ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

求められる専門性は…

2024-04-30 08:08:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「目的の目的は」4月24日
 『教員の特別免許運用指針改定へ』という見出しの記事が掲載されました。『文部科学省が、アスリートや博士号取得者ら専門性の高い人材に「特別免許」を与えて教員採用する制度の運用指針を改定し、教科全体に関する専門知識がなくても授与できることを明確化することが、23日分かった』ことを報じる記事です。
 うんざりです。何回同じことを書かなければならないのか、という思いです。でも、大切なことなのでもう一度書くことにしました。博士号取得者やオリンピアンクラスのアスリートが「高い専門性」をもっていることは言うまでもありません。それを否定する人はいないでしょう。私も否定するつもりはありません。
 では、その「専門性」とは、何についての専門性なのでしょうか。文科省は、教科に関する専門性だと考えているようです。では、例えば社会科に関する専門性とはどのようなことでしょうか。文科省は、歴史や地理、社会学や経済学、法学や倫理学などについての知識と考えていることがうかがえます。では、近代産業史の専門家が、小学校5年生の我が国の産業を対象とした授業をすることができるでしょうか。
 子供が理解できる用語を使い、子供が関心をもつことができる事象選び出し、子供が分かる形で提示し、一人一人の子供が抱くさまざまな疑問を、学習指導要領に沿う形で学習問題化し、一人一人のこだわりや能力に応じた情報=資料を準備し、学習の進捗状況を把握しながら適宜助言をして問題解決に導き、話し合いの場を設けて個々の仮解答をブラッシュアップさせて表現させ、新たに生じた課題を明確にして、以降の学習に生かす、こうしたことができると考えているのでしょうか。
 そんなことをする必要はない、高度な知識を伝えてくれればよいと考えているとすれば、二つの点で大間違いです。まず一つは、子供というものをあまりにも知らないと言うことです。いくら価値のある話でも、子供は難しい話を10分も15分も大人しく聞くことはできません。それを、45分間、場合によっては数時間単位で聴かせることは誰にもできません。もし実際に行わせれば、教室内がざわざわし出し、たまりかねた「専門家」が、静かに聞いてください、と連呼する事態となるでしょう。
 10年以上前のことですが、都内某区が著名な音楽家を講師に招き子供の指導を任せるという試みで、いうことを聞かない子供に腹を立てた「専門家」が子供を殴るということがありました。「専門家」は自分は悪くないという姿勢で、教委も正面から苦情をいうことを避けましたが、一般の教員であれば懲戒処分を受ける事案でした。授業は「専門家」の知識だけで成立するような生易しいものではないのです。
 次の問題なのは、「専門家」がその高度な知識を伝えてくれればいいというのであれば、それは文科省自身が提唱している「自ら問題を発見し自ら考え解決する」という学びの形を否定することになるということです。ありがたいお話を静かに拝聴するという学びが授業の中核を占めるということは、現在では否定されているのです。つまり、今求められている教員とは、子供に対して、問題解決への意欲を高めさせ、追究・解決の過程で主体性を損なわない配慮をしながら支援や助言をすることができ、その過程を適切に評価し、その評価を的確に伝えることによって子供に学ぶ楽しさを実感させ、自らの学ぶ力に自信をもたせることができるような授業設計ができる存在なのです。
 そこに占める「高い専門知識」の比率は、ごく一部に過ぎません。文科省は、『特別免許は、多様な人材を学校に呼び込むことを目的に』していますが、そんなことは「目的」にはなりません。あくまでも手段であり、主体的に学び続ける子供を育てる琴こそも目的であることを忘れてはなりません。

 

