、保護者の経済力や教育熱を測る物差しにはなっても、その子供自身の「才能」の発露であるか否かの見極めは非常に困難です。小中高の入試までは今まで通りで、大学入試だけ変えれば、正答を求める教育は変わっていくというのであれば、あまりに視野が狭いと思います。
 最後に、『日本の教育予算の少なさも問題』という田原氏の指摘に対する田中氏の見解です。『政治家から「教育は票にならない」と思われているからです(略)政治家に考えてほしいのは、児童手当のように子育て世帯にお金をばらまくような安易は施策では、有権者の評価は得られないということです。学校の先生の負担を減らす、悩みを持つお子さんたちが相談できるカウンセラー制度を作る、親御さんの不満に対応する人を学校に置くなどの個別的な仕組みを打ち出せばいい』とおっしゃっています。
 個別的な仕組みに予算を、という主張には賛成です。でもここで思い出してほしいのは、数日前に私がこのブログで紹介した、京都大准教授小堀聡氏が書かれたコラム、『[「維新」の行政] 普遍重視と個別軽視』の内容です。そこには、今や国民の支持を急激に高めつつある維新が『大阪での高校学費・保育料の無償化』というばらまきをし、その一方で『特定の人びとのニーズへの支出は、「既得権益」として削減された(略)貧困や障がいなど個別の困難を抱えた人びとの排除につながらないかと懸念する。実際、大阪市の特別支援学校の教育条件は、2016年に府に移管されたのち、低下した』と解説されていたのです。つまり、田中氏の指摘とは逆に、バラマキをする政治家が指示され、個別の課題に対応する施策を削る政策が歓迎される、ということなのです。
 どちらの指摘が正しいのでしょうか。私は残念ながら小堀氏の指摘が正しいと思うのですが。

 

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世論ならば弱者無視もしかたない?

2023-06-27 09:49:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ストンと落ちた」6月22日
 京都大准教授小堀聡氏が、『[「維新」の行政] 普遍重視と個別軽視』という表題でコラムを書かれていました。『維新の政策志向は何か』という問題意識でかかれたものです。その中で小堀氏は、主に財政学者吉弘憲介氏の分析を引用する形で論を進められています。
 それが「普遍重視」と「個別軽視」だというのです。私がこの表現に注目したのは、その説明に教育施策が例として使われていたからです。前者については、『大阪での高校学費・保育料の無償化や、さらにはその所得制限撤廃表明は、端的な例だ』とされ、後者については、『特定の人びとのニーズへの支出は、「既得権益」として削減された(略)貧困や障がいなど個別の困難を抱えた人びとの排除につながらないかと懸念する。実際、大阪市の特別支援学校の教育条件は、2016年に府に移管されたのち、低下した』と解説されていました。
 私は、維新が掲げる政策に違和感を覚えていましたが、その理由を分かりやすく解説された思いがしました。ストンと落ちたという感じです。しかしこの「普遍重視と個別軽視」という問題は、維新に限ったことではありません。学校教育政策を考える際に、常に視野に入れなければならない課題だと考えます。
 普遍重視ということは、多数派の利益を重視するということになります。学校教育でい言えば、通常の学校・学級で学ぶ純ジャパの子供は常に多数派です。一方、障害のある子供や外国語を母語とする子供は少数派です。制服に違和感を感じない生徒は多数派で、生まれたときの性別が女性だからスカートを穿かされることに違和感を抱く生徒は少数派です。何でも食べられる子供は多数派で、アレルギーがあり特定の食品を口にできない子供は少数派です。また、宗教の影響が少ない我が国では、決まった時間にお祈りをしなければいけないイスラム教徒の子供は少数派です。
 常に多数派に歓迎される施策を打ち出すことは、多くの市民の支持を集めることであり、少ない支出で大勢を満足させることができるという特徴があります。一方、少数派に配慮した施策は、それを実現しても政党等への支持が増えることは期待薄ですし、支出の割に満足を得られるのはごく一部に限られます。
 もう少し具体的に述べましょう。日本語通訳を学校に派遣するためには、人件費が必要になります。そして人件費は継続してかかる経費なので、一月分は少額でも、トータルではかなりの額に膨れ上がるという性質があります。それなのに、その恩恵を感じられるのは、外国語を母語とする数人の子供だけなのです。残りの100人以上の子供にとっては、直接的には何のメリットも感じられないのです。
 私はこのブログで、インクルーシブ教育の導入を求める意見に対し、賛成だが、賛成者を広げるためにはきちんとした財政措置をする場合の予算額を試算し、市民一人当たりがどれだけの負担増になるかを明示し、その上で誰もが自分らしく生きることができる共生社会が実現することのメリットはその負担増を上回るという論理的な説得をする必要があるという主張をしてきました。
 そうした賛成論でなければ、総論賛成各論反対という結果に陥り、理念には賛成だけどそんなにお金がかかるとなると…、ということになり、そんなおカネがあるならば給食無償化に、標準服の割引に、部活動費の補助金に、もっとお金を回してほしいという声の方が強くなってしまうことが目に見えているからです。
 そしてそうした声に応えているのが「普遍重視と個別軽視」の思想なのです。学校教育がその思想で進められてよいのか、皆で考えるべき問題であると考えます。

