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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

均一、画一化こそ

2012-04-30 07:49:03 | Weblog
「国民性」4月26日
 イタリア語通訳の田丸公美子氏が、『ダ・ヴィンチと語る』というコラムの中で、『20点、50点、80点を取る人がいて「平均50点」になるのが日本ならば、0点と100点の人ばかりいて「平均50点」となるのがイタリア』と書かれていました。何かと対照的な国民性と言われる両国の特徴を上手く表現した言葉だと思います。
 この国民性の欠点を重視してを変えようとするのか、その良さに着目して維持していこうとするのか、どちらの立場をとろうとするかによって、公教育のあり方は異なってきます。近年の教育改革は、明らかに前者の立場をとっているように思えます。少数の天才育成主義です。しかし、平等意識が強い我が国では、「少数の天才」という考え方は反発が大きいので、「少数」は公言せずに、世界に通用する独創的な人材育成と言い換えているのです。でもよく考えれば、そんな人材が多数派を占めるわけはありません。結果として、我が国を少数の100点派と多数の0点派のいる国にするということにほかなりません。
 もちろん、それも一つの行き方です。欧米、特に米国で一代にして巨大企業をつくりあげたIT企業の若き創始者たちの存在が、米国を今でも世界の強国の位置に押し上げているのは事実なのですから。しかし一方で、自助自律意識が低く、非勤勉的で、社会規範遵守意識が弱い、今のイタリアのようになっていく可能性も少なくありませ。経済危機が叫ばれる国ギリシャ国民も同じ気質であるといわれています。どちらも世界史上大きな足跡を残してきた国であり民族ですが、現在は停滞しています。それは、近代市民社会を運営していく上で必須な、民度が低下しているからだと思われます。
 それに比べて、凡人のレベルが高い我が国では、官庁も企業も効率的に運営され、汚職やコネの横行に悩まされることも少なく、「快適」な社会を形成しています。それも前述した国民性によるものです。私は、我が国の公教育は、この国民性を維持していくことに貢献するものであるべきだと考えます。0点と100点の国ではなく、40点と50点と60点の国を目指し、将来的には60点と70点と80点の国を目標にするという方向で進むべきだということです。それが国民性にも合っており、現実的であると思うからです。
 世界の大都市の中で東京が特徴的なのは、スラム街をもたないことだと言われています。それも国民の均質性によるものです。スラム街で分断された街に住むことを国民は欲してはいないでしょう。だからこそ、公教育は均質性を弱める方向に進んではいけないのです。 
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元々?

2012-04-29 08:33:29 | Weblog
「限定?」4月26日
 川柳欄に『美人の湯美人限定かもしれぬ』という横須賀市のおたふく氏の句が掲載されていました。美人の湯とは、女の人がその温泉に入れば美人になって出てくるというイメージです。しかし、おたふく氏は、元々美人である女性だけが美人の湯に入ることを許されているのだとしたら、美人が出てくるのは当たり前で、特に温泉の効用ではないと揶揄すているのです。面白い発想です。
 実はこの「美人限定」という考え方は、学校教育を考える際にも応用が利くのです。一部の教育評論家は、公立の小中学校に比べて私立の小中学校の方がレベルが高いという言い方をします。実際、問題行動の発生率やいわゆる学級崩壊の発生件数などの生活指導面でも、学力テストの結果でも、私立校の方が好結果となっています。
 しかし、だから私立の方が教育力が優れていると結論付けるのは早計というものです。「美人限定」、即ち、元々学力が高く、家庭が教育熱心である子供が集まっているから卒業するときにも高レベルであるというからくりが潜んでいることを忘れてはなりません。
 もし、私立校と公立校の教育力を比較するのであれば、それぞれ入学時に学力レベルを測定し、卒業時にどのように変化したかを見るようにしなければならないはずです。より厳密に言えば、その間の家庭の状況も加味しなければならないのですが、それは不可能でしょう。しかし、3年間なり6年間なりの間に家庭が及ぼす影響力も、私立校に在籍する子供の方が大きなプラスを受けていることは容易に想像されるところです。
 つまり、私立校>公立校は、正確な根拠に基づくものではなく、単なる「印象」に過ぎないのです。酷なようですが、ごく標準的な容姿の女性が、美人の湯に入ったからといって、沢尻エリカさんや佐々木希さんのようにはなれないように、私立校に入れば魔法をつかったように優秀な子供になるなどということはないのです。公立校やそこで働く教員に対するいわれなき偏見は捨ててほしいものです。
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本質に「逆行」

