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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

正当な評価or世論の暴力

2015-12-31 07:40:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どちらを選ぶ?」12月24日
 『1型糖尿病で入園拒否』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『「1型糖尿病」を発症した子供が、幼稚園や保育園への入園を断られたり、難色を示されたりするケースがある』ということです。その理由としては、『「これまで受け入れた経験がない」「何かあったときに対応ができない」などだった』とされています。
 記事は淡々と事実を伝えるだけで、園側の対応を責める記述もありませんし、行政や政治への注文もありません。入園拒否は、病気による人権侵害ととらえることも可能ですから、こうした事実のみを伝える形はむしろ異例だと言えます。
 今回の記事は、幼稚園や保育園ですので、入園拒否が起きますが、義務教育である小中学校では、入園拒否は不可能です。ではもしも可能だとしたらどうなるでしょうか。自分が校長だとしたら、どのような判断を下すでしょうか、と考えてみました。
 綺麗事ではなく、私だったら入学を受け入れます。もちろん、保護者に対して、規定の時間になったら学校にきてインスリンの注入を行うこと、主治医に緊急対応の約束を取り付けることなどのお願いはしますが。それは、教委勤務時代に長年人権尊重教育を担当してきた者としての義務だと思うからです。
 しかし、そんな私でも躊躇する状況があり得ます。それは、学校選択制です。保護者が全く自由に学校を選択できるという制度下で、なおかつ選択された数によって、学校が評価され、教員が評価され、予算や統廃合の面で不利な条件を押しつけられるとしたら、大いに迷うと思います。
 保護者の本音として、あの学校には1型糖尿病の子供が何人もいて、先生方もその子供たちにいろいろと気を遣って他の子供への配慮が疎かになっているらしい、という危惧をもつ方がいるはずだからです。さらに、あの校長が1型糖尿病の子供を積極的に受け入れる方針なので、遠くの学区からもそういう子供が集まってきて、来年の1年生ではもっと増えるらしい、というような憶測が流れ、児童数が減ってしまえば、他の子供にも悪影響が及ぶことになってしまいます。いくら、病気について説明し、学校の体制について理解を求め、子供への悪い影響はないことを説いても、こうした思いこみはなかなかなくならないものです。
 つまり、学校選択制や保護者による学校評価には、こうした世論の暴力とでも言うべき側面があるのです。それは、問題行動歴のある子供や障害のある子供、不登校や学習遅進児など、本来より手厚い教育的配慮が必要な子供を排除する方向で機能してしまう可能性があるのです。
 実際、地域でも有名な「問題児」とそのモンスターペアレンツがA中学校に進学するらしいという噂だけで、A中学校の入学希望者が激減してしまったという例があるのです。こうした負の側面について、きちんとした研究と分析が行われているかと言えば、不十分であるというしかありません。学校選択制の定着に当たっては、絶対に乗り越えなければならないハードルなのですが。

 

