ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

授業法の定着

2011-11-30 08:04:49 | Weblog
「私の実践」11月27日
 エッセイストの平松洋子氏が、『本を読むときの、私の弱点』という標題でエッセイを書かれていました。平松氏は、本を読むときに線を引いたり書き込みをしたりすることができず、そんな読み方ができる人を羨ましく思っていたのだそうです。確かに、本に申し訳ないような気持ちになります。
 そんな平松氏は、『そこで編み出したのが付箋攻撃である。いくらぺたぺた貼っても、いざとなったら剥げるという保険をかけているから本の佇まいはそのまま、ひとまず安心』ということで、自分なりの読書法をつくりあげているというのです。
「付箋」で思い出したことがあります。付箋の特徴は、「移動」できるところにあります。私が東京都立教育研究所に研究生として勤務し、社会科の授業についての研究をしていたとき、この付箋を活用した授業法を開発しました。疑問に思ったこと、調べて分かったこと、新たに生じた疑問を付箋に書き出し、それをA3の紙に貼り付け、様々な線で結びつけることにより自分の思考の流れを確認しながら学習を進めるという手法でした。私はそれを、「疑問の関連図」と呼んでいました。
 このように書くと、大したことではないと考える方が多いと思います。私も今ではそう思います。しかし、「コロンブスの卵」ではありませんが、些細な工夫でも、最初に生み出すのは大変なことなのです。教員が研究している「授業法の研究」とはこのようなものなのです。一人の教員のささやかな工夫が、何人かの教員に模倣され、そこで改良が図られ、あるいは他の教科への応用が試みられ、それをまた別の教員がマネをするという形で広がり、やがて一般的な授業法の一つとして定着していくのです。
 私の研究の是非はともかく、全国に数十万人いる教員が、研究所で、学校で、研究会でささやかな工夫に取り組んできた成果が、我が国の学校の授業の質を高めてきたのです。この伝統は我が国の学校教育の宝です。この貴重な宝を失わせるような教育改革は問題です。この点を理解しない「改革者」が多いことが気掛かりです。

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誰の意見?

2011-11-29 08:07:16 | Weblog
「誰のこと?」11月26日
 政治評論家岩見隆夫氏が、『「国民」を安易に使うまい』という標題でコラムを書かれていました。その冒頭で岩見氏は、『政治家とメディアは、私の自戒もこめてだが、<国民>という言葉を安易に使いすぎるのではなかろうか』と書かれています。そして、民主党の小沢一郎元代表の『今この時期の消費税の増税議論は国民に受け入れられない』という発言を例にあげ、『ここでの<国民>が、国民のマジョリティー(多数派)を指しているのだとしたら、正確さを欠く。毎日新聞の10月全国世論調査で、社会保障費の財源として消費税増税の賛否を問うたところ、賛成48%、反対50%となった。世論は完全に二つに割れており、この傾向はほかの調査も含め、ほぼ定着している』と批判しています。
 民主社会において、「国民」とか「市民」、「住民」という類の言葉は、大きな魔力をもっています。黄門様の印籠のように、それを出されては誰も文句を言えないという雰囲気になってしまいます。
 しかし、考えてみれば、これ程いい加減な言葉もありません。私も日本国民ですが、小沢氏とは正反対の意見です。岩見氏が指摘するように、「多数派」の意味だとしても、信頼のおける調査結果による多数派なのか、多数派といっても過半数に達しない場合はどうなのか、さらに多数派が情報操作や情報不足などにより間違っていることはないのか、など、その「権威」は怪しい場合が少なくありません。
 私自身としては、むしろ、「国民」や「市民」の意見であるということを声高に主張する人には、自分の主張をごり押しする人、実は自分の意見の公正性に自信のない人、建前とは別の本音を隠している人、というような印象をもってしまいます。
 私はこのブログで、学校教育に関わる問題について意見を述べてきました。その論拠はほとんど、長年の教員経験、指導主事や指導室長としての教育行政での経験です。これは抽象的な「国民」ではなく、具体的な氏名をもち顔を思い浮かべることができる「人」の言動が基になっており、岩見氏が言う「国民」の対極にあるものです。もちろん私方式が正しいと言うつもりはありません。実際、メディアでの私の発言に対して、「サンプル数が少なすぎる」という批判をいただいたこともあります。
 おそらく、岩見氏が言う「国民」と私の「個人」を融合させたところに、正しい「民意」があるのだと思います。学校教育論議でも、「国民」だけでなく、教員や学校、教委という現場の声、専門家の声と「国民」の声のバランスをうまく取っていくことが大切だと思います。
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戦略的トップ

