goo blog サービス終了のお知らせ 

ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

読むより感じる

2022-10-31 08:15:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「同罪?」10月24日
 専修大教授武田徹氏が、『文字リテラシーを失うな 早送り視聴の功罪』という表題でコラムを書かれていました。その中で武田氏は、『有限の時間資源の中で早送り視聴は一種の必然的選択だった』と述べ、『早送り視聴は新しいリテラシーの一つだと認めるべき』としています。
 その一方で、『新たに加わるリテラシーがあれば失われつつあるリテラシーもある』と指摘し、『文字リテラシーの低下は社会全体を覆いつつある』と警鐘を鳴らしています。どういうことかというと、個人が受け取る情報に占める割合が、かつては文字>動画であったものが、現在では文字<動画となり、動画情報は増える一方で、それをこなすために早送り視聴が一般化してきたと捉えているのです。
 そして、『目の前で語りかける動画メディア、文字だけの資料よりも親しみやすく感じるのだろう。だが、一方で表情や身ぶりを伴うためにその場の感情に流されやすい』と述べているのです。私流に解釈すれば、扇動されやすいということになります。
 私はこの指摘を読み、少し複雑な気持ちになりました。私は社会科の指導において、この文字よりも感情に訴えやすい映像資料を使うということを、非常に積極的に説いてきたのです。小学校の子供に学習の対象となる社会事象に興味関心をもたせ、それを学習問題設定に生かし、学習意欲を高めるということです。
 当時は、今ほど動画は普及していませんでしたから、写真などの視覚に訴える資料も含めてのことですが、とにかく文字で書かれた資料よりも映像でインパクトを、という姿勢だったのです。私個人の実践だけでなく、指導主事となってからも、教員指導の際には、こうした考え方を基本に据えていました。
 本末転倒なのですが、学習対象となる事象を決定するときに、映像化されたインパクトのある資料があるからという理由で選択することさえしていました。もしかすると私は、深く考える子供を育てるつもりで、感情に流されて判断してしまう子供を育ててきてしまったのではないか、という危惧に囚われてしまったのです。
 今、先進国で、社会の分断が起こっています。それは、センセーショナルな映像、それはしばしばフェイクであることもあるのですが、によって事実とは異なる主張を安易に受け入れてしまう人たちが増えているからだと言われています。彼らは、私の教え子たちと同世代。
 今、授業の文字離れについて、現場の教員はどう考えているのでしょうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男子だけ多目的室に集めて

2022-10-30 09:00:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教室に男子だけを集めて」10月24日
 りんくう総合医療センター産科医荻田和秀氏が、『男性への育児スキル教育を 仕事と家庭の両立のため』という表題でコラムを書かれていました。その中で荻田氏は、『患者さんから男性の育休時における行動を聞いていると、まだまだです。回答で比較的満足度が高いのは、買い物や上の子の送り迎え。それ以外は「任せられるレベルじゃない」といいます。次いで多く聞くのは「おむつ替えやミルクづくりといった基本的な育児スキルどころか、掃除や洗濯、炊事といった生活スキルすら十分ではない」という不満です』と書かれています。
 こうした実態を踏まえ、荻田氏は、『育休を取得しやすくする環境整備はもちろん必要ですが、同時に男性が育児するためのスキルを上げる実用的な教育が必要だと痛感します』と主張なさっているのです。
 我が身を顧みれば、ノースキルという指摘には返す言葉もありません。男性が、生活スキル、育児スキルを身に付けることの必要性についても同感です。ただ、荻田氏の提案を目にして私の頭に浮かんだのは、「女子は自習していてください。男子は多目的室に集まってください。持ち物は筆記具だけでいいです。他のクラスの男子はもう集まってますから急いでください」という担任の声に促されて、ぞろぞろと廊下を歩く男子生徒の群れでした。
 お分かりですよね。40年以上前、女子だけ集められて初潮や生理についての話を聞かされる「性教育」のお時間の風景の逆バージョンです。なぜこんな情景が浮かんだかというと、男子に~という指摘に違和感を覚えたからです。
 私の姉もつれあいも、育児スキルを学ぶ教育を受けた経験はないと言います。もちろん、妊娠、出産の際には、様々なことを自分で調べたり、親世代に聞いたり、産科で指導受けたりして、スキルを身に付けていくでしょう。しかしそれは、荻田氏が提唱する「教育」のイメージではありません。荻田氏は、配偶者が妊娠した男性が教育を受けるという形ではなく、大人になる前の段階で全ての男性が育児スキルを身に付けるための教育を受ける機会を設ける、具体的には学校教育の中で、とおっしゃっているように受け取れるのです。
 私もそう考えています。しかしそれは、かつての初潮教育のような形ではなく、男女が共に育児スキルについて学ぶという形で行われるべきだと考えます。具体的には、中高において、妊婦体験から始まり子供が3歳になるまでに必要なすべての「実技」を体験するカリキュアラムにし、しかも毎年少しずつレベルアップしながらも、同じ内容を繰り返し、中高で6回体験することが望ましいと思います。
 無定見に様々な教育課題を学校現場に持ち込むことに反対の立場の私ですが、少子高齢化という国難への対処ということで、学校教育に位置付けることを許容したいと思います。ただし、その分、何かを削らなければなりませんが。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