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無観衆でも防げない

2024-04-29 08:06:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「訴えられたら」4月24日
 論点欄では、『許すなアスリート盗撮』というテーマで、2人の識者が自説を展開していました。その中で上智大准教授斎藤梓氏がおっしゃっていることが印象に残りました。『児童・生徒の大会では保護者が我が子を撮影します。そうした撮影と性的な目的での撮影をどう見分けるかという問題があります』という指摘です。
 斎藤氏は、「大会では保護者が~」とおっしゃっていますが、大会ではなくても、運動会や水泳記録会、学芸会など、校内の行事でも保護者が撮影する機会はあります。その際、学校や教員が、性的目的撮影を防ぐ努力義務があるという方向で議論が進むことが予想されます。でもそんなことが可能なのでしょうか。
 そもそも我が国の学校教育は、基本的に性善説で成り立っています。今まで、運動会で写真やビデオを撮影しようとしている人に対し、保護者か否かをチェックすることはしていない学校が多かったのです。チェックするにしても、保護者とはどの範囲までにするか、基準が難しいです。同居していない叔父叔母や従兄弟は保護者と同列に考えてよいのか、親族ではないが子供が小さい頃から世話になっている知人などはどうか、事前に申告させ、身分証明書を持参させるという対応には、抵抗が大きいと思います。運動会などでは、途中でいったん帰宅し、我が子の競技の時間にまた来るという例も少なくありません。学校側にその全ての機会にチェックを実行する人的措置の余裕もありません。
 また、正規の手続きで入場した保護者が我が子以外の子供を対象に性的目的で撮影する可能性もあります。それまでチェックするとなると、物理的に不可能です。さらに、教員など学校側の人間が記録等の目的で撮影する行為はどうなるかという問題もあります。性的な意図はなくても、偶然女児の胸や股のきわどい場面が写り込んでしまったとき、その一枚をもって「変態教員」と指弾される危険性があるのであれば、一切の撮影はできません。
 以上のようなケースに対応した対策を練ったとしても、防げない盗撮があります。近隣のマンションの高層階から性能の良い望遠カメラで撮影をされてしまうケースです。この場合、普段の体育の授業等も盗撮の機会となってしまいます。このケースも教育課程内の事件ということで学校の責任が問われるのでしょうか。文科省や教委などは、学校の対応基準や対処例など、早急にまとめて提示してほしいものです。そうしないと、学校は委縮し、さまざまな教育活動に影響が及ぶと考えます。

 

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最大のストレス軽減策

2024-04-28 08:47:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「今の時代にこそ」4月23日
 専門記者大治朋子氏が、『不快な感情と武器効果』という表題でコラムを書かれていました。その中で大治氏は、『武器効果』と呼ばれる社会心理学の理論について触れていらっしゃいます。
 『不快な感情を抱えている人は、武器など攻撃を連想させる刺激と出合うと攻撃行動に走りやすくなる』という理論です。別の言い方をすれば、『「不快な感情」と武器がもたらす「刺激」の両方がそろうと、人間は攻撃的になりやすくなる』とも言えます。
 その上で大治氏は、現代社会を『ネット上の「刺激」もあふれている』とし、危うい時代と警鐘を鳴らしていらっしゃいます。大治氏は、爆弾や銃器の製造方法や部品や材料の入手情報という意味で、「ネット上の刺激」という表現を使われていますが、私は、ネット自体が攻撃的な武器という側面も無視できないと考えます。
 学校においての「攻撃行動」といえば、真っ先に浮かぶのがいじめです。そしていじめにおける「武器」となれば、ネットの存在が無視できません。20年ほど前までは、いじめは学校が主な舞台であり、教員や大人の目に触れやすいものでした。しかし、SNSが子供の世界を広げた結果、いじめもSNSの中で行われるものが増え、教員や大人が発見することがより困難になってきました。
 つまり、「不快な感情」を抱えた子供たちが、SNSという「武器」に出合ってしまったのが現代だということなのです。以前であれば、自分の不快感情をいじめで解消しようと思い付いても、先生に知られたら、親にばれたらという危惧がブレーキになっていたものが、SNSという武器を手中にしたことでそのブレーキが外れてしまったのです。 
 子供たちにSNSを使うな、ということは不可能です。時代の流れは逆行させることができません。そうであれば、今学校に、教員にできるのは、子供の不快な感情に向き合うことです。学校生活において、子供が深い感情を抱く機会を減らすことしかありません。あるいは、不快感情をより小さく浅いものに変えていくことです。
 そこで役に立つのが、学校生活満足度というような概念です。私は特に「授業が分かる」ということを重視すべきだと考えます。学校生活の大部分を占めるのが授業の時間であり、子供の自己評価において大きな部分を占めるのも「勉強ができるか」だからです。教えることのプロとしての教員一人一人が、授業の質の向上に全力を傾けることです。授業こそが、いじめも問題行動も減らすカギとなるという意識を徹底し、授業改善に取り組むのです。教育行政はそのための環境整備として、教員の業務見直しを急がなければなりません。