 

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待っていればいい

2023-06-26 08:11:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「したくないことを強制する」6月22日
 読者投稿欄に、英語講師S氏による『気付いた時が「学びの時」』というタイトルの投稿が掲載されました。その中でS氏は、先日の期末テストの準備が辛いという投稿者に向けて、『勉強を何もせずにテストを受ければいい』という提案をしています。その意味するところは、期末テストを『授業だけでどの程度の点数が取れるか検証する』機会だと思えばよいということでした。
 それで0点だったらどうするのと思いますが、それは教員の教え方が悪いということになるのでしょう。そう考えれば、テストの結果は子供の責任ではなく、気が楽になります。そしてS氏はさらに、『学生時代に勉強をすることのメリットは多くありますが、それに自分が気付くまで何もしないという方法があってもいいのではないかと思います。気付いた時が、本当の「学びの時」ですから』と述べていらっしゃるのです。
 なんだか嬉しくなってしまいました。おっしゃっていることはその通りです。馬を水辺に連れていくことはできるが、無理矢理水を飲ませることはできない、と言います。意欲や興味・関心をもたせることはとても難しいことなのです。それを、S氏は必要ないと言い、したくなるまで待っていればよいというのですから。
 学校の教員は、勉強したくないという子供にどうやって勉強させるか、日々苦労しています。授業についての苦労の90%は、意欲付けであると言ってもよいくらいです。意欲付けを放棄し、やりたくない人はやらなくていいよ、という教員がいて、授業中に漫画を読んでいる子供、スマホから目を離さない子供、ずっと私語をしている子供がたくさんいる状況になったとして、保護者はそれを良しとしてくれないでしょう。もちろん、校長も教委も教員に対して強い態度で指導をし、改善がなければ処分を下すでしょう。
 私も教員時代には、意欲付けのために様々な工夫をしてきました。模擬体験をさせたり、実際に体験している人を招いてじかに話を聞かせたり、子供たちがもっている常識を覆す事実を提示するために教材研究を深堀したり、といった具合です。
 そこでもたせた興味・関心・意欲を学習の推進力として維持させるためにも、工夫をしました。導入部で意欲をもたせても、回っていた駒がやがて勢いをなくした折れてしまうように、子供の意欲はそのままでは長続きしないものだからです。五感を使う体験やディベート、ゲーム的要素を取り入れた小集団活動など、先行実践も参考に知恵を絞りました。
 子供がふれる資料も、漫画やイラスト、音声や映像とさまざまな種類を用意し、「資料が難しくて分からない」とやる気を失わないように配慮しました。また、子供に自分が考えたこと、分かったこと、疑問に感じたことなどを付箋紙を使って図化させて、教員が適切な助言ができるようにする試みも開発しました。
 それでも正直なところうまくいかなかったケースの方が多いというのが実情です。S氏の「本当の学び時」論に従えば、こうした苦労から解放されるのですから。教員は楽ができます。
  最近はやや下火になっていますが、かつて学習観の大転換として、生涯学習が叫ばれ、人生のどの時点においても、その人が学びたくなったときに学びが確保されることが望ましい学びの形という考え方が主張されました。S氏の発想はその主張と非常に近いと思います。そうした大きな流れの中で学校や教員の役目が見直されるのであれば、教員は教卓で待機し、勉強したい、もっと知りたいという子供が寄ってくるのを待つという未来が実現するかもしれません。まあ、夢ですが。 

