ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

説明してほしい

2013-12-31 07:24:27 | Weblog
「正解なし、の意味」12月23日
 『美術系大学、連絡協議会設立』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『昨年度から実施された中学の学習指導要領では、生徒が美術や音楽から好きな教科を選ぶ「選択教科」を廃止した。連絡協議会は創造力と表現力の育成が軽視されているとの危機感を共有。共同で小中高校の美術教育を支援し、政策提言もする』のだそうです。
 私は、記事の中の『社会で早く答えを出すことが重視されているが、豊かな人間性を育むため、正解のない造形などに挑戦することが必要だ』という記述が気になりました。同会の設立趣旨には賛成です。しかし、私には、美術教育側にも反省すべき点があると考えています。それは、美術教育の価値を分かりやすく説明してきたのか、ということです。
 例えば「正解のない」のが造形活動であるというのであれば、評定はどのように行われるのでしょうか。造形活動に評定はふさわしくないというのかもしれませんが、実際に評定はなされています。教員の好みによって評定が異なるのではないかという門外漢の疑問について、きちんと答えてきたとは思えないのです。
 「創造力や表現力の育成」というとき、その道筋や過程が明確に示されているのでしょうか。例えば、体力の向上というとき、素人でもトレーニングによって筋力がアップしたり、持久力が高まったりすることがイメージできます。では、創造力を高める指導というイメージを持つことができている保護者や生徒がどれくらいいるでしょうか。
 また、このことと関連して、技術と創造力や表現力の関係についても、専門家内でいくつもの立場があり、混乱しているように見えます。技術指導をせず、好きに描きなさい、思ったことをそのまま紙にぶつけなさい、というような指導をしている教員がいるからです。同じように表現力の育成を掲げていても音楽や国語では、具体的な技術指導が存在するように思えるだけに、美術教育だけが目立ってしまうのです。
 私には、美術を専攻し美術教育に携わってきた複数の知人がいます。彼らは皆素晴らしい実践家です。しかし一方で、彼らの口から語られる美術教育は、私の感性では理解しきれないものでした。今まで述べてきたことが私という美術オンチだけの感想であればよいのですが。同連絡協議会の成功を願っています。

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多様性への誤解

2013-12-30 07:36:21 | Weblog
「学校と多様性」12月23日
 論説委員の落合博氏が、『恩恵が知られていない』という表題でコラムを書かれていました。全国体力テストで中学女子の運動離れが指摘されたことを受けて書かれたコラムの中で落合氏は、部活について触れ、『運動部活動は参加をためらわせるような環境になっている。試合での結果を求め、週末も練習に明け暮れる運動部が少なくない。~(中略)~週1日でもOKという「緩い部活」を提案したい。多様な参加形態を認めることは男子の参加拡大にもつながるだろう』と述べていらっしゃいます。
 落合氏の指摘通り、「厳しすぎる部活」があります。私はそんな状況は望ましくないと考えています。そして、「緩く」すれば、男女ともに参加率は高まると思います。では、落合氏の提案に賛成かといえば、そうではありません。
 キーワードは多様性です。我が国における義務教育は、画一性を基本原理にしています。近年、特色ある教育活動の導入が提唱されるようになりましたが、それはあくまでも補助的原理にすぎません。さらに多くの人が誤解していますが、「特色ある教育活動」が意味するのは、A校とB校がえぞれの地域や歴史という「個性」を生かした教育活動を学校単位で行うということであり、学校の中で一人一人の生徒が多様な選択をするといういみではありません。
 具体的にいえば、A校では環境教育に力を注ぎ地域の川で水質汚染の調査をしたり、空き缶リサイクル活動を行うのに対し、B校では国際理解教育に重点を置き外国人学校との交流活動や姉妹都市の学校とのインターネット交流を行うというようなイメージです。
 部活もやはり「画一化」原理の下で営まれています。週1日おつき合いで参加しタラタラと雑談しながら活動する生徒、週2~3日塾等の日程に合わせて不定期に参加し、学校生活の記念に試合にも出てみたいねという生徒、週末も休日も練習し県大会出場を目指す生徒、さらに部活での実績を元に有名校の推薦を確保したいというレベルの生徒など、の要望すべてに応えるような体制にはないのです。女子に人気の出てきたサッカーを例に考えてみても、上記の4者が同じ場所で同じ時間に練習し共に満足感を得るということはあり得ないということは誰にでも分かることです。それぞれに応じた指導者を確保するのも難事です。
 近隣校での分担など、地域によっては工夫の余地は皆無ではありませんが、そんな木に竹を接ぐような無理を重ねるよりも、従来の部活を廃止し、地域に様々なレベルの競技クラブを設置する方が、長い目で見たときには体力向上の効果があると考えます。「画一化」原理に「多様化」原理を持ち込んで共立させようとする発想に無理があるのです。
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無用な関心