2012-04-28 08:02:08 | Weblog
「逆の流れ」4月25日
 仏文学者鹿島茂氏が、ご自身の連載コラム『引用句辞典』で、『モンスター・ペアレンツ』という標題で、学校と保護者の関係について書かれていました。『学校教育の本質は親からの子ども隔離』という見出しも刺激的ですが、その内容は考えさせられるものです。
 『ヨーロッパでは王侯・貴族の間でも、親では子供の正しい教育ができないという認識が共有されていたからこそ、家庭教師という制度が生まれ、王侯でも親は家庭教師の教育には口出しできないことになっていたのだ。家庭教師の次に学校という制度が誕生したのも同様である。親から子供を切り離さない限り、教育は不可能と考えられていたのである』というのです。
 確かに頷ける指摘です。太閤秀吉の後継者秀頼は、偉大な父親に似ず不肖の息子と言われています。当時、大名クラスの武家では、親が子育てに関わることはせずに乳人一族が厳格な子育てを行うことが一般的であったにもかかわらず、晩年の子を溺愛した秀吉が実母である淀の方に子育てを委ねてしまったことが一因であると言われています。ここでも、親との隔離、特に溺愛型の親との隔離が重要であるという教訓を見いだすことができるように思います。
 王侯や貴族、天下人と我々一般人を比べても意味がないという人がいるかもしれませんが、現代の我が国の一般人は、昔の王侯貴族と同じかそれ以上に、我が子を溺愛する条件に恵まれているのです。子供の数は少なく、子供のことばかり考えている余裕があり、少ない子供に贅沢をさせる程度の経済力はあるという「一般人」がほとんどなのです。これは、50年前までには、一部の特権階級だけが持つ条件でしたが、今では「一般人」がそうした条件を備えるようになったのです。
 ただ一つ王侯貴族たちの時代と違うところは、学校教育が親との隔離を目指すのではなく、学校教育への保護者の積極的関わりを促す方向に進んでいることです。学校教育の中に保護者が入り込み、我が子を思って細かく要求を繰り返すことを、「教育に高い関心のある親」の行為として肯定的に捉える考え方であり、それは「学校教育の本質は親からの子供の隔離」とは正反対の流れなのです。
 教員という怖い大人と自分をチヤホヤしてくれない友人という名の他人、その中で親の援助を期待せずに自力でもがくという経験こそが、学校の存在意義であるとするならば、今の学校教育の行き過ぎは明白です。
 