 

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できない中3とできる小3が一緒に…

2023-06-25 09:01:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「本当?」6月21日
 『学校に必要な「個別の学び」』という見出しの記事が掲載されました。熊本大大学院教育学研究科准教授苫野一徳氏へのインタビュー記事です。その中で苫野氏は、これからの学校教育についていくつもの提言をなさっています。
 『公教育が誕生した約150年前、その目的は上等で均質な兵隊や労働者の育成だった(略)しかし今の時代には合わなくなっている』という認識に基づき、『公教育の目的とは、すべての子どもたちが自由に生きる力を育み、民主主義を支える自由な市民を育てること』という主張をなさっているのです。
 そしてその具体像として、『学校に求められるのは「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」』を打ち出されています。『一斉授業中心ではなく、自分のペースで自分に合った学び方で学べる』『助け合える緩やかな協働性のある環境も必ず作る』『「探究」をカリキュラムの中核にする』ということです。
 私は、指導主事時代に、新しい授業の形を図に表したレジュメを用意していました。それは、「一人一人の子供が感じた疑問から学習問題を作り仮説を設定する」、「自分の問題解決に役立つ情報、自分に合った形式の情報を選択して自分の思考過程を振り返りながら調べる」、「自分なりに到達した仮の解を集団の場でぶつけ合い、そこでの刺激を基に修正する」「自分なりの解と新たに生じた疑問を自分なりのやり方で表現する」という学習過程をまとめたものでした。
 それは、苫野氏が言うところの、個別化・協同化・プロジェクト化に対応するものではないでしょうか。もちろん、ある程度共通する部分があるというレベルですが。そんなわけで、私は苫野氏の提言に一定の共感を覚えました。また、公教育の使命を、民主主義を支える市民の育成とする見解にも大賛成です。
 ただ、いくつかの疑問も残りました。それは、苫野氏が、日本の公教育という表現で問題点を語られていることです。私は、公教育を、義務教育と高等学校以降の教育に分けて考えるべきだという立場です。大雑把に言えば、義務教育において大切なのは、その後の学びの基盤となる基礎的な能力をすべての子供に保証することであり、その性質上からある程度画一的であることは問題ないと考えるのです。A校とB校、C市とD区で学ぶ内容、身に付けた知識や能力に大きな違いがあるというのは好ましくないということです。
 そして、高等学校以後、多様な選択肢を用意し、途中で選択を変える自由や戻ってのやり直し、卒業後の再学習などが可能となる柔軟なシステムを作るというのが望ましい学校教育像だと考えているのです。
 さらに、『個別化・協同化・プロジェクト化を進めれば、異学年の子どもがともに学ぶこともできる』という提言については、「?」でした。既にいくつかの自治体で取り組みが始まっているということでしたが、どんなものなのでしょうか。今までも異学年の子供が共に学ぶという実践はありました。異学年交流的なものもあれば、文化系の歴史部で中1から3年までが一緒に地域の文化遺産を調査するというような例もあります。小規模校で、4~6年生が総合的な学習の時間にテーマごとにチームを作るということも珍しくありません。
 そうした活動を増やしていくということなのか、数学が得意な5年生の子供が中3の生徒と共に授業を受けるというイメージなのか、よく分かりませんでした。
 あるいは、かつて大阪府知事などを務めた橋下徹氏が提唱した落第制度、あるいは飛び級制度などのように、学年の壁を崩すことを意図しているのでしょうか。でもそれでは、苫野氏が、現在の学校教育の問題点として指摘する『校種、学年、障害のあるなしなどで子供たちを分断している。その結果、極めて同質性の高い人としか日常生活を共にできない』と、学校教育が分断の元凶になりかねないという考えと矛盾するのではないでしょうか。同じ程度の学力の子供としか授業=学びの場を経験できないのですから。続編を期待したいです。