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一将功なり万骨散る、あとには死屍累々

2015-12-30 07:23:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「担任教員だったら」12月23日
 論説委員の中村秀明氏が、『「可能性」を信じる』という表題でコラムを書かれていました。その中で中村氏は、スーパーカミオカンデの光電子管を作った浜松ホトニクス社長昼間輝夫氏とのやりとりを紹介しています。『「飛行機はなぜ、飛べるようになったか、知ってます?」と問うた。「ライト兄弟が…」という答えをさえぎり、昼間さんが言った。「そうじゃなくて、鳥を見てね、『ああ、空を飛べたらいいな」と考えた連中がいっぱいいたんです。そして何人かは、屋根やがけから落ちてけがをしたり、死んだりしたでしょうね。数え切れないほどの失敗の先にライト兄弟がいて、何メートルか浮いたわけですよ」可能性にかけてみることが大切である』。
 昼間氏も中村氏も、この逸話を可能性にかけ挑戦した人たちの素晴らしいエピソードとしてとらえているようです。同じとらえ方の方が多いと思います。しかし、私は臍曲がりなためか、そうは思えないのです。何人もの人が死んだり、障害者として暮らさなければならないような大けがをしたり、人生を左右するような大きな借金を抱えたりし、その周囲の人、親や配偶者、子供などを不幸に巻き込んでしまった、という事実の方に目が向いてしまうのです。
 もちろん、人の感性や価値観は様々です。どちらが正しいというものではないでしょう。ただ、もし、自分が飛行機のない時代に教員をしていて、教え子が「空を飛んでみたい」と言い出したとしたら、自分は賛成するだろうか、積極的に後押しをするだろうか、と考えてみたとき、私はブレーキをかけるだろうと思いますし、それが良識というものではないかと思うのです。
 我が子が、1000人が挑戦して成功するのは一人だけで失敗すれば大きなダメージを背負う、というような道を選ぼうとしているとき、我が子の幸せな人生を願う親のほとんどが反対し、もっと「成功」確率が高い道を歩むことを望むはずです。だとすれば、親ほどではないにしろ、教え子の幸せを願う教員であれば、あまりにもリスクの大きな選択はさけるように助言するのが当然だと思います。
 それにもかかわらず、若いうちは思い切って挑戦すべき、やらずに後悔するよりやってみて後悔する方がよい、努力すればどんな困難も乗り越えられる、誰でも無限の可能性をもっている、などという美辞麗句に酔い、子供の一生を台無しにしてしまうのは、本当の意味での愛情も責任感もない、似非教育者なのではないかと思ってしまうのです。
 そして、こんな似非教育的な価値観が支配しているのが現在の学校であるように思えてならないのです。ノーベル賞科学者にも、メジャーリーグのスター選手も、ハリウッドで活躍する国際的映画俳優も、99.9999%の子供には無縁な存在です。地道に目の前の課題を一つ一つ乗り越えていく、そんな堅実な生き方こそ、少なくとも義務教育段階の学校が重視すべき価値観だと思います。
 

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毎日そこそこ

2015-12-29 07:25:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「見えない部分」12月22日
 鈴木直記者が『支え合い』という表題でコラムを書かれていました。厚労省が社会保障について周知する取り組みについてのコラムです。その中で『社会に出る前に基礎を学んでもらおうと高校などに職員を派遣している』として、授業の様子を紹介しています。
 『生徒は最初、斜に構えていた。しかし、身近な問題だと思えば興味も湧くのだろう。最後は目の色が変わっている』というものです。鈴木氏は、この職員が行った授業(?)が成功であったと評価しているようです。私もそう思います。では、成功の原因は何でしょうか。このコラムから何が分かるでしょうか。
 私は、このコラムを読んだ一般の人が、「やはりその分野の専門家の話は授業の魅力を高める」「身近な問題を取り上げることが授業を生き生きとしたものにさせる」などと考えるのではないかと危惧しています。そうした考え方が、社会人経験のある人を教員に迎え入れればよく分かり面白い授業が実現する、という発想に短絡的に結びついていくことが恐ろしいのです。
 私は授業の要素として、教材、学習過程、学習活動、評価、学習環境、学習方法とルールなどの項目を挙げています。今回、鈴木氏が取り上げた試みが成功したのは、自分の将来の生活に直結する年金や医療等の社会保障に関する内容であったからです。先の要素でいえば、教材がよかったということです。教材の良さが、他の要素の欠落を補ってあまりあったと言えます。
 しかし、日常の授業は、本当に身近なものだけを教材とするわけにはいきませんし、ある教科に含まれるあらゆる内容(=教材)についての専門家といえるような社会人はいません。私が専門としてきた社会科で言えば、地域の商店会について、水道やガスの仕組みについて、消防や警察の活動について、身近な神社やお寺にまつわる歴史についてなど全てに詳しい人などいないということです。仮にそうしたスーパーマンがいたとしても、そうした人材を何十人、何百人と集めることは不可能です。
 そこで、教える専門家である教員は、教材研究だけでなく、学習活動や学習過程、評価、数年間の見通しにたった学習方法やルールの習得などの手段で授業を成り立たせていくのです。そうした目に見えにくいものを無視して、「やはりその分野の専門家は~」などと、教員の専門性を無視または軽視してもらっては困るのです。
 1年間に1000時間繰り返される授業は、特別な日に大間の本マグロの刺身と大田原牛のステーキを出すレストランではなく、毎日そこそこの味と栄養の料理を提供し続ける家庭の食事のようなものなのです。

 