 

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無能と言われるくらいなんでもない

2024-04-27 08:57:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「信用低下」4月23日
 『コンプラ違反倒産 最多351件』という見出しの記事が掲載されました。『企業のコンプライアンス違反に伴う倒産が目立っている。帝国データバンクによると、2023年度は前年度比16.6%増の351件に上り、03年度の統計開始以来最多となった』ことを報じる記事です。
 こうした状況について、帝国データバンクは、『ささいな違反でも信用が大きく失墜する事態になりかねない。経営者にも法令順守による健全経営の意識が求められている』としています。
 企業だけの問題ではないと思います。学校もまた、地域や市民、保護者や子供たちからの信用によって成り立っているからです。学校が長年の努力で築き上げてきた信用も、一部の不心得者の愚行で一瞬にして崩壊してしまいます。教員の非行や体罰、いじめ、子供の問題行動などが考えられますが、実はそうしたことでは、信用を失うことはあまりないのです。
 どのような集団にも、一定の割合で問題を起こす構成員がいるものです。それは多くの人が何となく経験則として理解しています。もちろん望ましいことではありませんが、仕方がない、運が悪かったという見方をしてくれる人もいるものです。
 しかし、たった一回でもこれをやってしまうと決定的に信用を損なうという行為があります。それが隠蔽です。しかも実際に隠蔽したとか、隠蔽しようとしたとかではなく、単に対応が遅れて結果として公表が遅れたというようなケースであっても、疑われたというだけで、隠蔽は致命的なのです。
 私は教委の指導室長時代に、いじめも虐待も、教員が逮捕される事態も、行方不明になる事件も体験しました。そのとき真っ先に考えたのが、隠さないということでした。保護者説明会にも何回も出席しましたし、マスコミからの取材にも、市民からの苦情にも、議会での追及にも、正直に対応しました。
 無能だ、何もしていない、責任感を感じられない、何を言われてもその時点で言えることは全て言う、分からないことは分からないと言う、分かっていても言えないことはその旨をきちんと伝える、罵声を浴びても愚直に対応することだけが隠蔽疑惑を受けないためには必要なのだと考えたからです。
 校長会でも、いじめも教員の不祥事も、起きてしまったからと言って校長先生の勤務評定を悪くすることはしない、大事なのはその後の対応だ、ピンチはチャンス、誠意ある対応をしてあの学校は、校長は信頼できると思われればそれはむしろ「手柄」だ、という趣旨の話を繰り返ししました。
 学校は倒産こそしませんが、信用失墜状態では正常な教育活動は続けられません。もし、隠蔽への誘惑に心を乱されることがあっても、それだけははねのけなければなりません。それが校長の最低限の条件です。

 

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あなたは知っている?

2024-04-26 08:08:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どうしてる?」4月22日
 『王道も珍品も 「ほとけの国の美術」展』という見出しの記事が掲載されました。『江戸時代の絵画を中心として、画家たちの制作の背景にあった「仏教」を切り口にさまざまな作品を集めた「ほとけの国の美術」展が東京都の府中市美術館で開かれている』ことを報じる記事です。
 『阿弥陀如来が浄土から二十五菩薩を供に従え、亡くなる人を迎えに来る様子を描いた来迎図』『釈迦如来と阿弥陀如来を中にして二十五菩薩と地蔵・竜樹菩薩~』『地獄道と等活・黒縄・衆合・大叫喚・叫喚・大焦熱・焦熱・阿鼻の8地獄を~』。子供に「○○って何?」と訊かれて、きちんと説明できる人がどれくらいいるのでしょうか。
 私も、「竜樹菩薩」という言葉は初めて目にしました。不勉強で恥ずかしいです。しかし私に限らず、上述のような「仏教」に関する知識を欠く大人は少なくないと思います。真言宗と天台宗、臨済宗と曹洞宗、時宗と黄檗宗と日蓮宗の違いを我が子向けに簡単にでも正確に説明できる人は数パーセントにすぎないのではないでしょうか。
 それは、学校教育において「仏教」について指導することがほとんどないからです。文化として仏像や仏師について学んだり、空海や最澄のような開祖について触れたりはしますが、仏教やわが国独自の仏教宗派の教義について取り扱うことはほぼないからです。
 これは仏教に限らず、イスラム教やキリスト教、ヒンズー教などについても同様です。しかし、文化や伝統について学ぶときに、宗教というものを無視して理解することができるものなのでしょうか。
 教委勤務時に、教員の欧州派遣事業の事務局として欧州5カ国を訪問したとき、各地で絵画や彫刻といった美術品を見学する機会がありましたが、キリスト教圏の人間であれば常識として知っている出来事やエピソードについての知識が乏しく、何が描かれているのか、その背景は何か、など何も理解できずに、感想を言えずに冷や汗をかいた(自意識過剰だっただけだが)ことを思い出します。
 文化や歴史と宗教の教義の関係について、どの段階でどのような内容をどの程度まで深く扱うべきか、今でもよく分かりません。研究されているという話も聞きません。国際化の時代、相互理解を深めるためにも重要な問題だと思うのですが。

 

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自分は「生の声」に偏り過ぎていたのかもしれない

2024-04-25 08:49:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「反省」4月22日
 専修大教授武田徹氏が、『新聞報道における「語り」』という表題でコラムを書かれていました。その中で武田氏は、『疑問視するのは、「データや根拠を前面に出」さずに個人的経験の吐露に終始する記事だ。確かに一人称で記者が語ったり、取材相手に語らせたりする記事の中には情緒に流れ過ぎと思うものもある(略)個々人の思いが示されているに過ぎない「語り」は、他の証言や事実と照合させて検証されてこそ、客観的な事実に近づく(略)語りの有無それ自体が問題なのではない。報道の公共性を実現させる方向で、語りが使えているかが問われている』と書かれていました。
 私は連れ合いと、「最近、ある個人を取り上げて、延々とその人の体験や感想を垂れ流しているような記事が多いよね」と話していたところだったので、武田氏の指摘に全面的に共感しました。私の印象では、東日本大震災や能登半島大震災の被害の現状についての継続報道で特に目にすることが多いと感じます。
 それはさておき、こうした「個人の語り」問題は、私が長年取り組んできた「社会科教育」においても無視できないと考えました。私は現役の教員時代に、よく「個人の語り」を授業に取り入れていました。5年生の「米作りの盛んな○○」の単元で、米作り専業農家のAさんにお手紙を出し、その手紙をメインの資料として授業を進めたり、漁獲量日本一の○○漁港の漁業組合に子供の質問を送ってその返事を元に話し合いをさせたりするような実践です。 
 ときには、地域の商店会の会長さんの話だったり、町工場を経営する社長さんへのインタビューだったりすることもありました。いずれも、公式な統計や報告とは異なり、「人間」を身近にかんじられるという長所があり、特に研究授業などでは、教科書や副読本、資料集などを使うのではなく、教員が自分で開拓した取材相手の「生の声」を使うことが、新たな教材開発として評価されるのでした。
 私自身、指導主事となってからも、教育研究員の指導や講師として招かれた校内研修での講評などの機会には、こうした「生の声を使った新たな教材開発」の取り組みを、意欲的だと評価していたものだったのです。でも、それは正しかったのか、という疑問がこのコラムを読んで浮かんできたのです。
 私はこのブログで何回か新卒の学校での同僚T氏のことを取り上げました。1日3食を学校で食べ、自費でわら半紙を購入して膨大なプリントを作り、元日にも出勤して警備主事に追い返されたものの1年364日学校に来て仕事をする、風呂は学区の銭湯に入り、退勤は22時過ぎという強者でした。もし、T氏に教員の多忙化についてというインタビューをしたら、子供のために頑張るのは教員の務めで当然のこと、それができない人間は教員になどなるべきではない、と答えるでしょう。実際、私もこうした論理で非難されましたから。
 では、こうしたT氏の「生の声」を資料に教員の多忙化問題を論じたらどうなるか、とんでもない結論に至ってしまいます。実は同じことを私も社会科の授業でしていたのではないか。さらに言えば、今も教科書の記述をそのままなぞるような授業は教員の恥だと考える「熱心な教員」が同じことをしているのではないか、そしてそれを褒める校長や指導主事がいるのではないか、と考えてしまうのです。
 誤解のないように言っておきますが、現場の人の生の声を教材化することがいけないと言っているのではありません。ただ、無条件に評価するのは間違いだということです。客観的なデータと現場の生の声、このバランスこそ社会科教員のセンスなのです。

