ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

安全運転の心理

2011-10-31 08:05:37 | Weblog
「羮に懲りて膾を吹く」10月27日
 専門編集委員の川崎浩氏が、暴排条例と紅白歌合戦の関わりについて書かれていました。その中で川崎氏は、『NHKは「無菌歌手」選びに躍起になっているはずだ』と書き、『「羮に懲りて膾を吹く」とまでは言わないが~(中略)~それを恐れ、あるいは、気を回しすぎるあまり、社会が「音楽」や「芸能」を排除するとなれば、文化の危機となりかねない』と述べています。
 私はNHKの苦悩が、特に現場の責任者の苦悩がよく分かります。あらゆる組織において、現場の責任者は、「羮に懲りて膾を吹く」状態で悩んでいるのです。学校教育も例外ではありません。
 たとえば、個人情報保護条例です。個人情報の保護に慎重になるあまり、緊急連絡網が姿を消し、学校だよりから子供の顔が分かる写真が消え、学級通信に子供の作品を掲載することを躊躇うようになってしまっています。そうした状況に対して、「過剰反応だ」「条例の趣旨を理解していない」というような批判が寄せられますが、当事者としては、問題化した結果、自分の行為の正しさが認められたとしてもそれまでに費やす労力を考え、同僚や上司に及ぼす迷惑を考えると、つい「安全運転」でいきたくなるものなのです。
 それ以外にも、「差別」の問題も深刻です。男子を○○君、女子を○○さんと呼ぶことは男女差別に当たるとされ、運動会で男子は騎馬戦、女子はダンスとするとこれも「性による役割分業意識」の表れだと批判された時代があったのです。そうなれば、とりあえず上辺の形式だけは整えて文句を言われないようにしよう、ということになってしまいます。
 過度に「無難」を追い求めることが、学校教育を萎縮させ、教育効果を減ずる行為であることは分かっていても、そうせざるを得ないのです。川崎氏は、『歌手発表から見もの。NHKの腹の据わり方と良識のせめぎ合いが視聴ポイントである』と書いていますが、組織の上層部が腹を据え、「責任は自分がとる」と言い切らない限り、末端の人間は悩み続けることになってしまいます。
 今、学校教育については「自由化」が叫ばれ、ここの学校や教員が創意工夫して新しい教育を創造することが称揚されていますが、教委が「批判は教委が責任をもって受ける」という姿勢を示すことがその前提であることを忘れないようにしたいものです。

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日本人のDNA

2011-10-30 08:21:38 | Weblog
「重視するもの」10月27日
 読書傾向についての調査結果が発表され、特集記事として掲載されていました。その中に、「伝記」について、まとめた部分がありました。記事によると、『男女に分けてトップ5に挙がった人物を見ると、男子は小中高全く同じで、イチロー、エジソン、坂本龍馬、織田信長、野口英世。女子は、ヘレン・ケラー、マザー・テレサ、ナイチンゲール、んえ・フランクの4人は小中高一緒』なのだそうです。さらに、『「一番良かった伝記のどこが良かったか」と聞いたところ、男子の小中高女子の小学生は「一生懸命努力した」』がトップだったということです。
 考えさせられる結果です。子供は社会の鏡であり大人を映す鏡です。ですから、大人が「これが大事なんだよ」と考えていることを、無意識のうちに感じ取り、「一生懸命努力した」という美点を選び出したと考えることができます。つまり、わが国において、最も大切な徳目は「一生懸命努力する」なのです。
 実は私も同じ発想、同じ考え方です。しかし、今、「識者」と呼ばれる人は全く違うことを言っています。「過去の成功体験にとらわれない斬新な発想力」が大事であり、「常識にとらわれずに自分流を押し通す信念」が成功への道であり、こうした人材が停滞した我が国を救うという論調が主流となっています。そして、学校教育もそうした方向で改善されていくべきだとされています。
 イチローにしろ、信長にしろ、龍馬にしろ、確かにそうした一面を色濃くもっている人物です。ですから、彼らを取り上げるとき、「一生懸命努力」ではなく、「常識破り」「自分流」という側面に注目することも可能であり、自然であったはずなのです。それにもかかわらず、私のような古い人間と同じように、子供たちは彼らの足跡から「一生懸命努力」を最上の価値として選び出しているのです。
 ここに日本人のDNAの強固さを見る思いがします。ここから先は、2つの考え方があり得ます。だからこそ強力に学校で個性、創造性を高める教育を進めていくべきだという考え方と、勤勉さと尊ぶ日本人のDNAを尊重してむしろ日本人の良さとして、日本人の強味として、いっそう伸ばす方向で学校教育を進めていくべきだという考え方です。
 私は後者です。日本人のDNAからみて、過度の個性・創造性の尊重は結局うまくいかないばかりでなく、日本人の良さ強味を破壊してしまうような気がするからです。どうなのでしょうか。

