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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

あんた、何様?

2019-07-31 08:21:41 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「歪な組織」7月25日
 異例ですが、広告欄の週刊誌の見出しに着目しました。週刊文春の広告に『宮迫も会見で言えなかった松本人志が牛耳る吉本興業の闇』という一文です。私は、吉本興業を巡る報道の中で、松本氏らのことが気になっていました。
 松本氏は、「動く」とネットで宣言し、社長と会談しています。そして、その後、社長が前言を翻し記者会見を開きました。社長の会見後、同じく同社所属芸人加藤氏が、会長と会談しました。メディアは、階段の内容について、憶測を交え様々に報じていますが、会談そのものについて触れる報道がありません。
 例えば、セブンイレブンのフランチャイズ店の店長が、「セブンイレブンおかしいわ」と思ったとして、「明日、社長と話します」と言って会談が実現するでしょうか。プロ野球の一選手が、「自分の感覚と違う。連盟の会長と話してくる」と言って会談が実現するでしょうか。普通はしないでしょう。
 組織には原則があります。権限と責任は比例するというのがその一つです。誤解のないように言っておきますが、組織内で低位にある一店長が本社の社長と話をすること自体をおかしいと言っているのではありません。その店長が、何らかの形で多くの店長の意向を代弁する立場にあるというのであれば、それは当然のことです。企業の役職とは別に、従業員やフランチャイズの店長の代表というのは、それなりの権限と責任を負っているものだからです。
 しかし、松本氏も、加藤氏も、所属芸人たちから信任状のようなものを集めたという話は聞きません。あくまで一個人なのです。そしておそらく、キャリアが長いとか、稼ぎが多い(吉本興業への貢献度が高い)とか、現経営陣と個人的な人間関係がある(会長らは松本氏の元マネージャー)といったが、発言力の根源なのでしょう。
 これは組織としてすこぶる不健全な状況です。私が勤務した学校は、組合立学校といわれるほど、職員団体の力が強い学校でした。教員らが校長の方針に反対するとき、職員団体の中でも古参のM教員が、「俺が話をつけてくる」と言って校長室に入っていくのが通例となっていました。ちなみに、当時のM教員は、職員団体の役職には就いていませんでした。あらゆる意味で、一教員に過ぎませんでしたが、校内では絶大な権力をもっていたのです。校長も教頭も、M教員と話をつければ、後はM教員が他の教員を説得してくれるということで、M教員の「特権」を半ば認めている状態でした。
 学校経営上の重大事項は、校長とM教員の談合で決まっていたのです。しかし、それは外部には分かりません。PTAや地域住民、教委も薄々察してはいましたが、詳しくは分かりません。職員会議の記録にさえ、校長と職員の対立は記載されず、事情を知らないものが記録を読めば、何の問題もなくすべてがスムーズに決まっていったかのように思ったはずです。こんな組織が正常だという人はいないでしょう。20数年前に、文科省が「学校の経営権は校長にある」という法令にも明記された当たり前のことを改めて徹底しようとしたのには、こうした現状があったのです。
 今の吉本興業は、まさに当時の私の勤務校と同じ状況です。一部の「ボス」が、何の責任も負わない立場であるにもかかわらず、取締役や管理職などを圧倒する力をもっている歪んだ組織運営がなされているのです。どうしてこの異常な状況を誰も指摘しないのでしょうか。松本氏を救世主のように報じるメディア自体が、古い親分子分的体質なのでしょうか。腑に落ちません。
 
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30年前の環境教育

2019-07-30 07:54:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「30年前の思い出」7月25日
 北海道大大学院教授吉見宏氏が、『プラごみと割りばしと捕鯨』という標題でコラムを書かれていました。その中で吉見氏は、『今や、使い捨てプラスチック製品に対する視線は厳しい。私が参加したニュージーランドでの学会の懇親会では、木製の使い捨てナイフとフォークが用意され、往復のニュージーランド航空機内では木製の柄の歯ブラシが提供された』とご自身の経験を綴られ、『疑問が生じる。その一つは、かつて諸外国から日本の割りばしが批判されたことである。その後、日本の飲食店では、プラスチック製のはしが普及した。一方で、割りばしを批判してきた国々において、木製の使い捨てナイフやフォークが普及する状況をどう理解すべきなのか』と問題提起なされています。
 吉見氏の問いに答える能力は私にはありません。ただ、30年程前の研究会での議論を思い出したのです。当時、先進的で意欲的な教員の中には、環境問題を社会科の授業で取り上げる者が多く、私の先輩のT教員も、割りばし問題を教材に実践報告をなさいました。
 学習の結果、子供たちがマイはし運動を起こしたということが、授業の成果として伝えられました。しかし、これも私が尊敬する先輩であるO教員が、割りばし使用が環境破壊であるという前提には間違いがある、と反論したのです。我が国の割りばしは間伐材を原料としており、割りばしという用途があることで間伐材の伐採が進むのであり、もし伐採が行われなくなると、木材の生長に負の影響が生じ、林業にはマイナスとなるという趣旨の内容でした。
 その後私も環境関係、林業関係の本を読み、割りばし=悪という考え方には疑問をもつようになっていきました。当時私は30代前半、今以上に不勉強で知らないことも多かったですが、熱のこもった研究会の様子を思い出し、何だか体が熱くなってくるような感覚に囚われました。
 時代の変遷とともに、社会的事象についての評価が変わることがあり、社会的事象を教材とする社会科では、かつて注目を集め多くの教員に影響を与えた実践が、その後否定的評価に変わり見向きもされなくなるということが珍しくありません。原発も日本の未来を発展させる夢の技術視されたことがありますし、大潟村の取り組みが日本農業の停滞を打ち破る画期的な施策のシンボル視されたこともあります。養鰻業の教材化では、密輸シラスについて触れられることはありませんでしたし、トヨタのカンバン方式は日本人の緻密さ計画性があってこそ成り立つといわれましたが、下請けへの圧力という視点で語られることはありませんでした。
 もちろん、社会科教員は、その分野の専門家ではないのですから、完璧を期すことは難しいでしょう。ただ、それでも新しい教材開発への意欲は持ち続けること、常に過去の教材開発を最新情報で見直すこと、社会的事象の評価とは別に教材開発・授業化の手法については継承していくことは忘れずにいて欲しいものです。
 
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笑顔の陰に

2019-07-29 07:42:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「見えていない?」7月24日
 放送作家たむらようこ氏が、『「優しさ」と「楽しさ」伝えたい』という表題でコラムを書かれていました。その中でたむら氏は、某地方局の新人研修で講師を務めた体験を綴られています。『1日目の後半からは、四つの班に分かれて「視聴率が取れる企画を作ろう」(略)それぞれが企画を話し合う途中で終了時間に。夜は懇親会(略)2次会になると、四つのグループごとに座り、企画会議の続きをしているではありませんか(略)翌日聞くと2次会の店を追い出され、カラオケボックスに場所を移して話し合いを続けた班もあった』という状況だったそうです。
 こうした状況についてたむら氏は、『働き方改革の中、「新人は早く帰さなくては」という意識が定着しつつあります。でも今回、私が見たのは「番組の企画作りが楽しくて寝る間も惜しい」という若者たちの姿』と書かれています。すごく前向き、肯定的な捉え方だと、違和感を覚えました。
 私がたむら氏の感覚に違和感を覚えたのは2点です。一つは「新人は早く帰す」という認識です。ベテランや中堅は遅くまで働かせていいのか、という突っ込みを入れたくなるのです。働き方改革は、そんな使い分けを推奨してはいないはずです。これでは、ベテランは過労死すれすれまで働くのが当然といっているのも同然です。しかし、これは、揚げ足取りのようなもの、小さな問題です。
 私が最も気になったのは、「企画作りが楽しくて寝る間も惜しい」という若者たち、という雑な認識の仕方です。たむら氏は、新人研修に参加した若者たちの中に、「本当は早く帰りたいのだけれど、みんな盛り上がっているし、一人だけ帰るって言い出せないよな」と考えていた人がいたかもしれないと想像することはなかったようです。しかし、大勢の人がいれば、それぞれ体調も違えば、個人的な都合も違います。過剰に空気を読む性格の人もいれば、自分の置かれた状況を悲観的に判断し「熱意がないと思われれば左遷されるかも」などと考えていた人もいるかもしれません。
 集団内の同調圧力の強さが我が国の組織の特徴だと言われています。その中で違和感や苦しさを表明できないことが、訴えたとしても理解されにくいことが、いじめやパワハラ・セクハラが早期発見され解決されにくい原因の一つでもあります。たむら氏については詳しく存じ上げませんが、講師を務めるということから、経験と実績を併せ持つ「権力者」であると推察されます。それだけに、こうした想像力を欠く見方をされることが心配になってしまうのです。
 私は根っからの怠け者です。でも、どうしたわけか、このブログにもたびたび登場する目賀田先生に導かれて仲間に入れていただいた「社会科勉強会」の活動には、居心地の良さを感じました。それで、土曜日の午後、自主的に集まって社会科の研究をすることが、ある時期「生き甲斐」のようになっていました。帰宅が深夜になろうが、休日も勉強会で報告する資料を作っていようが、苦になりませんでした。今考えると、よく続いたものだと我ながら不思議な気がするほどです。ですから、たむら氏が目撃した新人さんたちの熱気を理解できないわけではありません。それでもなお、生き生きと活動しているように見える人の中に、本当は苦痛を感じている人がいるかもしれないと考える習慣は大事だと思います。
 教室のリーダーである教員にとっても不可欠な資質です。
 