命は同じか

2022-10-29 08:57:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「命は同じか」10月22日
 『「チントンシャン」守れるか』という見出しの記事が掲載されました。『伝統芸能に不可欠な三味線の業界が曲がり角を迎えている』ことを報じる記事です。記事に中に、『動物の皮は厚みにムラがあるから音にも厚みが生まれる(略)ただ、愛猫家らの反発を受けて供給が減り、80年代には輸入の猫皮に頼るようになった。供給も減って価格は高騰。一時はアジア産の犬の皮で代用したが、こちらも動物愛護の観点から入手が困難になった』という記述がありました。
 また、『オーストラリアで増殖が問題視されるカンガルーの皮が代替として注目される』という記述もありました。『三味線業界が打撃を受け、(職人技が途絶える)危機が増した』とも。さらに、『動物の皮に頼らずに済む研究は続けていく』ことも述べられていました。
 とても考えさせられました。命って何?ということをです。学校では、生命尊重ということを絶対不変の価値として教えます。そして、犬や猫などの命も人間の命と同じように大切にされなければならないと説きます。
 私は、6年生の担任をしているとき、「野良猫に餌をやる行為」について、紙上ディベートをさせたことがあります。野良猫のフン害や泣き声に悩む人が、野良猫に餌をやらないでと訴える新聞記事を基に、記事への賛否を述べるというものでした。そのとき、餌やり反対派がやや優勢だったのですが、一部の容認派の子供が「餌をやらなきゃ死んじゃうんだよ。それでいいの。信じられない」と言い、自分と異なる意見、即ち多少犠牲になる猫(死んでしまう猫)がいても仕方がない、という考え方に対して、悪魔の言葉でもあるような反応を示しました。
 犬や猫の命も人間と同じ価値があるという考え方に立てば、野良猫にも餌はやるべきですし、三味線職人が廃業に追い込まれようと、伝統文化が廃れようとそんなことは考慮する必要はないことになります。もちろん、カンガルーの皮だって使用は許されない暴挙となります。
 イノシシや猿に、大切に育てた農作物を台無しにされた農家の人々も、仕方がないと諦めるべきという理屈にもなります。本当にそれでよいのか、自分が三味線職人や農家の人であってもそう言えるのかと問われれば、とてもイエスとは言えません。
 私が行った紙上ディベートは、明確な結論を出さないまま終わりました。人間以外の生物の命についての考え方、学校教育ではどのように扱うべきか、今でも悩んでいます。これは、宗教にも関係し、死刑廃止論の根底にもある重要な問題だと思うのですが、実践例は多くありません。何か仕事をやり残した気持ちです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公平・公正に…、難しい

2022-10-28 08:46:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「公正・公平」10月21日
 『戦争観 根底から揺さぶられ』という見出しの記事が掲載されました。ウクライナから帰国した写真家渋谷敦志氏に取材した記事です。その中で渋谷氏は、『戦争に対する考え方を根底から揺さぶられ、今ぐらぐらきています』と語っています。
 そして、『行く前は戦争を否定していたけど、現実に触れると、ロシアの侵略には武器で戦うしかない、勝つしかないと思うようになりました。生きるためには殺さなきゃいけないと。殺し合いの一方に肩入れして、殺すのを後押ししている自分に驚いています』と言葉を継ぐのです。
 渋谷氏は、『最初は停戦こそが大事だと思ってた』と語る常識人、私と同じ感覚の人です。その渋谷氏が、上記のような言葉を吐くのです。しかも、全国紙の取材という公的な場でです。記者(アフリカやイラクでの戦場体験あり)は、『まず身内を逃がし、自分も逃げる道を探る』と応じるのですが、渋谷氏は『自分なら戦う』と繰り返すのです。
 読んでいて、「怖い」と感じました。私はこのブログで再三我が国の「平和教育」について取り上げ、情緒的な反戦ではなく、具体的に戦争の兆候を歴史に学び、戦争の芽のうちにそれを摘み取る行動を取ることができるだけの知識と判断力と行動力を培うことが大切だと主張してきました。間違っていないつもりです。
 私は空想的な平和主義ではなく、少しはより現実的に平和を考えているつもりでした。しかし、渋谷氏の「戦う」「殺す」という言葉を目の当たりにすると、自分もまた空想の世界で「平和教育」を語っているのではないか、という気がしてならないのです。
 そしてさらに、もし今自分がまだ教壇に立っていたとしたら、この渋谷氏の言葉を授業で取り上げず無視してよいのか、と考えてしまったのです。渋谷氏の言葉を子供たちに伝えることは、子供たちに「我が国が、自分たちの街が攻められ、家族や大切な人が殺されそうになったら、武器を持って立ち上がれ、敵を殺せ」と教えることになるのではないかと、人殺しを育てる教育者になってしまうのではないかと、恐れるのです。
 しかしその一方で、渋谷氏の声を無視することは、重大な事実を隠したまま自分の偏った思想を押し付ける「偏向教育」になるのではないかという迷いもあるのです。戦場における人々の美しい助け合いの姿だけを教材にする情緒的な平和教育をする人たちと同じになってしまうのではないかという迷いです。
 あなたが現職の教員ならば、渋谷氏の言葉をどう扱いますか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

専用学校

2022-10-27 09:43:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「専用学校」10月21日
 『熱中できる何か 探し続け』という見出しの記事が掲載されました。学校に違和感を覚え、一時は死も考えた少年が、自分の居場所を見つけるまでを報じる記事です。その中に気になる記述がありました。
 『学校に居場所を求めるのはやめ、不登校を“選択”した。その後、オンライン授業がメインのルネサス大坂高校に進学し、現在は高校1年生だ』という記述です。私は以前このブログで、不登校の子供への対応について、「学校に行かなくてもいいんだよ」というだけでは解決にならないと指摘しました。
 もちろん、本当に苦しみ自殺の淵にいる子供にとっては、緊急避難的に救いの言葉になることは否定しません。しかし、学校に行かない日々が続いているとき、多くの子供の心には、「このまま学校に行かないままで、自分の人生はどうなってしまうんだろう」という不安が忍び寄ってくるのです。その不安がまた、子供の心を蝕んでいくという悪循環のループに落ち込んでしまうのです。
 そのとき、「学校に行かなくてもいい」という言葉は何の慰めにもなりません。むしろ、傷を深くするだけです。そこで私は、学校にかなくてもこんな道があるということを、具体的に示してあげる必要があると訴えてきたのです。そしてのその道は、具体的であるだけでは十分ではなく、容易でなければならないのです。
 何か超人的な能力に恵まれているとか、奇跡のような偶然が作用したとかいうのではなく、普通の凡人である子供が、特段の努力を必要とせず、普通の生活を送る中で可能であることが必須の条件なのです。そうでなければ、「そんなの僕には無理だよ」となってしまい、現実的な解決策とはならないからです。
 私がこうした見解を述べたころ、まだオンライン授業は一般的ではありませんでした。しかし、コロナ禍を経て、多くの自治体でオンライン授業を行う環境が整っています。ですから、私は不登校対策として、各自治体が小中の9年間、どの時点で不登校になってもオンラインだけで全ての教育課程を終えることができるオンライン義務教育学校を設立し、通常の転校と同じ簡単な手続きで移籍できるようなシステムを作ることを提案したいと思います。これで、自分は学校に行かなくて~という不安の大部分は解決できるはずです。家に居ながらにして、公立中学校を卒業したという資格を得て、高校に進学できるのですから。
 なお、卒業証書に書かれる学校名は、当分の間、本人が希望すれば、以前の在籍校とすることも出来るようにすべきです。不登校という事実を隠したいという子供や保護者もいるでしょうから。まあそのうちに、そんなことは誰も気にしなくなるでしょうが。
 ただ、卒業認定は、きちんと試験をして学力を測るようにすべきです。世間が、正当な卒業と認めるために。試験もオンラインでできるはずですから。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エビデンス無用

2022-10-26 09:33:18 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ネタ満載」10月20日
 宮崎支局記者一宮俊介氏が、『見直すべき効果不明の習慣 九州の高校で続く「朝課外」』という表題で記事を書かれていました。ちなみに、「朝課外」とは、『通常の1時間目の前に午前7時半ごろから40分程度実施されている』課外授業のことだそうです。一宮氏は、「朝課外」の廃止に向けた動きが出ていることを紹介し、廃止に賛成の立場を示しています。
 私も、記事を読んで廃止すべきだと考えました。ただ、そうした主張とは別に、一宮氏が書かれた記事には、学校教育に纏わる「あるあるネタ」が満載なのです。そうした視点で記事を読むと、いろいろと考えさせられるのです。
 まず、『本来は「自由参加」のはずが遅刻すると怒られた』『「選択制」が導入されていたが、実際は参加しないと教員から呼び出される』という記述です。自由や個人の選択を掲げながら、実際には事実上の強制という在り方は、学校ではよく見かける光景です。いわゆる「帰宅部」は常に教員から圧力を受けるなどというのもその一つです。何か外部から苦情や指摘を受けても、あくまでも生徒と保護者の意思だと、責任を回避する体質です。本当に必要だと考えるのであれば、義務化し、その是非について議論すべきなのですが。
 次に、『見直さない学校の多くは取材に「PTAから依頼されている」と説明するが、あるPTA役員の経験者に聞くと、例年通りの手続きとして学校に要望しているだけ』という記述です。PTA役員は数年で入れ替わります。どんな組織でも、よく過去の経緯や事情を知らない状況で、例年通りという言葉に抵抗するのは難しいものです。この「例年通り」というのも、よく使われるフレーズで、この言葉が多用されることは、それだけでその組織が思考停止状態に陥っていることの証拠となります。
 そして最も考えさせられるのが、『宮崎の教育の問題は学校が生徒の余白を埋め尽くしてしまうこと。朝課外をしないのは申し訳ないと考える延長線で、休むことや部活をしないのが申し訳ないと考えてしまう文化が教員に染みついている』という元校長の言葉です。
 宮崎に限らず、我が国の学校や教員に共通している問題だと思います。その根底には、子供は放っておくと何か良くないことをするという子供不信と、時間を惜しまず子供のため(と世間に思われること)に忙しくしているのが良い教員という思い込みの2つがあります。どちらもマイ格に間違っていると言い切ることができます。私は、この病気が改善すれば、学校教育が抱える問題の大部分が解決に向かうとさえ考えています。
 最後に2つだけ、一宮氏に問題点を指摘させてもらいます。『働き方改革が叫ばれているこのご時世で(略)朝から自習室を開放すれば十分だろう』と書かれていますが、自習室を開放するためにも、一部の教員は早朝から出勤しなければならないのです。超過勤務手当もなしで。
 また、『朝課外が学力向上につながっているというエビデンスはない』という指摘についても、長年行ってきていることが効果がないという証明はほぼ不可能です。新しく始めることならば、指標を明確にし以前と以後を比較すればエビデンスが得られる場合が多いですが、朝課外については、廃止後数年たってから比較するしかありません。つまり、現時点でエビデンスを得ることはできないのです。エビデンス論で廃止を試みれば、有効でないというエビデンスもないのにやめるのか、という指摘に反論できなくなってしまいます。朝課外の廃止は、別の論理で断行するしかありません。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立派な横領

2022-10-25 07:57:31 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「したことがある」10月19日
 『学校所有の本販売 フリマで利益 教諭懲戒免職』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『(都立高の教員が)指導用教科書や問題集計9冊(1万3313円相当)をフリーマーケットアプリに出品し、1万1580円の利益を得た。これらは一般には販売されていない。同校では公費で購入し、学校に保管し教員同士で共有していた。都教委は横領に当たると判断し、同校が目白署に被害届を提出した』とのことです。
 2つのことを思い出しました。まず一つは、私のつれあいが校長に就任したとき、叔母から電話があり、「市販のテストの見本が各校に送られているはずだから、それを譲ってほしい」と言われたことでした。校長であれば、見本を手に入れることは容易であるはずだということでした。その通りです。
 市販のテスト見本を入手すれば、事前に予習し、満点を取ることが可能になります。叔母は、小学生の孫のために、見本が欲しかったのだと思います。もちろん、やんわりと断りましたが。「指導用教科書」も同じです。教員しか入手できない授業の解説本が手に入れば、テスト対策になります。きっと、すぐ売れたでしょうね。
 しかし、高校の教員は、自分の専門的な知識には自信をもっているものです(化学の知識が豊富だからといって化学の授業が上手いというわけではないですが)。「指導用教科書」通りに授業をしたり、テストを作ったりする教員はごく一部でしょう。それも、指導力のない教員です。
 もう一つは、学校の備品を私物にしてしまうという行為についてです。私が都教委で「指導力不足教員研修」を担当していたとき、該当の教員の中に、前任校の校名の蔵書印が押された辞典をもっている者がいました。問い質すと、前任校で学級便り等を作るときに使っていて、転勤する際に新しい勤務校にもっていって使っていたと言うのです。本人は、それほど悪いことをしたとは思っていなかったようです。悪びれることなく質問に答えました。
 私が、横領に当たるというと驚いたようでした。その教員にすれば、教員の職務に使うために都民の税金で購入したものを、学校は違ってもやはり教員の職務で使っているのだから問題はないと考えていたようでした。私は、そんな理屈が成り立つのかと、少しだけ納得しそうになってしまったものです。すぐに返却しに行き、謝罪するように指示しました。
 記事のケースは、明らかに金銭目的で悪質ですが、教員の中には、悪意はないものの学校の消耗品などについて、非常にルーズな者がいるのも事実です。単価は安くても、紙類も、ノートも、ペン類も、皆血税で賄われているという自覚をもつ必要があります。また、業者などから提供される見本なども、私物ではないことも忘れてはなりません。一見小さなことから、子供や保護者の信頼を失ってしまうのですから。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別の方向で

2022-10-24 08:51:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教育委員も」10月19日
 論点欄では、『原子力規制委 発足10年』というテーマで、2人の識者が自説を展開していました。その中で、元官房長官塩崎恭久氏が述べられていることに注目させられました。
 塩崎氏は、『5人の委員がそれぞれ独立し、平等・対等の立場で専門的な議論に臨み(略)事務局の原子力規制庁が作製した案を審議するようなことになってはならない。これでは役人が決めたことを追認するだけになってしまう。米国の原子力規制委員会では、事務方から委員へのアクセスは禁じられている。また、委員は事務局職員の電子メールのやりとりを見ることができるなど、主役が誰かはっきりしている。委員が独立して強い権限と自らの専門性を持って、事務局に作業を指示する(略)委員ごとに数名の優秀なサポートスタッフを付け、各委員が独立して総合的な判断ができる体制に改めるべきだ』と語っていらっしゃるのです。
 実は、我が国で教委改革の必要性が叫ばれ、地方教育行政において首長が大きな権限をもつ方向で改革が進められていたとき、私はこのブログで、教委改革についての私論を述べていたのです。首長の権限を強化することは、教育行政への政治介入を強める危険性が高いということで、そうした方向での改革に反対の立場であった私は、塩崎氏のように、各委員にサポートスタッフを付けて、委員の力を強化するという提案をしていたのです。
 今回、塩崎氏の規制委に関する主張を目にして、10年ぶりにそのことを思い出しました。私は、委員へのアクセス禁止やメール閲覧までは考えていませんでした。規制委の委員は原子力の専門家です。一方、教委の委員は「素人」であることが前提となっています。一般市民の感覚に近い「素人」の目線を生かすという趣旨だからです。そうした違いはあるものの、委員にスタッフを付け、チェック力、提案力を高めるという考え方自体は、こうした委員会制度において必要かつ有効だと考えるのです。
 我が国における教委改革では、教委制度の欠点を指摘するばかりで、機能強化の方法を探るという視点からの議論はほとんど行われませんでした。先日行われた安倍元首相の県民葬では、県教委が首長の圧力の下、県立校での半旗掲揚を職務命令という形で、反した場合は懲戒処分があると明示して強制するということが問題となりました。首長権限強化の改革の結果です。
 今からでも遅くはありません。各委員の権限と機能を強化するという方向での教委改革を検討すべきだと考えます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すぐに役に立つ