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良い教科書

2011-10-29 08:15:25 | Weblog
「教科書の価値」10月27日
 文部科学省が、沖縄県竹富町教委に中学校の公民教科書を自費購入するよう求めたことに関する記事が掲載されました。その記事に資料として添えられていたのが、問題となっている2社の教科書の「主な記述」でした。
 記事の資料によると、沖縄米軍基地については、A社が『在日米軍基地の75%が沖縄県に集中しています』、B社は『アメリカ軍基地は、復帰後も残り続けました。これに対して、基地を縮小し、なくそうとする運動も続けられ、わずかずつですが日本に返還されてきました』という記述だそうです。また、尖閣諸島については、A社が『東シナ海の尖閣諸島については、中国が領有を主張しています。しかし、これらの領土は歴史的にも国際法上も、日本固有の領土です』、B社は『沖縄県先島諸島の北方に位置する尖閣諸島は日本の領土ですが、中国がその領有を主張しています』となっているそうです。
 この記述を見て、「大差ない」と感じるか、「こんなに違っているのか」と感じるかは、人それぞれでしょう。その人の思想や歴史観が異なるのですから当然です。ですから、私は、ここでどちらの記述が望ましいというような判断はしません。
 それよりも、この記事を書いた記者が、教科書採択に際して、教科書の記述「内容」が判断基準であるという考え方をしていると思えることが問題だと考えます。教科書は歴史研究論文ではありません。子供が学習を進めるための主たる資料です。よい授業は、問題解決学習の過程をとります。問題解決学習とは一般的に言えば、ある事実に直面する→その事実から既習の知識との矛盾を発見する→矛盾を解決する仮説を立てる→仮説を検証する計画を立てる→計画に沿って調べる→調べた結果と仮説を照らし合わせて結論を出す→結論を発表し相互評価を受けるというような過程をたどることになります。
 教科書が、そのどの段階で、どのように使われるのか、という想定がなされ、その上で適否が判断されるというのが、教科書の評価でなければならないのです。そうした作業を無視して、「記述」だけを取り出して比較することは、歴史研究論文ならばともかく、教科書においては意味のないことなのです。
 この添付資料は、教科書評価に対する世間一般の「誤解」を助長してしまうものです。読者に複数の教科書の比較をさせたいのであれば、各社が想定している学習指導案にそった授業の流れを再現し、そこでの教科書の使われ方を示すしかないのです。そうしたメディアはいまだ目にしたことがありませんが、難しいことではないはずです。

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分かるけど

2011-10-28 08:26:27 | Weblog
「分かるのだけれど」10月25日
 専門編集委員の玉木研二氏が『先生の「資格」』という標題でコラムを書かれていました。教員免許を国家試験で、という問題提起について述べる中で、玉木氏は、『「資質向上」に異存はない。だが試験や研修の量がそれを約束するわけではない』と言い切り、代用教員制度にも触れながら、『肝心なのは~(中略)~感性のようなもの。それは国家試験で測れようか』と教員養成にハードルとチェックを増やせば質が向上するという考え方に疑問を呈しています。
 同感です、と言いたいところなのですが、「感性のようなもの」が教員として求められる資質の中核を占めるという考え方は危険だと思います。感性というと、天与のものであり、努力によって高めることが難しいものというイメージになってしまいます。そうであれば、努力は無意味ということになってしまうからです。
 私自身、教員として過ごしてきた年月、教委に勤務して多くの教員を見てきた経験から、玉木氏が言うように教員向きの「感性」があるということ、その「感性」を持ち合わせている者は、経験が乏しくても、綿密な授業準備をしなくても、子供を惹きつけ、素晴らしい学級経営をし、学級をまとめていくということを実感してきました。
 そして私自身は、不幸にしてそうした「感性」に恵まれていませんでした。そのことが悔しく、恵まれた同僚を嫉んだこともありました。悩みもがいていた私は、先輩のアドバイスを受け、授業記録作りに取り組み、少しずつ授業力を高めていきました。
 今でも、自分自身をよい教員であったと胸を張って言うことはできません。しかし、いつか努力が才能を超えるという「夢」があったからこそ、努力を続け、教員生活をまっとうすることができたのだと思っています。
 実際問題として、「感性」に恵まれた者だけで、教員の必要数が確保できるとは思えません。「感性」に恵まれない者が一歩でも前進できるような養成・研修のあり方を開発していくことこそ重要なのです。ハードルとチェックというムチではなく、才能の有無という運命論でもなく、教員を育てていくという発想で教員の資質向上を考えていきたいものです。

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一国平和主義

2011-10-27 08:00:15 | Weblog
「一国平和主義」10月22日
 スポーツ文化ネットワーク「サロン2002」理事長の中塚義実氏が、「スポーツを考える」の連載の中で、学校体育について述べていました。『改革の第一歩は、小学校の体育の先生を専科にすることだ~(中略)~担任の先生が運動好きかどうかでクラスの雰囲気は異なる。運動好きの先生であれば、子供は休み時間になると外に出て体を動かす』『部活動の改革も必要だ。~(中略)~シーズンごとに所属する部を変えていけば、競技人口は倍増する』などと主張なさっていますが、たいへん疑問です。
 学校は体育だけのためにあるのではありません。体育でよい結果をもたらす「改革」であっても、他の面でマイナスの結果が生じるようでは、「改革」とは呼べません。中塚氏の主張には、その点への考慮が足りないように思うのです。
 たとえば、小学校において体育専科教員を配置するということについてですが、確かに体育にとってはプラスかもしれません。しかし、それが認められるのであれば、国語でも社会科でも理科でも算数でも、専科教員が指導をした方がプラスである、という主張も認めないわけにはいきません。要するに、小学校の特徴である学級担任制を中高のような教科担任制に変えるということになってしまいます。この提言については、そこまで考えて、是非を論じる必要があるのです。
 また、中塚氏が言う『運動好きの先生であれば、子供は休み時間になると外に出て体を動かす』ということのマイナスにも目を向ける必要があります。子供は様々です。友達をおしゃべりをしたい子供、図書室で本を読みたい子供、ぼーっとして空を眺めていたい子供だっているかもしれません。しかし、教員の「雨が降っていなければとにかく運動だ」というような単一の価値観が学級を支配するようになってしまえば、そうした子供たちは居場所をなくし、学校の居心地が悪くなり、不登校などの不適応を引き起こす可能性が高いのです。任意の集団である学級には多様性が必要なことを忘れてはなりません。
 さらに、部活について言えば、現状でも、部活が学校を歪めている面があることを考慮すべきです。部活の指導に全力を傾け、肝心の授業が疎かになっている教員がいるのです。部活こそ自分の仕事と思っている教員がおり、学校の伝統を絶やさないため、子供に勝たせたいためということで、そうした教員の存在を容認してしまう学校が少なくないのです。 たとえば以下のような会話は現実なのです。

校長「A先生。先生の英語の授業はプリントの答え合わせばっかりで面白くないし、B先生が受け持っているクラスに比べて授業も遅れがちだという苦情がきているんですよ」
教員「私はサッカー部の顧問として休みの日もなく指導に当たっているんですよ。正直、授業の準備をしている時間も体力もありません。顧問を辞めさせてください。元々、校長先生に頼まれて仕方なく引き受けたんですから。顧問を辞めさせていただければ、もっと工夫した授業をしてみせますよ。だいたいB先生はパソコン部の副顧問をしているだけじゃないですか。比べられるのは心外です」
校長「いやいや顧問を辞めるなんて言わないでくださいよ。A先生が顧問を引き受けてくれたことには感謝していますよ。まあ、できる範囲で授業の方も考えてみてください」

 我が国に対して、「一国平和主義」という批判がなされることがあります。自分の国だけ平和であれば他のことは構わない、とその視野の狭さが批判されているのです。学校改革も同じです。特定の教科や分野だけのことを考えていてはいけません。

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処罰感情

2011-10-26 07:55:41 | Weblog
「結果だけを問う」10月21日
 民主党の松野頼久議員が裁判官弾劾裁判所について、『「形骸化している。長期間服役したの人の冤罪が分かった時に、判決を下した裁判官に何らかのことを考えるべきではないか」と提起した』という記事が掲載されました。松野氏の発言については、「裁判官に対する圧力」だと非難する声が上がっているとのことですが、それ以前に、松野氏の考え方には問題が潜んでいると思います。
 松野氏の考え方の根幹をなしているのは、「結果が悪ければ罰を与えるべきだ」という単純な因果応報論です。大変危険な考え方です。優秀な医師でも、患者を死なせてしまうことはあるでしょう。模範ドライバーでも、人身事故に巻き込まれることはあります。
 同じように、優秀な教員の学級でも、いじめが発生することもあれば、学級崩壊がおきることもあります。指導力がある教員の学級においても、学力が伸びないこともあります。そこには、子供同士の人間関係やモンスターペアレントの存在、特別に深刻な問題行動をする子供の存在、学校体制の不備など、教員の努力だけでは対応しきれない事例はたくさんあるのです。
 こうした事例への対応で大切なのは、事実関係を明らかにし、その原因が教員側の能力不足や注意不足にあるのか、通常以上の能力があっても避けられない状況であったのかを判断し、後者の場合にのみ相応な処分を行うというシステムを確立することなのです。そうでなければ、教員は意欲をなくし、事なかれ主義に陥ってしまうでしょう。
 しかし、松野氏のような表面的な勧善懲悪論は、大衆受けするという一面をもっています。望ましくない事態が発生すれば、誰かの責任とし、血祭りにあげなければ気が済まないという人たちがいるのです。逆に言うと、誰かを罰すれば、それで事足れりとし、抜本的な改善策を模索することを止めてしまい、結果として改善を遅らせる人たちです。
 松野氏のような政治家が何らかの思惑をもって発言することがあっても、行政はそれに引きずられては成りません。安易にスケープゴートをつくって、それで批判の嵐が過ぎ去るのを待つというような姿勢ではいけないのです。

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国家資格、能力の基準

2011-10-25 07:58:48 | Weblog
「能力の基準」10月21日
 『教員免許 国家試験で』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『文部科学省は、都道府県が発行している教員免許について、医師などのように国家試験を経て取得する「国家資格」へ見直す検討を始める。教員の資質と能力の最低基準を国が保証し、信用を高める狙いがある』とのことです。
 考えさせられる問題です。私は、教員免許を「国家資格」とすることに反対ではありません。ただ、教員の資質と能力の最低基準をどのようにして示すことができるのか、そのことをどのような方法で測定することができるのかということについて、難しいのではないかと考えているだけです。
 私は、教委勤務時に、指導力不足教員研修を担当していました。そこでは、当然のことながら「教員の資質と能力」の定義と測定が問題になりました。この2点をクリアできなければ、指導力不足の認定も指定の解除もできないからです。
 結論を言えば、できませんでした。そこで方便として、「指導力不足教員と思われる者」に研修を受けさせるという形としました。断定はできなかったのです。指定の解除についても、膨大な記録を作成し、ここのケースについて複数の識者が判断するという形になりました。明文化も数値化もできなかったのです。
 もちろん、指導力不足教員の指定も解除も、適正に行えたと自負しています。しかしそのためには、膨大な人員と時間を費やしたのです。一人の教員に対して、10人ほどの関係者が2年間かけて判断をしていったのです。
 国家試験の実施となれば、そんな手間暇はかけられません。予算化も不可能です。学校現場も授業の実際も知らない中教審のWGに、この難問が解決できるとは思えないのです。
 さらに別の問題も発生します。もし、抽象的な基準で「教員の資質と能力」を定めてしまえば、今後は指導力不足教員を学校現場から排除することが難しくなってしまいます。国家のお墨付きを得た教員が、「あなたには教員としての資質や能力がない」として免職や転職させられることに安易に同意するはずがないからです。国家の認定が間違っていた、ということになれば、国の責任が問われますし、基準の信頼性も揺らいでしまいます。
 今後の議論の行方から目が離せません。

