ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

今の辛さは続かない

2019-02-28 08:43:50 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「人は変化する」2月19日
 文化人類学者上田紀行氏が、『「自己嫌悪」のやるせなさ』という表題でコラムを書かれていました。その中で上田氏は、ご自身が主宰なさっている大学のゼミでの経験を紹介なさっています。『彼(発表者の学生)が多用する「非モテ」という言葉だった。自分は恋愛が苦手だ。モテない。その言い方ならば、それは今の状態で、これから変化していく含みがあるけれど、彼の「ぼくは非モテだ」という言い方には、「モテる人たち」と「非モテ」の間に深い溝を感じさせ、それはもう一生変わらないんじゃないかという響きがあって、実にやるせなかった』と。
 なんだか現代社会の病理を見たような気がしてしまいました。大げさな言い方かもしれませんが、そこにあるのは固定化された人間観、人生観、社会観だと感じたのです。
 メディアでいじめ自殺問題が報じられます。そこで描かれる被害者に共通する心情は、「この状況がずっと続くのであればもう耐えられない」というものです。逆の見方をすれば、「今は地獄だけど、こんな状態は長くは続かない」と考えることができれば、目の前の辛さに耐えることができる、ということになります。これは、いじめに限らず、そして子供時代に限らず、誰にでも、何にでも言えることだと考えます。そして、単なる慰めではなく、実際に状況は必ず変わるものなのです。
 それなのに、上田氏のゼミで発表した学生は、自分は「非モテ」という人間であり、今後60年以上続くであろう人生を「非モテ」として生きていくことが決定づけられていると考えているのです。多くの人にとって、人生における恋愛は、重要なファクターです。この「彼」は、恋愛は20代、30代においては重要な要素だが、それを過ぎれば仕事や名誉、権力など他の要素が人生を左右すると考え、自らを慰め鼓舞しているのかもしれませんが、実際には、50代でも60代でも人を好きになり、好かれたいと思う感情は、消えることはありません。もし本当に彼の人生が「非モテ」で貫かれていく定めなのであれば、とてつもない不幸な人生が待っていることになります。でもそんなことはないのです。自分を「非モテ」と位置付けるのではなく、今はモテないけど~、今はフラれたけど~と考えて生きていくことができれば、人生は全く違って見えるはずです。
 彼は特別な変人ではありません。彼のように、人はたえず変わっていく存在であると考えることができない若者は増えているように思われます。その理由は多岐にわたりますが、原因の一つに評価の在り方があると考えます。誰にも言われていないのに、学級で金魚を飼っている金魚鉢の水を進んで換えている子供がいるとします。そのときに、「きれいな水で金魚も喜んでいるだろうね」と声を掛けるか、「○○さんは優しいね」と声を掛けるか、あなたはどちらでしょうか。
 前者は行為の価値を認めているのに対し、後者はその人そのものを評価しているのです。褒める場合でも、叱る場合でも、常にこの2種類の評価法が存在します。そして行為を褒める、又は叱るやり方は、人間を固定化しません。しかし、人間そのものを決めつけるやり方は、自分はこういう人、あの人はああいう人という固定化につながる見方を助長します。学校で、教員が、「○○さんは優しい」「▽▽さんは無責任」というような評価法をとっていると、子供は人は常に変わりうるという見方をしなくなってしまいます。