2013-12-29 08:00:24 | Weblog
「無用な関心」12月23日
 三木陽介記者が、『男女の学力差』という表題で、「PISA」の結果についてコラムを書かれていました。『性別による学力差は存在するのか』という書き出しで始まるコラムでは、『言語的テストでは統計的に女性の方が優れている結果が多い』『図形を回転させるとどうなるかという空間認知力は男性が優れているらしい』という「事実」を指摘し、『学テは、学校別の結果の公表より、こんな分析を見てみたい』と結ばれていました。
 私はこのブログで、男女別学について触れ、公立男子小中学校・女子小中学校の設置について述べたことがあります。それだけに「男女の差」については深い関心を持っています。
 この問題は非常に微妙です。なぜなら、男女差のとらえ方によっては、男女差別につながってしまう恐れがあるからです。私は、男女各10000人をサンプルとして様々な調査を行えば、そこには有意な違いが見られるはずだと考えています。しかしそれは、男子Aと女子αとの間に同じ違いがあるということを意味しません。分かりやすい例でいえば、集団の平均値を見れば男女の走力差は歴然としていますが、小学校で一番足の遅い男子よりも足の速い女子はたくさん存在するということです。
 しかし、男子は○○力が優れ、女子は△△力が優れているというようにレッテル張りが行われてしまえば、そのことによって進路をねじ曲げられてしまう子供が出てきかねないのです。
 様々な調査結果から、単に男子は○○、女子は△△という分析をするだけならば、それは百害あって一利なし、です。無責任な好奇心を満足させるだけの行為です。差別を助長させる行為でもあります。
 男女別という視点で分析を行うのであれば、多くの批判を乗り越え、公立小中学校での男子校や女子校の設立、男女別の学級編制、男女によって異なる学習指導要領の編成などまで踏み込んで、議論する覚悟が必要です。
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大学以上に