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両方は無理

2011-10-24 07:48:47 | Weblog
「いいとこ取り」10月20日
 前北米総局の斉藤信宏氏が、『米国は「落日の超大国」か』という標題でコラムを書かれていました。その中で斉藤氏は、『一獲千金を夢見る山師も、時には犯罪者までも、米国はのみ込んで発展してきた。これを続けられるかは、白人が少数派に転じるまでの今後30年間が正念場になると私は見ている。「多様性」を維持し、海外に扉を開き続ける覚悟があるのかどうかが問われることになるだろう』と述べています。
 米国の強さは、多様性にあるという斉藤氏の主張についてはここでは触れません。ただ、斉藤氏が指摘している、「一獲千金を夢見る山師も、時には犯罪者までも」という部分に着目したいのです。要するに、米国は、身元の確かな「上流階級」、十分な資金をもつ金持ち、高学歴の科学者や技術者といった「いいとこ」だけではなく、怪しげな犯罪者やその予備軍と思われる「悪いとこ」までも含めて引き受けているということです。
 物事には裏と表があり、効用とともに副作用があるものです。副作用はお断りして効用だけを生かしたいと考えるのは当然ですが、そうはいかないのがこの世に常です。米国人はそのことを直感的に理解し、山師や犯罪者というマイナスを引き受けてまで、多様性というプラスを確保しているのです。それに比べて、我が国では、よいところだけ手に入れて悪いところは断固排除する、とする「ないものねだり」の傾向が強いように思います。
 我が国の学校教育の強味の一つは、教員の奉仕精神です。教員の多くは、求められれば勤務時間外でも家庭訪問をし、子供に事故があれば休日でも駆けつけていきます。休日や早朝に部活の指導をしたり、朝食を食べさせてもらえない子供に菓子パンを買って与えたりもします。卒業生が悩み事を抱えて相談に来れば、溜まった仕事を脇に置いて相談にのります。
 日常的に授業の準備やノートの点検でサービス残業を繰り返しています。「提灯学校」という言葉がありますが、連日、夜遅くまで職員室に灯りがともっている学校のことを指します。こうした学校は少なくありません。
 一方で、教員には「遵法意識」が乏しいという指摘があります。厳密にいえば、子供に菓子パンを買って与えることは公務員の倫理規定に反する行為ですし、卒業生に対する相談活動に学校の相談室を使うことも、勤務時間中に対応することも問題となる行為です。
 さらに、著名人が記憶に残る恩師について語るときに、家に遊びに行かせてもらって生の先生に触れることができたとか、授業中に裏山に連れていってもらって自然の面白さに気づかされたとか、休日に連れていってもらったサッカーの試合がきっかけでサッカー選手を目指すようになったといったエピソードが語られ、それに引き替え今の教員はサラリーマン化していると批判されることがありますが、それらのエピソードはすべて処分の対象をなり得る行為なのです。職務規範に反するのです。
 教員の行為をきちんと法令で縛っていけば、昔のような牧歌的な師弟の触れ合いはなくなります。教員の奉仕精神も薄れていくでしょう。私が視察した欧州の学校では、校門の外で小学生が喫煙していても、教員は注意をしないで通り過ぎていきます。教員としての職務範囲ではないからです。そうしたドライな関係を是とするのであれば、法令の枠を厳しくすることも頷けます。そうではなくて、服務管理を厳しくし、牧歌的な心の触れ合いも残せというのでは、無理があります。国民は教員に何を望んでいるのでしょうか。