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参加の意義

2019-07-28 07:38:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「参加する意義」7月24日
 聖路加国際大教授中山和弘氏が、『研究に患者が参加する意義』という表題でコラムを書かれていました。その中で中山氏は、『患者指向のシェアディシジョンメーキング研究』について書かれていました。この取り組みは、『患者は自身の健康状態の専門家であるとして、その経験を研究に生かすことが目的』だということです。
 そして具体的に、『学会で取り上げた問題を経験した患者が、発表したり質問したりする』『ネットでの参加者のためにビデオで見られる』など5つの条件をあげていらっしゃいました。私は以前から、医師と患者の関係について、私は教員と子供の関係に似ていると考えてきました。専門性の高い者と低い者、指導する側と指導を受け入れる側というようなイメージが、です。
 しかし、医療においては、医師が一方的に治療方針を決めるのではなく、患者が治療方針の決定に関わるのが当然と言うように変わってきました。同じ考え方からすれば、子供が指導方針や指導法について関与する部分が拡大されるというのが当然と言うことになります。しかし、子供が学校経営方針や教育課程作成に関与するというのは現実的ではありません。
 そう考えていたところで、中山氏のコラムを目にしたのです。これならいける、そんな気がしました。教員が行う研究において、子供を参画させるのです。教員が行う研究には、学校単位のもの、教科等ごとに集まって研究するもの、同じ問題意識をもった教員が自主的に集まって行うもの、教委や文科省の委託を受けて行うものなど様々な種類があります。
 私は教員として、また指導主事として多くの研究に携わってきました。指導者として、研究をリードしてきた経験もあります。しかし、研究に子供を関わらせたことはありませんでした。そこで、研究発表会に子供を参加させることを考えてみました。
 例えば、「子供の興味・関心を生かした学習過程の展開」というテーマで研究を行ったとします。発表会では、仮説に基づいた行われた検証実際の授業の様子をVTRで流し、それを見ながら、子供がこの場面における教員の問いかけをどう感じたか、資料の提示についてタイミングや時間はどうだったか、話し合いの場において自分の意見が生かされていたと感じたか、などテーマに関わって、本音を語るのです。
 本当に本音が語られるように、授業者とは別の教員が子供の発言を引き出して主導するとか、検証授業をする教員は初対面で利害関係のない者にするとかいった工夫は必要でしょうが、教員の独善的な解釈を排し、教員の研究についてよく言われる「都合のよいデータだけに着目した自画自賛型」という批判に答える研究が実現すると考えるのです。面白い試みだと思うのですが、どうでしょうか。
 