 

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楽をしたい子供は○○すべし

2023-06-24 08:30:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「生きていくのに役に立つ」6月20日
  『全国の中学生に、さまざまな分野で活躍する人が語る』コーナー、『14歳の君へ わたしたちの授業』は、作家津村紀久子氏が登場されました。国語の授業ということでしたが、津村氏が書かれていることは、その枠を乗り越え、生きていく上で役に立つことばかりでした。
 まず、『文章が書けると何がいいか。自分を知る手がかりになります(略)メモでいいから、考えたことを書き残すのは大事』です。私もこのブログをメモ代わりに使っています。書いているのは「考えたこと」。津村氏の教えの通りです。私は老齢で頭も固くなってしまっていますから、ボケ防止の意味合いが強くなっていますが、若い方でまだ自分というものが固まっていない、自分でもよく分からないという人には、「書く」ことの意味はとてつもなく大きいと思います。
 蛇足ですが、今月、私の教え子が初めての書籍を出版しました。お祝いのメールを送ったところ、「先生が毎日200字作文で書く力を鍛えてくれたおかげです」という趣旨の返事をいただきました。嬉しかったです。少しは役に立ったのかと。教員は、子供に「書く」習慣を身に付けさせることを意識すべきだと思います。
 なお、津村氏は今の時代ならではの注意事項も述べていらっしゃいます。それは、『SNSは偽りの自分を表現しがちだから、自分だけのメモや日記に書く方がいい』です。他人に読まれることを意識して書くと、本当の自分が出せない、見栄えの良い文章を書くために、誰かの意見のコピー、多数派の価値観への迎合、表面的な一般論、そんなものを書き溜めても、自分の理解や成長にはつながらないということです。
 次は、『本や新聞を読むのは知識を得る近道です。知らないことを経験できます。人の心に興味がある人は小説を読むといい』です。ポイントは後段です。小説は面白いだけでなく、人の心に対する理解を深めてくれるということです。人の頭脳は、AIに敵わなくなってくるでしょう。でも、心は人間だけのもの、人間を人間たらしめているのは心なのです。それなのに心が分からないなんて、それではロボットに囲まれて生活しているのと変わりません。
 近年、高校の国語で小説が軽視される改悪が話題になりました。でも、小説は人を人らしく成長させてくれるのです。大いに小説を読みましょう。またここで少し脱線しますが、私は教員時代に私の好きな作家の本を教室の後ろに並べて学級文庫を作っていました。昨年、教え子から学級文庫についての思い出を聞かされ、私自身は記憶も曖昧になっていたことが、子供にとっては印象に残るものだったと知りました。やはり、小説はいいのです。若い教員の皆さんは、教え子へのお勧めの小説、何作思い浮かべることができますか。
 そして最後に強烈な言葉です。『世の中は勉強ができると楽になる仕組みになっている』。凄いですね。ズバリと本質を突く言葉です。勉強ができると得をするとか有利だとか言う人はいますが、「楽になる」はなかなか言えません。別に得したくなんかない、という子供はいそうですが、辛い学校生活を送る子供にとって「楽になる」は魅力的でしょう。
 