 

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優しいor易しい

2024-04-24 08:32:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「早急に」4月19日
 『広がる「やさしい日本語」』という見出しの記事が掲載されました。『災害時、日本で暮らす外国人たちにも大切な情報を届けるための「やさしい日本語」を取り入れる科学館や美術館が増えている』ことの実態と背景を報じる記事です。
 記事では、『やさしい日本語は(略)簡単な言葉を短く、はっきり言いきるのが大切』『難しい敬語は使わず、「です」「ます」を崩さないことがポイント』などの解説とともに、実際の例が紹介されていました。「ここは家でした。家族が住んでいました」です。それまでは、「皇族の住宅でした~」と話していたそうです。皇族では日本語を母語とする子供でも「?」です。住宅も難しい言葉です。まして、日本語を母語とする成人に話す「この邸宅は皇族の方々がお住まいになっていらっしゃいました」では、絶対に通じません。
 また、メリットとして、『さまざまな国の人に同時に対応できる』『スタッフの取り組みやすさ』が挙げられていました。どういうことかというと、外国人に合わせて、その人の母語で伝えようとすると、フィリピン人とベトナム人とミャンマー人がいたとき、それぞれの言語を使えるスタッフを3人揃える必要がありますが、「やさしい日本語」であれば、一人のスタッフで対応できるということです。
 また、今日はミャンマーの人が来ているから、ミャンマー語ができるAさんに対応してもらおう、となりAさんがいなければ、利用を断るということになってしまいますが、「やさしい日本語」であれば、誰でも対応可能になるということです。
 わたしはこの「やさしい日本語」は、学校現場でこそ必要であると考えます。学校にベトナム語、スペイン語、韓国語、スワヒリ語などの言語の通訳をそれぞれ配置することは不可能です。また、仮に配置できたとしても、その人が何らかの事情で休んだときには、誰も対応できなくなってしまいます。そのときに備え予備の通訳を確保しておくことなどできるはずがありません。
 だからこそ、「やさしい日本語」を多くの教員がマスターするという対策が、現実的であると同時に効果的なのです。しかし、そのためのテキストがありません。学校においては、日常会話については、比較的短期間で子供はマスターします。しかし、抽象的な概念に基づいて思考することが求められる授業については、なかなか理解が深まりません。
 教員側も、「どうして~」「どのように~」「つまり~」「まとめると~」「結論は~」「比べると~」「それ以外には~」などの言葉を適切に使って問いを伝えたり、説明をしたりすることができません。「やさしい日本語」的な発想ではどのように表現すればよいのでしょか。
 文科省は、言葉の専門家の力を借り、早急にテキスト作りに取り組むべきです。

 

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縦社会への移行

2024-04-23 08:16:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「隔世の感」4月19日
 『新卒教員 負担軽減へ 文科省対策案』という見出しの記事が掲載されました。『文部科学相の諮問機関・中央教育審議会特別部会で議論している公立小中学校での教員不足解消策の素案が判明した』ことを報じる記事です。すごい内容です。
 記事によると、『若手教員の離職や休職を防ぐため、新卒1年目には学級担任をさせないなどの案を盛り込んでいる』『新卒教員(略)教科担任とし、持ち授業数も減らす』『小学校高学年で実施されている教科担任制を中学年でも導入』『教諭と主幹教諭の間に若手教員をサポートする新ポストを創設』『学級担任手当(略)も検討事項』『「教職調整額」について現行の給料月額の4%から10%以上に引き上げる』などの内容です。
 問題だらけ、副作用への配慮が見えない内容です。まず、「新卒の学級担任を~」ですが、中学校では現在も行われている取り組みであり、小学校への導入が目玉ということになります。大きく2つの問題点があります。まず、学級数を減らすわけではないのですから、担任の確保が難しくなります。仮に1校に2人の新卒が配置された場合、それまでTT教員や加配教員として配置されていた教員から2人を学級担任にしなければなりません。TT教員や加配教員は、それなりにその立場に相応しい専門性をもっている(建前では)はずですから、その代わりを新卒が務めるのは難しいでしょう。校長は校内人事の苦慮することになります。
 また、新卒の立場から言えば、学級経営や保護者との対応といった教員に必須の技能を身に付ける機会を奪われることになります。鉄は熱いうちに打て、です。白紙の状態の新卒のうちに試行錯誤してこそ、学級担任としての技能が身につく、理屈ではなく体で覚えることができるのです。ですから、新卒のときに学級担任をさせないということは、新卒の1年目が、無駄になる可能性が高いのです。
 次に、新卒1年目は教科担任というのも問題があります。いくつかの学級で算数なり国語なりを教えることになるわけですが、それは何人もの先輩教員に「気を遣う」ことを意味します。「○○さんの算数の授業がつまらない、って言っているんだけど」「○○三の授業の後、子供が落ち着かないんだよね」などというつぶやきに対応するのは神経が疲れます。かえって心を病む新卒が増えるのではないでしょうか。
 新卒への配慮とは直接関係がありませんが、教科担任制の中学年への拡充は、子供の発達段階から見て、人間関係ができている学級担任の下で授業を受ける方が精神的に安定し学習成果が上がるという、従来の考え方の否定につながります。そのことについて、国立教育研究所等による検証は済んでいるのでしょうか。
 最後に、若手教員をサポートするポストの新設と学級担任手当の創設ですが、このことが実現すると学校には、校長・副校長・主幹・サポート教員・学級担任・非学級担任の新卒という階層ができることになります。それはかつて「鍋蓋型」と呼ばれ、管理職以外は皆横並びの「教員」であった学校組織の上意下達型組織への変貌が完成するということを意味します。そのことへの賛否は立場によっていろいろあるでしょうが、学校組織が変質することは確かです。文科省がそのことを意識していないはずはありません。そのことを承知の上で議論が進んでいるのかが気になります。
 素案について、記事では現職教員の声が紹介されていましたが、教委や校長・副校長等の見解がほとんど紹介されていなかったのはなぜなのか、少し引っ掛かりました。

 

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男の生き方

2024-04-22 09:31:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「男の生き方」4月16日
 『市川團十郎が「團菊祭五月大歌舞伎」に出演 男性に「男の生き方」見てほしい』という見出しの記事が掲載されました。記事の中で、市川團十郎氏は、『長兵衛は死を覚悟しながら家を出る。子分や女房、子どもにも理解されないもどかしさ、周囲には分からない孤高の思想を意識しながらお客様に届けたい』『(長兵衛には)犠牲もいとわない美学がある。今の日本の男子が忘れてしまったものが、すべて結晶している』『今回は男性に見に来てもらい「男の生き方」を見てほしい』と語っています。
 歌舞伎は400年の伝統を誇るものです。多くが「昔」の時代を舞台に作話されています。それは理解しているつもりです。それでもなお、ここまで大っぴらに「男の生き方」と言われてしまうと、強烈な違和感を覚えます。
  端的に言えば、「人としての生き方」はあっても「男の~」「女の~」はないというのが、ジェンダー平等の考え方であり、「男の生き方」を想定した演目は、それに反するということです。もちろん、表現の自由は尊重されなければなりませんから、歌舞伎でそうした演目を行うことを咎めようというのではありません。でも、「團菊祭五月大歌舞伎」を学校行事の一環として子供に見せることはできないと考えます。
 我が国の伝統文化に親しみ理解すると同時に尊重し守っていく態度を育てることは、学校教育に位置付けられている内容です。歌舞伎や能、狂言などの観覧もそうした活動の一つです。実際、狂言や演劇の観覧に子供を引率して行った経験もあります。しかしその際、演目の内容については、慎重に検討する必要があります。
 観覧後、「やっぱり男は女とは違って~」などという感想を子供がもつような内容では、公立校として、保護者や市民に対して説明がつきません。町奴幡随院長兵衛と旗本奴水野十郎左衛門の話は私も何回か読んだことがあります。私は古い人間ですから、巧みに描かれた心理模様に「感動」してしまうことがあることは否定しません。ある意味「名作」なのでしょう。しかし、それとこれは別です。
 子供が伝統文化と接する機会を設けるに当たっては、学校や教員は、時代遅れの価値観や人権感覚への警戒感をもたなければならないと思います。
                                

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結局は、カネ?

