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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

大量移動

2008-12-31 08:20:51 | Weblog
序列化か、カンフル剤か(12月28日「)
 全国一斉学力テストの結果公表を巡って、論争が行われています。でも、どうして、この二択なのでしょうか。どちらの傾向も見られるに決まっているではありませんか。それよりも公開派の首長が触れないのが、「住民逃避」の問題です。
 あなた引っ越すとき、わざわざ学力の低い学校に通わなければならない地域に引っ越そうと思いますか。駅からの距離や買い物等の至便性、住居の価格や家賃が同じであれば、バカな学校の近くに引っ越そうと思う人はいないでしょう。将来引っ越そうと考えているあなた、あなたの住んでいる地域の学校がバカ学校であるとき、必死にその学校の建て直しに努力しようとしますか。それよりも、早めに引っ越そうとするのではないですか。それが普通です。
 小中学生の子どもをもつ家庭というのは、もっとも引っ越しを考える世代です。人間50歳の声を聞けば、家族は減る一方、わざわざ新しい住まいを求めようという人はそう多くはありません。しかし、上の子が小学校に入る頃の保護者は、一人ひとりに子ども部屋を、などと考え引っ越しを考えるものです。彼らは、経済的にも共働きをしなければならない割合が高く、学校建て直しに時間を割けない人、割きたくない人も少なくありません。それでいてわが子の教育には関心が高いのが特徴です。そんな世代は、馬鹿な学校を見捨て、お利口さん学校に大量移動していくのです。このことについて、街作りの責任者である首長が触れないのはなぜでしょうか。
 おそらく、出来る学校を核とし、所得の高い層を集め、税収を確保するねらいがあるのではないかと疑っているのは私だけでしょうか。
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努力はしていても

2008-12-30 07:58:48 | Weblog
一生懸命な教師(12月27日)
 公教育を考える特集の中で島村元紹・日本商工会議所教育委員長代理へのインタビューが掲載されていました。その中で、少し気になることがありました。標題にもなっている「一生懸命な教師、評価を」ということです。氏の言葉をそのまま引用すると、「校長がリーダーとしてしっかりしなければ、学校という組織が活力ある集団に変わることはできない。教師一人一人を評価し、一生懸命やっている教師と、そうでない教師とを区別してやるべきだ」ということになります。
 勝手な想像ですが、企業家である島村氏は、別の言い方をしていたはずだと思います。氏も改革努力を高く評価している東京都教育委員会では、教員の業績評価を、能力・情意・実績の3つの視点から行ってきました。「一生懸命」ということは、情意面の評価ということです。情意も大切ではありますが、最も大切なのは実績、つまり結果です。
 実は、指導力不足といわれ、授業が成り立たない教員、学級経営が出来ず授業中も立ち歩く児童生徒を従わせることが出来ない教員の中にも、熱心な教員は少なからずいるのです。毎日、他の教員よりも遅くまで学校に残り、職員室の机の上にノートやらワークシートやらを崩れそうなほど積み上げている教員。暗くなるまで子どもたちと遊んでから自分の仕事を始める教員。仕事にかける時間と本人の気持ちの上ではまさしく「一生懸命」です。でも、結果が伴わないのです。そうした教員は、内心自分の能力のなさに気付いているからこそ、その免罪符として頑張るのです。
 私も、典型的な指導力不足の教員が、授業のために膨大な資料を集め、手作り教材を準備し、足りないものは自腹を切って買い集めているのを見たことがあります。本人は、自分のことを子どものために時間も金も犠牲にする模範的な教員のように思い込んでいましたが、授業は悲惨なものでした。
努力で評価できるのであれば簡単なことです。教育という営みの中で結果を評価することが難しいのです。同じ学校でも、問題行動を繰り返す子どもは一人いるだけで、授業や学級経営の難しさは格段に増してしまいます。教育という生きた人間の集団を相手にする営みでは、能力と結果の関係も明確ではありません。企業経営においても、努力だけで従業員を評価したりすればその企業は業績を低下させることでしょう。島村氏が本当は何と言ったのか聞いてみたいものです。
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定点調査

2008-12-29 07:49:17 | Weblog
定点調査(12月24日)
 年齢層や住む場所の条件が毎回同じになるように回答者を選び、同じアンケートをとる「生活定点調査」を博報堂生活総合研究所が平成4年以来2年ごとに続けているのだそうです。教育においても、こうした長期的なスパンで行う調査を考えてはどうでしょうか。
 わが国の教育行政の欠陥として、きちんとしてデータに基づかないまま、印象や個人的な経験で語られたり、イデオロギー論争に陥ったりする傾向が指摘されていました。その改善策として導入されたのが、今何かと問題になっている全国学力調査です。これはこれで、データに基づいた教育論議を行うという面では一歩前進ですが、十分ではありません。教育は国家100年の大計といわれます。また、学校教育がその人の人生のどのような影響を与えたかは、20年、30年を経なければ分からないものです。
 そこで、全国の小学校6年生から無作為で1万人を選び、50歳になるまで毎年決まった月日にアンケートを送り、回収して分析するのです。転居した場合は、知らせてくれるような用紙を同封し、追跡調査が可能なようにするのです。回収率を高めるために1回につき1000円程度の薄謝を提供するのもよいでしょう。費用は、薄謝費が1000万円、通信費が往復で160万円、アンケート用紙作成費は300万円もあれば足りるでしょう。
アンケートを考え分析する専門家へ人件費に500万円かかったとしても年間2000万円もあれば十分です。40年分でも、8億円。全国学寮調査の7分の一程度です。いくら財政難であってもこの程度の予算は捻出できるでしょう。
 すぐには役に立ちませんが、10年、20年後には、教育政策の評価に役立つはずです。「総合的な学習の時間の効果は」「ゆとり教育の是非は」「小学校の英語教育は」など、今、議論の的になっていることについてより確かな評価が可能になり、それは、新たな政策立案にも役立つはずです。どうでしょうか。
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提案は出来ないのか

2008-12-28 07:48:49 | Weblog
12月27日「勇気ある撤退を」
 全国学力テストを廃止し、抽出調査に切り替えるよう主張する社説が掲載されました。よくある意見です。他紙でも同様な主張が見られます。そのこと自体には意見はありませんが、最後の表現が気になりました。
 この社説は、「毎年50億円以上にのぼる予算と膨大な手間がかかる。しかし、そこで得られる結果は抽出調査でも十分可能だ。この費用があれば、どれだけ教員や学校施設の充実に回せるだろうか」と結ばれています。どうしてこんなに説得力のない書き方をするのでしょうか。全国紙なのですから、教員の平均給与のデータはもっているはずです。今回の文部科学省の計算を援用すれば、週12時間の講師が何人雇用できるかもすぐに分かるはずです。具体的に、全国で○○人の教員を増やすことが出来る、と書くことができたはずです。
 私なりに試算すると、正規の教員を雇用した場合1000人以下になるはずです。 これを各都道府県に配分するとすると、東京都では100人以下、都内の各区市町村当たり0人~8人くらいでしょう。都内の公立校25校に1人配置増くらいの計算でしょうか。
その程度ならば自分に恩恵はない、と考える人もいるはずです。それでは自社の主張が力をもたないと考えて、わざとぼかしたのではないかと疑りたくなります。しかし、全国紙は、もっと「力」のある組織だと信じています。教育班の英知を結集してもっと魅力的な提案をしてくれないものでしょうか。

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刺激を受ける授業

2008-12-27 07:35:28 | Weblog
知的好奇心湧いた授業(12月22日)
 ノンフィクション作家の佐野眞一氏が、高校時代の思い出を語ったコラムが掲載されていました。氏の高校時代の恩師は中島河太郎氏で、柳田国男の研究を手掛け、後に和洋女子大学の学長になった方です。佐野氏は中島氏の授業について「自らの解釈を訥々と語る授業は高度で、意味が分からずきょとんとしている生徒もいた。「ついてこられない生徒はそれでいい」。一方通行型の授業だったが、知的好奇心をおおいに刺激してくれた」と書いています。
 氏の出身高校は下町の名門校。かなりできる生徒が集まっていたはずです。そんな出来る生徒でも分からない授業をする教員。きょとんとしていた生徒にとっては、中島氏は冷たい教員と感じられたかもしれません。今ならば、その保護者も黙っていなかったでしょう。「こんな教員は異動させてしまえ」くらいのことは訴えてきたかもしれません。中島氏は、今ならば間違いなく指導力不足教員でしょう。でも、佐野氏にとっては、素晴らしい恩師ですし、中島氏自身も、大学の学長になったくらいですから、人格能力共に優れた人だったわけです。ここに教員評価を巡る難しさがあります。
 ある人にとってよい教員が他の人にとってもよい教員とは限りませんし、多くの人が嫌う教員がある一人にとっては人生を変えてくれた恩人である可能性もあるのです。教員評価を安易に口に出す人には考えてほしい問題です。
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やったに決まっている?

2008-12-26 07:51:17 | Weblog
推定有罪(12月24日)
 知的障害のある少女が、小学生当時に担任だった教諭の男性から性的虐待を受けたとして、県と浦安市、男性を相手取り約2千万円の損害賠償を求めた訴訟で、千葉地裁は、わいせつ行為の一部を認定し、管理責任があった県と市に計60万円に支払いを命じる判決を下しました。真相は当事者にしか分かりません。ですから、私は、この判決自体について、評価は出来ませんし、するつもりもありません。ただ、気になったのは、この判決に対する解説の内容です。
 解説は、知的障害者の証言が認められたことを評価する内容でした。教員はわいせつ行為を否定し、同僚の教員も目撃していないと証言しています。だからこそ、刑事裁判では無罪が確定しているのでしょう。当事者であるAとBの証言が食い違うとき、一方の証言を間違いだと決めるには、相応の理由が必要なはずです。もちろん、刑事裁判と民事裁判は、性格が異なりますし、過去にも刑事と民事で異なる事実認定がなされた事例は多くあります。しかし、今回のケースについても常識的に考えれば、この少女の証言が間違っている可能性もあるはずです。にもかかわらず、少女の証言が認められるべきだ=少女の証言が正しい=教員はわいせつ行為をしていたはずだ、という立場からだけで解説がかかれたのはどうしてなのでしょうか。教員がしてもいない行為について汚名を着せられてしまったかもしれない、という指摘がないのはなぜなのでしょうか。冤罪を嫌うマスコミが、「教員はわいせつ行為をした」という立場をとるのはなぜなのでしょうか。
 マスコミや世論は、組織と個人、教員と子ども、公務員と民間人という図式の中では、常に前者を悪者にする傾向があると感じるのは私のひがみなのでしょうか。ここ数年続く教員バッシングの影響を受けていると感じるのも私のひがみなのでしょうか。
 私自身、教育委員会に勤務していたとき、特別支援学校の保護者という方から、「先生方は、子どもたちをおもちゃ代わりにして楽しんでいる。男の子の性器をこすり女の子の局部に入れて、それを見て手を叩いている」という抗議を受けたことがあります。事実無根でした。何かあれば、まず教員側を疑うという構図が出来ているのであれば、教員は萎縮し、その結果は、子どもたちにも悪い形で跳ね返ってしまうはずです。

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馬鹿らしい「英語で授業」

2008-12-25 08:16:37 | Weblog
英語授業は英語で(12月23日)
 高等学校の改訂学習指導要領案が示され、英語の授業は極力英語で行う、という方針が注目を集めています。できるわけはありません。英語担当教員の英語力を心配する向きが多いようですが、問題は教員側ではなく生徒側にあります。
 お笑い芸人のSCさん、弟のJCさんもお笑い芸人ですが、JKさん曰く「兄貴の高校、地元なら誰でも知っているバカ学校で、1年生の1学期の英語のテストの問題が、「AからZまで書け」ですよ。信じられますか」だそうです。この話自体は「ネタ」かもしれませんが、こうした高校が全国にたくさんあることは事実です。こんな生徒を相手にどうやって英語で授業を進めろというのでしょうか。極端なことをいえば、普通の高校生相手に、彼らが習ったことがなく字を見たことがあるだけのフランス語やドイツ語を原語だけで授業をするようなものです。「なに言うてんねん」というところでしょう。
 文部科学省は、なぜ、こんな不可能な方針を打ち出したのでしょうか。以前にの書いたことですが、私は、わが国の学校教育の「履修主義」が背景にあるように思います。「履修主義」とは、児童生徒がその教科における知識や技能を習得したか否かは問題にせず、決められた時間数以上の授業を受けたか否かだけを問題にする考え方です。分かろうが分かるまいがどうでもよいのです。ですから、今回の方針も、「生徒が理解しようがしまいがどうでもよい。英語学習の充実のために英語を使って授業する、という改革を打ち出しさえすればそれでよい」という発想があったのではないかと思うのです。多分間違いないと思います。
 履修主義から習得主義へ。中学校、高等学校卒業時に、各教科とも全国一律の達成度テストを行い、規準に達しない生徒には卒業資格を認めないという仕組みにすれば、こんな馬鹿げた方針は出てこないと思います。
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誤診対策は?

2008-12-24 08:04:49 | Weblog
住民の授業診断(12月18日)
 「地域が支える学校」という特集の中で、「住民の授業診断 定着」と題された記事が掲載されました。記事には、「東京都足立区立五反野小学校で10月に行われた土曜参観には、保護者や地域住民ら約590人が、子供たちの学習の様子を見ようと学校を訪れた」と書かれています。同校は、全国で最初にコミュニティスクールに指定されており、この日の参観は、保護者や地域住民が、授業診断をする場にもなっているとも書かれています。
そして、「授業診断」についての記述はこれだけです。
 記事の中頃に、「同小では2002年から、朝の15分間、音読や漢字ドリルなどで基礎学力の向上を図る「パワーアップタイム」を設けている。その成果を見せる論語や詩の音読、全校児童による合唱など、元気いっぱいの発表が続いた」と書かれていますが、まさか、音読を聞いたり、合唱を聴くことを授業診断と呼んでいるわけではないでしょう。
授業診断という以上、正しく「診断」がなされているのかどうか、その点についての検証が必要であるはずです。いい加減な「診断」に基づいて、学校運営に影響を及ぼすことになっては、学校教育の質的向上は望めません。保護者や市民が学校での児童の様子を見る機会と場を増やせば、自動的に正しい「診断」が行われるということではないはずです。それとも、経済学における「市場原理主義」のように、教育というサービスを受ける消費者である保護者や市民という集団総体の判断は常に正しいという思想なのでしょうか。
 一例をあげれば、公立学校における授業については、学習指導要領についての理解なくしては評価することは出来ないはずです。「でんじろう」先生の実験は面白いですが、学習指導要領との整合性がなければ、授業で行うことは出来ません。「でんじろう」先生の実験で児童が盛り上がって目を輝かせていたとしても、それはよい授業ではないのです。大丈夫なのでしょうか。
 授業を公開することは悪いことではありません。ただ、それで「診断」という言葉を使われることには納得がいきません。記事に書かれていないだけで、きちんとした「診断」方法が確立されているのであることを期待していますが。
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道徳の教科化は間違い

2008-12-23 07:59:12 | Weblog
道徳教育の充実(12月17日)
「道徳教育拡充に踏み出せ」と題する社説が掲載されました。道徳教育を充実させることには賛成ですが、ここで述べられている「方策」には賛成できません。社説では、「教科化すれば、教科書がつくられ、教材が充実し、指導法の研究が進むことが期待できる」と主張していますが、間違っています。
 道徳は教科となっていないからこそ、指導法の研究が進み、道徳について研究する教員が多いのです。そもそも、「小中学校で週1時間ある道徳の授業は生徒指導や別の教科に流用されてきた。一部教職員組合の反対で道徳の授業が行われていない学校さえあった」という現状認識自体が間違っています。このような実態は20年以上昔の話です。
 東京都では、毎年、特設道徳(いわゆる道徳の授業)の実施時間を調査しています。10年前と比べると小中学校ともに実施率は向上しています。道徳に授業をしていない学級は皆無です。そして、教員の研究活動という面で見ると、各区市で行われている道徳の研究会はとても盛んなのです。所属部員の数も理科や社会、音楽、図画工作・美術、技術・家庭、総合的な学習の時間などの部会に比べて多く、授業研究の回数も多いのです。かつてあった、教育研究員、教員研究生、教育開発委員などの公的な研究においても、道徳の研究を希望する教員の数は多く、希望者が何年も委員になれずに待っているという状態だったのです。
 また、道徳を校内研究で取り上げる学校も少なくありません。これらは、全教育活動を通じて行うという道徳の特性として、どの教員も関心をもたざるを得ないこと、学校という組織ぐるみで取り組みやすいことが背景にあります。
 もし、道徳という教科にすればどうなるでしょうか。週1時間の授業のためだけに研究活動に取り組もうという教員も学校も激減するでしょう。小学校で、研究活動が盛んなのは、国語と算数です。全体に占める授業時間数が多いのですから、その教科について研究したいと考えるのは自然なことです。各教科の中で最も授業時間が少なくなる道徳は、ごく一部の教員しか興味をもたなくなってしまうでしょう。つまり、道徳教育の充実のためには、従来どおり非教科とし全教育活動で行う、という形こそ必要なのです。
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語るに落ちる

2008-12-22 07:56:11 | Weblog
英語必修化(12月19日)
 小学校での英語必修化について、文科省の担当教科調査官がインタビューに答えていました。記事によると、必修化の理由は、①各校独自の取り組みが進み、拡大した内容や時間数のばらつきを是正して最低基準を示す、②小学校高学年が英語の音声や表現に慣れ親しみ、意欲や積極性を養うのに、適した時期と考えられる、③英語力以上に、言語力、コミュニケーション力の向上のため、とのことです。特に③については、「新しい学習指導要領の大きな柱は言語力育成であり、英語活動はその一端を担うとの位置づけ」と補足しています。そして、こうしたねらいから導き出される必修化された英語学習とは、小学校で始めたからといって英語が話せるようになるわけではなく、話せなくてもよいのだから、教員が英語を話せないと教えられないということはない、とも話しています。
 さらに、副次的効果として、英語活動を教えるために、教員自身が学ぶ姿を児童に見せることになり、教員が「学ぶ人のモデル」となることは、従来型の授業を変える可能性を秘めているとしています。また、中学校の英語担当教員にとっても、今までとは異なり小学校で英語活動を経験した生徒に対し、従来の文法、訳読方式の指導方法でいいのかが問われることになり、中学校の授業も変えていくねらいもあるとしているのです。
語るに落ちるとはこのことです。必修化の理由としてあげられている3事項を見ると、
①は単なる現状追従ですし、②は近年急に子どものレディネスが変わるはずがないのですし、子どもの発達段階研究において新しい知見がもたらされたという報告もありませんから、従来の方針を変える理由にはなりません。③については、噴飯ものといわざるを得ません。
 そもそも、英語教育の推進を願った保護者は、英語を理解し話せるようになってほしいと考えて、必修化を求めていたのです。そのためには、英語を母語とする指導者が必要なことは自明の理屈です。必要な予算措置もせず、指導者育成もしないまま導入する言い訳をしているとしか考えられません。
 だいたい、何か新しい施策を導入するときに、期待される様々な効果を羅列するという場合、主たる目的が曖昧であったり、主たる目的を達成する自信がなく、失敗したときに「確かに予期した成果は上がっていないが、他の面でよい影響が見られた」という言い訳をするための準備であることが多いのです。
 私は英語教育の必修化には反対です。ただ、必修化を決めた以上、保護者や広く国民一般が臨んでいた形での英語教育が実現できるよう既存の何かを削ってでも体制整備に努めるのが教育行政の責任であると思います。
 あるいは、国家100年の大計に則り、今わが国が目指すべき英語教育は早急に会話力を求めるのではなく広い意味での言語能力育成なのであり、英語必修化はそのための手段であり目的ではない、と考えているのであれば、そのことをはっきりと伝えるべきです。そうでないと、国民の教育行政不信が募るだけです。
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