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やさしいだけでは

2019-02-27 08:50:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「国語教育では」2月19日
 企画記事『にほんごでおもてなし』は、『やさしい表現 観光・教育にも』という見出しでした。『災害時に外国人に情報を伝えることを想定して考案された「やさしい日本語」の導入が、観光や行政サービス、教育などの分野にも広がっている』という状況を紹介する記事です。「やさしい日本語」とは、『明確な定義はないが、「です」「ます」を使う▽二重否定や受け身、敬語、方言は使わない▽漢字にルビを振る▽1文ずつゆっくり話す-などのルールがある』そうで、具体例として、『「めしあがる」は「食べる」、「土足厳禁」は「くつをぬいでください」』があげられていました。
 大切なことです。ぜひ進めてほしいと思います。ただ、記事の中にある「教育」という言葉の解釈には、注意が必要だと考えます。この教育は、学校教育を指すものであってはなりません。学校教育において言語と言えば、国語科が担っています。国語の授業では、我が国の文化の最も重要な基盤である日本語を学びます。そして日本語とは、です・ます調の文章や会話だけではなく、もっと砕けた日常会話も、「~でございます」というような丁寧な表現も含む豊かなものです。
 敬語も二重否定も、我が国の国民性に結びつく精神性を含みますし、方言が豊かな文化の伝承に役立っていることも忘れてはなりません。表意文字である漢字による熟語は、一目で意味を把握できる優れた特性ですし、漢字の読み方を理解せずには、新聞も小説も読み味わうことはできません。
 要するに、「やさしい日本語」とは、外国人向けの特殊な言語であるという以上の扱いをしてはならないのです。外国人との意思疎通のために、日本語を簡略化しようという方向に進むことは厳に慎まなければならないのです。
 また、子供に分かりやすく話す、ということが学校教育のあらゆる場面において重要であることは確かですが、それは「やさしい日本語」を使うということを意味しないということにも留意したいものです。「ブーブー」「ワンワン」などの幼児語は、その年代の子供に対しては必要なものです。まだ口も回らない幼児に、「ブーブーではありません。自家用自動車と言いなさい」などと言えば、子供は話すことに恐怖心を抱き、かえって言語機能の発達に悪影響が及びます。しかし、小学生になっても、「ブーブー」では、認知機能や思考力が発達しません。
 学校においても、分かりやすい具体的な表現から、抽象的な概念を操ることができるように、発達段階に応じて「難解な日本語」に移行していくことが必要なのです。源氏物語を読むことまではできなくても、森鴎外くらいは読み味わえるようでなくては、ということです。
 
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細分化

2019-02-26 08:20:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「そういえば」2月18日
 『ラグビー伸ばせキック力 日本初専門コーチ W杯へ「貢献したい」』という見出しの記事が掲載されました。『ラグビーで企業などに所属せず、フリーで活動する異色のキック専門プロコーチ』について報じる記事です。『元トップリーグ選手の君島良夫さん』がその人で、『オーストラリア協会公認コーチのライセンスを取得』し、『小学生のラグビースクールから早大などの強豪大学、トップリーグのチームに加え、日本代表選手からも個別に依頼を受ける』という活躍ぶりだそうです。
 私はラグビーが好きです。中学校時代にラグビーボールに触れ、見よう見まねでキックしたところ、ボールがくるくる回り、数メートルしか飛ばなかったことを思い出しました。球体のサッカーボールとは違い、楕円形のラグビーボールは、普通に蹴るだけでも一苦労でした。
 しかし、そんな思い出話をしたいわけではありません。「○○専門コーチ」という考え方に興味をもったのです。今までもラグビーには多様なコーチが存在します。フォーワードとバックスにそれぞれコーチがいますし、フィジカルコーチも一般的です。しかし、蹴るというある技術にだけ特化したコーチは珍しいのでしょう。
 教員の場合はどうでしょうか。コーチと言えば、指導主事ということになるわけです。指導主事もそれぞれ専門をもっています。私は社会科でしたし、国語・英語・理科など教科ごとに指導主事がいますし、特別活動や道徳などを専門とする指導主事もいます。ラグビーにフォワードとバックス、野球に投手・打撃・走塁・守備などのコーチがいるように、です。しかし、キック専門というように細分化されたコーチ、指導主事はいません。
 では、教員の場合、キック専門に当たるようなものは何なのでしょうか。小学校の国語で言えば、「ごんぎつね」専門コーチ、「手袋を買いに」専門コーチというように、教材ごとに専門をもつことが考えられます。あるいは、漢字指導専門、音読指導専門、作文指導専門など、様々な教材や学年で指導の一部として行われる場面の専門という考え方もあり得ます。さらに、作文指導を、読書感想文、意見文、日記文、行事報告文などに分けて専門という考え方も可能です。
 実際、指導主事といっても、その教科全てに豊富な経験と知見を有するというのは、理想ではあっても難しいものです。私も、社会科指導の中にも経験の乏しい単元や分野がありました。もっとも、指導主事は教科の指導だけを求められているのではなく、教育行政や法規、メディアや市民への対応、議会対応、各種危機対応など、他の業務においても専門性が求められているのが現実であり、「作文指導を、読書感想文、意見文、日記文、行事報告文~」というようなレベルまで細分化された専門をもつことは不可能です。
 そこで、細分化された専門コーチ制とるのです。多くの授業を見てきた指導主事が、推薦し、本人と校長の了承を得た上で、都道府県単位、東京の場合は区市町村単位で、人材バンクを作るようなイメージです。教員側から見ても励みとなると思うのですが。
 