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悪いことをした罰だ、はおかしい

2023-06-23 08:54:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「見直しが必要?」6月20日
 精神科医香山リカ氏が、『人生は昔話とは違う』という表題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、あるうつ状態の男性患者について書かれています。『その人は、家族を失ったり勤めていた会社が倒産したりと不幸なできごとが続き、深刻なうつ状態になっていた。「どうしてこんなことになったのでしょう(略)「こうなった理由を教えてほしい」という気持ちも分かる。「私が何か悪いことしたからではないか」とつい自分を責めたくなる人もいるだろう。そのとき、私は確かこう答えた。「あなたは何も問題はありませんよ。人生のいろいろなできごとって誰にでも順番に起きるだけで、その人の行いとは関係ないのではないでしょうか」』。
 私もそう答えるでしょう。それが常識というものです。しかし、その後の香山氏の考察には考えさせられました。香山氏は、『多くの昔話の結末は、正直者には良いことが起き、ずるい人には不幸なできごとが起きる。それを読んだ子どもの一部は「私も正直に生きよう」と前向きに考えるのではなく、「不幸なできごとが起きる人は、悪いことをしてきたんだ」とおもってしまうのではないか』と述べていらっしゃるのです。
 昔話には、確かに香山氏が指摘するような傾向があります。そして、そうした昔話は、学校教育において、今も多くの子供たちに提供されているのです。国語の教材や道徳の教材、あるいは文化祭で演じられる劇の原作、図書室に置かれている低中学年向けの図書、実に多彩です。
 そしてそれらは、香山氏の指摘通り、因果応報的な価値観を子供に刷り込む働きをしている、というよりもそうした効果を期待して教員が与えているという側面があるのです。近年は、小学校の低学年の子供もだいぶすれてきましたが、それでも嘘はいけない、自分だけよければいいという考え方はいけない、真面目に努力し続ければ報われる、他人に親切にすると自分にも良いことが訪れる、などといった価値観を刷り込むには、こうした勧善懲悪因果応報的な話のもつ力はとても大きいのです。だからこそ、教員も抵抗感なく使いますし、保護者も概ね歓迎するのです。実は私も無意識のうちのそうした効果を期待していた一人でした。
 それだからこそ、香山氏の指摘する「不幸な目に合っている人は悪いことをしてきたんだから罰を受けて当然だ」というようなマイナス効果への注意喚起にはドキッとしたのです。かといって、悪の限りを尽くした極悪人が富と権力を得て高笑いするような話や、心優しい真面目な人が次々と不運に見舞われ不幸のどん底で喘ぎながら死んでいくような話を、現実はこんなものだと提示するのも躊躇われます。
 そんな話に触れさせたところで、「現実は厳しい。だから運や他人の好意に期待するのではなく、自分の力で人生を切り拓いていく強い信念が必要なんだ」とはならず、「まじめに生きたってしょうがない。将来なんて考えても意味がない。今を楽しめばいいんだ」というような刹那的な考えを持つ子供が増えるだけのような気がします。
 私が小さかった頃、障害者に対して「悪いことをすると神様の罰が当たってあんな人にされちゃうんだよ」という大人がいたものです。とんでもない人権侵害であり、差別です。でもこうした大人の中には、香山氏が指摘したように因果応報的な説話の影響があったことは間違いないように思えます。同じ過ちは繰り返したくないのです。どうすればよいのでしょうか。

 

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スキルって何?