2011-11-28 08:14:21 | Weblog
「手練手管」11月24日
 高橋咲子氏が、『手練手管』という標題でコラムを書かれていました。日本原子力文化振興財団が、市民に「原発が安全」との考え方を浸透させるための「手練手管」を取り上げているのです。その中で高橋氏は、『原子力に好意的な文化人を抱え、マスコミが自然に名前を覚えるようにする△クイズ番組に原子力関連の問題を盛り込む』など、『「原子力の情報に疎い」「記者連中」に、いかに安全だと吹き込むか』という手練手管を紹介しているのです。
 高橋氏は、原子力の問題を取り上げていますが、おそらく似たような「手練手管」を駆使している団体はたくさんあるのでしょう。今注目を集めているTPPを巡っても、様々な団体が、自分に都合の良い「試算」を発表したり、様々なメディアで扇情的な相手陣営批判を繰り返したりしています。民間の団体だけでなく、中央省庁も露骨な我田引水を行い恥じるところがありません。
 さて、学校はどうでしょうか。文部科学省や大都市の教委が、学校教育行政に好意的な文化人を密かに支援しているという話は、噂でも聞いたことがありません。与党民主党の強力な支援団体である日教組が、財団を作り、我が国の教員の質の高さをアピールする広告やPR番組のスポンサーになっているということもありません。教員の職員団体が行っていることといえば、以下に我が国の学校教育を取り巻く環境が劣っているかを訴え当局に要求することだけです。校長や副校長の全国団体もあります。しかし、単なる研究と親睦、情報交換の機能しかもっていません。
 私は長年教育界に身を置いてきたせいか、「手練手管」には抵抗感があります。我が身を正しく持していれば他人はやがて分かってくれるはずだ、という発想に惹かれてしまうのです。おそらく、多くの学校関係者が同じ感性をもっていることと思われます。しかし、それではこれからの世の中で通用しないのかもしれません。
 文部科学省を筆頭に、教委、教組などが秘密会合をもち、我が国の教員、学校のレベルの高さを国民に浸透させる「手練手管」を「謀議」するような発想をもつ戦略思考のトップが教育界に表れる日は来るのでしょうか。
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高評価の理由

2011-11-27 08:17:00 | Weblog
「私立校と塾」11月23日
 仏文学者鹿島茂氏が、ご自身の連載コラム「引用句辞典」で、ソースティン・ヴェブレンを取り上げていました。その中で鹿島氏は、『人間のあらゆる言動の根源には、「金なら持っているぞ、ドーダ、参ったか」というように金銭的な優位さをひけらかす差別化の意識があるとした』とヴェブレンの見解を紹介しています。
 その上で、『人は「本当に良いものは良い」とか「良いものは長持ちする」など様々な理由をつけて高価なものを購入するようだが、実際には「高価だから良い」とみなしていることが少なくない』と人間心理を喝破しています。さらに、『ある程度高くないと「本物性」も「ありがたさ」も感じられない』とし、『価格競争が激化する昨今、「安くなければ売れない」と思い詰めて自縄自縛に陥った経営者は、消費者にはこうした「高いがゆえに我信ず」という心理もたしかに存在していることをもう一度思い返してみるべき』と指摘しています。
 全く同感です。私もそんな心理に支配されている一人だからです。ところで、このことを「教育」に当てはめてみるとどうなるでしょうか。塾や私立校は「高価」な存在です。それに比べて、公立校や家庭での教育は高価ではありません。保護者はどちらを重視したり、評価したりしているかといえば、明らかに後者です。
 「三つ子の魂百まで」という俚諺を持ち出すまでもなく、幼児期の家庭における教育や躾、親の接し方こそがその子供の人格形成に大きな影響を与えます。しかし、これらは「タダ」なので、価値を認められません。認められるのは、英会話教室やピアノ教室などの早期教育機関です。もちろん有料の。それも、月謝5000円で教わることができる教室よりも、月謝30000円の個人教授です。
 また、学童期になれば、高い授業料の私立校に憧れます。子供の能力や経済的な事情からやむを得ず公立校に進んだ子供の保護者も、できることならば私立校に入れたかったと思っています。不思議なことです。教育効果を上げるために35人学級、30人学級を求めているはずなのに、経営のために45人で学級を構成している私立校に入れたがるのです。教員の待遇を比べると、公務員である公立校の教員の方が恵まれています。当然、優秀な人材が集まります。私の同級生も、都教委の採用試験を落ちた人間が私立や国立に入り込んでいたものです。研修体制の雲泥の差です。それなのに、私立校が良いと言うのです。そして、一部のメディアが、公立校批判という形でその後押しをしています。
 財政赤字に国も自治体も苦しんでいる中、公立校も高い授業料を取るようにすることが学校改革の一つの解決法かもしれません。「高いから良い」というメッキを落として、公立校を見つめ直してほしいものです。 

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誤った治療法

2011-11-26 08:12:17 | Weblog
「“みな同じ”ではない」11月22日
 精神科医の香山リカ氏が、『認知症とのつきあい方』という標題でコラムを書かれていました。私の父も母も認知症を患いました。父はアルツハイマーと診断され、母も今年アルツハイマーと診断されました。それだけに、香山氏のコラムに目がいってしまったのです。
 この中で香山氏は、『「アルツハイマー」は今や認知症の代名詞にもなっているが、「うつプラスもの忘れ」の場合は、ちょっと注意が必要。別の種類の認知症が始まっている可能性があるのだ。それは、今やアルツハイマー型に次ぐ第二の認知症とも言われる「レビー小体型認知症」』と述べ、『しかし、まだ十分に知られておらず、医者の中にさえ「認知症といえばアルツハイマー」と思い込んでいる人がいる』と現状を憂いていらっしゃいます。
そして『同じ認知症だが、タイプが違えば治療法も違う。また、レビー小体型では、うつ病やパーキンソン病と間違われてその薬が処方されると、かえって病状が悪化する場合があるので、まずは正確に診断をつけることが必要になる』と書かれています。
 「まず正確な診断」、実はこれは、私が「指導力不足教員」について述べるときに真っ先に話すことなのです。拙著「教員改革」の「はじめに」で私は次のように書いています。

 「指導力」というもの、「指導力が不足している教員」という存在に対して、教育関係者の中にも多くの誤解があることを感じた。
ある自治体の教員研修担当者は、「体罰を起こした教員、自分の思想信条を押しつける偏向教育を行う教員、毎年度授業が遅れがちで保護者からの苦情が絶えない教員などを研修所に集め研修させるという計画をもっている」と語った。私は思わず「そんな計画は駄目です。問題のある教員という点では同じでも、問題の質が異なることに配慮すべきです。病人というだけで全員に同じ治療方法や薬を用いても、病気は治りません。かえって悪化することだってあり得ます」と大声を出してしまった。腹が痛いといっても、胃酸が過多の場合もあれば、逆に少なすぎる場合もある。胃ではなく腸や他の臓器に問題があるケースもあるはずである。そして、それぞれのケースに応じて、治療法は全く異なるはずなのだ。

 これは、今から10年前の話です。こうした状況は、現在ではかなり改善されてきています。少なくとも、教委関係者の中ではこうした誤解はほぼなくなっています。しかし、一般の方や教員批判を売り物にしている政治家の中には、まだ誤解を抱いたままの方が少なくありません。メディアの報道にも、理解が不十分だと思われるものが散見されます。
 正確な情報提供により誤解を正すことは、教員の質の向上策の実施のために不可欠です。学校教育行政の課題の一つだと思います。

