「目的の目的は」4月24日
『教員の特別免許運用指針改定へ』という見出しの記事が掲載されました。『文部科学省が、アスリートや博士号取得者ら専門性の高い人材に「特別免許」を与えて教員採用する制度の運用指針を改定し、教科全体に関する専門知識がなくても授与できることを明確化することが、23日分かった』ことを報じる記事です。
うんざりです。何回同じことを書かなければならないのか、という思いです。でも、大切なことなのでもう一度書くことにしました。博士号取得者やオリンピアンクラスのアスリートが「高い専門性」をもっていることは言うまでもありません。それを否定する人はいないでしょう。私も否定するつもりはありません。
では、その「専門性」とは、何についての専門性なのでしょうか。文科省は、教科に関する専門性だと考えているようです。では、例えば社会科に関する専門性とはどのようなことでしょうか。文科省は、歴史や地理、社会学や経済学、法学や倫理学などについての知識と考えていることがうかがえます。では、近代産業史の専門家が、小学校5年生の我が国の産業を対象とした授業をすることができるでしょうか。
子供が理解できる用語を使い、子供が関心をもつことができる事象選び出し、子供が分かる形で提示し、一人一人の子供が抱くさまざまな疑問を、学習指導要領に沿う形で学習問題化し、一人一人のこだわりや能力に応じた情報=資料を準備し、学習の進捗状況を把握しながら適宜助言をして問題解決に導き、話し合いの場を設けて個々の仮解答をブラッシュアップさせて表現させ、新たに生じた課題を明確にして、以降の学習に生かす、こうしたことができると考えているのでしょうか。
そんなことをする必要はない、高度な知識を伝えてくれればよいと考えているとすれば、二つの点で大間違いです。まず一つは、子供というものをあまりにも知らないと言うことです。いくら価値のある話でも、子供は難しい話を10分も15分も大人しく聞くことはできません。それを、45分間、場合によっては数時間単位で聴かせることは誰にもできません。もし実際に行わせれば、教室内がざわざわし出し、たまりかねた「専門家」が、静かに聞いてください、と連呼する事態となるでしょう。
10年以上前のことですが、都内某区が著名な音楽家を講師に招き子供の指導を任せるという試みで、いうことを聞かない子供に腹を立てた「専門家」が子供を殴るということがありました。「専門家」は自分は悪くないという姿勢で、教委も正面から苦情をいうことを避けましたが、一般の教員であれば懲戒処分を受ける事案でした。授業は「専門家」の知識だけで成立するような生易しいものではないのです。
次の問題なのは、「専門家」がその高度な知識を伝えてくれればいいというのであれば、それは文科省自身が提唱している「自ら問題を発見し自ら考え解決する」という学びの形を否定することになるということです。ありがたいお話を静かに拝聴するという学びが授業の中核を占めるということは、現在では否定されているのです。つまり、今求められている教員とは、子供に対して、問題解決への意欲を高めさせ、追究・解決の過程で主体性を損なわない配慮をしながら支援や助言をすることができ、その過程を適切に評価し、その評価を的確に伝えることによって子供に学ぶ楽しさを実感させ、自らの学ぶ力に自信をもたせることができるような授業設計ができる存在なのです。
そこに占める「高い専門知識」の比率は、ごく一部に過ぎません。文科省は、『特別免許は、多様な人材を学校に呼び込むことを目的に』していますが、そんなことは「目的」にはなりません。あくまでも手段であり、主体的に学び続ける子供を育てる琴こそも目的であることを忘れてはなりません。