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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

科学者の神頼み

2018-07-31 08:05:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「感情」7月27日
 前回に引き続き、今回も宗教教育の話になってしまいました。特集ワイド欄で『はやぶさ2「リュウグウ」探査の旅』という特集が組まれていました。その中に、『管制室の一角に神社のお札が立てかけてある。探査の成功には神頼みも必要なのだろうか(略)中和器と呼ばれる機器にトラブルがあり、当時の川口淳一郎プロジェクトマネージャーが「中和神社」があることを知り、機器の復活を祈ってお参りをした』という記述がありました。
 合理的な思考により問題を解決していく科学、その象徴ともいうべきJAXAとお札という組み合わせの意外さが、取材した記者をして「面白いエピソード」としての価値を感じさせたのだと思います。岡山県にある神社にわざわざ出掛けていった川口氏、そのときにいただいたお札を飾っておいたスタッフ、そのことに違和感を感じない研究員、そして2号機打ち上げに際してまた神社を訪れた新しいプロジェクトマネージャー、みんな科学者です。もし、これらの人にご自身の宗教観を尋ねてみたとしても、何か特別な考え方や解釈があるようには思えません。そもそも神とは何か、宗教とは何かなどについて特別な関心があるようにも思えません。
 科学的な合理性を重んじているが、だからといってムキになって神や人智を越えた偉大な存在を否定するわけでもなく何となく共存させている、これが日本人の宗教との接し方であり、宗教に対して抱いている素朴な感情名のだと思います。この感情を肯定的に捉え、こうした感情に基づいて宗教教育を考えることを是とするか、こうした宗教的態度や考察を未熟なものとして否定する立場で宗教教育を考えようとするか、そこが重要なのではないかと思います。
 前者の立場に立てば、宗教教育はすでに行われているとも言えます。道徳教育に於いては、崇高なものに対する畏敬の念という内容が含まれているのですから。しかし、そんなものは宗教ではない、少なくとも宗教の本質ではなく、多くの世界的な規模の宗教を理解することは出来ないというのが、「専門家」の立場でしょう。
 しかし、人が踏み入ることが出来ない険しい山や大きな岩や大木などに神性を感じ敬う行為が多くの原始的な宗教の始まりだったはずです。その時点に立ち返り、人間が、ホモサピエンスがもっていた宗教的な感情を理解することは、意味のないことではないと思えます。ここを切り込み口に、宗教教育のモデルを構想することはできるのではないでしょうか。社会科と道徳の出番かもしれません。

 

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たむら頼み

2018-07-30 07:49:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「同じ悩み」7月25日
 放送作家たむらようこ氏が、『タブー視せずフラットに伝えたい』という表題でコラムを書かれていました。その中でたむら氏は、『テレビにおけるタブーの一つに「宗教」があります』と書き、『宗教とテレビの距離感に私は悩み、答えを探しています。テレビが宗教を伝えない場合、宗教に免疫なく育った子供が判断材料もなく宗教にはまり込む危険性はないでしょうか』とご自身の問題意識を吐露なさっています。
 私はこのブログで、学校における宗教教育について、再三取り上げてきました。たむら氏の言葉は、テレビを学校に入れ替えればそのまま私の思いです。たむら氏は、『宗教の宣伝でも否定でもない、議論の材料をフラットに伝える方法を模索する日々です』と述べていらっしゃいますが、もしそんな方法が見つかったら、是非詳しく公開してほしいものです。その方法や考え方は、おそらく学校教育に於いても有効だと思われるからです。
 たむら氏が、『病気に失恋……、科学だけで救われないのが人の心』と書かれているように、私も宗教の存在意義、社会に果たす役割を肯定する人間です。もし、宗教=人々の心を救うものというような定義で「普遍的な宗教」を取り上げることが可能ならば、宗教の授業は難しくありません。しかし、実際に授業で取り上げる場合、「宗教」という一つの学習対象があるのではなく、○○教、▽▽宗という具体的な戒律や聖典などをもついくつもの宗派や教団のことを除外して授業を進めることは、難しいのです。
 学校における授業は、具体から抽象に進むという原則があります。算数科では「リンゴが3個あります~」という子供に身近なモノのイメージを借りて数の概念への理解を深めていきますし、社会科では、ガス、水道の供給といった具体的な事業を通して、広域協力による生活基盤整備という見方を学ばせます。理科でも、具体的な観察や実験を通して科学的な見方や法則を学ばせます。つまり、いきなり宗教という抽象概念を提示するのではなく、具体的な何かを通して宗教というものの本質に気付かせていくというアプローチが必要になってくるのです。
 私が専門としてきた社会科について言えば、我が国の産業についての学習では、どの産業を学習指導要領で例示するかで、業界からの圧力が掛かります。第1次産業でいえば、農業と水産業となりますが、林業関係者からは林業も重要な産業だと異論が出されます。農業や水産業の内部でも、旧来型の農業・水産業から、農地なしの工場型農業やAIを活用した養殖漁業など、それそれが国民の認知度を上げるために、例示に含まれることを望みます。事例地として、例えば米作りならば宮城か山形か新潟か秋田か、品種ならばササニシキかコシヒカリかということさえ、教科書会社は頭を悩ましているのです。
 もしこれが宗教ということになれば…、絶望的です。特定の宗教や宗派、教団(一つとは限らないが)などにふれながら、それらについて宣伝でも否定でもないと認められるような取り扱いなど、人間業ではありません。しゃれではありませんが、神にしかできないことです。
 私なりに考えたのは、ある架空の□□教を設定し、宗教というものの本質を学ばせるという手法です。でも、世界中に無数にある宗教や宗派、教団とダブることなく□□教を設定するのは、素人にはもちろん、宗教学の専門家でも難しいと思い諦めました。
 たむら氏のアイデアに期待です。

 

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勘違いは命取り

2018-07-29 08:29:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「要注意」7月24日
 『優生思想だ/単なるヘイト』という見出しの記事が掲載されました。自民党衆院議員杉田水脈氏の寄稿について報じる記事です。記事によると杉田氏は、『LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるのか。彼ら彼女らは子どもを作らない。つまり生産性がない『様々な性的指向を認めれば、兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や機械と結婚させろという声も出てくるかもしれない』などと主張しているとのことです。
 当然、多くの批判の声が寄せられています。私も正直なところ「よくもこんなバカが国会議員に…」という思いですが、ここでは杉田氏の主張の愚かさを追及するのではなく、議員という存在の特殊性について述べたいと思います。
 もし、こうした主張を校長や教員がしたらどうなるでしょうか。まちがいなく懲戒処分、それも戒告では済まないでしょう。杉田氏の発言については、同じ自民党の議員から支持する声が寄せられているようですが、そうした議員でさえも、校長や教員が同じことをしたときに味方になってはくれません。この差はどこからくるのでしょうか。
 議員は主権者である国民の支持によってその立場についています。議員の発言を非難することは誰しもがもつ権利ですが、議員を辞めさせること、発言を封じることは誰にも出来ません。確かに議会の総意として辞職勧告等の措置をとることはできますが、そうしたケースはごく希です。なぜなら、主権者のその人を議員にしたいという意思を主権者ではない別の機関が無視する、反する行動をとるということは、ある意味民主主義の否定につながりかねないからです。
 だから、国会議員も地方議員も、国民の7割、8割が嫌悪感を示すような問題発言を平然と繰り返すことが出来るのです。一方で、公務員である校長や教員には、そうした特権はありません。ですから、議員とは逆に、国民の8割、9割が賛同するような常識的な見解であっても、1割か2割が熱狂的に反対するような事柄について口にすることは許されていないのです。
 教員も校長も、常に明確な事実、教委や文科省等の公式見解に沿う意見しか口にしてはいけないのです。しかし、このことを十分に理解していない教員などが、ときに問題発言をし、混乱を引き起こすのです。
 例えば、「体罰もときには必要」という教員がいます。おそらく同じ考えの政治家は保守派を中心に相当数いるはずです。彼らは実際にそうした発言をしています。そして批判されるどころか勇気ある発言と評価されることさえあります。しかし、教員が保護社会党で口にすれば、間違いなく処分、おそらく戒告程度でしょうが、処分されることになります。また、「いじめは、いじめられる側の子供にも原因がある場合が多いのです」という発言も同じですし、「いじめに負けないような強い心をもつことも必要」などという発言も、政治家が言う分には、小さな波紋で済みますが、教員や校長が話せば、大問題となります。
 例示したいじめや体罰についての発言は、実際に過去の政治家が発言したものです。そしてこうした発言が報道されると、教員の一部に「政治家が言っているんだから、自分が言っても問題ない」と勘違いし、妄言を口にし問題を起こすというケースが増えてくるのです。今回も、「LGBTは役立たず」というような妄言を口にする教員が現れるのではないかと心配になります。その種の妄言は、教員にとっては命取りですよ。

 

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瞳を閉じて

2018-07-28 07:52:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それでいいの」7月23日
 特集ワイドは『電車内化粧 論争再燃』という見出しで、様々な意見を紹介していました。私自身は、電車内で化粧する女性を目にしたことはありませんし、迷惑や不快感を被ったこともないので、特にこの問題について強い思いはありません。そんなわけでごく軽い気持ちで読み始めたのですが、最後にとても気になる記述がありました。
 「盛り鉄女子」という言葉を生み出したコラムニスト東香名子氏は『みんながするのならOKという人が増えている』、『さまざまな人がいる。気分を害するぐらいなら、見なかったことにしよう』、同じくコラムニスト犬山紙子氏は『電車内の化粧も「多様性の一つ」と緩やかに受け止められる社会になる』、新潟青陵大学教授碓井真史氏は『受け止め方に差があることを注意する行為は控えた方がいい。それが現代人のマナーです』と語っていらっしゃったのです。
 3氏が語っていらっしゃるのは電車内化粧についてだけではなく、「ある行為に対して違和感を感じても、人それぞれ、見なかったふりをして注意したりしない」という対応を望ましいものとして評価しているように感じられました。トラブルを避けるための生きる知恵としては理解できますが、本当にそれでよいのでしょうか。
 学校の役割の一つに、公共の場におけるマナーやルールの基本を身に着けさせることが期待されています。例えば、子供を連れて遠足などの校外学習のため電車に乗ったとき、車内で化粧する人、飲食をする人などを見かけ、子供が「先生あんなことしていいの?」と訊いてきたとします。私なら、「よいことではないね。でもあの人には今日特別な事情があるのかもしれない。だから注意したりはしないけど、○○さんはそんなことはしないようにしようね」というような答え方をすると思います。正直なところ、直接注意する勇気はないので。でも、ことの「善悪」はきちんと教えたいと考えてしまうのです。
 でも、3氏の考えによれば、「人それぞれよ。嫌だと思うなら目を閉じて見ないようにしなさい」という指導が正しいことになります。屁理屈であることは承知していますが、こうした態度の先には、車内で暴力を受けている人を見ても、「目を閉じて~」となり、土足で座席に乗っている子供を見ても「目を閉じて~」、店で万引きしている人を見ても「目を閉じて~」となってしまうのではないかと危惧するのです。それらの行為は化粧とは違って明確な犯罪やルール違反ではないか、という反論があることは分かっていますが、化粧と飲食、飲食と飲酒、股開き座りと座席への荷物置き、など違反かマナー上の問題か境界が曖昧で、だんだんと許容される行為が増えてくるように思えてならないのです。そしてやがては、土足も暴行も。学校内でも、教室でいじめを目撃しても、「目を閉じて~」というように。
 先程述べたように、私は小心者ですので、実際に注意することはなかなか出来ません。でも、いけないことだという認識はもっています。これが社会という公共空間を生きる人間として許される最低限のレベルであり、「目を閉じて~」では、社会そのものが崩壊してしまうように思うのですが。

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岡目八目

2018-07-27 08:11:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「外国人も認めた」7月23日
 映画監督ロジャー・パルバース氏が、『学校と私』欄でインタビューを受けていました。4人の子供を日本の学校に通わせたパルバース氏は、『日本の幼稚園、小学校の教育はとても素晴らしい』と語っています。そしてより具体的に、『日本の場合、子どもに自分のことよりも他者のことを考えるようにしっかりとしつけをします』と語り、学習面でも優れているとして、『豪州の大学に勤務することになり、子どもたちは地元の中高に通ったのですが、日本で学んだ数学のレベルが高くて、2、3年、宿題をしなくても、授業についていけたくらいでした』と述べています。
 また、『一方、日本は子どもが大きくなればなるほど、手かせや足かせが多くなり、自由な発想を阻害するという悪弊もあると感じました。欧米とは逆で、高校、大学と先に進むにつれて、教育の質が落ちていく印象です』とも指摘なさっています。
 私がこのブログで再三にわたって指摘してことと重なります。私は同じ考えを、欧州5カ国の教育視察、親しい友人の英国半年留学(初等教育の教員として)レポート、中高の歴史教員との合同研究発表などを通して感じていました。いずれも、20~30年ほど前の知見です。その時期は、パルバース氏が、我が子を日本の小学校に通わせていた時期に重なります。昭和末から平成初期の期間の我が国の初等教育は、生活指導面でも、学習指導面でも充実していたのです。
 しかも、他者への配慮などは、歩きスマホや電車内での化粧や食事など、周囲の人への配慮を欠く行為が指摘される現在、非常に重要な教育課題ですし、数学の学力も、理数系の学力向上に重点をおく改革が行われている点からすれば、主要な教育課題とみなしてよいでしょう。つまり、かつて我が国の初等教育にあった「良さ」をここ20年余の間違った教育改革で失い、改めて失った「良さ」を取り戻そうとして、またたな改革」を始めているということなのです。
 目先を変え、とにかく何だか分からないけど今まで出来なかった改革を推進しているという印象を振りまくことが目的であるかのような改革、木に竹を接いだような我が国の学校教育の伝統を無視した改革、「教育は死んだ」というような「良さ」を無視した全否定から始まる改革を見直し、学校教育の正当な評価に基づいた改善を地道に進めていくという姿勢が待たれます。

 

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勉強すればいじめもなくなる

2018-07-26 08:27:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「お勉強こそ」7月18日
 法政大総長田中優子氏が、『晩節の楽しみ』という表題でコラムを書かれていました。その中で田中氏は、『恨み、怒り、嘆きなどの感情的な問題は、混乱を言語化できないことから起こる。書を読み言葉を学び続けた高齢者であれば、若者より言語化能力が優れ、感情を抑制できる』と書かれていました。
 心強い言葉です。しかし、言語化能力ということに絞って考えてみれば、何も高齢者と若者という対比である必要はなく、「書を読み言葉を学び続け」ることで、感情をコントロールできるようになるという事実を述べていると捉えることが出来ます。
 学校現場では、衝動的な行動をとる子供の増加という事態に対処するために、アンガーマネージメントの取り組みが注目されています。しかし、田中氏の言葉に従えば、何も特別なことをする必要はなく、「書を読み言葉を学び続ける」という学校が本来行うべき授業、言語を使った学びを充実させていくことが、衝動的な行動を減少させていくことにつながるということになるはずです。従来の生活指導、問題行動への対応では、欠けていた視点です。
 さらに言えば、言語を使った学びが充実していないから衝動的な行動が減らない、という見方さえ可能なのです。では、言語を使った学びとして、どのような授業が考えられるでしょうか。私が提唱したいのは、まず、古今の名作の優れた表現の、暗唱、暗写、視写、朗読などの学習活動です。戦後の国語学習の中で軽視されてきた「古臭い」指導法ですが、言語感覚を身に着ける上で大変有効だと思います。
 また、小論文作成を、算数・数学や社会、理科などの教科において取り入れることも重要です。課題の明確化→仮説→検証・調査→結果→新たな課題というように考えたことを文章化する訓練は、実生活に於いても、直面している状況を言語化することで整理する能力の育成に結びつくはずです。
 そして最後に、話し合い活動を積極的に取り入れることです。特にディベートのように異なる見方、価値観をぶつけあうことによって、自分とは違い考え方が存在することを論理的に体験することが必要になります。
 言語化による感情コントロールは、いじめ防止にも役立つはずです。

