「同罪?」10月24日
専修大教授武田徹氏が、『文字リテラシーを失うな 早送り視聴の功罪』という表題でコラムを書かれていました。その中で武田氏は、『有限の時間資源の中で早送り視聴は一種の必然的選択だった』と述べ、『早送り視聴は新しいリテラシーの一つだと認めるべき』としています。
その一方で、『新たに加わるリテラシーがあれば失われつつあるリテラシーもある』と指摘し、『文字リテラシーの低下は社会全体を覆いつつある』と警鐘を鳴らしています。どういうことかというと、個人が受け取る情報に占める割合が、かつては文字>動画であったものが、現在では文字<動画となり、動画情報は増える一方で、それをこなすために早送り視聴が一般化してきたと捉えているのです。
そして、『目の前で語りかける動画メディア、文字だけの資料よりも親しみやすく感じるのだろう。だが、一方で表情や身ぶりを伴うためにその場の感情に流されやすい』と述べているのです。私流に解釈すれば、扇動されやすいということになります。
私はこの指摘を読み、少し複雑な気持ちになりました。私は社会科の指導において、この文字よりも感情に訴えやすい映像資料を使うということを、非常に積極的に説いてきたのです。小学校の子供に学習の対象となる社会事象に興味関心をもたせ、それを学習問題設定に生かし、学習意欲を高めるということです。
当時は、今ほど動画は普及していませんでしたから、写真などの視覚に訴える資料も含めてのことですが、とにかく文字で書かれた資料よりも映像でインパクトを、という姿勢だったのです。私個人の実践だけでなく、指導主事となってからも、教員指導の際には、こうした考え方を基本に据えていました。
本末転倒なのですが、学習対象となる事象を決定するときに、映像化されたインパクトのある資料があるからという理由で選択することさえしていました。もしかすると私は、深く考える子供を育てるつもりで、感情に流されて判断してしまう子供を育ててきてしまったのではないか、という危惧に囚われてしまったのです。
今、先進国で、社会の分断が起こっています。それは、センセーショナルな映像、それはしばしばフェイクであることもあるのですが、によって事実とは異なる主張を安易に受け入れてしまう人たちが増えているからだと言われています。彼らは、私の教え子たちと同世代。
今、授業の文字離れについて、現場の教員はどう考えているのでしょうか。