2023-06-22 08:41:46 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「内容は?」6月19日
 『いじめ防止法10年 命守る仕組みの再構築を』という見出しの記事が掲載されました。『いじめ防止対策推進法が成立して10年となる。だが、状況は改善していない。理由を分析し、問題点を洗い出さなければならない』ということで書かれた記事です。
 その中に気になる記述がありました。『大切なのは予防と初動対応です。教員のスキルを向上させることが不可欠ですが、この10年で改善していません。研修を充実させるよう、校長や行政の責任を明確にする必要があります』という指摘です。
 前段については、まったくどの通りだと思います。ただ、後段に述べられていることがよく分からないのです。誤解のないように言っておきますが、反対だとか疑問だとかという意味ではありません。純粋に分からないのです。
 「教員のスキル」とは何なのでしょうか。教職には、様々な知識や経験、技能が必要です。授業が上手い教員、子供の話を聴くのが上手く教育相談のスキルがある教員、集団に規律をもたらすことができ学級経営に秀でた教員、警察やカウンセラー、スクールソーシャルワーカーなど関係者との連携、人脈が得意で問題行動への対応が巧みな教員。
 本来ならば全教員がこうした能力をもっていることが望ましいのですが、実際には、それぞれの教員がお互いの得意不得意を補い合って組織で教育活動を進めているのが学校です。今、一部を例に挙げましたが、ここで言われている「教員のスキル」とはどれなのでしょうか。あるいはどれとどれなのでしょうか。もしくは、上記の例示とは関係のない別のスキルなのでしょうか。例えば、新たにいじめの舞台として重要視されるようになってきたネットに対する知識とか。それがよく分からないので、その後に続く部分も分からないのです。
 「10年で改善していない」ということですが、それは何かの調査の結果なのでしょうか。それとも単に自殺に結びつくような深刻ないじめが減らない、という結果から類推されたことなのでしょうか。もしそうであるならば、深刻ないじめが減らないのには、別の要因があるかもしれません。子供の生活に占めるネットの影響力の増大など。
 このように分からないまま、「研修を充実」と言われても、どのような内容や分野の研修が必要なのかイメージできないのです。私はこのブログで、教員の授業力を向上させ、授業の内容が理解できないという子供を減らせば、学校生活における精神的な重圧が減り、子供がストレスを感じることが少なくなれば、その発散作用の一つとしてのいじめも減ると主張してきました。でも、この指摘をした人は、授業力というような土台となるスキルよりももっと直接的な即効性のあるスキル(そんなものがあるのか分かりませんが)をイメージしているようなのです。
 そして最後に、「校長や行政の責任」ということについてです。行政とは、教委のことなのでしょうか、首長のことなのでしょうか。地教行法が改正され、地方教育行政における首長の権限が拡大されたのは、いじめ対応などにおいて首長主導の方が素早い対応が可能になるから、ということも理由の一つでした。その流れからすると、首長部局にもっといじめ問題に関与せよという意味にも取れるのですが、そうなのでしょうか。
 記事としてではなく、社説として、M紙の考えを明確に示してほしいと思います。

 