 

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仲良し○○

2018-07-25 08:31:41 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「よいことのようだけれど」7月17日
 特集ワイドは、『女性ティーン誌「ニコラ」小中学生に人気』という表題でした。ニコラとは、『小学校高学年から中学生をターゲット』にした月刊誌で、『ティーン雑誌の第1位』の売り上げを誇る雑誌だそうです。特徴は『小学5年生から中学3年生を対象にしたオーディション』で選ばれたモデルたちが誌面を飾っていることで、15000人近くの応募者がいるそうです。
 正直理解できない世界です。ただ、『今の高校生以下の子どもたちは、本当に仲がいい。小物も親とシェアし合ますし(略)ニコラの読書層は、現代仲良し親娘の一つの「正解」の形』という編集長の言葉が気になりました。10歳から15歳という時期、母親と娘がそんなに仲がよいということに違和感を感じてしまうのです。
 反抗期という概念はもう過去のものなのでしょうか。我が家は私が高校を卒業するまで、毎年家族旅行をしていたような「仲良し家族」でしたが、私の姉と母が、この時期に2人でファッション関係の買い物に行ったり、アクセサリー等を共用していたりということはなかったように思います。
 また、記事にあるように彼氏を紹介するというようなこともありませんでした。姉は学校で評判の「美少女」でしたから、彼氏がいたかもしれませんが、家に連れてくることなどなかったのです。つまり、親には言えない小さな秘密をいくつか抱えているのが、普通の少年少女であり、親と一緒に行動することは「格好悪い」という感覚が一般的だったのです。
 もちろん時代が変わり、経済的に豊かになり、多くの情報の入手と発信が手軽に行えるようになった今、50年前と比べても仕方がないという面があることは否定しません。ただ、子供が成長していくとき、早い遅いはあるにしろ、反抗期や大人や社会に不信感を抱く時期、言うに言われぬ劣等感を一人で抱え込み無口になる時期などを通過しておくことは、健全な成長に必要なのではないかと考えるのです。それが、10~15歳の時期の発達課題だと思うのです。だからこそ、仲良し親娘を手放しで礼賛するかのような記述に首を傾げてしまうのです。
 子供は特に意識することなく、自然に仲良し親娘という状態を満喫しているのかもしれませんが、親はそれではいけないのではないでしょうか。子供の前に立ちふさがる壁であるという自覚が必要なはずです。たとえそれが居心地の悪い状態だとしても、です。
 仲良しの教員と子供なんて不気味なものも横行しているのでしょうか。
 