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学校版バイトテロ

2019-02-25 08:12:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「外注化の影響」2月17日
 放送タレント松尾貴史氏が、『バイトの悪ふざけ動画 厳罰化と共に雇用・教育改善を』という表題でコラムを書かれていました。最近目立つバイトテロについて論じる内容です。その中で松尾氏は、『彼らには、当事者感というか、会社全体の共有できる喜び、自尊心といったものが育っていないのではないだろうか。雇用する側と世界観、価値観を共有できる部分があれば尊敬や愛着が育って、これらの愚行をやらかす確率は下がるのではないだろうか』と書かれています。
 私もこのバイトテロについては、全く理解できません。その要因についても、松尾氏の指摘は的を射たものであると考えます。そして、教委で指導室長をしていたときのことを思い出してしまいました。臨時雇用の現業職員の採用面接をしたときのことです。
 私はそれまでも、教員採用面接や主幹候補生面接などの面接官を務めていました。面接の場で受験者は例外なく、教育への情熱、学校や子供のために尽くす姿勢、その職に就いたときの抱負や夢、といったものを語りました。もちろん、面接のための事前準備でそうしたことを整理し覚えてきたのでしょう。つまり、建前です。実際には、給与や安定性、面子など個人的な「欲」動機という側面もあったでしょう。それでもいいのです。私もそうでしたから。それでも、建前としてでも、職への誇りや理念を語ることが大切だと考えていました。その中には、いくつかの真情が含まれているはずだからです。
 しかし、臨時採用者の面接では、「生活が苦しい」「とにかく当面の仕事がほしい」「現在失業中なので」「失業手当が切れるのでなんでもいいから働きたい」といった言葉ばかりが聞かれたのです。そこには、学校の主事として子供の健全な成長に少しでも寄与したい、というような発想は皆無でした。面接後、庶務課の係長にそうした感想を告げ、愚痴をこぼしたところ、「室長先生、それが当たり前ですよ」と諭されてしまいました。
 確かに職は、生活の糧を得るためのものですし、私の方が世間知らずの変わり者だったのかもしれません。しかし、大学を卒業して以来、学校、教委と私が接してきた教員たちは、そのほとんどが、ある者は堂々と、別の者はやや斜に構えながら、あるいは少し照れ臭そうにしながらも、子供や教育のこと、学校の在り方教員のあるべき姿、授業法の研究などについて、「綺麗事」を語っていたのです。その「綺麗事は、職への誇りと結びついていたと思えるのです。
 今、学校では、様々な職の人が働くようになっています。その中には、民間委託によってたまたま学校を職場としている人、時間単位で雇われている臨時雇用の人、年度ごとの契約となっている短期雇用の人、低賃金で派遣されてくる人などが多くなっています。私自身、最低賃金に近い額で、相談員や図書館指導支援員、通訳などの採用を進めてきました。予算がないのですから他に方法がありませんでした。幸い、将来教職を目指していたり、臨床心理士の勉強の一環というかたばかりで、大変助かりましたが、それはあくまでも「幸運」だったにすぎないような気がします。
 学校においても、給与や待遇を考慮した人員配置、そのための予算措置を長期的視野で進めていかないと、学校版バイトテロに怯えなければならない時代が迫っているのではないでしょうか。そして学校は、バイトテロによる風評被害に最も弱い機関であることも忘れてはなりません。
 
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もしかして、悪しき前例?