2013-12-28 07:25:10 | Weblog
「大学以上に」12月22日
 元世界銀行副総裁の西水美恵子氏による『多忙すぎる日本の教師』という表題のコラムが掲載されました。その中で西水氏は、『全国各地の大学や小中高等学校の招待に応ずることが多い。そのつど教師が事務や雑務に費やす膨大な時間にあぜんとし、危機感を抱く』と述べていらっしゃいます。そしてご自身が米国の大学で教鞭を執られた経験から、『教えるためには十分な準備時間をとることは教育の品質向上に不可欠だと知った』と述べ、『2時間の授業に丸1日費やすのは、普通だった』と書かれていました。
 さらに米国での大学での状況を、『将来ノーベル賞候補かと有望視されていた友人は、不熱心な授業をとことん嫌われ、当大学での未来はないと言い渡された』『授業量は、毎学期1~2課目、週に2~4時間のみ。秘書のおかげで、事務などにとられる時間はないも同然だった』と紹介し、我が国との落差を案じていらっしゃいました。
 だから、教員にはもっと授業準備の時間を、と私が主張すると、「西水氏が言っているのは、高度な研究と講義を両方担っている大学の教官のことで、小中学校の教員の話ではない」という反論がなされそうです。しかし、それは間違いなのです。
 本当に授業の質の向上を考えるのであれば、小学校の教員にこそ、膨大な準備時間が必要になるのです。それは、現在の学校教育の仕組みと各校種の特色を考えれば容易に分かることです。教科担任制の中高では、1時間の授業プランに基づき数クラスで授業をする訳です。一方、小学校の教員は、5時間の授業には5時間分のプランが必要になるのですから。
 さらに授業の性質についても考える必要があります。一般的に学年が上がるに従って、授業は活動中心から座学中心へとなっていくものです。話し合いや作業中心から講義中心へ、と言い換えてもよいでしょう。また、教員に求められる資質も、多様な子どもの実態に合わせた指導技術の駆使から親学問の専門的な知識の比重が増す傾向があります。専門的な知識はあるレベルに達していれば毎日毎日更新しなければ対応できないものではありません。一方、指導技術の駆使は、日々新しい工夫が必要なのです。
 とは言っても分かりにくいと思いますので、私が専門としてきた社会科を例に述べてみます。奈良の大仏が造られた時代の学習では、大仏の大きさを実感させることから学習がスタートすることが多いのですが、その手段としては、大仏の掌の大きさを復元しその上に子供を立たせる、大仏の鼻の穴の大きさを再現し子供に潜らせる、大仏の全体像を新聞紙で造り屋上から垂らすなど様々な手法がとられます。そして大仏をつくる作業の大変さを理解させるためには、校庭の一部を掘り返し一定の高さまで積み上げつき固めるという疑似体験をさせることが有効です。こうした準備は、毎年しなければなりません。単に物理的な準備だけでなく、子供の興味関心を維持させるための発問や助言計画、その後の追求につながる学習問題の設定の仕方、体験を通して感じた疑問や矛盾の解決に資する資料の作成、学習成果をまとめる表現方法の設定と準備など、やる気になればなるほど準備時間は必要になってくるのです。
 そして実際の授業では、常に「評価」(評定ではない)を行わなければならないのですから評価計画を作成し、それに基づいたチェックをし、それに基づいて計画を修正していかなければならないのですから、そのための準備も必要になるのです。
 また、私が平成4年度に行った4年生の授業では、1つの単元の12時間の授業を終えるために、40余の子供用の資料を作成し、授業記録からの発言分析、評価カード分析、事後面接による評価、作品分析、子供による相互評価分析など30回余の評価を繰り返しているのです。中学年では、地域が学習対象となるため、資料や評価のためのカード等はすべて教員が作成するしかないのです。
 小学校は、子供が学校というシステムと出会い、学校に対するイメージを形成する場です。そこで充実した授業を体験することが、その子供のその後の学びを決定づけます。小学校の教員にこそ、授業準備のための時間を確保してほしいわけがそこにあるのです。

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同じ日に正反対の

2013-12-27 06:48:31 | Weblog
「同じ日に」12月21日
 同じ日に全く異なる立場を示す2つの記事が同じ全国紙に掲載されました。紙面は違うのですが、おもしろいと感じました。一つは森忠彦記者による『とにかく英語に触れる』です。その中で森氏は我が国の国民の英語力向上について、『非英語圏ではもっとも上手な英語を話す北欧の人たちに理由を聞いたことがあります。「子どものころから家でアニメ放送(字幕入り)を見て育ったからね」。そうか、ドラえもんやサザエさんに英語をしゃべってもらえばいいのか!?』と書いています。
 一方、ブラジル・サンパウロの朴鐘珠記者はサンパウロの状況について、『日本でよく使う単語を含め英語をほとんど見聞きしない~(中略)~万人が理解できない英語を使うことへの違和感、抵抗感がある。翻って東洋の日本。商品名、企業名、広告、果ては縦書きの新聞にまでカタカナがあふれる。英語は格好良いものとの意識を幼少期からすり込まれた人々に英米、とりわけ米国お肯定する価値観が自然と養われてても不思議ではない。ときに日本が米国の属国と言われるのも、横文字のまん延とあながち無関係ではないだろう』と書いています。
 朴氏は、ドラえもんやサザエさんが英語をしゃべるようになったら、「日本はついに米国の属国になった」と驚くかもしれません。森氏は、ホットドッグを「熱い犬」としてメニューに載せるようになったら、英語を禁止した戦前への回帰だと非難することでしょう。
 最近の我が国では、政治家も企業家も英語力向上一辺倒です。教育界からも異論は聞かれません。しかし、世界的に見れば、ブラジルのような考え方の国もあるのです。また、より長期的なスパンで見れば、世界の覇権国がスペインから英国、そして米国と推移してきたように、今の小学生が社会の中核を担う20年後、30年後には中国やロシア、ブラジルやインドといった国の言語が「格好良い」ものになっているかもしれないのです。まあ可能性は低いと思いますが。
 ただ、我が国の英語教育推進の発想が、近視眼的、経済的な利益重視型に偏り、国のあり方や文化伝統の維持、歴史的な視野などからのダイナミックな発想にはなっていないような気がするのです。将来的な我が国の形を睨んだ英語教育論議になっているのでしょうか。

