ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

教職の重みはなくなった?

2024-06-02 08:36:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「深い意味はない?」5月28日
 『スカート内を盗撮した疑い 小学校教諭逮捕』という見出しの記事が掲載されました。『女性のスカートの中を盗撮したとして、丸の内署は27日、千葉県浦安市立小学校の教諭、中野亮治容疑者を性的姿態撮影処罰法違反の疑いで逮捕した』ことを報じる記事です。
 中野容疑者は容疑の一部を否認しているようですが、私の関心は別のところにあります。逮捕を受けた教委のコメントが気になったのです。『浦安市教育委員会は取材に「生徒や保護者に心配をかけ、誠に遺憾。全職員に公務員としての自覚を十分に持たせ、不祥事根絶に取り組む」とコメントした』というものです。
 小さなことで言えば、小学校教員の逮捕なのに、児童ではなく生徒という言葉を使っていることに違和感を覚えます。しかしより大きな違和感は、「公務員としての自覚」という言葉です。私の経験では、今回のような場合、「教員として」「教育公務員として」「教育者として」などの表現が使われることが多かったように思うのです。あるいは、「公務員としてまた教育者として」というように併用されることもあります。
 もちろん、公立学校の教員は地方公務員であり、地方公務員法の対象者なのですから何ら間違いではありません。ただ、通常教委の関係者は教員について法的に語るとき、教育公務員という概念に基づいて発言することが多いのです。
 教育公務員法は、「教育を通じて国民全体の奉仕する教育公務員の職務とその責任の特殊性に基づき~」制定されたものであり、教員には「特殊な使命」があるという認識が土台になっています。実際、権利としての研修という考え方は教員独自のものですし、政治活動の制限は、教員と保護者等との関係を公務員と市民との関係とは異なるという認識に基づいています。
 私も教委に勤務し初任者研修等を担当するとき、公務員としてという側面よりも、子供に対して指導的立場にある教員の特性に応じて信頼を損なうことがないように指導したものです。
 首長部局や教委事務局の職員も、「先生方は自分たちとは違う」という意識をもっていましたし、より重い倫理的責任があると考えていました。実際、私が指導室長をしていたとき、不祥事を起こした教員について、市長に報告をしたとき、諭旨免職という処分を伝えたとき、「えっ、そんなに重いの!」と驚かれたことがあります。私は、保護者の信頼を損ないましたから、と説明をしましたが、市長は「せいぜい減給くらいかと思っていたよ。でも何と言っても先生だからな」と頷いていました。
 だからこそ、今回のような破廉恥な行為で逮捕されたときには、公務員ではなく、教育公務員という言葉が使われるという思い込みがあったのです。教育公務員は一般の公務員よりも市民からの信頼を損なうことについて重い責任を有するという自覚は求められなくなっているのでしょうか。違和感は消えません。

 

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