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小さな教委支援

2018-07-24 08:08:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教委でも」7月13日
 『論点』欄のテーマは、地方議会の在り方についてでした。3人の識者がご意見を述べていましたが、その中で、長野県立大公共経営コース長田村秀氏の提言の中に気になる記述がありました。
 田村氏は、『小規模自治体では、議員だけでなく、首長や職員も確保できなくなる可能性を否定できない。内閣府は地方創生に積極的に取り組む市町村に対し、国家公務員や大学研究者、民間の人材を市町村長の補佐役として派遣している』と語っていらっしゃいました。田村氏ご自身もみなかみ町に参与として派遣されているということです。
 同じような取り組みを教委についても考えてみてはどうでしょうか。大学の研究者、都市部の教委で教育課程に関わる管理職を務めた者などを、参与や顧問として派遣するシステムを構築するのです。
 小規模自治体においては、学校教育に関する行政といえば、校舎の改築や施設設備の更新、物品の購入などの学校事務、健康診断や予防接種などの学校保健等を行うだけで、教員の研修や教育課程の管理といった部分は、都道府県教委に頼り切っているのがほとんどです。学校事務や学校保健は、首長部局の建築課や厚生部といった職務と近く、教育に関する知見はそれほど必要とされないのが実情です。つまり、基準やマニュアルに従って、予算執行と手配をするという仕事であり、予算が限られている中では、自治体ごとの特色を打ち出す余地は余りありません。
 一方、教員の育成や教育課程の編成は、自治体独自の特色を打ち出しやすい分野であり、メディア等で取り上げられる学校関係の報道も、ほとんどこの分野に集中しています。首長としても、有権者にアピールしやすい部分であり、やり方によっては低予算で新機軸を打ち出すことも可能なため、独自の教育政策を計画実行したいと考えているケースは少なくないと思われます。
 しかも、地域創生という視点からも、「地域振興は人材の育成から」が共通理解事項なのですから、力を入れていきたい分野なのです。しかし、教育課程や教員育成についてのノウハウを知る職員がいないため、なかなか進まないのです。ですから、文科省が研究者や大都市教委幹部経験者等のリストを作成するとともに人件費の一部を補助するという、自治体と結びつけるシステムを作れば、需要はあると思われます。
 研究者の側からしても、自分の研究や仮説を実際に検証する、データを収集するという意味でメリットがあります。そしてそのことは、抽象的な神学論争に陥りがちであった教育論議を地に足の着いた物に変えていく契機ともなるはずです。
 一考の余地はあると思うのですが。

 

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まず20年

2018-07-23 07:44:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「その後」7月12日
 『どうする「人生100年時代」の後半戦 次の自分へ50代から助走』という見出しの特集記事が掲載されました。私はこの「後半戦」の真っ只中にいます。しかし、私は今までこのブログで、教職の難しさや教員の在り方についてふれることはあっても、教員を辞めた後のことについてふれたことはありませんでした。
 私の教員論においてはいくつかの「基本的立場」がありますが、その中の一つが、教員も普通の人である、というものです。教員にも、私生活があり、大事な家族がいて、名誉欲や自己承認欲求があり、聖職として過剰な自己犠牲を強いるような教員論は現実離れしている「百害あって一利なし」の考え方だということです。
 そうであれば、当然のことながら定年後の20年の在り方についても、触れることが必要であったと、この特集記事を見て考えたのです。記事では、ベストセラー「定年後」の著者楠木新氏がインタビューを受けていました。楠木氏は、『若い時に「会社人間」として精いっぱい働いた人ほど、定年後など次のステップで活躍しています。それは20~30代で会社の仕事を一生懸命やった結果、基礎力をつけたからだと思う。会社という仕組みは、個人が多くのことを学べる重要な場なんです』と述べていらっしゃいました。
 何だかホッとする気がします。教員を辞めた後どうしよう、と考えるよりも、まず若いうちは授業を工夫し、子供理解に努め、学校という組織の一員としてしっかり仕事をすればよい、ということだからです。私自身を振り返ってみても、20~30代は一番仕事をしたという実感があります。授業や学級経営はもちろん、教務主任、研究主任など組織運営にも関わって、苦労したり嫌な思いをしてこともありましたが、それはその後教委に勤務するようになっても自分自身の支えとなっていた気がします。
 また、楠木氏は、『上司やお客さんにもまれて、自分を作るのも貴重』とも語っていらっしゃいます。教員は、子供と触れ合う仕事ですあり、段々と慣れてくるにしたがって、子供を「動かす」技術に長けてきて、学級王国の王様になってしまう危険性があります。だからこそ、楠木氏が指摘するように、校長などの管理職や年長者である保護者や地域の方々などから厳しい指摘を受け、「天狗の鼻」を折られる経験、つまりもまれることが大切になるのです。それらが慢心の戒めとなり、人間としても成長させてくれるのです。
 平凡な結論かもしれませんが、まず20年間、教員としての仕事を精いっぱいやり切ることで、定年後の人生を乗り切る基礎力が身につく、ということなのだと思います。

