ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

伝えることが求められるわけ

2017-02-28 07:54:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「知らせるということ」2月19日
 心療内科医海原純子氏が、『疲労でなくフローへ』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、同僚の教育学部教授の効果的トレーニングについての話を紹介なさっています。『輪投げをして、何の練習もしないで10回投げて10回入るとやる気がなくなってしまう。逆に、練習しても10回投げて全く入らないと、これもやる気がなくなってしまう。一番効果的なのは、何も練習しないと5回しか入らない。でも、練習すると7~8回入るようになる、というレベルを設定すること。これがいわゆるフロー状態で練習できるコツです』というものです。
 ちなみに、表題にもなっている『フロー状態』とは、『時間感覚を忘れ高い集中力をもって活動できる状態』のことです。海原氏の同僚の教授が言っていることは、教育に携わる者の間では「常識」となっていることです。難しすぎたり大変すぎたりする目標を示すと子供は学習意欲を減退させ、簡単すぎたり楽すぎる目標も不適切ということは、心理学の理論を学ばなくても、ある程度経験を積んだ教員であれば、自然と体得しているものだからです。
 こうした「常識」は、授業設計にも生かされており、その前提として子供の実態把握の必要性が強調されているのです。研究授業などの学習指導案に、「児童の実態」というような項目が設けられているのは、そうした理由があるのです。
 さらに、学習指導案の「指導上の留意点」等の欄に書かれていることは、子供が躓きやすく、自力での目標到達が難しいと予想される場面で、教員がどのように助言するか、どのような学習活動を設定するか、どのような内容の資料に目を向けさせるかといった事項であり、一度低下しかかった子供の学習意欲を、再び戻す、上記の言い方をすれば、困難すぎる課題に直面しやる気をなくしつつある子供をフロー状態に戻すための配慮点なのです。
 ここまでは、経験の乏しい教員であっても、良く理解されていると思います。しかし、これだけでは足りないのです。海原氏の同僚教授が示した輪投げの例を思い出してください。輪投げは、入った回数という形で、本人が結果を確認することができます。つまり自己評価が可能なのです。一方、通常の授業の中では、子供は自分の現在位置を知ることができません。着実にゴールに迫っているのか、まだ道半ばなのか八合目まで来ているのか、この道は頂上につながっている道なのか、脇道に逸れ迷路にはまりこんでいるのか、五里霧中状態なのです。これでは、学習意欲は湧いてきません。
 そこで重要になるのが、教員による評価なのです。教員が、一人一人の子供に対して、現在位置を示し、これから進む方向を確認してやることが必要になるのです。これこそが教員の存在意義であり、専門的な技量が求められる部分でもあるのです。事前に準備しておくという側面よりも、その場で一人一人に応じて臨機応変に対応するという側面の方が強く、先輩教員のアドバイスを受けることもできなければ、時間をかけてデータ分析をしているヒマもありません。全て自分一人で即決して行動に移していかなければならないのです。
 私が、全ての授業に「評価」は不可欠、評価力こそ教員力と言ってきたのは、そういう意味なのです。そして、評価とは成績をつけたりランク付けしたりすることではなく、子供に伝えるという行為を伴ってこそ完結するということも、この例でお分かりいただけると思います。

 

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両端からの連携

2017-02-27 07:40:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そうなのか!」2月17日
 『論点 理想的な学制とは』という特集が組まれ、3人の方がそれぞれの立場から、中高一貫校や小中一貫校などについて論じていました。正直、従来から言われてきた指摘の繰り返しという感じで、あまり刺激は受けませんでした。ただ、本筋とはずれる部分で、注目した記述がありました。
 立教大学グローバル教育センター長松本茂氏が、『小中高と大学の接続が重要』という表題で述べられている中に、『小中高の先生には大学の講義を見学しに来てほしい』とあったのです。つまり、小中高の教員は、大学の講義から望ましい授業の在り方を学ぶことができるはずだ、という主張なのです。そして、具体的に学ぶ内容として想定されているのが、『グループワーク、プレゼンテーション、リポート執筆など、大学が取り入れているような授業』なのです。
 私は今までこのブログで、小中高の教員、授業を比較し、教科の親学問とでも言うべき歴史や物理、化学などについての知識は中高の教員の方が豊富だが、教える技術や能力は小学校の教員の方が高く、教員が授業のプロ、教える専門家である以上、中高の教員は小学校の教員の授業に学ぶべきという趣旨の主張をしてきました。教委勤務中に、小中高の授業を見てきた経験からの主張でした。
 こうした主張をする中で、私の視野には大学の講義は一切入っていませんでした。大学の講義を見学した経験もなく、小中高大という流れの中で、大学は中高的だという思い込みがあったのも事実です。それだけに、松本氏の指摘に衝撃を受けたのです。
 一方で、グループワークとは、小学校で定番といってよいほど普通に行われている学習班などによる調べ学習、小集団の話し合いと同じものなのではないか、プレゼンテーションとは、個人や班による発表と同じではないのか、リポート執筆は、歴史新聞や歴史紙芝居などのまとめの作品作りに近いのではないか、といった疑問も浮かびます。つまり、発達段階の違いや対象となる学習項目の数の違いなどから全く同じになることはあり得ないものの、ごく近い学習(研究)活動が展開されているのではないかという思いを抱いてしまうのです。
 小中高の教員がともに学んだり、研修を受けたり、研究をしたりする機会は既にあります。都の教職員研修センターなどで行われる研修がそうですし、自主的な場としても、私自身が教員時代に研究発表した全歴研の小中高連携の部会などがありました。でも、小大の連携はほとんど行われていないはずです。最も遠い関係、1条校の中の両端に位置する小大の授業と講義の在り方について学び合う場は、学制の在り方とは別に今すぐにでも始めるべきだと考えます。
 

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教員構成のゆがみ

2017-02-26 08:54:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員構成の歪み」2月16日
 『英語中核教員 負担重く』という見出しの記事が掲載されました。学習指導要領改訂に伴い、英語が正式教科として導入される小学校の現場をレポートする連載記事の2回目です。その中に、『英会話教室の講師を務めた経験があり、現在は東京都内の小学校に勤務する40代女性教諭は、教員間の力量の差も問題になると感じている。校内研修で、英語とは無縁の時間が長かったベテラン教員の英語を聞いてがくぜんとした経験がある』という記述がありました。
 教員の差が子供の習熟度の差になるという懸念ですが、私は自分の経験から、別の懸念をもちました。それは、ベテラン教員の大量退職です。かつて、教員の職務遂行にパソコンの操作が不可欠となった時期に、まだ定年まで数年残していた50代の教員たちが、「今からそんなことを覚えるのは…」「できない自分を見つめるのが嫌で」「今まで偉そうな顔をしていたのに、こんなこともできないのか、と後輩に思われるのはプライドが許さない」というような理由で、早期退職を選択したケースを知っているからです。
 ベテラン教員にとって、英語の指導はパソコンの操作よりも深刻です。当時は、パソコンは校務処理に使われることが多く、子供の前で恥をかくことは比較的少なかったのです。また、習得も英語よりは容易でした。しかし、英語の発音やヒアリングは、50代になるとなかなか厄介です。それくらいなら…、と退職を選ぶ教員が現れるはずです。
 今、小学校の現場は、ベテラン、中堅教員の比率が減り、若い教員が増えてきつつあります。そのバランスがさらに崩れ、若手を指導する教員、校務を担う教員が減ってしまうことは、学校の組織としての動きを弱めてしまうのです。
 今更英語導入を遅らせるわけにはいきません。そうであれば、ベテラン教員の大量退職問題について、文部科学省と各教委は、早急に対策を立てておく必要があります。手だては英語専科教員の配置しかないと思うのですが。

 

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悪いのは担任だけじゃない

2017-02-25 07:52:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「悪いのは」2月14日
 『愛知・中3自殺 担任 保護者対応後回し』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『体育祭で生徒がけがをした後、保護者からの問い合わせを後回しにした理由が「教員たちの打ち上げへの参加」だった』ことが、保護者の不審をかった理由の一つだということです。ちなみに生徒のけがは骨折だそうです。
 病院に連れて行った母親からの電話に「用事があるから明日」と言い、居酒屋に向かっ担任が問題なのはもちろんですが、この中学校の体質にも問題山積という思いです。記事では、事故の報告が教頭に上がっていなかったと書かれていますが、これは担任だけの問題ではありません。けがをした生徒は保健室で治療を受けているはずです。つまり、養護教員は生徒のけがという事実を知っていたはずです。そして、消毒したり、カットバンを貼っておけば済むけがではなく、保護者が付き添って病院に行くという程度のけがであることも、です。そうであれば、担任がルーズな人物であっても、そこで教頭への報告があるはずなのです。そうすれば、教頭が担任に問い質すことができ、その後の対応を指示することもできたはずなのです。
 また、居酒屋での飲み会に参加した教員の中にも、けがという事実を知っていた者がいたと考えるのが自然です。生徒が痛がっている姿を目撃していたはずですから。それにもかかわらず、「○○先生、けがしたA君はどうなったの?呑んでて大丈夫なの?」と注意喚起する者がいなかったとすれば、組織として動く学校の一員としての自覚が備わっていないことになります。おそらく10人以上いた参加者の中にそうした教員が一人もいなかったのだとすれば、恐ろしいことです。
 学校管理下で子供が怪我をすれば、学校側に過失がなくても、勤務時間外でも、当日のうちに家庭訪問し、お見舞いをして、子供には励ましの言葉を、保護者には謝罪と必要な対応の説明をするというのは教員として初歩中の初歩です。47歳のベテランである担任に改めて指導するのの恥ずかしいくらいのものです。まさか、47歳の担任は中途採用の初任者で、他の教員も全員1年目2年目の若手ばかりということはないでしょう。
 校長の日頃の指導が問われます。

 

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学びの場、という原点に

2017-02-24 07:31:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「原点を」2月10日
 PTAについて、3者が論じる特集記事が組まれました。その中で公益社団法人日本PTA全国協議会会長寺本充氏が述べている内容に注目させられました。寺本氏は、『PTAは元々、子ども同様、大人にも学びの場が必要だということで作られた社会教育団体だ』とおっしゃっています。
 その通りです。PTAは、戦後、米国の占領教育政策の一環として作られたもので、その趣旨は、寺本氏の指摘通りなのです。全国のPTAを束ねる立場の方として、当然の理解です。しかし、その後寺本氏は、『運動会やお祭りなど地域の行事に準備段階から携わることもでき』『知り合いが増え、学校の情報も入ってくる』などと、PTA活動の利点について述べています。こうした事項は、学びの成果だといえるでしょうか。私にはそうは思えません。知り合いを増やすことは、それ自体当人を向上させたり成長させたりすることにはつながりませんし、PTAに加入しないと学校の情報が得にくいのであれば、それは学校が主体的に改善すべきことです。準備段階から携わることも、多くの場合、学ぶという概念とは合致しません。もちろん、何らかの経験をするわけですから、それなりに得るものはあるでしょうが、それならば別の経験でも得るものはあるのですから、わざわざPTAに加わることはありません。
 つまり、同じ年頃、成長段階にある子供の保護者という共通点をもつ成人が、故人ではなく組織を構成することによって体験することができる学びを準備するのでなければ、本来の趣旨とは異なってしまうのです。では、どのような活動が考えられるかといえば、学習指導要領の改訂で我が子の学校生活はどのように変化するのか、というテーマで、講師を呼んで話を聞き、それを基にいくつかの疑問別に小グループを作り、半年間の期間と予算を与えて調査研究を行い、発表会でその成果を共有し合うというのはどうでしょうか。
 それ以外にも、子供の権利条約について、今話題の「アドラー心理学」と子育ての考え方について、発達障害・子供のLGBT・小児成人病・家庭での性教育などの課題別研究など会員の問題意識に応じたグループ学習などもニーズが高いでしょう。いずれも、小中高などの子供をもつ保護者ならではの関心事項です。
 一般的な規模の小学校なら、PTA会員は700人。月200円の会費を取っても、年間150万円以上の予算を確保できます。自治体からの補助金も加えればさらに充実します。個人では呼べない講師もPTAという組織でなら招聘できます。予算面だけでなく、PTAや学校からの依頼となると、専門家を呼びやすいですし、企業などが依頼するケースに比べて少ない謝礼できていただける場合が多いものです。
 こうした学びの場であれば、参加者は増えるはずです。今、多くの保護者は様々な情報の中で、どの情報が石でどの情報が玉か分からずに右往左往しているのですから、需要は多いはずです。原点に立ち返るときなのです。

 

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男の子に対する意識変革

2017-02-23 07:44:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「男児ならば」2月9日
 『男児ポルノ168人被害か』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『男児のわいせつ動画などを撮影したとして、神奈川県警などは9日、小学校臨時教員、橋本顕容疑者ら男6人を、強制わいせつや児童ポルノ禁止法違反などの容疑で逮捕、送検した』ということです。
 逮捕送検された6人の中に無職T(66)とある人物は、元小学校教員で、私も間接的に知っている人物でした。彼は、国語の指導法の研究で都の研究員を務め、退職後も優れた指導力を評価され、S区の教育研究所で若い教員の指導に当たっていた経歴の持ち主です。我が家にある写真には、30年以上前、サングラスをかけ笑っている彼が写っています。間接的にしろ、知っている人物の送検に大変驚きました。
 私の驚きはともかく、この事件には2人の小学校教員が関与していたことにこそ注目すべきだと思います。教員による教え子に対するわいせつ事件は、毎年のように起きています。私も教委勤務時代、いくつかの事例に接してきました。その大半は女児が被害者でした。というよりも、男児が被害者という事件は記憶にないのです。そのせいもあり、私自身、教員によるわいせつ行為は、男性教員が女児に対して行うという固定観念をもっていましたが、今回の事件報道で、それが誤りであることに気がつきました。
 記事を読む限りでは、2人の教員は、教え子ではない子供を餌食にしていたようですが、男児を性的な対象としてみる性癖のある者が教職に就いていたという事実は、他にも自分の性的嗜好を満足させるために教員になっている者がいるのではないかという不安を、多くの保護者に抱かせてしまった可能性があります。
 しかし、こうした保護者の懸念に応える体制は不十分です。多くの校長などの学校管理職、教委の担当者なども、私と同様な認識でいるからです。私自身、移動教室等では、男児の入浴指導で、全裸の男児たちに、「もっとちゃんと体を拭いてから」とか「パンツ忘れているの誰だ?」などと声をかけ、そのことに何の問題も感じていませんでした。保護者からの苦情もありませんでしたし、子供から不満の声を聞かされることも皆無でした。
 私にとっては、小学生男児の裸というのは何の興味も呼び起こさないものでしたが、今回の加害者たちにとっては、男児の入浴姿というのはとても興味関心を抱かせるものであったはずです。でも、男性教員が女児に対するような配慮をもって男児に接するということが必要ということになれば、現実には大きな混乱が生じることも事実です。
 私も、冬の寒いとき、担任している男児のシャツに手を入れ、「おー、暖かい」と言ってふざけたことがあります。大勢の男児が私の教卓の周りに集まって話をしていたときです。その男児は、いつも私にまとわりついていた子で、級友から「Sは先生のこと大好きなんだよ」といじられていた子供で、私とは「仲良し」でした。彼も笑って「きゃー、冷たい」などと言って、私を叩く真似などしていました。和やかなシーンだと今でも思っていますが、もちろん、私は女児のシャツの中に手を入れたことは一度もありません。誰に教わったわけでもなく、私の中に、男児と女児は別物という意識があったからでしょう。
 私の知り合いの女性教員は、指導力があり、子供からも保護者からも信頼されていました。彼女は、言うことを聞かない男児に、「叩くと体罰になるから、そうだ、罰としてキスしちゃおうかな」と言って、顔を近づけるという「罰」をしばしば行っていました。そう言われた男児は、「やめて、もうしないから」と言って、謝るのが常でした。本当にキスしたことは一度もありませんでしたし、男児たちも本当にキスされることはないということは知っていての恒例行事のようなものでした。彼女の中にも、異性同性ということではなく、男児と女児は違うという漠然とした認識があり、男児に対してはこの程度は許されるという感覚であったと思われます。
 つまり、男児は男性からみても、女性からみても性的好奇心の対象とはならないという認識があったのです。そして、ここが大切な点なのですが、男児自身もそう考えているということです。小学校の高学年にもなれば、女児は自分が性的対象とされる危険性を理解しています。保護者も教えるでしょうし、学校でも教えます。しかし、男児には教えませんし、男児は無警戒なのです。
 これからは、男児の着替え中には教室に入ってはいけないし、男児にも痴漢に気をつけなさいと教えなければいけないとなれば、そしてそれはたぶん望ましいことなのでしょうが、学校は、そして個々の教員は、大きな意識変革を迫られることになるのです。
 長い間の慣習や常識を変えるのは、決して簡単ではありませんが、学校への信頼を維持するためにはやらなければならないように思います。

 

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指示の理由は、与党がいないから?

2017-02-22 07:50:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「首長こそ」2月11日
 『都議の質問、職員作るな』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『議員への質問の売り込みや議員から依頼された質問の作成をしないよう、小池知事の指示が各部局に3日、口頭で伝えられた』ということです。こうした指示が出されるということは、今まではこうした行為がごく普通に行われてきたということです。
 私も経験があります。そしてその経験から言えるのは、こうした行為は、首長与党の議員と行政側の間でしか行われないのが普通だということです。小池都知事は、現段階では、確固たる与党が存在しない状態で、議会との対抗姿勢を示すことで支持を高めていく戦略をとっているからこそ、こうした指示を出したとみることもできます。
 なぜそんなことを言うかというと、「議員への質問の売り込みや作成」は、首長側の都合で行われることもあるからです。質問の代理作成は、質問を作成する能力のない与党議員に貸しを作ることになり、首長側にとって悪い話ではありません。また、首長が実現したい政策を予算化して実行に移すためには、議会で議員から政策の必要性を指摘され、議員に、ひいては議員の背後にある「世論」に配慮して政策を実行するという体裁を整えることは意味のあることだからです。つまり、首長の独断専行という批判を防ぐ効果があるのです。
 小学校における英語教育の導入、スクールカウンセラーの配置拡充、図書館補助員の配置継続、学習指導補助員の謝礼の予算化など、教委として実現したい政策を、与党議員が質問するということは、私の勤務時代にもありました。議員と個人的な付き合いがない私には事前工作はできませんでしたが、部長や教育庁、首長レベルでは何らかの動きがあった可能性は否定できません。あまりにも、都合が良かったからです。
 こうした質問は、議員側も、自分の支持者に対して。「○○小学校にSCが配置されるようになったのは、私が議会で追及したからだ」と実績を誇ることができるメリットがあり、根絶は難しいというのが当時の実感です。
 政治家である首長が地方教育行政に影響力を行使することが認められた教委改革への懸念、つまり教育行政への政治家の介入が、小池知事の「英断」によってなくなるのであれば嬉しいのですが。

 

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教員の保守化

2017-02-21 08:02:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員の保守化?」2月9日
 『基幹労連 民進より自民』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『鉄鋼、造船重機、非鉄、建設などの産業別労組「基幹労連」の組合員を対象にした昨春のアンケートで、自民党への支持率が初めて民進党を上回っていたことが分かった』ということです。
 労連側も民進党側も「衝撃的な結果」と受け止めているようですが、私にはこうした傾向が、日教組や全教などの活動にどのような影響を与えるのかということの方が気になりました。以前もこのブログで、日教組などの力は以前に比べて低下してきているということを述べましたが、その考えは今も変わっていません。ですから、今でも、日教組や全教を目の敵にし、こうした職員団体がなくなりさえすれば、我が国の教育が良くなるというような発想の持ち主には、認識を改めて、個々の教育課題について個別に対応を考えてほしいと思っています。
 とはいえ、地域によっては、職員団体の影響で学校運営の正常化が阻まれているところもあります。教委時代、職員団体との「話し合い」で苦労した私としては、労働者の権利擁護としての日教組や全教は否定しませんが、偏った歴史観や価値観に基づいて教育行政に介入しようとする姿勢には断固反対です。だからこそ、こうした「保守化」の動きが、日教組や全教ではどうなっているのか、無関心ではいられないのです。
 似たような動きとしては、都知事選で民進党が後押しをし、原発廃止を訴えた候補を、原発産業に従事する連合の組合が応援しないということがありましたが、そのときも都教組や東京教組は、民進党が推す候補を応援していました。つまり、日教組や全教は、最も「保守化」しにくい団体なのです。2つの職員団体を構成する教員たちの意識は、どのように変わっているのか、是非知りたいものです。
 もっとも、現在の安倍政権が、教育行政に於いても、ある意味戦前回帰とも疑われかねない姿勢を示しているだけに、教員の保守化は良い面だけではありません。職員団体は労働条件についての運動を、教育のあるべき姿については、日頃の実践と実践に基づいた教育研究で、授業の専門家集団として労働運動とは切り離して提言していくという当たり前の姿に落ち着いてほしいと思っています。そうありたいと願っている若い教員は少なくないのですから。

 

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まさか、M区で

2017-02-20 07:47:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「まさか目黒区で」2月9日
 『目黒5小学校で不適切支出41件』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『区立小学校5校が、2011年度以降、校長交際費から神社や町会、商店街に対し、祭礼の奉納金や清酒代などとして計41件、計約49万円を不適切に支出していた』のだそうです。信じられない話です。
 まず第1に、5年間以上、こうした状況であったことに対して、教委が把握していなかった点です。帳簿の監査などではなく、指導主事などが学校を訪問する中で、校長や副校長と雑談する中で一度も話題に出なかったはずがないと思うのです。私が指導主事時代には、担当校ごとに覚え書きのような形で雑談の内容を記録し、必要に応じて室長や他課に情報提供をしていたものでした。例えば、女性教員が妊娠したらしいということを校長との雑談から知り、産休育休講師担当の係長に事前に知らせておくことで素早い対応ができる、というようなことです。もちろん、こうしたことは指導主事の職務に位置付けられているわけではありませんが、いわば危機管理の一環として、有能な指導主事であれば、学校についての情報を蓄積しているはずなのです。
 また、5年間といえば、通常であれば、校長も副校長も人事異動で一度は替わっているはずです。現在では、奉納金などの形での支出はほとんど全ての行われていないはずなのですから、いくら昨年度まで行っていたからといって、「これはおかしいから、やめなくては」と考えた校長等がいたはずです。それなのに、悪しき慣習が継続してきたというのは、管理職としての自覚に欠ける行為です。
 さらに、神社や町会側も、公的機関から寄付を受けるということの意味に無頓着すぎます。私は、下町の区教委に勤務していたのですが、下町では、祭りの日に学校が午前授業となり、子供たちが祭りに参加できるようにする、というような地域が残っていました。いわゆる濃密な人間関係が残る保守的な地域です。しかし、目黒区は、革新的な地域、住民の意識が高い地域、人間関係の柵よりも、個人のプライバシーを重視する地域として有名です。そこで、こうした旧態依然の慣習が残っているというのが大変意外です。まさか、他の地域でも、と思ってしまいます。教委を含め行政側の啓発活動が必要です。
 最後に、こうしたいわば学校と町会や商店街などの「癒着」が発覚したということは、逆方向の「癒着」、つまり運動会等の学校行事への地域からのお祝いや寄付という行為がなかったかどうかについても、厳重な再調査が必要だということを指摘しておきたいと思います。我が国に根付いている贈答文化は、一方的に贈るという行為が成り立ちにくい構造をもっています。もらっているから贈り返す、というのが普通の意識なのです。そちらの方は大丈夫なのでしょうか。かつては、行事等の寄付を副校長がプールしておき、運動会の来賓にお弁当を渡すなどということが普通に行われていたものです。疑いをもたれる前に点検が必要です。

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男女別教員養成

2017-02-19 08:40:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「やはり男女別学?」2月8日
 医療福祉部編集委員高野聡記者が、『性別の問題?』という表題でコラムを書かれていました。その中で高野氏は、『入院から30日以内の死亡率も、太陰から30日以内の再入院率も男性医師の方が悪かった』という米国の研究成果を紹介し、その原因として『女性医師の方が診療ガイドラインに沿った治療をし、患者とのコミュニケーションが良好で、わからなければ専門家に相談する傾向が高い』『男性はリスクを苦にせず、女性はリスク回避に向かうという傾向も既にわかっている』という専門家の分析を挙げています。
 そして私が注目したのは、同研究を行ったハーバード大公衆衛生大学院津川友介研究員が、『現在の医学教育は男女一律だが、今後は男性のリスクへの警戒心を高める教育が必要では』と提案なさっていることでした。つまり、男女別学もしくは男女別カリキュラムをということです。もちろん、津川氏の指摘は、医学教育について述べたことなのですが、男女に生物学的な違い以上の違いがあり、そのために別の教育が行われるべきという点では、教育という名の下に行われる様々な営みにおいても、男女別学の有効性を検討すべきという主張に通じるものがあると考えるのです。
 もしかしたら、国語も算数も社会も理科も、別々に授業をした方が効果があるのかもしれませんし、そんな雑な方法ではなく、算数の中でも図形認識に関する学習は、とか、国語の中でも詩や小説などの情緒的な文章の読解に於いては、というように学習内容や対象に応じては、男女別カリキュラムが望ましいのかもしれないと思ってしまいます。
 しかしながら、教育界に於いて、男女の性差に着目したカリキュラム研究はほとんど行われていません。性差別や偏見を助長し、人権侵害の恐れがあると指摘、糾弾されることを恐れているからです。
 話は飛躍します。私が教委勤務時代に「指導力不足教員」の研修を担当していたことは以前にも書きましたが、そのとき、男性教員の占める比率が多かったことを思い出しました。中高では元々男性教員の比率が高いのですから当然ですが、小学校教員に限ってみても、男性教員の比率が高かったのです。小学校教員という職について、津川氏のような研究を行えば、男性教員よりも女性教員の方が教員としての能力が高いというような結果が出るのでしょうか。実は私の実感も、女性>男性なのですが。小中高の男女別学よりも、小学校教員養成課程の男女別カリキュラムの創設の方が必要なのかもしれません。何だか悲しいですが。

 

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