2019-02-24 09:11:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「一つの前例」2月16日
 『「防災学習」条例に 岩手・大槌町 震災教訓つなぐ』という見出しの記事が掲載されました。『大槌町は15日、18歳以下を対象にした防災学習を推進する「町子供の学び基本条例」案を公表した』ことを報じる記事です。記事によると、『議会の承認を経て4月1日に施行予定』とのことです。
 東日本大震災で大きな被害を受け1000人を超す犠牲者を出した同町としては、至極当然のことですし、多くの人が賛成し、その成果に注目していることだと思います。同町から、優れた教育実践が全国に広がることを期待したいものです。その一方で、私はある種の懸念を捨てきれません。
 それは、首長や議会が主導して、学校教育の内容を規定する条例がつくられるという事態が広がる先駆けとなるのではないか、ということです。より極端な言い方をすれば、首長や議員という政治家による、教育への政治介入が一般的になる危険性ということです。大衆迎合的な性格を強めている政治は、選挙を意識した人気取りとして、教育内容を「弄りたがる」という性質をもっています。
 その材料には事欠きません。同性婚の問題、憲法改正、嫌韓反中思想(南京大虐殺、従軍慰安婦、徴用工、レーダー照射問題等)などについて、議会が決議をするようなケースもあります。その動きがエスカレートすれば、「押し付け憲法を正す教育を」とか「自虐史観を脱した新しい歴史教育を」とかいった教育条例が定められる可能性があります。
 もちろん、いわゆる保守派からだけでなく、リベラル側から行き過ぎた人権重視教育、例えば子供の権利条約の拡大解釈を押し付けるような教育条例が制定される可能性も否定できません。いずれにしても「条例」となれば、学校や教員は従う義務を負いますし、「条例」が独り歩きして当初の想定以上に大きな影響を及ぼすことも容易に想像できます。選挙の度に、条例の改廃が行われれば、教育現場は混乱しますし、保護者を巻き込んでの政争が学校に持ち込まれることも危惧されます。
 純粋に善意で始まったと思われる大槌町の取り組みが、おかしな形で前例として活用されることがないか、留意しておくことが大切だろ思います。
 
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悪い枝は切り落とす

2019-02-23 08:35:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「個性の中にも」2月15日
 読者投稿欄に、岐阜県のT氏による『今こそゆとり教育が必要』というタイトルの投稿が掲載されました。その中でT氏は、現代を『人工知能による第4次産業革命が起きている(略)これまでのように、学業の成績に応じて大学に進学し、特別の技術や知識が無くとも学歴の恩恵で就職できた時代は終わろうとしている』と定義し、『今こそゆとり教育が必要』と主張なさっています。
 私もゆとり教育の基盤となる考え方は重要だと考えています。ただ、T氏が『(学校は、子供たちが)何か打ち込めるものを見つけなければならない』と述べていることには違和感を覚えました。おっしゃりたいことは分かるのですが、誤解を生じやすい表現だと思うのです。
 T氏のような主張をなさる方は少なくありません。そして、その根底には、「打ち込めるもの」=良いもの、という発想が潜んでいるケースが多いのです。T氏は文中で、『個性を伸ばす』という表現も使われていますが、そこにも同じように個性=善という発想を感じてしまうのです。
 人は悪いものに打ち込むこともあるのです。心愛さんを虐待し続けた父親は、その様子を撮影して記録に残し、保存していました。虐待に情熱を注ぎ「打ち込んで」いた状態だったのです。店や企業に数百回もクレーム電話をかけ続ける人がいます。彼らにとっては、電話で罵倒し攻撃的な言葉を吐くことが生きがいであり、まさに「打ち込んで」いたのでしょう。
 個性についても、伸ばしてはいけない個性があるのです。他人の失敗を決して許すことができず執拗に責め続けるという個性、現代の不寛容社会には多そうですが、そんな個性は伸ばしてもらいたくありません。自分の不利益や痛みには敏感ですが、他人の苦しみには共感できず冷淡に切り捨てる、競争社会を生き抜く上では有利なのかもしれませんが、そんな個性も伸ばしてほしくはありません。
 学校教育は、綺麗な言葉に踊らされてきました。個性伸長も、こだわりの尊重も、それがよいこととなると、極端に走り、子供のやりたいことをすべてさせることが最先端の教育であるかのような風潮が広がりました。そんなはずはないのです。教育とは、良い面を伸ばし悪い点を矯正する、その2つが両輪となって進むものなのです。この当たり前すぎる原点を忘れてはならないと考えます。
 
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実効性の確保

2019-02-22 08:16:50 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「実効性の確保」2月14日
 『「学校弁護士」の活用議論 文科省虐待防止へ助言』という見出しの記事が掲載されました。千葉県の小4栗原心愛さんが、両親の暴行により死亡した事件を受けて行われた、軽症と再発防止のために開かれた会議について報じる記事です。
 記事によると、『文科省は弁護士が学校で起きる問題について助言する「スクールロイヤー」について、活用法を議論した』ということです。心愛さんの父親の威圧的な態度に屈し、アンケートのコピーを渡してしまったような事態を防ぐことが狙いのようです。具体的には、『予算的なハードルがあるため、警察官OBや市町村の顧問弁護士の活用も模索する』とされています。警察官OBは威圧には強いですが、法的な対応には弱点があります。顧問弁護士は、学校からの要請に直ちに応えることは難しいでしょう。
 そんなやり方では、役には立ちません。威圧に負けコピーを渡してしまったというような失態を防ぐには、もう少し知恵が必要です。それは教育委員会規則を改定することです。つまり、学校が書面で収集した個人情報については、学校=校長には公開する権限がないと定めるのです。校長自身が心の底から「この情報を伝えたい」と考えても、規則上不可能であるという仕組みを作ることで、教委が前面に立つのです。
 そして教委においては、上記情報の公開に当たっては、顧問弁護士との協議を義務付けるのです。つまり、ある日いきなり保護者や市民が窓口に来て情報公開を求めても、顧問弁護士との協議が行えていない以上、制度的に提供できないということにするのです。
 そして実際のやりとりには、顧問弁護士が同席し、教委幹部と共同で対応するということにするのです。教委職員も、校長も、「お役人」です。規則でダメ、となっていれば誰が来ても「お気持ちは分かりましたが、規則なので」と慇懃無礼に断れるのです。
 威圧的なクレーマーも、規則上の対応であれば、一定程度矛先が鈍るというのが、我が国の国民性でもあります。規則を盾にすると強くなれるというのは、若干情けない気もしますが、それは本当のところです。
 