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指導力が足りない

2011-10-23 08:15:47 | Weblog
「指導力の欠如」10月20日
 大相撲春日野親方の暴行事件が報じられました。記事によると、『弟子3人を鉄製のゴルフクラブで殴打した。クラブが折れ曲がるほどだったといい、指導の範囲は完全に逸脱している』ということで、相撲界の常識について『金属の棒でたたくことが「愛情」の表れという考え方は、世間一般の常識とは懸け離れている』と切り捨てています。
 とても気になる記事です。というのは、「クラブで折れ曲がるまで」という暴行の程度にばかり焦点が当てられているように感じるからです。そんなことは当たり前であり、もっと別に問題点を指摘すべきではないかと思うのです。
 記事によると、暴行の原因となった門限破りは一度ではないようです。また、暴行を受けた力士が『窮屈なことも、相撲をやるために我慢している』と語っており、相撲文化を理解しているとも思えません。
 これが学校だとしたらどうでしょうか。体罰禁止は当然ですが、それ以外に、教員の指導が守られないという事態が何回も繰り返されるとしたら、それは教員の指導力が欠如しているという話になるはずです。
 また、学校には様々な決まりがありますが、すべての決まりについて、「理由」があります。「廊下を走らない」というのは、走っていると見通しの悪い角で衝突する危険性が増すためですし、「授業中に私語をしない」というのは、教員の話が聞こえず他の迷惑になるからです。「忘れ物を取りに戻らない」というのは、気が急いているときには交通事故に遭いやすいからですし、「給食の残りを持ち帰らない」というのは食中毒の発生の防止のためです。当たり前のことだと言われるかもしれませんが、小学生の子供に、様々な決まりの「理由」を分かるように説明するのは手間の要ることです。しかし、そうした苫を惜しみ、「いいから先生の言うことを聞け」と言ったところで子供は心から納得しませんし、守ろうともしません。
 春日野親方は、なぜ着物に髷姿で外出しなければいけないのかも、指導できていないのです。これでは指導直不足親方です。どうして、親方としての指導力の問題、親方の指導力向上に向けての協会の取り組みに焦点が当たらないのかが不思議でなりません。
 親方を教員、力士を子供、協会を教委に当てはめてみれば、大切なのは体罰容認の気風を断罪することではなく、親方の指導力向上であることは明らかです。
 人の振り見て我が振り直せ、といいます。教育界においても、体罰やいじめなどの問題が発生するたびに、その行為、その現象ばかりを追い続ける報道が目立ちますが、大切なのはその背景にある教員の指導力の問題なのです。体罰を行う教員の多くが指導力不足であるというのは紛れもない事実なのですから。
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ある行動の裏には

2011-10-22 07:40:10 | Weblog
「言動の背景」10月19日
川柳欄に気になる川柳が、掲載されていました。『傘持って行ってという妻優しいか』という東大阪市の「31ネット」氏の川柳です。私なりにこの句を解釈すると、「傘を持って行って」と言った妻は、私が雨に濡れてしまうことを心配してくれているのか、雨が降ったからといって「傘を持って迎えに来てくれ」と言われるのが面倒臭いのか、どちらなのだろう、と忖度しているということだと思います。
 このことについて、妻本人に訊いてみても、妻自身、答えられないと思います。夫のことを心配する気持ちもあるでしょうし、夕方の忙しいときに呼び出されてはかなわないという気持ちもあるでしょう。それらが渾然一体となっているというのが本当のところだと思うからです。
人がある行動をとるとき、そこには何らかの動機があります。教員が子供に指示したり、叱ったり、褒めたりするときも、そこには教員の思いや意図が秘められています。学級経営や生活指導が下手な教員から、「A先生と同じように言葉をかけているのに子供は反発して言うことを聞いてくれない」というような訴えを聞かされることがあります。実は、その原因は、その言葉かけに秘められている教員の思いや意図にある場合が多いのです。
 教員が本当に子供のためを思って発した言葉なのか、教員が自己保身や自分の指導の手間を惜しんでかけた言葉なのか、単に教員自身の怒りや鬱憤を爆発させただけの言葉なのか、という動機が問題なのです。
 子供は敏感です。真に自分のことを考え、心配してくれていると感じたときには、かなりきつい言葉であっても素直に受け止めてくれるものです。そうではなく、「お前みたいのがいあるからクラスの雰囲気が悪くなるんだ」とか「忙しいときに時間をとらせるな」というような思いがあるときには、どんなに優しい表情と言葉遣いで話し掛けても、反発してしまうものです。
 そうはいっても、先ほどの妻のように、人間の心の動きは複雑で、自分でも分からないことが多いものです。それだからこそ、教員は、常に自分の言ったこと、やったことについて振り返り、そこに自己都合が強く含まれてはいなかったか、反省する習慣を身に付けていくことが大切なのです。蛇足ですが、こうした習慣は、保護者にも求められるものです。
 でも、そんなに難しく考えることはありません。人間の本性は利己的なのです。自己都合の割合を0に使用などと神様のようなことを目指すのではなく、7割から6割、さらに5割にと下げ、4割以下にすることができれば上出来と考えて気長に取り組めばよいのです。

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