ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

観点は?基準は?共通理解は?

2016-10-29 07:49:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「通知表」10月23日
 山口県下関市の岡田小百合氏による、『「4」の意味』という表題の投稿が掲載されました。その中に次のような記述がありました。『学年一、運動オンチの私の通知表に中2の時、5段階評価の4がついた。明らかに先生の表記ミスだと思って私は先生に尋ねた。「どんなに苦手でも休まず、いつも誰よりも先に準備体操しているあなたに4をつけた」先生のその言葉に生かされ、今がある』というものです。。
 さらに、岡田氏は、『ことあるごとに、3人の子どもたちに話して聞かせた』『先生のお陰で真っすぐに生きることができた』『子どもたちにもスポーツの面白さを伝えることができた』など、恩師の言葉が自分の人生に与えた影響を繰り返し書かれ、恩師へのお礼の言葉で投稿を締めくくっていらっしゃいました。
 投稿の最後に書かれている岡田氏の年齢を拝見すると、私の最初の教え子とほぼ同じ年齢です。思わず、若い日の私と比較してしまいました。私は自分に甘い人間ですが、どう贔屓目に見ても、私の渡した通知表が、このような影響を与えたケースはありそうにありません。同じ教員として、岡田氏の恩師が羨ましいと嫉妬してしまいました。
 しかし一方で、35,6年前には通用した話が今でも通用するだろうかという疑問もわいてきました。岡田氏の恩師の説明は、体育という教科の評価の観点として、授業を欠席もしくは見学した回数、準備体操に取り組む早さ、を設定していたということです。そしてそれらの観点が総合評価に占める割合を極めて高く設定しているということも意味します。岡田氏の自己評価が正しければ、体育の技能は5段階の「1」レベルであるにもかかわらず、総合評価は「4」になっているのですから。技能と関心・意欲・態度?(休まない、誰よりも先に準備体操)が同じ比重を占めるのであれば、「1」と「5」であったとしても「3」にしかならないはずなのですから。
 もちろん、どのような評価の観点を設け、観点ごとにどのような配点にするかは、教員の裁量という考え方もあり得ます。通知表は、指導要録とは異なり、学校が独自に作成する文書なのですから。しかし、仮にこうした立場をとるにしても、そのことは校長の了承を得ていなくてはなりませんし、体育科教員の共通理解が図られている必要があります。さらに、こうした評価方針が生徒と保護者に周知されていることも必須条件になります。これらのどれか一つが欠けても、評価に対する苦情が寄せられ、他の保護者や生徒から不信感をもたれることになります。
 岡田氏の恩師の評価は、岡田氏が「先生のミス」と感じたことからすると、上記の3条件を満たしていなかった可能性が高いと思われます。つまり、今の中学校でこんなことをしたら、問題となる可能性が高いということです。心情的には残念ですが、もし私が指導室長をしていたときにこうした事例が明らかになったとしたら、岡田氏の恩師に対して何らかの処分を検討することになると思います。
 私の勝手な推測ですが、岡田氏の投稿を読まれた方の多くは、岡田氏と恩師の関係や恩師の心遣いに、温かい思いを抱かれると思います。でも、今の学校では処分される問題行動なのです。そして岡田氏の恩師のような言動を処分対象とする変化は、世間の皆さんが望んできた改革の結果でもあるのです。牧歌的な師弟関係をいい加減、公務員としての自覚に欠ける、不公平、依怙贔屓、説明責任無視などと批判してきたことによる成果なのです。これは、本当に皆さんが望まれたことなのでしょうか。そんな疑問が一瞬胸をよぎったのです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 隠蔽的気休め | トップ | 鼻先に人参を »

コメントを投稿

我が国の教育行政と学校の抱える問題」カテゴリの最新記事