 

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教室の中の弾圧

2018-07-22 08:40:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「弾圧」7月11日
 『愛国ソング 謝罪は必要? ロックバンド「軍歌みたい」批判受け』という見出しの特集記事が掲載されました。『(バンドの)ボーカルの野田洋次郎さんが書いた歌詞が「軍歌のようだ」などと指摘され、本人がツイッターで謝罪した』という一件について論じる記事です。
 歌詞の全体を知らないので、この論争自体に加わるつもりはありませんが、気になる記述がありました。コラムニスト小田島隆氏のコメントの中にある『(廃盤を求める集会への参加の呼びかけ)を言論弾圧と呼ぶ人もいますが、表現者がいる限り、反対者がいるのは当然です。弾圧とは権力を握る人が圧力をかけることで、個人であれば批評にすぎない』という記述です。
 その通りだという思いがないわけではありませんが、「弾圧」というものの実態を無視した主張だという気がしてならないのです。学級という社会を想定してみます。この場合「権力を握る人」とは担任の教員でしょう。ですから、教員がある子供の意見や感じ方について、不当かつ一方的にそれは間違いだと断じ、非難攻撃することは「弾圧」に当たるわけです。その点については異議はありません。
 しかし現実に学校で起こるのはそんな露骨な「弾圧」ではなく、教員の考え方や価値観を忖度した頭のいい子供Aが、教員とは異なる価値観をもつ子供Bを直感的に見つけ出し、Bを批判するケースです。
 Aは、教員が心情的に自分の味方であることを知っています。ですから、あまりやり過ぎさえしなければ、教員がみて見ぬふりしてくれることを理解しています。そして、AのBへの批判や攻撃について、教員がAの側に立っていることを察したその他の子供が、Aと同調してBへの批判や攻撃に加わっていくのです。
 他人をいじめても叱られる恐れがなく、先生と共に「正義」を振りかざすことができるのですから、こんな楽しいことはありません。これが、学校で起こるいじめのパターンの一つですし、そこまで深刻化しないまでも、影響力のある「指導力過多教員」は、必ずこうした権力者への忖度による弾圧という仕組みを巧みに使っているものなのです。
 「Bさんはいくら注意しても忘れ物がなくなりません。どうしたらよいでしょうか」という教員の投げかけに、「Bさんがもう絶対忘れ物はしないという気持ちになるために、みんなで太股を1回ずつ叩くという罰を与えたらよいと思います」という流れの中で、子供による暴行事件が起きたのです。教員は、みんなが(民主的に)決めたことだから、と責任回避をしましたが、これは教員の意向を忖度した子供たちによる暴行事件であり、教員という権力者による「弾圧」だというのが、私の「弾圧」観なのです。
 権力者は分かりやすく権力を行使するとは限りません。無自覚なまま、周囲に忖度させることで、弾圧していくことの方が多いのです。権力者である教員は、こうした弾圧の仕組みを理解し、自分が弾圧者になっていないか、常に自省を怠らない覚悟が必要です。

 

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