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いくつもの普通

2019-07-27 08:16:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「普通と普通」7月23日
 『「普通」求めてもがく姿に共感』という見出しの特集記事が掲載されました。LGBTドラマブームについて分析した記事です。私も、テレビ東京の「きのう何食べた?」を欠かさず見ていたので、書かれている内容がとても腑に落ちました。
 記事の中に、『「普通」の幸せって何だろう。答えは見つからないが、自分の「普通」を誰かに強要したり、誰かの「普通」を押し付けられたりするのは、嫌だ。多様性を普通にしていくことが、生きづらさの軽減につながるのではないか』という記述がありました。さらっと読むと、全くその通りなのですが、具体的な場面を想定すると、簡単に頷くことができなくなってしまいました。
 学校教育は、特に、ある程度の画一性が必要とされる義務教育においては、「普通」の強要や押し付けは、避けがたい場面が多くあるのです。そもそも、月曜日から金曜日まで、毎朝決まった時間に登校すること、授業中は教室の椅子に座っていることを強制しなければ、現在のシステムにおける学校教育は成り立ちません。
 登校してからも、授業中発言するときは手を挙げてからすること、授業中に漫画を読んだり、スマホで動画を見たり、お菓子を食べたりしてはいけないこと、暑くても裸になってはいけないことなど、好きにさせることはできません。記事でいう多様性を認めるとは、そんな無茶苦茶なことを言っているのではないという人がいるかもしれません。
 しかし、従来は落ち着きのない子と言われてきた子供の中に、発達障害という個性をもった子供がいるということが認識され、そうした子供にとっては、自分の興味関心に基づいて、座席を離れることは「普通」なのです。教員に指されなくても思ったことを口にしてしまうことも、です。
 話は飛びますが、2年前亡くなった私の母は、認知症でした。夜中に交番に保護され、迎えに行ったことも度々でした。しかし、ケアマネージャーの方の話を聞くと、私には徘徊と思えることも、母には出掛けるだけの理由があり、その理由は母の頭の中では合理的であり、ただ多くの事実誤認に基づいているので、私には理解できず、怒りや悲しみという感情に基づいた対処の仕方になってしまうのだと言われました。つまり、母の「普通」だったのです。
 私は、デイケアやその後はグループホームなどのスタッフの力を借り、母とともに過ごすことができましたが、学校という場には、1人ならばともかく、3人も4人もの子供の「普通」に対応できるだけの人的資源はありません。多くは、教員一人が全体の「普通」と1人の「普通」に対応しているのです。それが限界です。全体の「普通」と5人の5通りの「普通」に対応することは不可能なのです。
 学校において、多様性を普通にするというのは、どのように考えればよいのでしょうか。
 
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モヤモヤする

2019-07-26 08:17:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「モヤモヤ」7月23日
 『吉本社長「クビ発言」認める』という見出しの記事が掲載されました。吉本興業の『所属芸人が反社会的勢力との会合に出席し謝礼を受け取った「闇営業」問題』について、同社社長が行った記者会見について報じる記事です。こんな人物が社長?という疑念をもたざるを得ない会見でしたが、私が一番気になったのは、『お笑いコンビ「雨上がり決死隊」の宮迫博之さん(49)の契約解消を撤回すると発表した』ということについてでした。
 宮迫氏は、詐欺集団のフロント企業との会合出席や金塊強奪犯と一緒に飲み会に参加という違反行為を犯した人物です。その際、現金を受け取り、それを吉本興業に報告しないというルール違反をし、しかもその疑惑を指摘されても虚偽の説明をして吉本興業を騙し、さらに自分だけでなく後輩芸人に嘘をつくよう強要したのです。こうした行為は、脱税にも当たるとも指摘されています。まさに、悪のデパートのような人物です。
 だからこそ、契約解除=馘首という処分を下したのでしょう。それを取り消すというのはどういうことなのでしょうか。もちろん、処分の公表に至る過程で、吉本興業側に、不当な圧力、脅しに該当する言動といったパワハラ行為があったことは問題です。しかし、処分を下す側の対応に問題があったからといって、処分を撤回するのはおかしいのではないでしょうか。
 例えば、学校で体罰をした教員がいたとします。子供と保護者からの訴えを受け、校長と教育委員会が当該教員から聞き取り調査をします。その結果、体罰の事実が確認され、他の教員や子供からの聞き取りでも、体罰の事実が確認されました。本人もその事実を認めました。当然、減給や停職等の処分が下されることになります。ところが、処分決定後、当該教員の聞き取りの際に、校長が大声を出す、机を叩く等のパワハラ行為をしていたことが明らかになりました。そこで、校長と教委はパワハラ行為を謝罪し、校長は降格処分を受けました。
 さてここで、体罰教員はどうなるでしょうか。聞き取りの際にパワハラがあったので、処分は取り消しとしたら、体罰を受けた子供やその保護者、あるいはその学校の保護者や市民は納得するでしょうか。するわけがありません。関係者全員にモヤモヤ感が残ってしまいます。まして、パワハラを受けた体罰教員が被害者であるかのような扱いをされては、体罰の被害者は怒りさえ感じるでしょう。
 教員の体罰という「悪」、校長のパワハラという「悪」は、それぞれ別の「悪」であり、片方が片方を打ち消すという種類のものではありません。それそれの「悪」が、規則に則って処分されればよいだけのことです。宮迫氏の処分は、宮迫氏の行為だけをみて行われるべきなのです。
 これまで述べてきたことは、言うまでもないことですが、きちんとした処分基準、本人が署名押捺した取り調べ調書、関係者からの聞き取り調査調書に則って、処分委員会や人事委員会等の組織内の部署において公式の会議録が残された上で処分が行われているという当たり前の常識的な前提の上での話です。
 もしそうでないのであれば、そもそも記者会見以前の問題です。
 
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180度ひっくり返る

2019-07-25 07:55:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「いつから」7月22日
 『昨年音コン覇者「君が代」独唱』という見出しの記事が掲載されました。『プロ野球オールスターゲーム第2戦で、昨年の日本音楽コンクール声楽部門の覇者、森野美咲が国歌独唱を務めた』という記事です。その中に、『「君が代」は世界最短の国歌であると共に、音の跳躍が多く「他のどの国の歌よりもおそらく難しい」と森野。だが「末永い平和を祈る歌詞と曲の力に後押しされて」輝かしいしソプラノを響かせ、「お祭りの場を清める」大役を果たした』という記述がありました。
 私には、歌としての難度は分かりません。ただ、「君が代」の歌詞が、「末永い平和を祈る歌詞」だという記述には驚かされました。私は、アンチ「君が代」派ではありません。20代の教員時代には、卒業式の国歌斉唱についてもめた職員会議においてただ一人賛成意見を言って、その後しばらくは誰も口をきいてくれなかったという経験をしていますし、後年6年生の学年主任になったときには、組合立学校と呼ばれていた勤務校で、初めて国歌斉唱と国旗掲揚を実現させた強者です。もちろん、指導主事になってからは、各校に国歌斉唱を強く指導してきました。
 当時、「君が代」については、君=天皇が治める時代が永遠に続くように願う歌であり、戦前の天皇主権の考えを継承するもので、民主主義の時代には相応しくない、という考えが、教員の大半を占めていたものでした。私は、我が国は憲法に定める通り象徴天皇制の国であり、かつて君=天皇であったのは事実かもしれないが、今では天皇=国民の象徴なのであるから、君=天皇→国民と考え、国民にとって良き時代が長く続くように願う歌であると考えるべきだ、という理屈で対峙したものでした。我ながら屁理屈気味であると自覚しつつ、でした。
 それなのに、今やリベラル系と目されるM紙に、「末永い平和を祈る歌詞」という記述が掲載されるようになったのです。音コンで優勝するような人は、歌の解釈についても、ある程度は深く掘り下げるのだと推察します。森野氏は、歌の専門家として、「末永い平和を祈る歌詞」という解釈を導き出されたはずです。そしてM紙の記者もその解釈に納得したのでしょう。
 私もその解釈に賛成です。ただ、世の中の変化には戸惑ってしまうばかりです。保守派の私にとっても、昨今の余りものを深く考えない「マイルドヤンキー保守」的傾向には違和感を覚えます。若い教員の皆さんは、かつて職員室で深夜まで及んだ「君が代」論争のあの時代を知っているのでしょうか。議論の内容はともかく、熱く激論を交わす情熱のようなものには、なんだか郷愁を感じてしまうのですが。
 