2024-04-21 08:25:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「同じこと?」4月14日
 ジャーナリスト池上彰氏が話題の人と対談する『池上彰のこれ聞いていいですか?』、今回は文化人類学者上田紀行氏との対談でした。『若者よ 志立て学ぼう』というタイトルで行われた対談は、『リベラルアーツ教育の必要性や、教育の問題点』がテーマでした。
 その中で上田氏は、『「大学はもっと社会に役立つ人材、即戦力を出すべきだ」との声が強まってきました。その流れで教養教育が軽視されるようになり、早く専門教育をすべきだという考え方が主流になりました。この流れに強い危機感を持ったのが、リベラルアーツの再評価のきっかけです』と語られています。
 重要な指摘だと思います。その後に話された、『そもそも「役に立つ」とは何なのか』『「個性」というのが、くせものです。成績が良かったり、、お金を生み出したりするような一見「役に立つ」個性が偏重されている』『評価されることだけやればいい、それ以外は人生のコストパフォーマンスが悪いという考え方が、若者も社会も覆い尽くすようになっていった』という認識も貴重です。
 ただ、こうした上田氏の指摘を受けた池上氏の『米国では、グーグルやアマゾンといった「GAFA」と呼ばれる巨大IT企業が次々と誕生したのに、日本では生まれていませんそのような反省もあって、社会がリベラルアーツを受け入れるようになってきた』という見解の同意されていたのには少しがっかりしました。
 「GAFA」を引き合いに出すということは、結局、教育の存在意義を経済の話に結びつける発想を肯定することになると思えたからです。米国=リベラルアーツ教育が盛ん=GAFAなど新しい巨大企業を生むー経済・国力の強大化、日本=リベラルアーツ教育の不足=GAFAなどの新発想の企業が生まれない=経済・国力の衰退という図式で、経済発展のためにリベラルアーツ教育の拡充を、ということになってしまうのではないでしょうか。
 つまり、教育の目的は、経済成長、国力増強に資する人材の育成ということで、早期専門教育を求めた経済界と、目的に達するルートに違いはあれど、同じ発想だということです。
 子供はよく「なんのために勉強するの?」「勉強して何になるの?」という意味の質問をします。この問いは、(学校)教育は何のためにあるのか、という問いを子供なりに表現したものです。私は、「幸せな人生を来るためだよ」と答えます。そして、よく分からないという顔をしている子供に対して、次のように説明を補足します。
 「何も学ばない人は、花が咲き誇っているのを見て綺麗とは言うけれど、雑草が生えているだけの場所では何も感じない。でも歴史を学んでいる人であれば、ここで戦があり、多くの人が死んでいった。彼らには家族もいれば、恋人も友人もいたかもしれない。将来の夢もあっただろう。それなのに死んでいかなければならなかった彼らは、どんな気持ちでこの場に赴いたのだろう。送り出す家族は。突撃を命じた将軍は何を思って命を下したのだろう。そんな感慨を味わい、思索を深め、自分の生に感謝することができる、それが人生を豊かにするということなんだよ」と。夏草や兵どもが夢の跡、ですね。
 私は社会科を専門に研究してきたので、こんな言い方になってしまいますが、言い方は人それぞれです。人生や社会について考えるための道具とも言える、知識や思考の枠組み、着眼点などを得るためという言い方もできます。それらは、結果として経済や産業、科学の発展に寄与することがあるでしょうが、それ自体が目的ではなく、あくまでも目的は豊かな幸せな人生だと思うのです。そう考えなければ、経済等の寄与できなかった人は、教育の失敗作だということになってしまうからです。
 理想論ですけどね。
 

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