ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「そうそう」もあれば「えっ?」もある

2021-12-31 08:12:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そうそう!とえっ?」12月26日
 日本総合研究所主席研究員藻谷浩介氏が、『共感性の欠如と他責と 無差別殺傷事件』という表題でコラムを書かれていました。藻谷氏は、我が国の学校教育について触れられていますが、その中には、「そうそうよく言ってくれた」と感じるものと「えっ、それは違うんじゃない」と思うものがありました。
 まず、『生徒を相対評価で輪切りにして、受験という個人戦に向かわせる日本の学校教育に、共感性の涵養を期待するのは無理筋』という指摘です。期待するしないは個人の考え方ですから、ここでは触れません。問題なのは、生徒、相対評価で輪切り、受験という個人戦に向かわせる、の3点の事実認識です。
 まず、生徒と書かれているということは、児童、つまり小学校は除いて考えているということなのか、という疑問です。私は複数の区市の教委に勤務してきました。区市の教委は小中学校を所管します。多くの小中学校を訪問し、授業を見、生徒指導の厳しい現場にも立ち会い、管理職を含む教員と接してきました。もちろん、校種による違いはありますが、共感性の涵養という面において、大きな断絶があるとは感じませんでした。藻谷氏には、何かデータがおありなのでしょうか。
 次に、相対評価で輪切り、についてです。確かに、かつては通知表の各教科の欄が相対評価で輪切りにされていました。しかし、絶対評価に転換する改革が進められ、少なくとも「改善」が行われてきているのです。もちろん十分ではありません。もし、「輪切り」と共感性の欠如に因果関係があるのであれば、事態は少しずつ改善されてきているはずですが、藻谷氏は、悪化しておりその果てに今回の大坂での無差別殺傷事件があると考えているようです。矛盾ではないでしょうか。
 さらに、受験という個人戦、についても、近年、子供の数の減少により、受験は広き門となっています。この傾向はここ十数年変わりません。もちろん、一部の名門校を目指す子供とその家庭は、厳しい受験準備に追われていますが、それはごく一部です。ここでも、藻谷氏の指摘に従えば、個人戦の厳しさが緩むにつれ、共感性の涵養も進んでいなければならないはずです。やはり矛盾を感じます。
 最後に、藻谷氏のご意見共感した点について、です。『公教育は普通の人たちをこそ幸せにすべきなのである』という考え方には大賛成です。エリートの育成を否定はしません。ある種の国家戦略としては必要なのかもしれません。しかしそうであれば、そのための機関やコースを設定すればよいだけの話です。多くの凡人にために、公教育を設計し運営することこそ、民主主義を支える良き市民社会の形成者を育てるために必要だと思います。

 

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まさか予算をつけてない?

2021-12-30 08:25:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「理解とは?」12月25日
 『教員働き方改革停滞 文科省調査 担い手確保に苦労』という見出しの記事が掲載されました。『中央教育審議会は2019年、登下校時の対応など四つの業務を「基本的に学校以外が担うべきだ」と答申したが、切り離しは思うように進んでいない』という文科省の調査結果を報じる記事です。ちなみに、4業務とは『①登下校に関する対応②放課後から夜間の見回り、児童・生徒が補導されたときの対応③地域ボランティアとの連絡調整④給食費などの学校徴収金の徴収・管理』です。
 記事の中に、よく分からない記述がありました。『文科省は、業務の切り離しが進まない理由について「学校以外の担い手を探す場合、保護者や地域の理解を得るのに苦労しているのではないか」と分析』という記述です。
  保護者や地域の理解とは、何を指しているのでしょうか。私は最初、担い手を保護者や地域住民の中から探そうとしていて、この取り組みに対する賛意や共感が得られないため人が集まらない、という意味かと思いました。でもすぐに、それはおかしいと気付きました。文科省の施策なのですから、当然予算化されているはずです。十分な予算があれば、企業やNPOなどに委託すればそれで済む話です。
 次に、学校以外に委ねることについて、保護者や住民が反対しているということなのかと考えました。子供が補導されたとき、子供の日常をよく知らない外部の人間が警察等に対応するのでは子供に不利になるという懸念などから、やはり教員に対応してほしい、と考える保護者が多い、というようなケースです。しかし、③も④も30%台という低率であることを考えると、それも少し的外れな気がします。給食費の徴収をぜひ教員に、と考える保護者が6割以上もいるとは考えにくいですから。
 そもそも、4業務自体にも疑問があります。例えば、ボランティアとの連絡調整という業務を担っている教員が全体のどれくらいの割合で存在しているのでしょうか。多くの学校では、副校長がその仕事をしているのではないでしょうか。一般の教員の働き方改革=負担軽減に結びついていくのでしょうか。
 昔に比べて、教員の負担が増している最大の理由は、一言で言えば多様化への対応です。障害のある子供、日本語を母語としない子供への対応、医療ケアが必要な子供への対応、異なる宗教・文化的背景をもつ子供への対応など、従来の枠組みの中では対応が難しい状況をいかに改善していくか、これこそが負担軽減への本道だと思います。

 

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危機感を持つべきなのは

2021-12-29 08:31:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校に危機感が?」12月25日
 『途切れた運動習慣』という見出しの記事が掲載されました。『運動時間が減る一方、スマートフォンなどの視聴時間は増え、体力は大きく低下-。2021年度の「全国体力テスト」で新型コロナウイルス禍による子どもへの影響が浮き彫りとなった』ことを報じる記事です。
 記事では、『学校現場には危機感が広がる』とし、小中学校の教員や校長の声を紹介していました。読んでいてとても不思議に思いました。記事には、『外出自粛期間が長引き放課後の外遊びも減った(略)テレビやスマホ、ゲーム機などの映像を2時間以上視聴する割合が前回よりも増えた』と書かれているのです。
 スマホを買い与えたのは保護者でしょう。ゲーム機もそうです。テレビを見るのは家庭においてであり、学校で見ているのではありません。ゲーム機で遊ぶのも、スマホを見続けているのも、家庭において、です。
 一方で、学校では体育の授業を減らしているわけではありません。コロナ禍でも、授業ができるよう工夫を重ねているのです。そうした様子は、メディアでも報じられてきました。M紙も同様です。
 そうであれば、本来危機感をもつべきは家庭であり、対策が求められるのも保護者の側なのではないでしょうか。スマホの使い方を話し合う、ゲーム機の使用時間を制限する、放課後の運動機会を増やすために地域で知恵を出し合う、などの取り組みを進めるべきであり、記事は、家庭や地域社会の危機感のなさを指摘し、より大きな努力を促す内容になるというのが当然だと感じたのです。
 しかし、実際には「学校現場の危機感」であり、保護者の声は一文字も触れられていないのです。この記事を書いた記者にそんなつもりはなかったと思いますが、私はこの記事は、子供に関することは何でも学校に責任があり解決策も学校が打ち出すべき、という我が国の体質が象徴的に表れたものだと受け止めました。
 言うまでもなく、教育は、家庭・地域・学校がそれぞれの教育機能を発揮し、相互補完的に行われるべきものです。ある課題が明らかになったとき、その解決の責任を学校にのみ押し付けるのではなく、そのために家庭は、地域は、と問いかける姿勢が大切です。

 

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非属人化

2021-12-28 08:09:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「共有化の限界」12月23日
 『コロナ禍の在宅勤務 増えた時間外連絡 守りたい「つながらない権利」』という見出しの特集記事が掲載されました。記事は、『海外で先行事例がある。フランスは17年、従業員50人以上の会社を対象に、勤務時間外のメールの扱いなど、つながらない権利の在り方を労使で協議するよう義務付けた。イタリアでも同様に法制化されている』としていますが、同時に我が国では進んでいないと述べています。
 コロナ禍以前から、教員にとっては、この「つながらない権利」は、大きな問題でした。休日でも、夜間でも、子供や保護者から連絡や相談の電話がかかってくる、それに丁寧に対応しなければ、すぐに「冷たい」「やる気がない」「子供のことを考えていない」「教育者失格」などの烙印を押されかねない状況だったのです。私自身、単に連絡や相談を受けるだけでなく、夜中に出向くことさえありました。休日に出先から緊急で戻ったこともあります。また、相談とは言いながら、夫婦間の愚痴を延々と聞かされたこともありました。
 記事では、「つながらない権利」確保のために重要なことは、『働き方を変える』ことであり、『ネックになっているのは「仕事の属人化」』であると指摘されています。属人化とは、『特定の社員が担当している業務の詳細内容や進め方が、当人以外では分からなくなっている』状態のことで、『仕事が属人化すると、担当者がいなければ業務が回らなくなり、上司や同僚たちは担当者が休みだったり、退勤した後だったりしても、問い合わせの電話やメールをする』ことになってしまうというのです。
 その通りでしょう。しかし、教員の仕事は、属人化を避けることはできないのです。担任の教員は、毎日学校で5時間程度、30人の子供たちと過ごします。そこでは、子供との会話だけでなく、子供同士の会話、個々の表情、誰と一緒にいるか、何をしているか、数えきれない情報が集積されます。そしてそれらを統合して一人一人の子供についての頭の中にあるデータバンクを更新し続けていくのです。その全てを文章化して毎日記録に残しておくことなど、出来るわけがありません。
 いじめ対応などでは、教員間の情報の共有化が大切だと言われますが、それは特別な状況においてなされることであり、同じ学年の教員だけに限っても、それぞれの学級の30人について、情報交換することなど不可能なのです。
 そうした状況下で何かが起きる、そのときその子供の担任の教員が休暇を取っていたからといって、隣の学級の担任が対応しようとすれば、保護者や警察や児童相談所、教委などに事情聴取されても、通り一遍の表面的なことしか答えることはできません。「いつも通り、友達とも話をしていたそうです」などという何の役にも立たない情報を伝えることしかできません。
 そしてそんな対応では、学校は子供一人一人を見守ることができていない、子供理解が不十分と非難されてしまうのです。そうした非難を避けるためには、常に担任が対応するという「属人化」しかないのです。
 私が教員であった頃とは違い、今ではスマホ等でより「つながる」ことが容易になっています。教委や文科省は、教員の「つながらない権利」確立に向けて知恵を絞らなければなりません。

 

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本と源

2021-12-27 08:27:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「本と源」12月23日
 時論フォーラム欄では、法政大教授田中研之輔氏が、『予測困難な時代の企業』という表題でコラムを書かれていました。その中に、考えさせられる記述がありました。田中氏は、『押さえるべきポイントは、人的資源と人的資本の違いだ』と書かれています。
 そして、『資源とは、今ある状態や今の価値を把握するときに用いられる(略)つまり、現在の価値をどう効果的に利用していくのかに重きが置かれている。それに対して(略)資本としているのは、人材が知識や技能をアップデートし続ける、つまり、投資としてリターンを生み出す対象であると捉えられている点にある』と述べていらっしゃるのです。
 ある人を現在も将来も変わることのない一定の職務上の能力を持ち続ける存在と考えるのが人的資源、様々な経験や研修、学習を積み重ねることで職務上の能力が向上(怠れば低下)していく存在と考えるのが人的資本、ということです。
 「投資としてリターン~」というのは、企業が社員を資本とみなし、人事異動等による経験の積み重ね、研修機会の提供、自主的な学びの支援に時間と労力と資金を投入、つまり投資していくことによって、人的「資本」が拡大・充実し、企業の業績を向上させることになる、という考え方なのです。
 考えてみれば、わざわざ言うまでもなく当たり前の話です。しかし、とても重要な指摘だとも考えます。近年、着実な投資よりも短期的にハイリターンが期待できる投機に対する関心が高まってきているように思えます。こうした短期決算型の発想は、経営全般にも及んでいるのではないでしょうか。
 学校も同じです。学校における最大の財は、教員です。施設設備をいくら整えても、能力の低い教員しかいなければ、充実した教育活動は期待できません。しかし、長期的な投資、つまり教員に対して、OJTによる多様な経験、計画的な研修や自主的な学習の機会を提供することによって、教員の資質向上を意図するのではなく、今現在能力のある教員を集めて教育活動をグレードアップさせようと考える校長が増えているのです。
 背景には、学校評価、学校選択制などによって、短期間に成果を目に見える形で示すことが求められる現状があると思われます。校長は5~6年で他校に異動していくわけですから、悠長に教員の成長をまってなどいられないという気分にさせられてしまうわけです。
 しかし、こうしたやり方は、ある一校だけを見たときには有効かもしれませんが、都道府県全体の学校教育を見渡したとき、少ない「資源」を奪い合いしているだけで、一部の勝ち組を除けば、全体としては教育力の低下を招いてしまう、「資本」の枯渇化を進めてしまう愚挙なのです。
 教員は教育資本です。教育行政は、投資を惜しまない姿勢をもつべきです。

 

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詳細が見えてこない

2021-12-26 08:31:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「見えてこない」12月22日
 『教職員処分200人』という見出しの記事が掲載されました。『2020年度にわいせつ行為やセクハラで懲戒処分や訓告を受けた公立の学校や幼稚園の教職員が200人に上ることが21日、文部科学省の調査で判明した』ことを報じる記事です。その中に気になる記述がありました。
 『被害のうち103件については、被害者本人や保護者、教育委員会などが刑事告発したか、捜査機関が情報を把握。この他は「本人や保護者が希望せずに告発しなかった」(39件)、「犯罪に当たらないと判断した」(30件)、「告発するかしないか判断しなかった」など(28件だった)。文科省は、学校現場に対し被害の告発(略)を進めたいとしている』という記述です。
 文科省は、告発することがわいせつ行為等の防止につながると考えている、しかし、告発されない事例がある、だから学校現場に告発するよう促す方針だ、という論理構成です。私もこの考え方には賛成です。ただ、その場合、いくつか不明な点が出てきます。まず、「本人や保護者が希望せずに告発しなかった」というケースについて、どのように捉えているのかということです。
 被害を受けた子供が憤り訴えると言っているのに保護者が世間体を気にして告発しない方がよいと子供を説得しているのか、保護者が訴えようとしているのに子供が学校内での噂や友人の目を気にして告発したくないと言っているのか、その分類・分析はできているのでしょうか。どういうケースかによって対応の仕方は異なってきます。
 また、「犯罪に当たらないと判断した」というケースですが、誰が判断したのでしょうか。本人が、保護者が、あるいは学校なのか教委なのか、主語が省かれています。上記に抜粋した記事の後段では、学校現場に対しという文言が出てきます。ここから推察すると、本人や保護者の意向に背いても学校は告発すべきと言っているようにも受け取れます。もちろん、十分説得に努めた上で、という前提条件が付いているのでしょうが、本人や保護者の意に沿わない告発もあり得るという立場なのでしょうか。それはそれで物議を醸すと思いますが。
 さらに、教育行政の末端で諸問題の処理に当たってきた者として、学校が教委の指示や指導無しに告発するということはあり得ないと考えます。教委に促すのではなく、学校現場に対しとした背景は何なのでしょうか。教委は隠蔽したがるとでも考えているのでしょうか。そうだとしたら間違った認識だと思います。
 最後に、「告発するかしないか判断しなかった」というケースについてです。この場合も、誰が「判断しない」という判断をしたのかが重要です。行政上の処分が行われているのですから、悪いことをしたという事実認識はあるわけです。それにも関わらず、告発ということが関係者の誰からも口にされなかったということは考えにくいです。この部分も主語が抜けた記述となっています。
 さらにまさかとは思いますが、告発しないという判断、判断しないという判断の背景に、被害者側にも落ち度があった(例:好意があると誤解させるような言動があった)とか、今まで熱心な良い教員であったとかいうような余計な配慮があったか否か、という点もきちんと検証しておく必要があります。
 最近はかなり変わってきてはいますが、まだまだ我が国では、性被害の問題を公にすることについては様々な考え方が混在しています。細かいことに拘っているようですが、関係者の中で誰が言っているのか、ということは軽視できないデリケートな問題だということを忘れてはなりません。

 

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外部>内部

2021-12-25 07:56:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「外部礼賛」12月21日
 『私学のガバナンス 自浄能力を高める改革に』と題された社説が掲載されました。『私立大で不祥事が相次いでいることを受け、文部科学省の有識者会議が学校法人のガバナンス(組織統治)を強化する改革案をまとめた』ことに関するものです。
 その改革案の骨子は、『最高議決機関を理事会から評議員会に変更し、評議員を全員、学外者とする』ことです。私は大学教育には全くの無知なので、この改革案について、その是非を論じることはできません。ただ、近年の風潮、「外部礼賛」とでもいうべき考え方に疑問を感じるのです。
 企業における外部役員の登用、行政における第三者委員会、透明性を高め、内部のなれ合いを排し、チェック機能を働かせるという狙いは理解できますし、必要なことだと思います。しかし、その組織について、あるいは組織の構成員について、理解の浅い人たちが過剰に介入することは、決してプラスではありません。
 では、過剰か適正かの境界線はどこにあるのかと言えば、それはチェック・監査機能を担うのか、執行機能を担うのかという点にあると考えます。今回の有識者会議の案に反発する声が多いのも、人事や経営方針決定などの権限を外部の人間で構成する評議員会に与えるとしたことに原因があると考えることができます。
 人は自分がやることを他人に指図されず自分で決定することができるとき、意欲が高まり能力を発揮することができると言われます。私が教員時代に授業を考える際にも、如何に子供がやりたいと思ったことをやらせることができるかという点に重点を置いてきました。その点では、子供も大人も変わりません。
 そして「人」の集合体である組織もまた同じなのではないでしょうか。自分たちの組織が目指すもの、進むべき道、構成員が達成すべき目標、そうしたものを自分たちで決めているという実感をもてたとき、人は意欲的になり、そうした意欲の総和として、組織は活性化すると考えます。
 しかし、実際はそう理想的に物事は進みません。そこで次善の策として登場するのが、自分たちをよく知る存在が、自分たちの考えを汲み取って目標や方針を決め、自分たちの努力や能力を正当に評価してくれると期待できる体制です。多くの私立大が、こうした状況にあるのではないかと思います。それにも関わらず、評議員会という、自分たちのことも知らず正当な評価も期待できない存在が、決定機関となり運営に大きな影響力を行使する体制が作られようとしているのですから、不満と不安を抱くのは当然です。
 このことは私立大にとどまりません。公立小中学校においても、学校運営協議会という形で、外部の関りが強化されてきています。ここでも適性と過剰のバランスが考えられていかなければならないと考えます。

 

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条件が違うのに

2021-12-24 08:24:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「前提条件の違い」12月20日
 連載企画『学校選択制のいま 23区の現場から』の第3回は、『教師ら疑問の声根強く』という見出しで、格差問題に焦点を当てていました。記事の冒頭部分に、『学校の努力とは無関係の理由で選ばれている』という校長の声が紹介されていました。その後、さまざまな声が紹介されていくのですが、冒頭の校長の指摘についての掘り下げはありませんでした。残念です。
 学校選択制は、競争原理によって学校の活性化を果たすという狙いで構想されたものです。それは、企業間競争をモデルにしています。企業は、市場調査を行い、出店計画を立て、必要な人材を募集し、消費者に合わせた商品を仕入れ販売します。そこには、企業に自由があることが前提となっています。企業が、全てを選べるのです。
 一方学校はと言うと、子供が集まりそうな場所を選んで設立することなどできません。子供や保護者が望んでいる教育内容を調べ、それに合わせて教育内容を決めることもできません。学習指導要領があるからです。こうした能力を備えた教員を集めたいと思ってもできません。教委が人事権を握っていて、決められた人材を送り込んでくるからです。指導室や指導課の権限です。
 しかし、指導室や指導課も、都道府県教委からあてがわれた人員を配分するだけの権限しかありません。また、問題のある教員をクビにしたり、強制的に異動させることもできません。教員に懲戒処分を与える権限は、都道府県教委にしかないのです。
 目指す教育活動に必要な教育機器を購入したり、施設を改修したりすることもできません。これも教委が決めるからです。庶務課の仕事です。ちなみに、庶務課には教員経験者はおらず、授業や教育活動のことについては素人です。
 近年、東京都23区で大きな経済格差があることを指摘する本が話題になりました。その本によれば、港区と足立区とでは、区民の平均所得二倍以上の差があるというのです。同じ都内でも差があるように、同じ区内でも、地域によって経済格差、家庭の教育に対する意識や能力の格差があるのです。そして、この地域は家庭環境から低学力の子供の割合が高いから撤退しよう、というわけにはいかず、困難校で悪戦苦闘を強いられるのです。
 こうした状況に不満があるわけではありません。公教育とは、義務教育とはそうしたものだからです。そもそも企業とは全く異なる理念で作られたシステムなのです。それなのに、企業をモデルに安易に競争原理、市場原理を導入すればよいとした発想にこそ、問題があるのです。
 その点を分析せずに、学校選択制についての検討を行っても意味はありません。

 

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禁止歌

2021-12-23 08:50:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そこまで」12月19日
 連載企画『池上彰のこれ聞いていいですか?』、今回はシンガーソングライターさだまさし氏へのインタビューでした。その中でさだ氏は、『「関白宣言」の歌い出しは、♪お前を嫁に-。しかし現代は、お前が駄目、嫁が駄目。言葉狩りの時代に入って来ました。東京のコンサートでは、歌う前に「現代では差別的な表現を含んでおりますが、オリジナルを尊重するために原曲通りお届けします」と断りました』と語っていらっしゃいました。
 また、『日本語のふくよかな部分、奥行きの部分までをもシャットアウトしているかのようです。平べったい日本語を使わないと、そこら中を敵に回してしまう恐怖心があります。表現はどこまで制限されてしまうのか、という恐れです』ともおっしゃっています。
 私は教委勤務時には、人権尊重教育を担当している時期が長かったせいもあり、いわゆる差別表現というものに敏感でした。今もその傾向があると自覚しています。しかし、「関白宣言」の歌詞が問題になるという認識はありませんでした。でも改めて指摘されれば、確かに「お前」も「嫁」も問題ありです。
 他には?と考えてみました。新沼謙治さんの「嫁に来ないか」、タイトルからしてアウトです。小柳ルミ子さんの「瀬戸の花嫁」も同じです。川中美幸さんの二輪草は「あなた、お前、呼んで呼ばれて~」です。これもダメですが、演歌には「お前」が頻繁に登場します。現在でも、です。
 湯原昌幸さんの歌の歌詞には「今日まで私は奥さんで、明日から名前で呼ばれるの~」というフレーズがありました。奥さんと呼ばれる日々に幸せを感じていた女性が、男性との別れを迎える状況を描いたものです。
  今の若者はこの歌詞をどう解釈するのでしょうか。奥さんなんて封建的な呼ばれ方は我慢ならない、一人の自立した人間としてきちんと名前で呼ばれたいという願いが叶って嬉しい、などと解釈するのではないかと心配してしまいます。
 学校でも、差別表現に敏感になってきています。しかし、歌詞についてまで配慮がなされているかというと、そうでもありません。そもそも、そうした配慮が必要なのかも、疑問に感じます。紀行文や日記文であれば、お前→あなた、嫁→配偶者というような書き換えも可能ですが、「関白宣言」を「あなたを配偶者に迎える前に~」としたのでは、歌として成立しないでしょう。
 今後、国際化がさらに進めば、言葉のニュアンスを正確に理解しないまま、外国語の歌詞の中にある差別表現をそのまま歌い顰蹙を買うなどという場面も出てくるかもしれません。
 歌詞と差別表現の問題、音楽家の教員はどう考えているのでしょうか。

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ムード派

2021-12-22 08:25:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「やれやれ」12月18日
 書評欄の『なつかしい一冊』のコーナーで、ライター武田砂鉄氏が、『「大人問題」五味太郎著』について書かれていました。その中に、『教育について、「そもそも『わかった』人間が『わからない』人間に教えていくという今の教育の構造が、全部まちがっているんだと思います」』という記述がありました。
 また、『みんながしていることをしたい、とにかく普通でいたい、と考える人が多すぎる。それを五味太郎は「平均地獄」と称している。地獄から抜け出そうともせずに、むしろ、子どもたちを地獄に招いている』という記述もありました。さらに、『ある文章の感想を五十字以内で述べなさい、という問いかけに、「べつに。」と答えた子どもがいたそれを知り、「しみじみします。まったく同感です」』という記述もあったのです。
 他にも気になる記述がたくさんあったのですが、キリがないのでこれくらいにしておきます。上記の内容については、何となく言いたいことの雰囲気は分かります。多くの人もそうだと推察します。そして、たしかにその通りという思いを抱かないわけでもありません。それでもなお、こうした言説にはうんざりします。
 それは否定ばかりで、具体的な方向性なり、提言なりに結びつかないものだからです。単に無意味というのであれば、苦笑して読み飛ばしておけば済むのですが、ある程度の共感を感じる内容であるだけに無視できないのです。つまり、実際の学校教育や教員に対して否定的な感情だけを募らせるという悪い効果があるということです。
 授業中に感想を求めたとき、「べつに」という回答に直面して、しみじみと頷いているだけで授業が成り立つでしょうか。ある子供の「べつに」が肯定的に捉えられたと認識されれば、次に問われた子供も、その次の子供も、「べつに」と答えるでしょう。そんなとき、「べつに、ではなくもっとほかのことを言いなさい」とは言えません。子供たちは、Aさんのときは良かったのにそれは差別だ、と騒ぎ出すでしょう。
 いや、そもそも子供が「べつに」と答えたくなるような質問をする教員が力不足なのだという意見もあるでしょうし、そんな授業計画自体が問題だと考える人もいるかもしれません。退屈で平凡な授業だと言われればその通りかもしれません。しかし、年間1000時間もの授業全てが、知的興奮に満ちているべきだというのであれば、それは非現実的な妄想に過ぎません。そんな超人教員は一人もいません。
  何かもっともらしいことをもったいぶった言い方で表現し、実際の改革には役に立たない発言は、いい加減にしてほしいものです。

 

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