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エビデンスと言う前に

2015-12-28 07:24:41 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「価値観の統一を」12月22日
 『教員定数「3475人減」 文科・財務痛み分け合意 来年度予算案』という見出しの記事が掲載されました。具体的な数字に興味はありません。そもそも、見出しで分かるように、政治的妥協の産物に過ぎないのですから。
 ただ、『文科相によると、麻生財務相からは「エビデンスを踏まえて今後定数の研究、検討をしてほしい」と求められた』という記述が気になりました。国民が納めた貴重な税金の使途を管轄する麻生氏の指摘は当然ですし、文科省が研究を開始するというのも当たり前のことです。そう考えてみれば、何の問題もないやりとりのようですが、大きな問題が隠されています。
 両相の間で交わされている「エビデンス」とは、これだけの税金を投入した結果これだけの成果が上がったということを具体的且つ客観的な数値を挙げて説明するといういみでしょう。投入した税金の額を明示することはそれほど難しくはないでしょう。一方、成果の方は非常に難しいのです。
 私はここで改めて、教育の成果は数値化に馴染まない、などと言うつもりはありません。現代では、そんな主張は「言い訳」としか受け取ってもらえないからです。私が問題と感じているのは、背かを測る際に何を指標とするか、ということです。
 学力は外せないでしょう。学力とは何かという議論はありますが、難しく考えることはありません。学力テストの結果を用いればよいのです。ではその次には?と訊かれたとき、答えは様々なのではないでしょうか。
 徳育を重く見る人がいそうです。中でも右派の人からは、愛国心や我が国固有の伝統や文化への敬意、国民としての連帯感というような項目を重視すべきというような声が出されるかもしれません。一方、リベラル派からは、自立や批判的精神こそ大事だという主張がでるかもしれません。体力はどうでしょうか。学校体育や運動系部活をアスリート育成の裾野としてみる立場の人と地域における生涯スポーツを理想とする人では、考え方が違いそうです。
 社会性や人間関係調整力などは確かに生きる力を支える要素の一つです。しかしこうした能力のどの部分が、どのぐらいの割合で学校教育によるものかの判断は困難でしょう。
 人権意識の涵養はどうでしょうか。総論としては意義がないかもしれませんが、LGBTの問題やそこに関わる同姓婚、姓の自己決定など、保守派の中には、そんなことは学校では必要ないという意識の方が少なくありません。「進んだ考え方」への理解を深めればかえって評価されないという事態も考えられます。
 いじめや不登校の増減はどうでしょうか。重要性に認識に対立はありません。しかも、数値ではっきりと示すことができそうです。しかし、これらの数値が、大きな事件があって調査結果に対する世論の注目が集まると増え、関心が低下すると減るという繰り返しであることはすでに証明済みです。さらに、言いにくいことですが教育行政側が暗黙のうちに「そんなに熱心に事例をほじくり出さなくてもいい」という雰囲気をつくることも可能なのですから、あまり当てになりません。
 教員定数とエビデンスの問題は、文科省がどんなに精緻な検証をしてもそれで問題が解決するというものではありません。どのような項目について、どのような状況を成果とするか、さらに各項目についてどの程度の比重で重視するかといったことを政権内であらかじめ決めておかない限り、議論は収束しません。まず、そのための取り組みを始めるべきなのです。

 