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大きな溝

2011-11-25 08:15:24 | Weblog
「大きな溝」11月22日
 専門編集委員の玉木研二氏が、大学入試をめぐって『「広き門」の悩み』という標題でコラムを書かれていました。その中で玉木氏は、『長く受験というハードルが基礎学力を支え、押し上げた側面は否定できない』と書かれています。特に目新しい意見ではありません。そのために何気なく見逃してしまいそうな部分ですが、ここには学校教育を考える重要な鍵が潜んでいます。
 「受験が基礎学力を支える」という考え方は、受験という外的圧力が学力向上に有効であるという学力論です。また、競争が学力を向上させるという考え方でもあります。こうした学力論と対称をなすのが、内発的動機を重視する学力論です。子供の知的好奇心や探求心に基づく思考こそが真の学力を身に付けさせるという考え方であり、教育学を学んだ者は、この考え方を支持する者がほとんどです。
 一方で、この2つの考え方は、幼稚園・小学校と中学校・高等学校の教員で主流となっている学力観であるとも言えます。高校受験、大学受験を控え、綺麗事を言ってはいられない中高の教員は、受験でよい点数を取らせることこそ教員の務め、学校の責任と考えているのに対し、幼小の教員は、「そんなことじゃ志望校には入れないぞ」という恫喝による学習など邪道だという思いを抱いています。
 この相反する2つの学力観は、授業観、学校観、教員観、教育観の違いとなり、幼小と中高の間に横たわる大きな溝となっているのです。私は教委に長年勤務しましたが、教委における学校教育の専門家である指導主事の間でも、この溝を意識させられたものでした。
 この2つは、どちらも間違いではありません。理想としては内発的動機を重視するのが正しいのですが、それだけでは成り立たないというのも現実だからです。この溝を埋める試みは十分にはなされていません。実はそれこそが、学校間の連携がうまくいかない主原因なのです。教育行政は、学力観の融合に力を注ぐべきだと思います。

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不毛の対立時代

2011-11-24 08:15:10 | Weblog
「いつか来た道」11月21日
 大阪W選についての世論調査結果が掲載されました。その中に次のような記述がありました。『(教育基本)条例案について「賛成」「どちらかといえば賛成」は、橋下氏を支持する人の計63%に上がっていたのに対し、平松氏は計18%にとどまった。知事選でも松井氏を支持する人は計77%、倉田氏は計29%だった』というものです。
 単なる橋下氏のキャラクターが前面に出た人気投票ではなく、政策の是非と支持が密接に関係した選挙戦となっていることが分かります。近年、あらゆるレベルの選挙で「学校教育問題」がここまで争点としてクローズアップされたことはありませんでした。学校教育への人々の関心が高まること自体はよいことです。そうした意味では、橋下氏の「功績」と言えるかもしれません。
 ところで、過去の学校教育を巡る状況を振り返ってみると、2つの主張が激しく対立していた時代がありました。その時代には、左右のイデオロギーが学校現場に持ち込まれ、文部省(当時)や教委などの当局と日教組など教員団体が激しくぶつかりあったものでした。違法ストが頻発し、自民党と社会党という政党がそれぞれの背後にいると思われていた時代でした。この混乱した時代には、双方が不信感をもち、相手を感情的に敵視し、まともな議論は成立せず、教育行政は停滞し、その傷跡はその後長く残り、現在に至っています。
 私がテレビの討論会に出席したときにも、「識者」として呼ばれていた保守派の人物が、「学校教育の悪いところは皆日教組のせいだ」と今現在も考えているのに驚かされたものでした。橋下氏が主導する「教育基本条例」は、進歩VS保守のイデオロギー対立ではないものの、賛成派と反対派の間の対立と不信による不毛の時代を再現する可能性があります。その結果、子供のためによりよい学校を創るという願いを共有するはずの市民が、本来の趣旨を忘れ、相手への非難・攻撃に夢中になるという状況がもたらされる懸念を捨て切れません。これは大きな不幸です。
 私たちは、教育論議に必要なのは声高な非難や攻撃、揚げ足取りではなく地道な意見交換の積み重ねであることを長い時間をかけて学んだはずです。橋下流改革はせっかく学んだことを無駄にしかねません。政治と学校を直結させる試みには、こんな副作用もあるのです。