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おまわりさんの力を借りる

2019-02-21 08:31:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「信頼関係」2月13日
 批評家浜崎洋介氏が、『学校の「統治」について』という表題でコラムを書かれていました。学校の抱える問題について真正面から取り上げていただいたことをとても嬉しく思いました。その中で浜崎氏は、都立町田総合高校で起きた『生徒側が教師を執拗に挑発して殴らせ、その現場を撮影したものを拡散』した事件について触れ、この事件には、『権威も権力(体罰を含む強制力)も奪われた教師が、どうやって生徒を「指導」するのか、あるいは学校を「統治」するのかという問題』が隠されていると喝破されています。
 慧眼です。一つに事象からその背後にある大きな問題をあぶり出す眼力には敬服します。これは、高等学校に限らず、小学校や中学校においても、学校や教委、個々の教員を悩ましている課題なのです。子供の自主性を尊重し、個性を伸ばす教育の必要性が叫ばれていますが、そのためにも、学びの場である学校には秩序が必要なのです。統治と自主性は相反する概念ではなく、統治あってこその自主性なのです。
 もし学校が統治されない弱肉強食の力が支配する場であったならば、子供は常にびくびくし、いかに強者の側に身を置くか、弱者連合を作って身を守るか、誰が味方か、誰が裏切るか、そんなことに神経をすり減らすことになり、自分の学びに集中することなあ度できないのですから。
 ただ、浜崎氏が後段で、『この問題を単なる「体罰問題」として処理しまえば、一切の後ろ支えを失った教師は、それこそ、こう言うしかないだろう。「分かった、分かった、お前のことはもう学校で対処しない。警察に行こう」と。しかし、その時こそ、学校教育が、つまり、生徒と教師との信頼関係が崩壊する時である』と述べていらっしゃるのには賛同できません。
 私はこのブログで再三体罰について取り上げ、特に部活中における体罰で顕著な、「目標を達成するためには殴るしかない、そのために自分が処罰を受ける覚悟はある」という体罰教員の心のありようを指摘し、批判してきました。それは、過剰すぎる責任感であり、非現実的な自己万能感だと。
 教員であれば、全ての子供に、学習指導要領が求めるレベルにまで学力を高めることが不可能であることを知っています。本来はそれが教員に課せられた義務であり、教育行政と国民の間の約束なのですが。
 私も、30人のうち2~3人は、帯分数の引き算を十分に理解できないまま卒業させてきました。それは私だけではないと思います。しかし、帯分数の引き算ができないからといって、殴ってまで教え込もうとはしないはずです。私は小学校の教員だったのでこの例を挙げましたが、中高でも事情は同じでしょう。つまり、全員習得という理想は理想として、現実を踏まえ諦めているのです。
 それなのに、部活の試合で負けると、ミスすると殴るというのは、部活に限っては顧問である自分には、子供たちを優勝させる力がある、優勝させねば責任が果たせないと考えているからです。その現実離れした万能感、過剰な責任感が体罰の理由の一つなのです。
 学校の「統治」問題も同じです。どんな子供が集まっていようと、教員が誠意と熱意をもって向き合えば、子供は理解し指導に従ってくれるというような幻想、非現実的な万能感は捨てるべきなのです。学校や教員の限界を認識し、及ばない部分については外部の力を借りるのです。それが警察であっても何の問題もありません。
 むしろ、ルールを無視し、学校の秩序を乱し、多くの子供の学びたいという気持ち、その中には親の強制や将来を見通した高学歴指向などが含まれてはいますが、とにかくきちんと落ち着いて勉強したいという願いを妨げる「異端者」を、甘やかし放置する学校や教員の姿勢の方が、子供の不信感を買うのです。事なかれ主義、外聞を憚る隠蔽主義とみなして。
 何も躊躇うことはありません。暴行、器物破損等の犯罪行為をし、教員の制止や指導を受けつけない子供に対しては、警察の強制力を導入して毅然と対応すればよいのです。私は教委勤務時代、子供による暴力行為で教員がケガをした場合、診断書を取り、警察に被害届を出すように指導をしてきました。それは、悪いことは悪いと知らしめる教育的行動でもあると言って。重ねて言っておきますが、校内におけるトラブルの対応に警察力をかりることは、信頼関係を損なう行為ではありません。
 もちろん、きちんと状況と指導経過をきちんと記録し、いつでも保護者やメディアに対応の適正さを説明できる体制を整えておくことが必須ですが。
 
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それは違う

2019-02-20 08:27:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「それは違います」2月12日
 読書日記欄の今週の担当は、劇作家・演出家の平田オリザ氏でした。『漢文を日本語化した名編』というタイトルで、『李陵・山月記(中島敦著)』を取り上げた内容です。その中で、本文の大意とは関係がない部分で、気になる記述がありました。『教科書選定を教師上がりの教育委員会のメンバーが主導して行えば、当然それは保守的となり「外せない教材」が出てくる。それはまた、教員が「教えやすい」教材と言ってもいい』という記述です。
 いくつかの誤解と矛盾が含まれているので、指摘しておきたいと思います。まず、「教師上がりの教育委員会のメンバー」が教科書選定を主導しているという誤解についてです。小中学校の教科書選定は、教育委員の話し合いと議決を通して行われます。通常5人程度の教育委員のうち、教員出身者は1名というのが相場です。私も複数の教委に勤務しましたが、いずれも、校長出身者、弁護士、医師、PTA会長経験者などで構成され、いわゆる「教師上がり」は1名だけでした。唯一の「教師上がり」である校長出身者も、自分の校種、自分の教科以外では「素人」に近く、主導するなどできないのが現状でした。私に言わせれば、学校のことも授業のことも知らない「素人」が、いい加減な理由で決めているな、というのが正直な実感でした。
 次ぎに、「当然保守的になり」という指摘についてですが、意味不明です。リベラルと保守という思想的な意味での保守的なのか、従来使用してきた教科書会社の教科書が継続して選ばれるという意味なのか、どちらなのでしょう。前者であれば、そうした事実はありません。「素人」である教育委員は、確固たる基準をもっているわけではなく、市民団体等に非難されないように無難なものを選ぶ傾向があります。政治家である首長の影響力が強まってきた教委改革後は、むしろ首長の意思に注目すべきだと思います。
 また、後者であれば、それも当たりません。同じ会社の教科書が継続するのは、癒着等が疑われるから好ましくないと考える委員もいれば、特に問題がないのであれば同じ会社のものの方が連続性が保たれると考える委員もいるというのが現状です。それだけのことです。
 最後に、「教員が教えやすい教材」となるという指摘ですが、これも意図が分かりません。教えやすい教材=教員が楽できる教材というニュアンスでおっしゃられているようですが、そのこと自体は問題ではありません。多忙な教員が、教材研究や授業準備にかける時間が少なくて済むというのであれば、その分他の教材の研究と準備に時間を費やすことができるはずですから。
 また、教えやすい教材=授業が成立しやすい教材=子供の学習が成立しやすい教材、であると考えるのが自然であり、教えやすい教材を排除する必要はありません。
 そもそも、平田氏は、上記の引用部分に続いて、『本来は、教科書会社は教材をネット上にあげて、教員が自由に教科書を編集できる』ようにすべきとおっしゃっているのですから、教員と価値観が近いと思われる「教師上がり」が主導することや、「教員が教えやすい教材」を否定するのは矛盾しています。違うでしょうか。
 
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意図せぬ出会い

2019-02-19 08:16:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「意図せぬ出合い」2月11日
 専修大教授武田徹氏が、『ネットにも「偶然の出合い」を 変革の契機は殻の外から』という表題でコラムを書かれていました。その中で武田氏は、『書店で偶然出会った本を読むと予想外の発想の飛躍がもたらされることがある。外から自分の「殻」を破ってくれるのだ』と書き、新聞についても『情報をパッケージとしてユーザーに届け、目先の必然性を超えた偶然の出会いを用意してきた』としています。
 その一方で、ネットについては、『ユーザーは検索をかけて必要な情報を能動的に引き出す(略)求めるものが確かに手に入る幼になった一方で、自己変革の可能性につながる出会いの偶然性は排除され、自らの「殻」を破ることの困難さがさらに増していく』と述べています。
 つまり、人が成長するためには、「殻」を破ることが必要であり、「殻」を破るのは予期しない外部からの刺激であり、それには非意図的、偶発的な出合いが欠かせないという指摘をなさっているのです。武田氏は、その典型として本や新聞の存在を挙げていますが、他にもあると思います。それは、学校教育です。
 私は学校教育は、意図的、計画的、系統的な学びの場であると主張してきました。特に、教科の授業は、学習指導要領、教委の教育計画、学校の年間指導計画等に基づく、緻密な準備に基づいて行われるべきであると述べてもきました。
 しかし同時に、緻密な計画や準備は、子供の予期せぬ発想や見方・考え方などに適切に対応するためにあるということも指摘してきました。いろいろな状況を予想してその対応を考えておくからこそ、様々な子供の興味・関心を、目標への道筋から大きく外れることなく授業の中で生かすことができるということです。綿密に準備、柔軟に対応ということこそ良い授業の条件だということです。
 そしてそうした良い授業では、30人の子供の自由な発想が飛び交うことになり、それはまさに自分の「殻」を打ち破ってくれる外部からの刺激となるのです。教員が強引に自分が引いた線路を突っ走るような授業では、外部からの刺激は一つしかありませんし、それはおそらく子供、特にいわゆる「頭の良い子供」にとっては想定内のものであり、ネットの検索と変わりません。
 効率よく知識を蓄える面では効果がありますが、「殻」を破る効果は少ないのです。今までの学校教育の主流である、大勢の子供が一つの教室で意見を交わしながら学習を進める授業形態は、実は、子供が「殻」を破り成長する上で非常に優れたやり方であったのです。
 子供が一人一台のパソコンやタブレットをもち、黙々と学習するような形では、「殻」はいつまでも残ってしまうかもしれません。温故知新といいう言葉が浮かびませんか。
 
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