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抱え込むという悪癖

2015-12-27 07:53:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「悪癖」12月21日
 『政治活動 学校に届け出』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、18歳で選挙権が与えられるようになったことを受け、新たに認められた高校生の校外での政治活動について、『宮城、愛知など6県と横浜など3政令市の教育委員会が、デモや集会に参加する際に学校へ届け出させるかを検討している』ことが明らかになったそうです。
 また、記事ではこうした状況に対して憂慮する有識者の声も紹介されていました。東洋大助教林大介氏は、『生徒の主体的な活動を萎縮させ、憲法が定める思想・信条の自由に抵触する可能性もある』と語っていらっしゃいますし、早稲田大教授近藤孝弘氏は、『届け出制は「デモなどの政治活動は好ましくない」とのメッセージを発することにもなりかねず、民主主義の理念を損なう可能性がある』と、語っています。全く同感です。
 ただ私は、こうした民主主義の視点ではなく、学校や教委の体質という視点から、この記事を読みました。キーワードは、過剰な責任感です。記事の中に、『デモに参加した生徒の身体に危険が及んだ場合、学校が全く把握しなくて良いのか』という教委関係者の言葉が紹介されていました。もちろん、いいのです。なぜなら、学校管理外なのですから。
 授業中はもちろん校内における全ての時間、登下校時や修学旅行等の校外学習、部活の練習や試合など、学校は自らの管理責任の及ぶ範囲が定められています。怪我や死亡などの事故についても、管理内であれば、補償の制度が整備されています。それ以外は全て管理外です。休日や下校後、子供が何をしようが学校や教員は基本的に責任を問われることはありません。こうした考え方は、法的には極めて自然で当然のことです。学校や教員が子供の言動を管理することが不可能だから責任がないということです。
 この学校や教員という言葉を、少年野球チームや進学塾、ピアノ教室やスイミングスクールといった組織、そこのコーチや講師といった存在に置き換えてみれば、誰もが納得するはずです。
 休日に300人いる在校生の行動を管理するには、やはり300人の教職員が個別に張り付かない限り不可能です。150人、即ち1人の教職員が2人の在校生を担当したのでは、2人が別々の場所に行ったときに対応できないですし、「君はそちらに行ってはいけません」などと、休日にまで在校生の行動を統制する権利はありません。あったとしたら問題です。統制できないのですから、届け出は制限なく受理することになり、届け出を受けたのだから、生徒の安全に責任を持つということになれば、教職員を派遣するしかありません。
 仮に、全校生徒が600人の高校で、1割の生徒がデモに参加するという届け出を出し、そのデモの参加者が1万人と予想されている場合、デモに参加する生徒を確実に把握し、事故の危険から守るためには、数十人の教職員を動員しなければなりません。数人の教職員では、1万人の中に混在する生徒を確認することはできないのですから。さらに、休日なのですから、教職員は時間外勤務となります。不可能です。
 つまり届け出制は、実際には生徒を守る機能は皆無であり、そうであれば意味はないのです。できないことまでしようとし、責任を負おうとするおかしな情熱が学校にはあります。この悪癖は今すぐに絶ちきるべきです。放置するのです。何が起ころうが我関せずを決め込むべきです。「おかしな世論」の尻車に乗り、余計な管理責任を追い込むことになれば、学校の悪癖はさらに強化され、それは小中学校にも及び、学校と教員を疲弊させ、自らの首を絞めることになるのです。
 学校は自らの管理内での取り組みだけに責任をもち、分かる授業の実現に務め、、いじめや不登校を減らし、体罰などの人権侵害を減らすことに全力を注ぎ込むべきなのです。あとのことは、家庭と社会にお任せしましょう。問題は、家庭と社会にその覚悟があるかどうかですが。

 

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将来よりも今目の前を

2015-12-26 07:25:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「夢なんかない」12月21日
 俳優の別所哲也氏とエッセイストの阿川佐和子氏の対談が掲載されていました。その中で阿川氏が、自身の未来について訊かれ、『毎日の積み重ねが思いもよらないところに連れて行ってくれるって信じているんです。目の前のことに誠意をもって向き合う。それによって今、仕事ができているのであれば、夢なんか持たなくっていいやって。今の若い人たちは、自分の好き嫌いや、得手不得手を急いで決めすぎ』と語っていらっしゃいました。
 同感です。我田引水になりますが、私自身、夢をもたずに生きてきました。将来のことは考えずに、単に偏差値だけで高校進学を決めました。大学は唯一受かった教育学部に進みました。友人のほとんどが教職を目指す中で自然に教員採用試験を受けました。自活する自信はなかったので、自宅から通うことができる東京都を受験し採用されました。
 教員としては、社会科教育を専門に研究し続けましたが、それも、教育実習で社会科教育の大家である目賀田八郎氏に指導を受けたからでした。研究仲間に恵まれ、社会科の研究家として少しずつ知られるようになり、指導主事を目指すようになりました。指導主事として与えられた仕事をこなすうちに、授業評価に取り組むようになり、統括指導主事、指導室長として、教員の服務事故についても関わりをもつようになっていったというのが、私の「人生」です。
 後悔はあまりありません。運が良かったとも思っています。しかし、阿川氏が言う「目の前のことに(誠意をもって?)向かい合う」ことができていたのは間違いありません。ただそれは私が誠意あふれる人間だったわけでも、努力家だったわけでもなく、目賀田氏を始めとする社会科勉強会の先輩や仲間の存在が、道を造ってくれ、そこをただ歩き続けた結果、「一筋に誠意をもって」というような形になったというだけです。
 一方で、夢を追い続け、迷路に迷い込んでしまったような人も見てきました。50代後半になっても司法試験を受け続け、酒席で私に「俺の人生何だったんだろう」と目を真っ赤にして語ったS氏、やりたいことがあると中退した揚げ句「もう何をしたかったのか分からない」と言ったT君。もちろん、ごく狭い体験でしかありません。
 ただ、若いうちは夢をもつべきだ、夢をもてるのは若さの特権だ、というような価値観を学校教育がもたせようとするのは本当に正しいのか、一度立ち止まって振り返ってほしいものです。まず、今日の授業に一生懸命取り組もう、与えられた課題をやり遂げるために汗を流そう、という普通のことの価値をもう一度見直してみるのです。

