「感情」7月27日
前回に引き続き、今回も宗教教育の話になってしまいました。特集ワイド欄で『はやぶさ2「リュウグウ」探査の旅』という特集が組まれていました。その中に、『管制室の一角に神社のお札が立てかけてある。探査の成功には神頼みも必要なのだろうか(略)中和器と呼ばれる機器にトラブルがあり、当時の川口淳一郎プロジェクトマネージャーが「中和神社」があることを知り、機器の復活を祈ってお参りをした』という記述がありました。
合理的な思考により問題を解決していく科学、その象徴ともいうべきJAXAとお札という組み合わせの意外さが、取材した記者をして「面白いエピソード」としての価値を感じさせたのだと思います。岡山県にある神社にわざわざ出掛けていった川口氏、そのときにいただいたお札を飾っておいたスタッフ、そのことに違和感を感じない研究員、そして2号機打ち上げに際してまた神社を訪れた新しいプロジェクトマネージャー、みんな科学者です。もし、これらの人にご自身の宗教観を尋ねてみたとしても、何か特別な考え方や解釈があるようには思えません。そもそも神とは何か、宗教とは何かなどについて特別な関心があるようにも思えません。
科学的な合理性を重んじているが、だからといってムキになって神や人智を越えた偉大な存在を否定するわけでもなく何となく共存させている、これが日本人の宗教との接し方であり、宗教に対して抱いている素朴な感情名のだと思います。この感情を肯定的に捉え、こうした感情に基づいて宗教教育を考えることを是とするか、こうした宗教的態度や考察を未熟なものとして否定する立場で宗教教育を考えようとするか、そこが重要なのではないかと思います。
前者の立場に立てば、宗教教育はすでに行われているとも言えます。道徳教育に於いては、崇高なものに対する畏敬の念という内容が含まれているのですから。しかし、そんなものは宗教ではない、少なくとも宗教の本質ではなく、多くの世界的な規模の宗教を理解することは出来ないというのが、「専門家」の立場でしょう。
しかし、人が踏み入ることが出来ない険しい山や大きな岩や大木などに神性を感じ敬う行為が多くの原始的な宗教の始まりだったはずです。その時点に立ち返り、人間が、ホモサピエンスがもっていた宗教的な感情を理解することは、意味のないことではないと思えます。ここを切り込み口に、宗教教育のモデルを構想することはできるのではないでしょうか。社会科と道徳の出番かもしれません。