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校長の条件

2012-04-27 07:51:55 | Weblog
「上司の仕事」4月20日
 本間一成氏が、連載コラム「今週の苦労人」で、プロ野球楽天の佐藤義則投手コーチを取り上げ、上司論を展開しています。その中で本間氏は、『理想の上司の条件とは何でしょうか。責任感がある、仕事ができる…。いろいろあると思いますが、私は「部下を育てること」かなと思います』と書かれています。
 まさに我が意を得たり、という思いです。しかし、我が国は、本間氏の考え方とは逆の方向に進んでいるように思います。企業は短期的な利益を重視し、社員の育成に手間と資金を費やすことを避ける傾向が顕著です。そこで求められている上司像は、部下を育てる人ではなく、とにかく「数字」を残す人です。
 同じことが学校教育においても進んでいます。その象徴が、「民間人校長」や「官僚出身校長」の採用です。多くの市民や保護者、子供が望む教員像は、授業が巧みで指導の上手い教員です。しかし、自らが授業をした経験も、子供との触れ合いで悩んだ経験もない民間人や官僚に、教員の授業力を伸ばすアドバイスはできません。
 コスト感覚や組織運営については適切な助言が可能でしょうが、それは保護者などが望んでいるものとはずれています。「民間」「官僚」校長の採用策の根底には、校長の職務として、組織運営を過剰に重視し、教員の育成を軽視する考え方があります。
 それでは、「民間」「官僚」校長採用を進めてきた人たちは、学校教育の充実のために教員の資質向上を軽視しているのかといえば、そうではありません。そうした方々は、教員研修の充実や教材バンクの設置、外部指導員の導入などの策を用いることによって、教員の資質が向上すると考えているのです。実際、そうした施策を導入している教委も少なくありません。しかし、それは間違いなのです。
 教員の資質は、実際に授業をする中で、プラン・ドゥー・シーのサイクルを繰り返し、適宜指導力のある先達の助言を受けるという形でしか向上しないのです。少しカッコを付けていえば、OJTということです。このとき、常に同じ職場にいる校長が良き助言者、評価者となれないのでは、OJTは成果をあげることはできません。東京都S区の文部科学省出身の校長のように、授業を見て「今日は先生の声が大きくて良かった」というような認識では、校長として教員を育てることはできないのです。
 校長も副校長も主幹も、授業を評価し助言する能力を重視して選考し、配置すべきなのです。

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1/7000

2012-04-26 08:09:36 | Weblog
「羊頭狗肉」4月20日
 『豊島区、がん予防授業』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『豊島区は今年度から、区立小中学校でがん予防と早期発見の大切さを啓発するための授業を導入する』ということです。しかし、もう少し読み進むと、『小学校6年と中学3年が対象。少なくとも年1回、保健体育の授業などで取り上げる』とされているのです。
 要するに、小学校6年間、7000回の授業の中で1回だけ取り上げるということです。1/7000で「がん予防授業導入」というのは、間違いではないにしろ大袈裟すぎる、「羊頭狗肉」という気がしてなりません。
 誤解のないように言っておきますが、私は豊島区教委を批判しているのではありません。記事の別の部分では、『豊島区は08年度、区によるがん検診の受診率が5.4%と23区で20位にとどまった。このため、10年度にがん対策推進計画を策定。11年度はがん対策推進条例を施行』とありますから、議会や区長部局から求められて、学校でもがん対策という形を整えざるを得なくなったのでしょう。そこで、低予算で反発も少ない形で担当者が知恵を絞ったということなのだと思います。私も教委時代に同じような知恵を絞らされた経験がありますから、よく分かります。
 ただ、こうした形で、「○○教育」「□□授業」「△△体験」などが安易に学校現場に持ち込まれてくると、学校というところはブラックボックスのようにどのような課題でも押し込める、という誤解を世間やメディア、首長部局に与えてしまいます。そして、さらに、多くの教育課題が、きちんとした検討を経ないまま、世論の動向や政治家の思惑などによって次々と持ち込まれるという事態に陥ってしまうのです。
 そのことは、学校や教員を疲弊させその教育力を低下させるとともに、実際の理解度や定着度を軽視したまま「とりあえずやっておけばよい」という形式主義を蔓延らせる結果となるのです。特に後者の問題は、教員の専門家としての自覚を削り取り、モラルを低下させます。
 なんでもかんでも学校へ主義を脱し、限られた時間の中で何を優先すべきなのか、学校にも選択と集中の発想が必要なのです。 

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理科教育?

