「国民性」4月26日
イタリア語通訳の田丸公美子氏が、『ダ・ヴィンチと語る』というコラムの中で、『20点、50点、80点を取る人がいて「平均50点」になるのが日本ならば、0点と100点の人ばかりいて「平均50点」となるのがイタリア』と書かれていました。何かと対照的な国民性と言われる両国の特徴を上手く表現した言葉だと思います。
この国民性の欠点を重視してを変えようとするのか、その良さに着目して維持していこうとするのか、どちらの立場をとろうとするかによって、公教育のあり方は異なってきます。近年の教育改革は、明らかに前者の立場をとっているように思えます。少数の天才育成主義です。しかし、平等意識が強い我が国では、「少数の天才」という考え方は反発が大きいので、「少数」は公言せずに、世界に通用する独創的な人材育成と言い換えているのです。でもよく考えれば、そんな人材が多数派を占めるわけはありません。結果として、我が国を少数の100点派と多数の0点派のいる国にするということにほかなりません。
もちろん、それも一つの行き方です。欧米、特に米国で一代にして巨大企業をつくりあげたIT企業の若き創始者たちの存在が、米国を今でも世界の強国の位置に押し上げているのは事実なのですから。しかし一方で、自助自律意識が低く、非勤勉的で、社会規範遵守意識が弱い、今のイタリアのようになっていく可能性も少なくありませ。経済危機が叫ばれる国ギリシャ国民も同じ気質であるといわれています。どちらも世界史上大きな足跡を残してきた国であり民族ですが、現在は停滞しています。それは、近代市民社会を運営していく上で必須な、民度が低下しているからだと思われます。
それに比べて、凡人のレベルが高い我が国では、官庁も企業も効率的に運営され、汚職やコネの横行に悩まされることも少なく、「快適」な社会を形成しています。それも前述した国民性によるものです。私は、我が国の公教育は、この国民性を維持していくことに貢献するものであるべきだと考えます。0点と100点の国ではなく、40点と50点と60点の国を目指し、将来的には60点と70点と80点の国を目標にするという方向で進むべきだということです。それが国民性にも合っており、現実的であると思うからです。
世界の大都市の中で東京が特徴的なのは、スラム街をもたないことだと言われています。それも国民の均質性によるものです。スラム街で分断された街に住むことを国民は欲してはいないでしょう。だからこそ、公教育は均質性を弱める方向に進んではいけないのです。
イタリア語通訳の田丸公美子氏が、『ダ・ヴィンチと語る』というコラムの中で、『20点、50点、80点を取る人がいて「平均50点」になるのが日本ならば、0点と100点の人ばかりいて「平均50点」となるのがイタリア』と書かれていました。何かと対照的な国民性と言われる両国の特徴を上手く表現した言葉だと思います。
この国民性の欠点を重視してを変えようとするのか、その良さに着目して維持していこうとするのか、どちらの立場をとろうとするかによって、公教育のあり方は異なってきます。近年の教育改革は、明らかに前者の立場をとっているように思えます。少数の天才育成主義です。しかし、平等意識が強い我が国では、「少数の天才」という考え方は反発が大きいので、「少数」は公言せずに、世界に通用する独創的な人材育成と言い換えているのです。でもよく考えれば、そんな人材が多数派を占めるわけはありません。結果として、我が国を少数の100点派と多数の0点派のいる国にするということにほかなりません。
もちろん、それも一つの行き方です。欧米、特に米国で一代にして巨大企業をつくりあげたIT企業の若き創始者たちの存在が、米国を今でも世界の強国の位置に押し上げているのは事実なのですから。しかし一方で、自助自律意識が低く、非勤勉的で、社会規範遵守意識が弱い、今のイタリアのようになっていく可能性も少なくありませ。経済危機が叫ばれる国ギリシャ国民も同じ気質であるといわれています。どちらも世界史上大きな足跡を残してきた国であり民族ですが、現在は停滞しています。それは、近代市民社会を運営していく上で必須な、民度が低下しているからだと思われます。
それに比べて、凡人のレベルが高い我が国では、官庁も企業も効率的に運営され、汚職やコネの横行に悩まされることも少なく、「快適」な社会を形成しています。それも前述した国民性によるものです。私は、我が国の公教育は、この国民性を維持していくことに貢献するものであるべきだと考えます。0点と100点の国ではなく、40点と50点と60点の国を目指し、将来的には60点と70点と80点の国を目標にするという方向で進むべきだということです。それが国民性にも合っており、現実的であると思うからです。
世界の大都市の中で東京が特徴的なのは、スラム街をもたないことだと言われています。それも国民の均質性によるものです。スラム街で分断された街に住むことを国民は欲してはいないでしょう。だからこそ、公教育は均質性を弱める方向に進んではいけないのです。