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体育の授業と遊び

2011-11-23 08:11:46 | Weblog
「体育の授業」11月19日
 都教委が、『来年度採用予定者1600人のうち希望者を対象に、実際の小学校の体育の授業に参加させるほか、休み時間や放課後に子供たちと一緒に校庭で体を動かす時間を設けることを決めた』という記事が掲載されました。調査の結果、「体育の指導に不安がある」と答えた教員志望者が多いことに対応した対策だそうです。
 教員志望者の不安に応えようとする姿勢は大切です。しかし、その方法に疑問があります。それは、「休み時間や放課後に子供たちと一緒に校庭で体を動かす時間を設ける」という方法です。ここには、体育の授業と子供が体を動かすこととを同一視する発想があります。それは間違いなのです。
 学校において、子供が体を動かす機会はたくさんあります。体育の授業、休み時間、特別活動の中の学校行事や学級活動、クラブ活動などです。これらは体を動かすという共通点はありますが、指導に臨む教員が留意することは異なっているのです。
 私は初任者の低学年体育の授業の講師を務めたことがあります。その初任者は、ボールを使ったゲームを主たる活動に設定していました。そして、授業の目標に「みんなで協力する」「ゲームを進め方を工夫する」「ゲームを通して体を動かすことの楽しさを知る」を掲げていました。そして作戦タイムを設けたり、評価カードを用いて自己評価や相互評価をさせていました。授業後、私は、学習指導要領にある投げ方についての指導も評価もないことを指摘しましたが、初任者は首を傾げるばかりでした。
 学級活動の一環としてボールゲームを楽しむのであれば、技能についての評価は不要です。しかし、体育の授業であれば、技能面の指導と評価は不可欠です。低学年では、ボールを両手投げや下手投げしかできない子供が少なくありません。学習指導要領では、オーバースローでボールを投げられるようにするという狙いが明示されているのですから、そのための指導をし、オーバースローをせざるを得ないようなゲ-ムのルール作りをし、よくできた子供を評価してやらなければ、体育の授業としては成り立たないのです。初任者は、体育と学級活動の区別ができていなかったのです。
 同様に、クラブ活動や休み時間に体を動かすことは、体育の授業とは全く異なる指導原理の下にあります。都教委の「対策」は、こうした誤解を助長させてしまう可能性があります。
 同じことは他の授業についても言えます。国語の時間に指導する朗読と、学芸会で行う朗読劇の指導狙いが異なりますし、移動教室のキャンプファイヤーで歌うことと音楽の授業で歌うことも狙いは違います。大雑把に言えば、授業は学習指導要領に定められたねらいを達成するために教員が「指導」するものであるのに対し、そうでない場面では、子供の工夫や協力、楽しむことがねらいになるということです。
 この点をしっかりと意識させないと、狙いが曖昧なまま、何となく「授業っぽい」ことをしてお茶を濁す教員になりかねません。「指導力不足教員」とされる教員の多くがこうした誤った授業観をもっているのです。