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学びと休暇

2023-06-21 08:50:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「視点の宝庫」6月14日
 『「ラーケーション」広まるか』という見出しの記事が掲載されました。『親子で過ごす時間を増やそうと保護者の休暇に合わせて子どもが平日に学校を休んでも休日扱いしないという全国初の試み』、つまりそれが「ラーケーション」なのですが、その「ラーケーション」を愛知県が導入することを報じる記事です。
 記事では、『産業界は弾力的な有給休暇取得を奨励している』とし、その動きの合致するという賛成意見もあれば、『親と博物館などに行き、深い学びができる子がいる一方で、親がそうしたことに無関心なため、制度が使えない子も想定される』という反対意見も紹介されていました。
 さらに、肯定的な評価として、『土日や夏季休暇は渋滞や施設の混雑で、出掛けてもストレスがたまる。平日の閑散期に子どもと一緒に動けるメリットは大きき』という保護者の声や、『休んだ分の学習のフォローは自宅でやるということになっているが、親は当然、『学校がフォローすべきだ』となる。学校は今でも忙しいのに放課後にラーケーションを取った子のために補習タイムなんてできません』という否定的評価の学校関係者の声も紹介しています。
 面白いです。「ラーケーション」を巡る議論では、学校や教育についての様々な視点が提供されています。産業界の有給取得との関連で評価する声には、学校<経済ということを当然の前提としている価値観が窺えます。学校や子供に制度を合わせるのではなく、産業界にとって都合の良い制度に学校が合わせればいい、という考え方です。子どもは社会の宝、子供は社会で育てるという発想が注目される現在ですが、社会には企業は含まれない、ということなのでしょうか。
 親の関心度などによって、制度を使えない子供がいるという反対論について言えば、反対であるにもかかわらず、「ラーケーション」を良いことと評価している点が皮肉です。「ラーケーション」の教育的効果が低いのであれば、使わない子供について心配する必要はありません。教育効果が見込まれるからこそ、できるだけ使わせたい、使えない子供が不利益を被る、という論理展開になるのですから。「ラーケーション」は本当にそんなに教育的な効果が高いものなのでしょうか。
 さらに、渋滞は混雑を避けるメリットを挙げる声については、「ラーケーション」=お出掛けという認識が透けて見えます。家でDIYに取り組んだり、市民農園で農作業をしたりするといった活動が無意識のうちに除外されているのです。それはつまりこの制度には、観光需要を満たす、繁忙期と閑散期における観光業の不均衡を均すという経済的な思惑が根底にあることを示しています。
 また、学校で補習タイムを懸念する学校関係者の心配には、学校が保護者の要望をはねつけられないという我が国の悪弊が端的に表れています。これは30年ほど前から続いている「学校=サービス機関説」の影響に学校関係者が今でも毒されていることを示しています。学校は、教委は、毅然として保護者の要求を退けるべきです。どんなに苦情があったも、です。もし、ズルズルと保護者の要望に押し込まれてしまうようであれば、教員の多忙化を食い止めることなど不可能です。そして、教員志望者減の解消もできないでしょう。
 そしてあと2つ、単なる賛成・反対とは少し違う意見があります。まず、『可処分所得の多い家庭や、ゆとりのある働き方をしている家庭はいいが、そうでない家庭は生活格差を自覚する制度になってしまう』という指摘です。その通りでしょう。でも、生活格差を自覚することは悪いことなのでしょうか。
 私は子供時代、我が家は決して豊かではないということを自覚していました。ですから、たまに祖母から「お菓子を買ってあげる」と言われても、遠慮するような子供になっていました。父も母も精一杯働いていましたが、祖父が病気で寝たきりになっていたり、未婚の叔母が2人もいたりということで、古い借家住まいで、洋服は母が縫ったものを着ていました。でも、皆真っ当に生きているということで恥ずかしいと思ったことはありませんでした。そういう感覚こそ、子供時代に身に付けるべきなのではないでしょうか。自分の家の経済状態を察することもできず、「みんな持っているのに僕だけ~」というような文句を言って親を悲しませる、そんな子供を育てるよりウチは裕福じゃないんだから我儘はよそうという思慮がある子供の方が何倍もよいと思うのですが。
 そして最後に、何を学び(ラーニング)と判断すればよいのかという声に対する『バーベキューでもキャンプでもいい。自分たちで火をおこすとか食材を切るとか、それらも学び』という回答についてです。学びには、学校などが担うことが相応しい意図的計画的な学びと家庭や地域社会が担うことが相応しい非意図的偶発的な学びがあります。我が国は、家庭の教育力が低下し、学校での学びばかりになり、後者の学びが足りないという現状認識から、生活科や総合的な学習の時間が創設されました。しかしそれは苦肉の策です。やはり本来は、非意図的偶発的な学びは家庭が担うべきなのです。そうした意味で、学校は「ラーケーション」で何を学ぶかということなど気にせず、家庭に丸投げすべきなのです。それこそ本来の在り方なのです。
 「ラーケーション」、いろいろなことを考えさせてくれる記事でした。

 

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