2012-04-25 08:02:57 | Weblog
「理科教育?」4月19日
 三菱商事取締役会長の小島順彦氏が、『世界の変化と日本の課題』という標題でコラムを書かれていました。その中で小島氏は、『人に尽くし社会に尽くすという「志」をもった人材を育成することが国の未来を開くことにつながる。海外に出れば語学力も大事だが、まず自分なりの歴史観と意見をしっかり持ち~』と書かれています。
 おそらくその通りなのでしょう。同じようなことを語る「成功者」は少なくありませんから。そして、もしそうだとすれば、人材育成を目指す学校教育では、「歴史教育」こそ重要であるということになるはずです。しかし、そうした声はほとんど聞こえてきません。
 技術力の低下を憂える経済界から、理科教育の充実が求められ、今年度から新たに「理科」が全国学力テストに加えられました。しかし、「歴史教育」を担うと思われる社会科については、「充実策が必要だ」「学力テストに加えるべきだ」という主張を耳にすることはないのです。なぜなのでしょうか。
 「歴史教育」の現状が高く評価されている、というのであれば問題はありません。しかし、相変わらず「歴史の授業は暗記ばかりで面白くない」というような批判がなされているのが現状なのです。長年社会科教育を専門とし、特に歴史的な内容領域の学習において実践と研究を積み重ねてきた私は、こうした批判は「徒競走で手をつないでゴールイン」と同じ類の都市伝説でしかないと考えていますが、それはともかく、このように批判的に捉えている人が多いのが現実なのです。それにもかかわらず、社会科充実が注目を集めないのは、よく考えれば不思議なことです。
 話は飛びますが、我が国には数多くのノーベル賞受賞者がいます。しかしその中に、経済学賞を受賞した人はいません。つい先年まで、世界第2位の経済大国であったにもかかわらず、なのです。これは、我が国に、社会科学を軽視する体質があるからではないかと考えます。経済学に限らず、社会学でも哲学でも倫理学でも、そして歴史学でも、独自のものを生み出すことが軽視され「先進諸国」の学説を消化することを「学問する」ことだと誤解してきたのではないかと思うのです。
 それが学校教育濡おける「社会科軽視」「歴史教育軽視」につながっているのです。さらに、俗に言う「自虐歴史史観論争」も、歴史教育を教育問題から政治問題へと変化させ思想的なレッテルを貼られることを恐れる人々を歴史教育問題から遠ざける働きをしてきたことも忘れるべきではありません。
 国際競争を勝ち抜く人材の育成を目指すのであれば、歴史教育充実にもっと英知を集めるべきだと思います。
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仲良くなるためには

2012-04-24 08:16:47 | Weblog
「みんな仲良く」4月18日
 精神科医和田秀樹氏が、インタビューを受けていました。その中で和田氏は、『学校では勉強ができる子供より人気がある子供が評価されるようになってきています。「人間性至上主義」が広がっている』と語っていらっしゃいます。
 的を射た指摘です。より正確に言えば、「学校内では、学力向上よりも人間性育成の方が大切という価値観が支配的であり、教員も保護者も子供自身も、そうした価値観を相互に強化し合っている」ということでしょう。一方、学校の外部では、学力向上が重視されています。学力テストの結果公開も、学校選択制の実施による競争原理の導入も、学力という物差しで学校を評価する発想が根底にあります。
 こうしたズレが、学校教育論議を分かりにくいものにしているのです。人間性重視派は、学力向上派に対して、「人間には勉強よりも大切なことがある。勉強ばかりでは偏った人間になってしまう」という批判を投げかけ、学力向上派は、「人間性なんて目に見えないもので教育成果を測ろうとするから、教育論議は神学論争になってしまう」と言い返すという不毛の対立に陥ってしまうのです。
 そもそも、人間性と学力は対立する概念ではありません。「授業」という学力形成の場が中核を占める学校に於いては、学力が高まるほど人間性も高まるのです。低学力であれば、劣等感を抱くのが自然です。そこから生まれてくるのは、嫉妬や自信喪失です。また、授業が分からないストレスがイライラ感を募らせ、余裕のなさからくる思いやりの欠如といったマイナスの感情を増幅します。さらに、自分の努力や資質不足を認めたくない心理状態から他者や環境に責任転嫁する傾向が強まり、攻撃的になり、地道な努力に価値を見いだせなくなってしまうのです。
 我が国には「天は二物を与えず」という諺があります。そこから学力と人間性を両立しないもののように捉えがちですが、実際には逆なのです。学力が向上するほど、人間性も豊かになっていくのです。二昔前に問題になった「受験地獄」「非人間的な詰め込み教育」というイメージも、学力重視=人間性軽視という俗説を広める役割を果たしてしまいましたが、それは間違いなのです。
 実はこうしたことは、多くの教員にとっては常識なのです。しかし、こうした考え方を頑なに拒む一部の教員が、「学力重視=人間性軽視」という妄論を声高に発信し、それに保護者やメディアがのせられているのです。その「一部の教員」とは、自分の授業力に自信がなく、授業力不足があからさまにならないように人間性重視論を唱え、自分の努力不足、資質欠如を隠そうとしている教員なのです。
 「みんな仲良く」を教育信条に掲げるような教員がいたら要注意です。「みんな仲良く」は目標ではなく、分かる授業に付随して実現するものだからです。

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義務教育という武器

2012-04-23 07:58:48 | Weblog
「山頂を目指して」4月18日
 評論家の西部邁氏が、インタビューに答えていました。その中で西部氏は近年の政治の現状に触れ、『当座の処方に過ぎぬ微調整主義と、(捕手政治の眼目である)グラデュアリズムつまり漸進主義との違いを認識しておかなくてはならない』と述べ、『漸進主義とは、国家の骨格にかんする長期展望の方向に沿って、わずかな変化を着実に積み重ねていくやり方のことだ~(中略)~「歴史観にもとづく国家論」が漸進主義にはあり、微調整主義にはそれがない』と語っています。
 西部氏は、言外に今の自民党や民主党を微調整主義と切って捨て、橋下氏の維新の会など過激な主張で注目を集めようとする新興勢力は論外という立場のようです。『平成の大改革がなしたのは、良き保守の思想にたいする破壊である』という慨嘆に、その思いが表れています。
 西部氏の考え方を学校教育改革にあてはめてみても、成り立っているように思います。教委の廃止や首長への教育権限の集中などの劇薬は、微調整主義にも漸進主義にも入らないことになります。10年ほど前から、各教委が競うように行ってきた改革、学校選択制の導入拡大、外部指導員制の導入、補習授業の実施、塾講師による授業、特色ある教育活動の推進、民間出身校長の採用などが微調整主義に当たります。これらが、漸進主義と呼べないのは、我が国の歴史の基づいた「学校論」が不足しているからです。
 我が国の学校は、社会を支える大多数の国民に一定レベルの知性をもたせるとともに、社会や組織を引っ張るリーダーについては少数精鋭主義でエリート教育を施すというものでした。それは、明治以後の国家建設の目標にも適うことでした。戦後、戦前の学校教育は全否定されてしまいましたが、戦後の復興を担ったのは、戦前の学校教育の成果である民度の高い大衆とある種の気概をもった企業家などのリーダーだったのです。それは、明治維新の大改革を可能にしたのが、やはり旧支配体制の一員である武士と江戸末期に世界有数の識字率を誇った質の高い国民だったことと共通します。
 我が国最大の武器は、緻密な義務教育によって育まれた国民の質の高さです。それは、民主社会を形成する市民としても、自由主義社会の勤勉な勤労者としてもいえることですが、この武器を放棄してしまっては、我が国は衰退していってしまうことでしょう。今こそ、こうした歴史認識に基づき、大局にたって学校教育の将来像を描き、単なる人気取りや話題作りではない、小さな変化を地道に積み重ねていく漸進主義こそが必要とされるのです。
 
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理科離れ分析

2012-04-22 08:13:11 | Weblog
「理科離れ」4月18日
 『「理科離れ」実態把握も』という見出しの、全国学力テストについての解説記事が掲載されました。記事によると、『日本は小学4年生で36カ国・地域中4位。中学2年は48カ国・地域中3位と好成績だった。だが「理科の勉強は楽しいと思う」と答えた小学4年生は、国際平均(83%)を4ポイント上回る87%だったが、中学2年は59%と国際平均(78%)を19ポイントも下回った』『理科に対して「好き」や「大切だ」「役に立つ」といった意識が低く、高校や大学で理系を選択しない』『小中学校の理科を教える教諭1507人に行ったアンケート調査では、小学校で50%が理科を「苦手」「やや苦手」と回答。中学校でも31%が物理を、28%が生物を、44%が地学を「苦手」「やや苦手」と答えた』などを課題としてあげているようです。
 紙面の関係もあり、意を尽くせない部分もあったのでしょう。しかし、本当に「理科離れ」の原因を明らかにしようとするのであれば、不十分だと言わざるを得ません。まず、小学4年で4/36、中学2年で3/48という順位と国際平均とプラス4ポイント、マイナス19ポイントという矛盾についての分析がありません。「嫌い度」が増えているのに成績はアップという点に矛盾を感じなければなりません。
 また、「好き」と「大切」「役立つ」を、同じように理科に対するプラス感情として一括りにすることの妥当性についても検証が必要です。「好きだが役に立たない」「嫌いだが大切」という価値観が存在するはずなのですから。
 さらに、「理科」という概念についても整理すべきです。我が国では、生物、化学、物理、地学などの諸科学を親学問とする教科ですが、教科の構成や内容は国によって微妙に異なります。扱う事象は同じでも、「理科」という教科にまとめられていない国もあります。
 そして、教員の「苦手」意識についても、苦手=授業のレベルが低いという短絡的な結び付けが懸念されます。私は教委勤務時代に、指導力不足教員の研修を担当していました。私は彼らに、「最初の授業研究では、自分が得意だと思うものをやってみなさい」という指示をしました。彼らは、年に数回の研究授業をしましたが、彼らが得意だと自負している教科ほど失敗してしまったのです。そのとき私が感じたのは、「その教科についてよく分かっていないから、自分では得意だと思い込んでいる」ということでした。理解が深まれば深まるほど難しさが分かる、というのは多くの分野でみられることです。「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉もあります。
 私自身の経験でも、専門である社会科の授業については最後まで苦手意識が抜けなかったものでした。指導が一番難しいのは社会科という意識をもっていました。教員の苦手意識と校長や指導主事などの第三者の客観的な授業力評価との突き合わせが必要だと思います。
 せっかくの調査なのですから、綿密で多角的な分析を期待したいと思います。

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強制はできない

2012-04-21 08:08:01 | Weblog
「強制不能」4月17日
 『原子力専攻入学者16%減』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『原子力を研究する大学の学科や大学院の専攻に今春入学した人は、東京大など7大学の合計で昨年より16%減少、最大71%減った大学もあった』のだそうです。この結果について文部科学省は、『将来性が不安視されているのではないか』としているそうです。
 当然です。私に大学入学を控えた子供がいたとしたら、私も原子力関係の学部に入学を勧めはしません。それが人情というものです。この調査が示しているのは、ある集団や業界に対するバッシングは、その集団や業界への人材供給を阻害するということです。暴力団を叩くことによって、暴力団に加わろうとする若者が減るのであれば、それは何の問題もありません。しかし、今後、脱原発を進めるためにも、原子力関連の研究者は必要ですし、より高度な技術開発も不可欠です。それを担う原子力専攻の若者が減ってしまうというのは、社会全体にとって大問題なのです。
 同じことは教員養成についてもいえます。教員バッシングや教員管理の厳格化が過剰になれば、教員を志す若者が減り、その結果優秀な教員が減ってしまうということになってしまいます。現に、大阪の教員採用希望者が減っています。
 我が国が「どこかの国」のように、政府が国民への強制力を持っている国であるならば、こうしたことは問題ではありません。しかし、我が国は国民の自由意思を尊重する国です。「○○地区からは、今年5人の教員志望者を出しなさい」とは命令できない国なのです。
 話は変わりますが、私が小学生のころ、スポーツのできる少年が目指すのはプロ野球の選手でした。ところが、20年前にJリーグが発足してから、サッカー選手希望の子供の方が多くなっています。そして、かつては夢でしかなかったW杯出場は当然のこととなっています。バッシングとは逆の、サッカーへの憧れがサッカー界全体のレベルアップに寄与したのです。
 教員という職を、憧れというようなプラス評価の伴うものにするか、バッシングの対象として忌むべきものにしておくか、今後の学校教育を占う上で重要な問題です。

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