 

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「当たり前」が難しい

2015-12-25 07:28:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「本当は大変なことなんだけど」12月20日
 日本医大特任教授の海原純子氏が、『「あたりまえ」に潜む傲慢さ』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、上司が自分の働きを認めてくれないと嘆く会社員とのやりとりを紹介しています。『「よかったねとか、いい結果だとかはないんですか?」ときいたところ、「いえ、それはあたりまえ、それが給料だろ、って」』と。その上で、『「あたりまえ」という意識に潜む傲慢さが嫌なのだ』と書かれています。
 さらに、『いくら給料をもらっていても、給料だけでそこに感謝やねぎらいや共感がなければ、喜びは生まれない』とも主張なさっています。その通りだと思います。海原氏は、この問題を個人対個人という関係の中で述べていらっしゃいますが、もっと大きく集団対集団という関係で考えることも重要だと思います。
 私は、教員という「集団」と社会という「集団」という対置で考えてみました。教員の仕事は、うまくいって「あたりまえ」という性格をもっています。つまり、不登校にならずに卒業するのは「あたりまえ」、学校で事故に遭わずに過ごすのが「あたりまえ」、いじめに遭って悩み苦しむことがないのが「あたりまえ」、全ての子供が授業を理解できて「あたりまえ」、授業中に騒がしくなく立ち歩く子供がいないのが「あたりまえ」等々。しかし、実際には、こうしたことはかなり大変なことなのです。
 私自身、新卒の頃は、授業中に大声で怒鳴らなければならないこともしばしばでしたし、不登校やいじめは中堅教員になってからも何回も直面させられました。事故についても、医師から「覚悟しておいてください」と言われた深刻な状況に至ったこともありました。幸い奇跡的に回復し後遺症も残りませんでしたが。
 もちろん、こうした不都合な事態のときには、責められなじられ怒鳴られるわけで、そのことは当然だと受け止めるだけの覚悟はありましたが、考えてみれば、普通な平穏な状況を維持して、感謝されたこともねぎらわれたこともほとんどありませんでした。
 教委に勤務するようになると、首長部局から異動してきた上司から、「教員免許があるんだから授業なんかできて当然」と言われ、指導力不足教員の研修など無駄遣いのように言われました。「30人の子供を毎日、一定時間教室内の椅子に座らせておくだけでも結構難しいことで、あなたにできるものならやってみろ」と、言いたくなるのを抑えている日々でした。
 そうした経験を通し、私は世間の人が教職に抱いているイメージについて、「デモシカ教員と言うぐらいで、教員などは大学を卒業してもいい企業に就職できなかった無能者だったり、民間企業の厳しい競争を嫌った怠け者だったりした連中がなるもので、子供相手に、普通の大人なら誰でももっている程度の知識の切り売りをしていればすむ気楽な商売なのに、給料だけは人並み以上」とでもいうような見下し感を感じるようになりました。もちろんここにはある程度の被害妄想が含まれているのは理解しています。でも、そんなに間違っていないように思います。
 その結果が、感謝もねぎらいも共感もない、という状況なのです。だから、教職に喜びを感じることができない教員が増えているのです。それは教員の意欲低下につながり、最終的には、教育の質を低下させていくのです。まあ、橋下前大阪市長のように、政治家が率先して教員攻撃を繰り返すような状況下では、望むべくもありませんが。

 

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沈没

2015-12-24 07:55:50 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「バランスが悪い」12月18日
 東短リサーチ・チーフエコノミスト加藤出氏が、『イーストランド号の悲劇』という表題でコラムを書かれていました。ちなみに、イーストランド号とは、転覆事故で840人を超す死者を出した大型観光船のことです。コラムの中で加藤氏は、『(転覆事故は、)実はその3年前のタイタニック号沈没と深い関係があった。同事故の教訓で、乗客全員分の救命ボート搭載を客船に求める法律が米国で施行された。イーストランド号はそれに従ったのだが、追加したボートの重みでバランスを失い転覆した』と意外(?)な事実を提示しています。
 つまり、このエピソードは、よかれと思って行った「改善」が、かえって悪い結果に結びついてしまうという教訓を示しているのです。その際のキーワードが、「バランス」です。それ自体は単独で見れば「良いこと」であっても、いくつも重ねていくことで、バランスが悪くなり、本来もっていた機能を損なってしまうのです。
 私は、我が国の学校教育においても、同様な危険性があるのではないかという懸念をもっています。それは、我が国の学校教育が、今ある姿に何かを加えるという形でしか、改革を進めてこなかったからです。
 小学校で英語という新教科を増やす、学校理事会という組織を付加する、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカー、部活動指導員という職を新たに設ける、といった具合です。それぞれの改革には、ねらいや意図があり、それ自体は決して非難されるものではない場合がほとんどです。しかしこうした足し算を続けることで、かえって教員や校長等の管理職の多忙化が進んだり、職員間の共通理解が難しくなり組織としての動きがぎこちなくなったり、教員という学校の中核をなす職員の能力低下、具体的には子供理解力の低下、問題対応力の不足などを招いたり、良い意味での学校文化、教員文化が継承されなくなったりするという結果をもたらしているように思えてならないのです。
 船については全くの素人なので間違っているかもしれませんが、ボートを増やしたのであれば、乗客の定員をその分減らすなどの、引き算を同時に行っていれば、不幸な事故は防げたのではないかと思います。
 学校教育も、足した分だけ何かを引く、という発想で改革を進めるという発想が必要なのだと考えます。問題は何を引くか、ですが、それについては再三このブログで述べてきたので繰り返しません。

 

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そんなことで解決すれば苦労はしない

2015-12-23 07:38:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それで解決すれば苦労はない」12月16日
 『ルポ 日中韓の記者 各国で共同取材 日本の歴史認識問う』という見出しの記事が掲載されました。その中に劇作家平田オリザ氏の言葉が紹介されていました。『日本の中韓侵略について「悪いことをしたのは歴史的事実。ではいつまで謝るか。中国と韓国の方から『もういいですよ』と言ってもらう関係をつくるのが大事で、私たちの方から『もう謝らない』などとは言えないはずだ」と述べた』というものです。
 平田氏の発言の中で、「歴史的事実」という指摘には全面的に同感です。もちろん、南京大虐殺も従軍慰安婦も、中韓の主張通りとは思いませんが、事実そのものを否定するのはばかげています。ただ、「もういいですよ」と言ってもらうまで、という主張には同意できません。理想論としては美しいのですが。
 私は、どのような問題でも、評論家ではなく、実際にその場に立ち会っている人間にとっては、理想論の美しさを理解しながらも、現実的な解決の見通しをもつことが必要だと考えています。
 例えば、今年話題になった「運動会でのタワー」での怪我という事例を取り上げてみましょう。練習中にAさんが鎖骨骨折という怪我をしてしまったとします。両親は怒って校長室にやってきて、謝罪を求めます。もちろん、校長以下、関係した教員は謝罪をするでしょう。しかし、両親は納得せず、「明日から祖父の家に行き、家族で梨狩りを楽しむ予定だった。今日中に骨折を直し元に戻せ」「子供の安全を守れないような教員は失格だ。学年の教員全員を馘首せよ」「校長はもちろん辞職し、謝罪の意味も込めて退職金は辞退せよ」という3つの要求をします。できることではありません。こんな場合、平田流に両親がもういいですよと言うまで謝り続けるのでしょうか。
 非は学校側にあります。ですから謝罪は当然です。言い訳は禁物です。しかし、状況についての説明は必要です。「今まで事故はなかったこと」「今年も計画を綿密に見直し事故のないような体制をとっていたこと」「他校と比べても手厚い体制を敷いていたこと」「事故発生後、素早く対応したこと」「治療費等は全額保証されること」「事故については隠すことなく教委に報告したこと」などを伝えることは必要です。しかし、実際には、こうしたことで怒りを和らげてくれないクレーマーもいるのです。
 こうした人たちは、上記のような説明を言い訳、責任逃れ、弁解とねじ曲げて受け取り、ますます要求をエスカレートさせていきます。根気よく、何時間も謝り続けていると、次は「もう4時間も経った。仕事を休んできている。その分の補償もしてもらう」などと言い出すのです。次の日も、またその次の日も校長室での押し問答は続きます。校長は他の仕事ができませんし、同席を求められた教員たちには授業があります。学校全体がに悪影響が広がっていきます。両親は、土日にも出勤して話し合いに応じるように要求してきます。それでもまだ、平田流でいくのでしょうか。
 このように書くと、そんな人は特殊な人だ、誠心誠意謝罪すれば真心は通じるはずだ、などという人がいるかもしれませんが、それこそ現実を知らない理想論です。私は、教委勤務中、「常軌を逸した」クレーマーに対しては、時間で話し合いを打ち切り、自分にできる限界を示します。それでも相手が、訴える、議員を動かして議会で追及するぞ、マスコミに知り合いがいる、などと言い募れば、「そうした事態は望みませんが、あなたさまの行動を押さえつける権利は私たちにはありませんので、お気の済むようになさってください」ときっぱりと言うことにしていました。
 教員にも、校長にも、子供や保護者の立場に立ち、相手の心情を思いやって、誠意をもって対応するという姿勢は大切ですし、忘れてはいけません。しかし一方で、現実の厳しさを理解して対応することも必要です。評論家ではないのですから。

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もはや中止を

2015-12-22 07:23:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「中止へと」12月16日
 『いじめアンケ地裁、開示命令』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『自殺した市立中2年の女子生徒の遺族が、在校生にいじめの有無を聞いたアンケートの開示を市に求めた訴訟で鹿児島地裁は15日、市の不開示処分を取り消す判決を出した』ということです。市は氏名を黒塗りしても、『他の情報を照合すれば個人が特定され、不確実な情報を開示すれば混乱が生じる』と主張していたようですが、認められなかったわけです。
 この判決は極めて当然な結果だと思います。私の感覚からすれば、市の情報保護委員会が、非開示を決定したこと自体驚きです。主権者である市民が納めた税によって運営される行政に関する情報は原則公開です。この原則は、年々、適応範囲が広がり、今後ますます例外は認められなくなってくるでしょう。ですから、今後、教委や学校は「いじめ自殺に関するアンケート」は公開されるという認識で臨むべきです。
 今回、市が主張したとおり、氏名を黒塗りしても、内容から個人が絞られるのは確実です。給食時間中のことが書かれていれば、同じ学級の生徒であると推測されますし、部活中のことであれば、同じ部に所属している生徒ということになります。両方が重なれば、さらに数人に対象者は絞られます。文字や言葉遣い、例えば、一人称をどのように表現しているか(私、僕、自分等)、被害者をどのように記述しているか(○○さん、○○、○○ちゃん、名前か姓か、あだ名等)などでも絞っていくことができます。記述内容の具体的な時期、例えば運動会の練習、調理実習などによっても絞っていくことができますし、一人を特定できれば、後は芋蔓式に特定可能でしょう。
 今後は、児童生徒は、自分が書いたと知られてしまう、ということを前提にアンケートに答えるようになります。そこに真実が書かれるかは、疑問です。意図的にではなくても、勘違いして事実と異なることを書いてしまって、名誉毀損などその責任を問われるかもしれないのですから。もちろん、「加害者」から、「お前が書いたことで自分たちが…」と恨まれることが直接の脅威です。
 それどころか、開示を前提に、わざと嘘の情報を書き込み普段から気にくわない誰かを陥れることも可能になります。子供を知り、子供たちの人間関係を把握している教員が読めば、「これはおかしい」と疑うことができる内容でも、文章として公開されればそれが一人歩きしつてしまいます。そうなれば、ネット上で拡散した情報を後から取り消すことができないように、もうどうしようもありません。
 結論はただ一つです。アンケートに頼るいじめ対応を改めることです。教員が自分の感覚を磨き、疑い段階から見込み違いを恐れずに、いじめがあると考えて取り組むことです。教員のいじめ対応能力向上という原点に立ち返り、脅威も学校も注力すべきです。

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