2022-10-23 08:58:50 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「生きる力」10月18日
 『全国の中学生に、さまざまな分野で活躍する人が語る「授業」』、連載企画『14歳の君へ』は、料理研究家枝元なほみ氏が登場しました。一応「技術・家庭科」ということになっていました。この企画では、教科名が掲げられていても、実際の内容はあまり関係がないというケースが多いのですが、今回はまさに家庭科の内容に関わるものでした。
 気になったのは次の記述です。『炊飯器を使わずに鍋でご飯を炊く方法を伝授します。将来、1人で暮らしてお金がなくても、ご飯さえあればなんとかなる。今はおむすびをコンビニで買うもの、と考える人も多いですが、米を炊いて塩むすびにすれば半額以下です。(略)キャンプに行っても、海外で道具がなくても鍋があれば炊けます。私はインドで~』という記述です。
 これは、要するにどんな厳しい状況になっても生きていくことができる能力を身に付ける家庭科の授業ということです。私は、枝元氏の話を読み、着衣水泳という言葉が頭に浮かんできました。着衣水泳も、川や湖で溺れそうに=死にそうになったときに、生き抜く能力を身に付けさせる指導です。
 炊飯器でお米を炊くことは、体育の授業で言えば、競泳用の水着を着てプールで速く泳ぐことに当たり、鍋で米を炊くことは着衣水泳に当たる、といえば分かりやすいでしょうか。こうした、実際に生きていく上で役立つことを教えるという視点から、学校における教育内容を見直してみることも意味があるように思います。
 社会科で言えば、地図を見て未知の場所に行く、地名から災害の起こりやすい場所を見つける、理科ならば地形や樹木の様子から水のある場所や方位を知る、算数なら1割引きと10%のポイントがつく場合どちらが得か分かる、などなど、「生きる力」の獲得を学びの中に位置づけることで、学ぶ意欲を高めていくのです。
 学んだことが役に立つという実感をもたせる、これが意欲向上に有効であることは言うまでもありません。各教科を専門とする教員が、学習指導要領に基づいた内容の中で知恵を持ち寄れば、面白い実践につながると思うのですが。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逆だと思うけど

2022-10-22 08:33:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「もっと細かく」10月18日
 『性別思い込み いつから 「女性は優しい」4歳 「男性は賢い」7歳』という見出しの記事が掲載されました。『性別に対する固定観念「ジェンダー・ステレオタイプ」は、いつごろ生じるのか。京都大などの研究グループが4~7歳の男女を対象に調べた』結果を報じる記事です。
 その中に気になる結果がありました。『「賢さ」については4~6歳で男女差は見られなかったが、小学生になる時期の7歳の男児では女児よりも自分の性別を「賢さ」を結びつけた。グループの森口佑介・京大准教授(発達心理学)は「小学校に入学すると、テストなどで成績を競わされる場面が増える。他人との比較や子ども同士の関係性、同調圧力も影響しているのでは」と分析する』という記述です。
 小学生になると、テストや授業中の言動などによって同年齢の他者と自分を比較するようになり、そこで優劣を感じる機会が増え、男>女という賢さの違いを認識するようになる、ということのようです。全く教員としての実感に反します。
 思い込みや先入観を排した事実認識として、小学校では、テストの平均点は女>男なのです。おそらく、就学前の家庭での接し方等に理由があるのだと思われますが、これは私の、そして低学年を担任することが多かったつれあいの共通した認識なのです。
 私自身の経験でも同じです。私が小学校の高学年とき、私の成績は主要4教科がオール4で、中の上というところでした。当時秘かに憧れていたTさんは5が3つ、同じ班になることが多かったYさんは5が1つ、家が近かったMさんは私と同じでしたが、中学3年生のとき、3人より私の方がずっと成績が良かったのです。私は、小学生のときは、自分は彼女たちより頭が悪いと思っていました。
  狭い範囲のデータや個人の経験でいい加減なことを言うなと言われるかもしれませんが、小学生の、それも低学年のときほど、女児の方が成績が良い傾向にあるのは教員の多くが同意すると思います。それなのに、森口氏の分析では、ほぼ逆になっているのです。不思議ですし、違和感を覚えました。
 今後も検証を続けていくということですが、是非、様々な条件ごとにより細かな分析を進めてほしいと思います。その結果は、小学校における人権教育を展開する上で、大きな財産になると思うからです。
 なお、個人的には、学校の規模、担任の年齢・性別、学校の所在地(大都会、中核市、郊外)、就学前の習い事の有無と種類、家庭状況(単親か否か、経済状況、祖父母世代との同居の有無)、保護者の職業、兄弟の有無などについて、分析してほしいと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする