ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

連帯意識の弱まり

2012-10-31 07:51:42 | Weblog
「連帯意識」10月26日
 専門編集委員の西川恵氏が、『日本の南北問題』という標題でコラムを書かれていました。その中で西川氏は、スペイン、イタリア、ベルギー、英国など欧州における「独立運動」に焦点をあて、『基本的構造は同じだ。自分たちが稼いだ冨が税金で吸い上げられ、他の貧しい地域に注がれることへの不満』と解説しています。要するに同じ国内でも、豊かな地域の住民が、貧しき同胞を支えることを嫌っているということです。
 経済問題といえば経済問題なのですが、そこには連帯意識の乏しさがあるように思います。同じ国民が困っているのなら多少の犠牲を払っても助けたいという気持ち、これは国民としての連帯意識ともいえます。国民国家という概念は、この同じ国民という連帯意識の上に成り立っているのです。
 しかし、当然のように思われていた連帯意識が薄れてきているということを端的に表しているのが欧州の「独立運動」だと思うのです。わが国ではどうでしょうか。大震災の際の「助け合い」をみると、まだまだ連帯意識は生きているように思えますが、わが国でも連帯意識は弱まってきていると思います。生活保護や年金など、社会保障を成り立たせているのは、この連帯意識なのですが、今主流となっている考え方は、「病気でもないのに生活保護を受けるなんて」という連帯とは逆の考え方なのですから。
 こうした「自分の利益を他人の存在によって損なわれたくない」という考え方が、学校教育にも及んでくるのは必然です。自分の子供さえよければ他の子供がどうなってもいい、という思いをもつ保護者が増えてくるのです。
 話が飛躍するようですが、私は学校選択制は、この連帯意識の低下によって崩壊するのではないかと思っています。学校選択制というのは、見方を変えれば、我が子が多くの人から高い評価を受ける恵まれた環境の中で学んでいるにもかかわらず、本来ならその学校に入るはずがないよその子供が、大挙して押しかけてきて、環境を悪化させるシステムになる可能性があるからです。
 それまで、少人数の中で教員と子供が信頼関係を結んで教育活動を行ってきたのに、多くの保護者がその評判を聞きつけて、我が子を押し込んでくるようになり、よい雰囲気が壊れてしまうというのは実際にあり得ることです。子供が広い範囲から通うようになり、家庭訪問等教員の負担が増えその分教育の質が低下するなどということもあるかもしれません。伝統的な住宅街が学区だったのに、団地の子供がたくさん入学してくるようになり落ち着かなくなったというような不満も生じるケースもあるでしょう。今はそこまで神経質になっている保護者はほとんどいませんが、同じ○○市の市民同士というような連帯感がなくなれば、囲い込みや排除の論理が表面に出てくるようになってくるはずです。
 杞憂でしょうか。こんな時代を迎えようとしているとき、学校ごとに「理事会」がバラバラな対応をするCSなど、問題を深刻化させるだけだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逆効果に

2012-10-30 07:54:07 | Weblog
「パラドックス」10月24日
 仏文学者の鹿島茂氏が、いじめについてコラムを書かれていました。その中には、いじめを我が国固有の現象であるかのように述べた部分もあり賛同しかねるのですが、次の指摘については、まったくそのとおりだと思いました。
 それは、『文科省がきれいごとに終始して、「みんな仲良く」と言った標語を掲げれば掲げるほど、「いじめ」は逆にはびこるという悪循環に陥る~(中略)~「仲良しグループ」はなにかのきっかけで相互密告社会へと変質し、和を乱すメンバーがいれば、即座に排除の論理を始動させるのである。いじめは「仲良し」から生まれる。日本の悲しいパラドックスというほかない』というものです。
 正確に言えば、誤りはあります。それは、文部科学省が「みんな仲良く」という標語を掲げているのではなく、教員一人一人が昔ながらの教員社会の雰囲気に染まり、「みんな仲良く」と言うことが素晴らしいことだと思い込んでいるということですが、それは大した問題ではありません。
 実を言うと、教員時代の私は「みんな仲良く」に反対でした。そんなことは不自然だと感じていたからです。私自身が人の好き嫌いが激しく、教員になってからもそれは変わりませんでした。私は子供たちに、「嫌いなものを無理に好きになれとは言わない。でも、嫌いな奴だからといって傷つけてよいということではない。自分のことに立場を置き換えてみれば分かるはず。相手が自分のことを虫が好かないからという理由で攻撃してきたら嫌な気分になるし、どうして、と思うだろう。一緒に遊んだり、同じグループを作ったりしなくてもいい。学級という同じ社会に暮らす人間として礼儀を尽くせ」という趣旨のことを言って聞かせていました。
 学級というところを、職場や隣近所に入れ替えれば、ほとんどの大人がそういう対応をしているはずです。ですから特別難しいことではないのです。ではどうして子供たちには難しいのかというと、大人はいくつもの生活の場をもっているのに対し、子供は学校が生活のすべてになってしまっているために、冷静に「儀礼的」に対応することができないのです。
 ですからいじめのパラドックスに陥らないためには、「嫌いなままで礼儀を尽くせ」という発想の転換と、学校以外に子供の場を広げてやることが必要なのです。後者は政治や社会全体の責任ですが、前者は教員が意識改革をすれば可能なことです。「誰もが仲良くなれる」という幻想を捨てて子供に向き合う教員が増えることを期待します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言われたことだけ

2012-10-29 07:47:43 | Weblog
「文化の衰退」10月23日
 盛岡大学教授の風丸良彦氏が、今週の書籍売り上げ状況を分析する中で『売れないものは売らない、になれば、わが国の出版文化が衰退するのは言うまでもない』と書かれていました。書籍が売れる売れないは、読者=消費者の判断ですが、それにすべてを委ねるのではなく、出版者としての責任を自覚し、目先の損得を度外視してもわが国の文化に必要な書籍の出版を続けるべきだと言っているのです。
 学校はどうなのでしょうか。地域住民や保護者・児童生徒が欲すること、あるいは住民らが望んでいると首長らが主張していることだけに取り組めばよいという傾向はないでしょうか。いじめ防止と起きてしまったときの対応、どちらの大切なことですし、原発について学んだり、自分の身は自分で守る安全教育も価値のあることです。しかし、そうした「教育課題」は、いずれも学校や教員が自らその必要性を感じて取り組んだというよりも、「外部」から求められて取り組みを強化したというものばかりです。
最も子供たちをよく知る者として、学校や教員が、学校教育に取り入れるべきものを提案するという行動があってもよいように思います。更に言えば、専門家としての見識もなしに言われたことに取り組むことに汲々となっていると思われること自体が、学校や教員に対する尊敬心を失わせている面があるように思うのです。
 もちろん、公立学校の教員は自分勝手に教育内容を決めることはできません。しかし、教員の研究団体や校長や副教頭で構成する団体が、「提言」を行うことはあってよいと思います。しかし、そうした話は聞いたことがありません。
 ちなみに私は2つのことを学校教育に導入すべきだと思っています。それは、戦争と宗教に関する教育です。戦争を悲惨なものとして嫌悪するだけではなく、戦争の原因や背景、戦闘の様子、戦争の歴史的経済的政治的影響を科学的に学ぶこと、主要な宗教について学び「宗教心」のもつ意義を考えさせることです。広い視野で提言する学校や教員の姿こそ、自覚ある専門家として尊敬を得る主要な方法の一つであると思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誇り-報われない思い

2012-10-28 07:53:20 | Weblog
「誇り」10月23日
 精神科医の香山リカ氏が、『「報われない」と思う前に』という標題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、パソコンの遠隔操作、iPS細胞臨床応用の虚偽発表などの事件の「犯人」について、『苦労して勉強した結果を、社会に役立つことではなく間違った方向に使おうとするのだろう』と問題提起し、その原因として「報われないという思い」を挙げています。
 その上で、『「報われない」と落ち込む前に、専門的な知識や技術を努力して身に付けた自分に誇りを感じてほしい』と述べていらっしゃいます。キーワードは「誇り」です。遠隔操作試験の「犯人」はまだ分からないのですが、虚偽発表の「犯人」をみていると、彼が欲していたのは、多くの人からの称賛だったように思えます。記者に囲まれ、たくさんのマイクを突きつけられ、フラッシュが焚かれるという状況の中で、彼は一瞬その快感に陶酔していたように見えました。
 彼を非難するのは簡単ですが、同じような思い、つまり承認欲求は、多くの人がもっているものです。私にもあります。そして多くの教員もそうした承認欲求をもっているはずです。教員として、教えることの専門家としての矜持をもっているのです。その思いを満たされるためには、給与や就業条件など、目に見えるものではなく、周囲の人たちが醸し出す「雰囲気」が必要なのです。
 しかし、教員を取り巻く「雰囲気」は、まったく逆に、教員のプライドを削り取るものになっています。モンスターペアレンツに苦しめられ、改革派の首長に非難され、「高い給料もらいやがって」「休みが多くていいよね」などと事実と異なる不用意な言葉にさらされているのです。でも実は、それ以上に「報われない」という思いを募らされるのは、教員の専門性を認めてもらえないことなのです。
 自分にも外科手術ぐらいできると思っている人はほとんどいないでしょう。一流シェフのように万人を唸らすような料理をつくることができると思っている人もいないでしょう。しかし、子供に勉強を教えることぐらいは自分にもできると思っている人はたくさんいるように思います。学生時代に家庭教師をしたことがあるだけの人が、その経験を基に「俺、子供教えるの以外と上手くてさぁ」などと言うのです。
 教員は、教えることの難しさをもっとアピールした方がよいのかもしれません。もっとも、10年以上教員をしながら、専門家としての自覚がないような教員も増えてきていますが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先進国の成功者の言葉

2012-10-27 07:35:00 | Weblog
「先進国の実態」10月22日
 韓国大統領選に立候補を表明している安哲秀氏を取り上げた記事が掲載されました。その中で安氏の次のような発言が紹介されていました。『「(雇用の際、企業は)英語が必要ない仕事にもTOEIC(英語能力試験)などを要求する。他の観点で判断しにくいから成績を要求し、悪循環を生んでいる。公共機関からでも改善していかねばならない」』。
 安氏は、韓国のビル・ゲイツと言われ、時代の最先端を切り開いてきた立志伝中の人物です。そして、韓国は我が国に比べて英語教育が強化されており、しばしば我が国の英語教育のモデルとして取り上げられることもある国です。そんな安氏ですから、英語力強化で国際ビジネス競争力を高めるという思想の持ち主かと思えば、まったく正反対の主張をしているのです。正直、驚きました。
 記事は、安氏の発言について、それ以上言及していないので、安氏の教育政策については分かりませんが、我が国の早期英語教育導入派の人々は、この発言をどのように受け止めたのでしょうか。社会の変化に背を向けた保守主義者ではなく、国際化、IT化が進むビジネス環境の中で成功を勝ち取ってきた人物の意見なのですから。
 私は、安氏が言うように、どんなに国際化が進んでも英語が必要でない職業はあると考えています。私のような考え方に立てば、英語教育は、選択制の下で強化充実が図られることが望ましいという結論になります。中学校卒業までに、日常生活に必要な意思疎通、買い物や道案内、病院での病状の伝達などができる程度を目標にし、高等学校からは英語で授業を行う学校やコースを設けるというイメージです。
 私が高等学校での英語選択制を提唱するのは、単に英語教育に限ったことではなく、国民として共通に求められる基礎的な知識や能力の定着を目指す義務教育と、個人の興味関心や個性・能力に応じて学ぶべき非義務教育の違いということを重視するからでもあります。安氏が、体系的な教育政策を打ち出すことを期待します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苦し紛れでなく

2012-10-26 07:57:58 | Weblog
「しのぎ、の発想」10月22日
 恵泉女学園大学教授の武田徹氏が、原発に対するメディア報道について、談話を寄せていらっしゃいました。その中で武田氏は、『以前にも増して脱原発を求めたくなるのは理解できるが、既に原発を織り込んで成立している立地地域の経済を軟着陸させる道を造らずには前に進めない。核を巡る日米や世界各国との関係も日本の原子力政策に影響しており、軌道修正しようにも時間が掛かる』と述べ、『今の日本社会は、すぐに白黒をつけたがる傾向が強まっている』と指摘した上で、『どう、しのいでいくか』という発想の必要性を主張していらっしゃいます。
 まったくその通りだと思います。元々、「しのぐ」という言葉のイメージは芳しいものではありません。長期的な見通しもなしに、その場しのぎで危機を先送りする姑息なやり方というイメージなのだと思います。それに比べて、「断固たる英断」への評価は高いのが庶民感情というものでしょう。
 しかし、曲がり角の時代こそ、「しのぐ」発想が大切だと思います。大きく右に動いた後は左に大きく揺れ戻しがある、というのが物事に推移の常です。我が国の学校教育の歴史もその原則に当てはまります。這い回る経験主義から系統主義へ、知識偏重からゆとりと充実に変わり今は学力向上へ、という具合です。
 また、教員の不祥事が続けば、企業並みのコンプライアンスをとなり、一方で教員のサラリーマン化が進んだとして昔の牧歌的な教員像が求められるという訳です。戦前の教育への反省から政治の教育への介入をタブーとした教委制度を創り上げたにもかかわらず、今は政治家である首長が教育行政を行うべきだという主張が支持されていますが、必ず揺り戻しがきます。
 ですから、今必要なのは、学校現場が抱える諸問題に対して、それぞれに知恵を絞りながら対応し、「世論」が落ち着き、ある方向に集約され固まってから、本格的な変革を構想するという方がよいのではないかと思います。苦し紛れの「しのぎ」ではなく、積極的な「しのぎ」が求められている時代だと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教員差別?感謝を忘れて

2012-10-25 07:41:14 | Weblog
「無意識のうちに」10月21日
 論説委員の落合博氏が、休日の部活動について、社説を書かれていました。内容は地域や企業の力を借りて部活の充実を図るという常識的なものでしたが、その中にひっかかる「表現」がありました。
 部活の現状を紹介する中で『顧問の先生が家庭の事情などで休日の指導ができない部もあった』という記述があったのです。揚げ足取りのようで恐縮なのですが、この記述には、落合氏の部活観が表れているように思います。それは、教員が休日に部活の指導にあたるのは当然、という考え方です。
 「指導ができない部もあった」というのは、指導が行われることが当然の前提としてあり、不測の事態として「指導ができない」ことがあるという認識を表していますし、「家庭の事情などで」というのは、家族の病気などやむを得ないとき以外には指導にあたるべきだという考え方をしているということです。
 落合氏のような考え方に立つと、顧問の教員が、「今度の土曜日には、EXILEのコンサートを聞きに行きたい」とか「今度の日曜日には、新しく買ったバイクで思いっきりぶっ飛ばしたい」というような理由で部活の指導をしない教員は、とんでもない存在ということになります。一日ノンビリとゴロゴロしたい、などというのも許されません。
 しかし、本来、休日というものは、何をしてもよい日であり、第三者に何かを強制されるのでは休日とはいえないのです。そして、公立学校の教員にも、法は適用され、週40時間労働の原則が適用されますし、時間外のサービス残業が望ましくないことも当然です。まさか、落合氏は、サービス残業肯定論者ではないでしょうし、毎日新聞がそうした立場をとっているはずもありません。
 それにもかかわらず、教員は休日の自分の時間を潰して奉仕するのが当然という潜在意識があるとすれば、それは、無意識の差別とでも呼ぶことができるものです。「顧問の先生が家庭の事情などで休日の指導ができない部もあった」ではなく、「顧問の先生の好意で休日にまで指導をしてもらっている部が多い」という表現こそが正しいのです。教員への感謝を忘れた部活論議は間違いなのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多くの保護者に選ばれたくて-謝罪会見

2012-10-24 07:44:27 | Weblog
「巧言令色少なし仁」10月20日
 テレビ報道記者の金平茂紀氏が、『iPS「臨床応用」誤報』という標題のコラムを書かれていました。その中で金平氏は、『文部科学省の科学研究費取得のためにどんな申請が提出されていたかを同省のホームページでみるといい。プレゼン力なるものが前面に出た文書は、まるで商品広告のようだ~(中略)~学問研究の府に企業経営的な効率主義・成果主義を持ち込むことで、むしろ負の効果を生み出している』と書かれています。
 私が教委に勤務していたときのことを思い出しました。学校選択制を導入する自治体が増えだしたころでした。私も、選ばれる学校が良い学校という考え方を推進する側の立場でした。学校の実力を分かりやすくアピールすることを求め、その手段として学校のホームページを重視しました。目を惹くレイアウトや構成、分かりやすい数値化、他校との差別化などの「コツ」を伝達し、作成や更新が遅れがちの学校には「指導」を行いました。
 そこでは、学校の実力、すなわち教員の授業力や組織としての生活指導力などの向上よりも、金平氏が言うところのプレゼン力の充実に力が注がれるという「本末転倒」が日常的になっていました。
 そもそも、公立学校、しかも全国的に統一された水準が求められる義務教育において、差別化が良いことなのかという根本的な議論も疎かにされたままでした。また、校長や副校長、指導主事や室長、教育長といった長年教育に携わってきた人たちが、保護者や市民が望むから、と言うことを唯一無二の基準に学校のあり方を考えてしまうという過ちも犯してしまいました。一例をあげるならば、小学校における英語教育の導入という教育課題について、市民の○%が望んでいるから、隣の市ではまだ導入していないから一刻も早く、というような発想だったのです。
 今回の「iPS「臨床応用」誤報」事件とは異なりますが、金平氏の言う「効率主義・成果主義」的な発想が、その背景にあるように思います。どんなことでも成果を数値化できる、誰にでも分かるように表すことができるという考え方があることは共通ですし、成果は出せなかったが取り組んだ過程に意味があったという考え方の否定も共通するように思います。
 学校が、様々な指標をねつ造し、校長が「良い学校と思われたかった。多くの保護者に選ばれたかった」などと謝罪会見をするような事態だけは避けたいものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大混乱