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不当支配とは

2011-11-22 08:01:46 | Weblog
「教育への不当支配」11月18日
 東大教授の佐藤学氏らが記者会見し、『学校教育を知事や議会の直接的な支配下に置くことに強い危惧を覚える』という反対アピールを発表したという記事が掲載されました。アピールは、『「教育への不当な支配」を禁じる教育基本法に抵触するとし、「日本社会全体にとって見逃せない」と訴える』もので、多くの著名人が賛同しているとのことです。
 心強いことです。ただ、賛同者の氏名を拝見すると、それらの方々は、昔ながらの「不当な支配」をイメージしているようで、その点が気になります。戦後作られた教育基本法がイメージしていた「不当な支配」とは、特定の思想信条をもった団体や宗教からの愛嬌を想定していました。国家神道や日本を再び戦争へと駆り立てる好戦的な帝国主義者といったものです。その後、日教組などの教員団体の活動が活発化してくると、それまでとは逆に「左翼」的なものからの影響も懸念されるようになってきました。いずれにしても、思想信条・宗教などによる支配を想定していたのです。
 しかし、橋下前大阪府知事が主導している教育基本条例には、そうした要素はほとんどありません。卒業式などにおける国歌斉唱時の起立などが注目されているため、「右派」からの教育支配という見方をしている人もいますが、そうではないのです。むしろ根底にあるのは、民主党が掲げた「政治主導」と同じ「民意の支持を得れば何をしてもよい。反対する者は民主主義を否定する敵だ」という考え方です。こうした考え方が行き着く先は、民意を得るためにはどんなことでもする、という大衆迎合主義です。
 当選するためには耳目を集める過激な改革策を掲げて現状を否定する、当選したら長期的な視野で見ることなく目に見える形で制度をいじくる、改革が行き過ぎると反対勢力の妨害に責任を転嫁して失敗を覆い隠す、また別の刺激的な改革策を打ち出すというサイクルが短期間に繰り返され、学校システム全体が木に竹を接いだようないびつなものになってしまうのです。そのサイクルは、首長選挙と議員選挙の度に繰り返され、ほぼ2年ごとに方針が揺れ動いてしまうのです。
 私も教育基本条例には反対です。しかし、それは思想的な理由によるものではありません。教育行政は、安定性が大切であり、選挙時の雰囲気やムードで左右されるようなシステムは望ましくないと考えるからです。「思想」に深入りしては、反対運動は広がりを欠き、長続きしないように思います。
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ウケねらい

2011-11-21 07:58:26 | Weblog
「力不足」11月18日
 『一川保夫防衛相は17日、ブータン国王夫妻を招いた16日夜の宮中晩さん会を欠席して民主党参院議員の政治資金パーティーに出席し、不適切な発言をしたなどとして、首相官邸で藤村修官房長官に対し「ご迷惑をおかけしました」と陳謝した。藤村長官は「軽率であり厳に慎むように」と口頭で厳重注意した』という記事が掲載されました。不適切な発言の中身は、『他の大臣は皆そちら(晩さん会)に行きましたが、私はこちらの方が大事だと思って参りました』というものだそうです。
 政治家の不用意な発言が後を絶ちません。自らの政治信条を公言した昔の問題発言とは異なり、近年の問題発言は、聴衆のウケを狙い笑いを取ろうとして墓穴を掘るケースがほとんどです。政治家は、お笑い芸人ではありません。国を思い、深い洞察と熱い心情の込められた言葉で、人々の心を打つのが政治家なのです。それができないから軽口でウケを狙うという姑息な方法をとってしまうのです。
 同じことが、指導力不足教員にも言えます。子供の知的好奇心を刺激して学習問題を設定し、巧みな助言で思考を促して問題の解決に導くという「授業の王道」を歩むことができない教員が、沈黙に耐えかねてだじゃれをとばしたり、子供に阿って授業に関係のない話題で時間を取ったりするのです。そして、それで子供が笑ったり、何らかの反応を見せれば、「今日の授業は盛り上がった」と勘違いして、自分は授業力があると錯覚してしまうのです。
 私は、「指導力不足教員」の研修を担当してきました。彼らの多くはベテラン教員で、長年、無駄話とだじゃれと雑談で時間を潰した水で薄めたジュースのような授業を続けていました。勘違いも長年続けていると、強固な信念に変わってしまい、自らの指導力不足に気付かなくなっていなのです。少し意味は違いますが、嘘も百回重ねれば真実になる、です。
 教員は、授業中の無駄話で処分されることはありません。しかし、雑談やダジャレを指導技術だと誤解していては、教員としての未来はありません。

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