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考えるための基礎的理解

2019-07-24 08:16:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「政治なんてわからない」7月20日
 書評欄に、『「思いつきで世界は進む」橋本治著(ちくま新書)』について、加藤陽子氏が書かれて書評が掲載されました。故橋本氏の著書は、私も若いころに読んだことがありますが、内容については、大部分忘れていたというのが正直なところでした。
 ところで、今日(7/21)は、参議院選挙の日です。だからという訳ではないでしょうが、加藤氏は、橋本氏の安倍内閣についての考察を取り上げていました。『若い世代による安倍内閣支持率の高さにも驚く(略)橋本は、自らの高校時代の頭の具合を思い出すところから始める。頭の容量が決定的に足りない時分、「なにが真実か」を問う膨大なデータを注入され、結論を言えと急かされたらどうなるか。きっと腹が立つだろう。そして怒りの矛先は、事実を認めない当の首相周辺へは向かわず、データを注入し、さあ考えよと促した側に向けられるのではないか』というものです。
 その通りだと思いました。そしてこの指摘は、選挙権が18歳から与えられることになった公職選挙法改正に伴って盛んに主張された「主権者教育」の問題点を指摘していることにもなるのではないかと考えました。
 今、世界で強権的なポピュリズム的な政治指導者が増えています。それに対して、主にリベラルと言われる立場の人たちから、懸念が示され、危機感が訴えられています。我が国において「主権者教育」の重要性を主張する人たちも、概ねこの立場にいる人たちです。そして、彼らは、現実社会で起きている問題を題材に取り上げ、中高生たちに考えさせることが大切だと言います。しかし、こうした考え方で指導された中高生というのは、橋本氏が言うところの「頭の容量が決定的に足りない時分、「なにが真実か」を問う膨大なデータを注入され、結論を言えと急かされたらどうなるか。きっと腹が立つだろう」という状態なのではないかと思われます。
 「民主主義って多数決でしょ、だらだら話し合って何も決められないより、多数決でどんどん決めてやればいいじゃん。何がいけないの」という程度の「頭の容量」で考えさせられたのでは、むかつくだけというのも分かるような気がします。大衆迎合的な政治風土が、ヒトラーのナチズムを生み出したこと、ブロック経済の進行が世界大戦の要因になっていたこと、愛国心の過度の高揚が誰も望まないまま第一次大戦を泥沼に引きずり込んだこと、多様性に背を向け少数者を排除する考え方が憎悪をあおり対立を深刻化させて社会を不安定にすること、あるいは今では常識となっている普通選挙が実施されるまでにどれだけ多くの人の努力があったかということなどを十分に学ばないまま、薄っぺらな「頭の容量」に基づいて考えさせられる中高生は、ある意味被害者なのです。
 私は、このブログで、真の「主権者教育」は、過去の戦争や人権侵害の歴史について、我が国や他国の事例を基に、深く掘り下げる学びがあってこそ成立するものだと訴えてきました。もう一度この主張を繰り返したいと思います。
 
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丸木舟と大名行列

2019-07-23 07:36:41 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「大名行列」7月19日
 『3万年前の航海再現成功 「祖先の謎なお」 プロジェクトメンバー会見』という見出しの記事が掲載されました。『国立科学博物館などが旧石器時代に台湾から沖縄・与那国島に渡った航海を検証しようと実施。当時の技術で作った船で今月7日に出発し、約45時間かけて無事到着した』プロジェクトに関する記事です。
 私はこのプロジェクトを報じる記事を読み、いくつもの疑問を抱きました。10日以上前の記事をいくら読んでも解決されない疑問が今回の記者会見で解決されているか、期待して読んだのですが、全く解決されないままでした。
 私は以前このブログで、小学校6年生の社会科の歴史の授業で、江戸時代の大名行列を取り上げ、単に当時の絵巻を見せ、教科書等の解説を読んで分かった気になるのではなく、実際に大名行列をしているつもりになって考えるという学習の形について、考える授業の一例として紹介したことがあります。私のオリジナルの実践という訳ではなく、小学校の社会科を研究している教員の間ではごく一般的に行われている授業の工夫として紹介したものです。食事は、トイレは、風呂は、と人間が生活していく上で必要なことをどのように行っていたかを予想し調べることにより、大名行列・参勤交代というシステムの意味を考えさせる取り組みです。
 私は、今回のプロジェクトで同じことを考えてしまったのです。舟を漕ぐという過酷な肉体労働をするのですから、当然睡眠をとっていたはずですが、どのようにしていたのか、睡眠時に海に落ちない工夫はどのようなものだったのか、食糧は何をもって行ったのか、濡れたり海に落としたりしないようにどのように保管携行していたのか、排泄行為はどのようにしていたのか、等々です。
 旧石器時代人と同じようにと言いますが、今回もメンバーは『男女5人』です。男性がいる前で、女性はどのように用を足したのか、本当に当時のまま行ったのか、などということまで気になってしまいました。
 多くの人は私のような疑問は抱かずに、今回のプロジェクトの成功を喜んだのだと思います。しかし、私と同じようにな疑問を抱いた人はいるはずです。少なくとも小学校の社会科を研究している教員たちは。教員とはそういう人間たちなのですから。
 
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もう無視できないでしょ

2019-07-22 08:05:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「無視?」7月17日
 『自殺2万1000人を下回る 昨年37年ぶり 若年層は「深刻」』という見出しの記事が掲載されました。政府の自殺対策白書についての記事です。見出しにある通り、主に若年層に焦点が当てられ、その分析がなされていました。添付された表『10代の原因・動機別の自殺者数』によると、『学校188、健康119、家庭116、男女52~』となっており、学校に起因する自殺が最多となっています。そして学校関係の内訳もまとめられていました。『学業不振57、進路の悩み46、学友との不和27、入試の悩み25、いじめ2、教師との関係1、その他30』です。
 この結果をどう見るべきなのでしょうか。進路と入試の悩みが合計で71になります。詳細は記載されていませんが、どう控えめに見ても、この半分以上は、成績・学力などに関係が深いと考えるのが妥当です。進路も入試も、学力や成績に大きく左右されるのですから。そうなると、学校関係で原因・動機が判明した自殺の70%ほどが学業に関するものだということになります。
 一方、いじめと学友との不和を合わせても、29であり、15%にしかなりません。つまり、世間が10代の自殺というと学校でのいじめが原因ではないか、と連想するのに対し、実際には学業に関することが原因というケースが何倍も多いということなのです。このことを別の角度から見ると、学業の問題が解決すれば、自殺は大幅に減るということ、自殺対策に必要なのは分かる授業の定着だということです。
 手前味噌になりますが、私はこのブログを始めた10年以上前から、学校が抱える諸問題の根源には授業が分からないという子供の存在があることを指摘してきました。授業が分からなければ、毎日何時間も教室の中で、疎外感や劣等感を抱き続けなければなりません。その精神的な重圧が、外部に向かえばいじめとなり、自分に向かえば不登校になるのです。そうした具体的な形を取らないケースでも、そうした重圧が子供の心を蝕み、傷つけ、ちょっとした衝撃にも耐えられないほど脆くしてしまうのです。
 だからこそ、分かる授業が必要であり、そのためには教員の授業力の向上が必要になるのだと主張してきたのです。学校は学ぶところであり、その原点に返ることが重要だと指摘してきたのです。
 それにもかかわらず、いじめや不登校対策では、いじめ担当主任を配置するとか、カウンセラーを置くとかいった対処量法的な対応だけが重視され、根元的な対策としての「分かる授業」は、無視、もしくは軽視されてきたのです。学校教育改革は、教員の授業力向上という王道を模索すべきだと考えます。
 
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