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方向性は?

2013-12-26 07:40:30 | Weblog
「方向性はいいの?」12月20日
 「言論NPO」が実施した安倍政権の政策評価が掲載されました。「教育」分野では10項目が掲げられ、平均評価は5点満点で3点という結果でした。評価の妥当性、つまり政策の進捗状況は私には分かりません。しかし、根本的な疑問を禁じ得ませんでした。
 それは、政策の方向性自体の評価はどうなっているのだろうか、ということです。「言論NPO」は、安倍政権の主要教育政策10項目すべてについて評価しているのでしょうか。例えば、『教科書検定基準の抜本的改善と近隣諸国条項の見直し』という方向は適切だと考えているのでしょうか。かなり世論が分かれている問題だと思うのですが。
 また、『世界トップの教育立国に向け6・3・3・4制の見直し』についてはどうなのでしょうか。私はこのブログで批判をしました。その後の報道を注意深く見ていますが、その疑念はいっこうに解消されていないのですが。
 さらに、『「人間力」「基礎学力」向上で全国一斉の学力テストに戻す他、土曜授業を実現、道徳教育の充実などを行う』についてはどうでしょうか。学校週5日制に込められた理念は完全に否定されてしまったのでしょうか。
 どんなに緻密に政策の進行状況をチェックしても、そもそもその方向性が間違っていたのでは、チェック自体が意味のないものになってしまいます。失礼ですが、政府が掲げた政策目的自体については無条件に受け入れているように思えてなりません。
 その上、『「いじめ防止対策基本法」を成立させ、総合的ないじめ対策を行う』という項目のように、いじめ防止という方向性自体は適切でも、実現手段として実際には効果を発揮しないと思われるような施策についても、機械的に評価しているように思われる例もあります。
 「言論NPO」って、政府の御用機関じゃないですよね。
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アマチュア=善という誤り

2013-12-25 07:46:16 | Weblog
「深く根を張った誤解」12月19日
 『アマチュアだった』という大見出しの記事が掲載されました。猪瀬都知事の辞任会見を報じる記事です。見出しは、『政治家としてアマチュアだった』という猪瀬氏の言葉を切り取ったものです。猪瀬氏は、『プロではない人が都政を担い、いろんな意味で触媒効果があった』とも述べており、同氏の頭の中では、「プロ」であることの価値はあまり高くないようです。
 猪瀬氏は、政治のプロをどのように捉えているのでしょうか。『僕の場合は政策をちゃんとやればいいだろうということで、やや生意気なところがあった』という発言からは、政治のプロを、政策はダメでも利害に敏感で表面的な人付き合いや権力闘争、自己保身に長けている人というイメージでみていることが窺えます。そして政治のアマチュアとは、他のことに余分な配慮はせずに愚直に政策で勝負する人というイメージで捉えているのです。
 こうした捉え方は間違いです。政策は掲げただけでは意味がなく、多少は妥協してでも実現させてこそ「成果」といえるのであり、そのための調整力、組織運営力こそ重要なのです。そうした能力を持つ者が「プロの政治家」なのです。
 私は、猪瀬氏のような間違った「プロ」観は、我が国において広く蔓延っていると思います。私が関心を持ち続けている学校教育に関する分野においても、「プロの教員」「授業のプロ」という概念の不確かさを強く感じているからです。長年、様々な試行錯誤と創意工夫を重ねてきた教員の専門性を軽視し、企業での経験を生かすという発想で民間出身の教員の採用枠を広げようという施策や、公募で教員経験のない校長を採用しようとする方針には、悪しきプロと良きアマチュアという単純な図式が垣間見えます。
 猪瀬氏は、自分は正しいのに回りの理解が得られなかったという意識、自分は犠牲者だという意識をもっているようです。アマチュアであることを強調する人たちは、狭い世界の古くさい慣習に囚われた「プロ」無理解や非協力を失敗の原因にあげ責任転嫁を図る習癖をもつ人が多いようですが、それも真のプロにはあり得ないことです。
 学校の教員が、子供が自分の予期したとおりの行動をしないと言って責任転嫁をしたら、笑い者になるだけです。熟練した教員は、十人十色の子供の反応に応じて様々な「技」を繰り出すことが出来るものです。「プロ」を正当に評価する文化を育てたいものです。
 
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本当にいる?

2013-12-24 07:42:39 | Weblog
「そうなのか」12月18日
 論説委員の与良正男氏が『「五輪」という錦の御旗』という標題で学校教育改革についてのコラムを書かれていました。その中で与良氏は、『英語教育を充実させることに異存はない。でも、家庭教育や社会教育の分野まで先生の仕事が拡大し、ただでさえ疲弊している今の学校現場がきちんと対応できるのだろうか』と現状認識を述べていらっしゃいます。私はこのブログで、我が国における学校教育と家庭・社会教育のバランスの偏りを再三指摘してきました。ですから与良氏の見解には全面的に賛成です。
 また与良氏は、『道徳教育を改善する一方、国語の授業時間を増やし、小学校から古典に関する指導を重視したり、そろばんや和装、和楽器などの伝統文化や歴史教育も充実させるのだという。じゃあ一体どの授業を削れというのだろう』とも述べています。これにも全面的に共感します。私は、このブログで「教育改革は足し算の発想ではなく引き算の発想で」と繰り返し指摘してきましたから。
 そして今回もっとも注目したのが、『本当のグローバル化を目指す教育とは海外で戦う企業戦士を育てることだけではない。まず、よき地球市民であることを学ぶ。私はそう思うし、同じように考えている文科省の役人も少なくない』という部分です。本当なのでしょうか。
 私は、本当に望ましい行政のあり方とは、民意に敏感な政治家と一時の「流行」に惑わされることのない深い専門性を備えた官僚との協力体制によってしか実現しないと考えています。そのためには、教育官僚が自らの専門的な知見に誇りをもち、専門家としての自覚と責任をもって積極的に提言することが不可欠なのです。
 規模は違いますが、私も教委勤務時代には、数少ない学校教育の現場を知る者として上司の部長や先輩のや課長にいうべきことは言ってきました。それは間接的に首長にまで達していたはずです。幸いなことに、学校のことを一番よく知っているのは指導室長だ、という認識をもっていただいていたようで、すべてとはいきませんでしたがそれなりに私の考えを尊重していただくことができました。
 今回の教育改革において、文部科学省の「お役人」の影が薄いように思えてなりません。本当に与良氏の言うように「安倍・下村改革」に疑念を感じている人がいるのであれば、積極的に提言してほしいものです。しているのでしょうか。


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人類共通の普遍性

2013-12-23 07:40:31 | Weblog
「知ってもらって」12月18日
 読者投稿欄に大阪市のN氏の『道徳より人道教育を』という標題の投稿が掲載されました。その中でN氏は、『道徳という言葉には、上から定められた枠の中の道を歩むことが正しい行いだというニュアンスが感じ取れる』と述べ、『「人道」を教育の現場で採用する』ことを提案しています。
 N氏は、「人道」について、『ヒュ-マニズムに即した崇高さと人類共通の普遍性がある』としています。逆に言えば、「道徳」にはそうした視点が欠けていると考えていらっしゃるのでしょう。安倍政権の道徳教育強化路線に不安を覚える人の多くは、N氏と同じような感覚であるように思います。本当にそうなのでしょうか。
 学校教育における「道徳」の内容について、多くの国民は知らないままに断片的な情報や自分の思い込みんなどを基に論じているように思えてなりません。そこで、「道徳」の内容について再確認しておきたいと思います。
 私が教員時代に担任することが多かった小学校の高学年を例に述べてみます。当時の私の所属校の指導計画では、「自分に関すること」では、「より高い目標をたてて~」「進んで新しいものを求め~」など、ごく常識的な内容となっていました。「他人とのかかわりに関すること」では、「思いやりの心をもち~」「互いに信頼し~」「助け合いで成り立っていることに感謝~」などどこの家庭でも言っているような内容でした。「自然や崇高なものとの関わり」では、「自然の偉大さを知り、自然環境を大切に~」「生命がかけがえのないものである~」等、むしろ現代ではより充実させていきたい内容です。そして、おそらく多くの人が懸念をもつ「社会との関わり」では、「誰に対しても差別や偏見を持つことなく~」「働くことの意義を理解~」「自他の権利を大切にし進んで義務を~」「公徳心を持って法やきまりを守り~」などの内容と並び、「愛国心」や「日本人としての自覚」が挙げられていました。
 「愛国心」については、「郷土や我が国の文化と伝統を大切にし、先人の努力を知り、郷土や国を愛する~」と言うような表記であり、「日本人の自覚」では、「外国の人々や文化を大切にする心をもち、日本人としての自覚をもって~」というような表現になっていたのです。
現在でも大きく変わってはいません。言葉の問題はともかく、N氏が主張する「人類共通の普遍性」は含まれているのです。こうした内容を十分に知った上で、道徳教育について議論してほしいのです。私はこうした内容について、適切であるという考えをもっています。
 問題なのは、道徳教育の目標や内容ではなく、それらが定着していないことであり、その原因と対策を考えることだと思います。

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意向調査で確認を

2013-12-22 08:29:31 | Weblog
「意向調査を」12月18日
 教育面の『読者から』欄に、山口県の中学生の『僕は学力テストの成績公表には賛成です。みんなのやる気につながると思うからです。学習する環境と本人のやる気が一番大切だと思います』という投書が掲載されました。
 学力テストの結果公表については、様々な意見が出されています。その中には、下位校の子供が卑屈になりやる気をなくすという趣旨の反対意見が見られます。しかし、この中学生は、公表することでやる気が増すと言っているのです。
 私は従来からこのブログで結果公表に反対してきました。その理由は子供卑屈論ではありませんが、この中学生とは逆の立場であることは間違いありません。彼がいうように「本人のやる気」だけではどうにもならない現実があるとも思っています。しかし、それはともかく、中学生の中に彼のような意見があるのであれば、改めて中学生を対象に学力テストの結果公表の是非についてアンケート調査をしてみればよいと思います。
 中学生であれば、それなりに自分の考えをもっているはずです。公開に反対する教員の意向や公開を進めようとする行政関係者の意向に左右されないような方法をとる必要がありますが、文部科学省が無作為抽出された中学生に直接郵送で回答を求めるという仕組みで、全国で10000人規模で行えば有効な調査になると思います。調査用紙は教員養成系大学などの協力を得て、第三者機関で作成すればよいと思います。
 その際、既に様々な形で公開に踏み切っている自治体と未実施の自治体で比較できるように配慮すると共に、成績上位者と下位者、生徒の通塾の有無、保護者の学歴や経済状態なども記入し分析できるようにすることが大切です。
 私自身は、仮に中学生の多くが公開に賛成したとしても反対の意見を変えるつもりはありませんが、事実に基づいて議論するという形に近づくことで、より説得力のある結論が導き出されるはずです。

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