2012-10-23 07:30:59 | Weblog
「大混乱」10月19日
 放送作家の山名宏和氏が、『スタッフ交代』という標題でコラムを書かれていました。その中で山名氏は、『時々、交代した首脳スタッフが前任者のやり方をことごとく否定することがあるが、これが頭のいいやり方ではない~(中略)~過去に対する冷静な分析もなく、やみくもに否定して、新しく変えていこう~(中略)~僕が知る限りでは、このやり方で成功した例はない』と書かれています。
 その一方で、『理想的な首脳スタッフの交代は、これまでの番組内容や作り方を十分理解し、生かすべきところは生かしながら、新しい要素を入れていくことだ』とも書かれています。山名氏の指摘の中に、組織やシステムの「改善」の極意が秘められているように思います。
 継続性が重視されるべき学校教育の「改善」も同様です。しかし、現実には性急に「改革」が進められようとしています。それは、今まで教育行政に携わってきた人や学校管理職経験者を除外して外部の人材を活用し、教委を廃止して地域住民の代表に運営を委ねるという形になっています。校長公募制もCSもそれが主権者たる国民の選択であるというのなら仕方がありません。しかし、その場合でも、継続性を重視し、戦後の学校教育に果たしてきた教委制度の良さを学ぶという姿勢なしでは失敗に終わると思います。
 問題点を解決するやり方には、改善・改革・革命の3種類があります。「革命」を標榜するのであれば、それまでの仕組みを学ぶ必要はありません。しかし、国民が望んでいるのは「改善」なのではないでしょうか。
 我が国の国民性の特徴は、「雪崩を打つ」ということです。何かのきっかけで、それまでとは異なる方向に一斉に動き出す性質をもっています。戦中の「鬼畜米英」から民主主義への移行など、その性質がよい方に働いた事例です。歴史的にみて「鬼畜米英」は明らかな間違いでしたが、現在の我が国の学校教育に対して「明らかな間違い」と断定してはいけないと思います。大混乱の中で、それまでもっていた「良さ」まで失い、元も子もなくしてしまう結果になってしまうことを危惧します。まず、現在の教委制度の基づく学校教育について、その歴史的意義から十分に理解を深めてほしいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

盗人にも三分の理

2012-10-22 07:33:51 | Weblog
「公平?」10月17日
 『調査対策委に生徒遺族参加 品川いじめ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『区立中1年の男子生徒(12)が自殺した問題で、原因究明のために設置された調査対策委員会のメンバーに生徒の遺族が入っている』ということです。この件について教育長は『ご遺族とその推薦する学識経験者を加えることでより客観性、透明性を担保した』と語っています。
 本当にそうなのでしょうか。遺族とは事件に関する最大の利害関係者です。その遺族が参加することが「客観性」の担保につながるという発想が理解できません。殺人事件の裁判に遺族が裁判官として参加するようなものです。むしろ、「客観性」を犠牲にしてもご遺族の思いに応えた対応という方が的確であるように思います。
 また、「透明性」についての考え方にも疑問があります。そもそも透明性とは、国民の税金で営まれる学校教育の場合、一般の市民全体に対する情報公開を意味するはずです。それは、調査対策委員会を外部委員で構成し、会議録を録音し、それを基に個人情報保護等に配慮して文字化し、インターネット等で閲覧可能にすればよいだけの話です。当事者の参加がなければ担保できないものではありませんし、逆に当事者が参加していれば、自動的に担保されるというものでもありません。
 「盗人にも三分の理」という諺があります。いじめは憎むべき行為ですが、本当に公平を期すのであれば、遺族とともに加害生徒の家族も参加させるべきです。そんなことは不可能なので、両者を除き、直接は利害関係のない第三者で調査対策委員会を構成するのが一般的で、今までとられてきた方法なのです。私が加害生徒の保護者であれば、被害者側の見解を重用した調査結果は受け入れられないと主張するでしょう。かえって混乱を招いてしまうのではないでしょうか。
 学校選択制、小中一貫校の設置など、地方版教育改革の先頭を走ってきた品川区ですが、今回の措置は、マスコミ受けをねらったスタンドプレーのような印象を受けます。今回の事例が先例となり、今後、こうしたやり方が主流となることを危惧します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする