ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

民主主義を教える

2010-06-30 07:36:04 | Weblog
「民主主義を教える」6月25日
 埼玉県済生会栗橋病院副院長の本田宏氏が、『国家を支える基本は「教育」』という標題で、社会保障論を述べていらっしゃいました。その中で、デンマークの幼児・初等教育を取り上げ、『「自立と民主主義」を教えること。「自立」と民主主義の重要性を認識できると、医療、福祉、介護、教育等の社会インフラ整備の必要性が理解でき、公共サービスの質向上には合理化・効率化が必要で、「税金を無駄遣いしない」という国民意識が醸成される』と述べています。本田氏のいうところはよく理解できます。しかし、教える内容としての「民主主義」について、本田氏はどのように考えているのでしょうか。
 私は、教員時代も指導主事時代も社会科を専門としてきました。その間、ずっと民主主義を教えることの難しさに悩んできました。当然のことですが、民主主義は、最良のシステムではなく、今のところ最もましだと思われるシステムに過ぎません。その点をどう教えるか、ここがまず最初の難しい点です。
 また、民主主義を教えるということは、我が国の政治システムを教えるということとも異なります。我が国の議院内閣制は、あくまでも大きく民主主義に括られる統治システムの中の一形態に過ぎません。民主国家といわれる諸国を概観してみても、英国は民選議員に限れば一院制ですし、米国は大統領制、フランスは大統領制でありながら、内政においては首相が力をもっています。どれも一長一短です。
 民主主義が衆愚政治に陥る危険性についても触れなくてはなりません。さらに、私は、「民主主義の原型」というと、西部劇で見られる群衆が保安官事務所に押しかけ口々に「吊せ!」と叫ぶシーンを連想してしまいます。民主主義はときとして人権を圧殺することさえあるのです。付け加えれば、ヒットラーは民主的に選ばれてきたことも忘れてはいけないことでしょう。
 納税者という存在にも留意が必要です。納税者は自分の納めた税金がどのように使われているか知り意見を述べる権利があるという考え方でさえ、税金を納めていない者や少額しか納めていない者、納税額よりも国家から受け取る補助金額の方が大きい者は、口をはさむな、という考え方を導き出してしまう可能性があるのです。
 そんなことから、私は個人的には、民主主義はそれ単独では「よいもの」として機能することは難しく、法治主義や人権思想、権力の相互チェック、情報の開示などいくつかの支柱が必要なシステムであると考えています。しかし、これらをすべて扱うには、小学生の理解力は十分ではありませんし、下手をすると、民主主義の否定、もしくは不完全さの強調という内容に陥ってしまいます。
 だからといって、単純にみんなのことはみんなで決める、意見が合わなければ多数決という押さえ方では、間違った民主主義万能論を植え付けることになります。こうした指導をしている教員も実際には少なくありません。その結果、学級会で話し合って授業の内容を決めるとか、みんなの意見で1人の子供に全員がビンタをするという似非民主主義がはびこることになってしまうのです。
 分かっているようで説明しにくい「民主主義」。もっと研究授業で取り上げられてもよいと思います。

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特殊な制度

2010-06-29 07:42:26 | Weblog
「どうして学校で」6月25日
 夕刊編集部の本橋由紀氏が、「がんばれ部活」という標題でコラムを書かれていました。標題から想像できるように部活讃歌です。『部活をテーマにした本やドラマ、映画などが目に付く。イビチャ・オシム前サッカー日本代表監督も著書「考えよ!」で「学校の部活動という独特のシステムには感動すら覚えていると書いている」』と部活見直しの機運に触れ、『指導要領から「(教育課程との関連が図られるよう=筆者捕捉)留意」というあいまいな言葉が消え、顧問の「任意と善意」に頼まずとも運営されるようになるといい』と述べています。
 あまりにも一方的な話で、唖然としてしまいます。オシム氏が「独特のシステム」と言っているということは、他の先進国の学校教育では見られないということです。つまり、近代的な学校制度になじまないということなのです。だからこそ、国際標準から見て「特殊」な我が国の学校教育においても、顧問教員の「任意と善意」で行われるという形をとってきたのです。
 実際、部活は、学校にさまざまな歪みをもたらしています。以下は教委に勤務していたときに、私自身が経験したことを基にした、多くの学校で起きていることを再現劇風に書いたものです。

【教委での人事ヒアリング】
「頼みますよ。今度の異動ではサッカー部の顧問を引き受けてくれる教員をお願いします。顧問を引き受けてさえくれれば、多少問題がある教員でもかまいません。保護者や地域に住む卒業生がうるさく言ってくるんです。なまじっか三年前に都大会で三位になったりしたことがあるものですから、『伝統を途絶えさせたら校長の責任だ』なんて。このごろではPTAの会長まで校長室に来るんです。ぜひお願いします」教育委員会で行われた来年度の教員人事についてのヒアリングは、半分以上がサッカー部の顧問についての話で終始してしまいました。
【教員への指導】
校長はサッカー部の顧問をしているG教員を校長室に呼んで言いました。「G先生。先生の英語の授業はプリントの答え合わせばっかりで面白くないし、H先生が受け持っているクラスに比べて授業も遅れがちだという苦情がきているんですよ」という校長の話を聞いていたG教員は、「私はサッカー部の顧問として休みの日もなく指導に当たっているんですよ。正直、授業の準備をしている時間も体力もありません。顧問を辞めさせてください。元々、校長先生に頼まれて仕方なく引き受けたんですから。顧問を辞めさせていただければ、もっと工夫した授業をしてみせますよ。だいたいH先生はパソコン部の副顧問をしているだけじゃないですか。比べられるのは心外です」と顔を真っ赤にして反論しました。校長は「いやいや顧問を辞めるなんて言わないでくださいよ。G先生が顧問を引き受けてくれたことには感謝していますよ。まあ、できる範囲で授業の方も考えてみてください」と言わざるを得ませんでした。
【生徒同士の会話】
 昼休み、校舎裏の階段に腰掛けて、二人の生徒がおしゃべりをしています。「あーあ、サッカー部辞めたいな」「なんでだよ。お前小学校のころからサッカー好きだったじゃん」「でもさぁ、ウチの(学校の)サッカー部って勝利至上主義なんだよな。区大会で三連覇中だから、今年も絶対負けられないっていうわけでさ。練習厳しいんだよ。お母さんたちの中でも妙に入れ込んでいる人がいてさ」「でも好きで入ったんだろう」「そうなんだけどちょっと違うんだよな。俺はサッカーを楽しみたいんだよ。」「そんな考え方をあの○○先生が認めるわけないじゃん」「だろ。サッカー以外にやりたいことだってあるし」「じゃあ辞めちゃえよ」「だけどウチの学校は帰宅部(部活に参加していない生徒のこと)への風当たり強いからさ」「確かに、帰宅部の連中ってまともじゃない奴が多いよな」「先輩が言ってたけど、帰宅部だと内申書に響くらしいぜ」「まじかよ」

 部活に一定の教育効果があることは認めます。私自身、中高と部活に打ち込んだものでした。しかし、その一方で、部活のために学校に来るような教員がいることも事実です。彼らの中には、部活の指導を免罪符に授業を手抜きする者がおり、学校(校長や教員仲間)もそれを黙認している状況があるのです。当たり前の話です。朝練の指導をし、放課後も5時まで生徒と汗を流し、休みの日も練習と試合で出掛けるとなれば、授業の準備や分析にかける時間も体力も残りはしません。
 また、「困難校」では、部活が「問題生徒」の囲い込みに利用されてもいます。教育的論理に基づく指導ではなく、大人の目の届くところに隔離しておき、悪いことができないようにクタクタになるまで疲れさせるという発想で部活が「活用」されているのです。担当教員の間では、これを「部活を利用した攻めの生活指導」と呼んでいるのです。そこには、看守と囚人がいるだけです。
 部活は廃止すべきだと考えます。そして、学校の体育館やグラウンドという公共財を活かすために、社会教育の一環として、休日や夜間などに希望者が活動する形態を導入すべきです。
 子供の成長に関わるものは何でも学校教育で行うという発想では、学校はパンクしてしまいます。我が国の教員が、諸外国に教員に比べ、授業以外に費やす時間が多いことは調査結果からも明らかです。学校は学ぶところ、教員の本分は授業という基本に立ち返り、落ちこぼれをなくし分かる授業の実現を目指すならば、部活は学校から切り離すべきなのです。

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改革とつまずき

2010-06-28 07:35:41 | Weblog
「つまずき」6月24日
 東京大公共政策大学院副院長の伊藤隆敏氏が、「消費税増税の必要性」という標題の経済コラムを書かれていました。財政再建のための消費税増税を肯定的にとらえた上で、『消費税率を10%にするのは、財政再建のほんの第一歩だ。これからの実現までの長いプロセスのなかで、政治的なつまずきが起きないことを願っている』と結んでいます。
 財政改革とは関係のない政治家の不祥事や金銭トラブル、失言やスキャンダルなどによって、与野党が対立し、不毛の論議に時間を費やし、政治家不信が募った結果、本筋の改革が遅れる、もしくは不可能になりということがないように、という願いです。
 同じことは教育改革にも言えます。教員の体罰や不法な政治活動、教え子への性犯罪、採用や昇任に関わる贈収賄など、教員の側の「つまずき」によって、教員への不信感が高まり、そのために冷静な教育論議が行われなくなってしまうということは、今までも度々繰り返されてきました。
 私は、教委に勤務していたときに服務事故を起こした教員を指導する仕事をしていました。そのとき、必ず話していたのが、1人の教員が起こした事件は、多くの学校関係者がそれまでに積み上げてきたさまざまな努力をムダにしてしまうということでした。事件を起こした教員の多くは、「自分はどんな処分でも受ける」「責任は自分がとる」というような意識をもっていました。今現在も、そうした意識の教員が少なくないと思います。しかし、教育界全体への不信感醸成という傷は、1人の教員が責任を負えるような軽いものではありません。教育委員会も学校も、一人一人の教員も、「1人のつまずき」の重さを自覚してほしいものです。
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賭博と体罰

2010-06-27 07:03:03 | Weblog
「賭博と体罰」6月23日
 混迷を深める日本相撲協会の野球賭博問題ですが、少し気になる記事を目にしました。評議員会の様子を報じる記事でした。『関係者によると「過去5年以内に賭け事をやっていながら、まだ申し出ていない人は早急に申し出るように」と口頭で通達された。出席者から「どのくらいの賭け金なら上申書が必要なのか」「必要かどうかの線引きが分からない」などの質問が出たが、執行部は「特別調査委員会で調べるので、賭け事は申告するように」と指示したという』というものです。
 似ているのです。私が、学校に呼ばれて研修会で体罰防止の話をするときの教員の反応に。「どの程度なら体罰になるのですか」「(体罰として)処分されるかどうかの線引きが分からない」というような質問が必ずと言ってよいほど出されるのです。
 実は、他にも類似点があります。それは、「悪いことであること、法律で禁じられていることは知っているが、みんなやっている」「昔はこの程度のことは問題にならなかった」という擁護(?)の声があることです。
 今回の事件でも、相撲の世界に詳しいジャーナリストから、「支度部屋で花札をしているのを目にした」というような話が漏れてきます。厳しいようですが、彼らは、いけないことと知りながら、顔見知りの力士や親方と波風を立てたくないために、注意することも告発することもしなかったということになります。
また、某市の市議会議員が、「自分もやったことがある。あまりうるさく言うと伝統ある相撲を潰すことになる」という趣旨の発言をしています。これも、「あまりうるさく言うと、先生方が萎縮してしまい、指導ができなくなる」という体罰擁護論と重なります。
 公益法人である日本相撲協会に所属する力士や親方には、公人的な性格があります。公立学校の教員は、いうまでもなく公人です。どちらも他者に後ろ指を指されることがないように自らの行動を律する必要があります。その最低限のことが、法治国家の国民として法と法の精神を守ることです。「どの程度まで」と抜け道を探したり、間違った擁護論を盾に処分を逃れようとするすのではなく、自浄作用を発揮しなければ、国民の信用を失うことは確実です。教育界は、今回の賭博事件を他山の石とせず、体罰追放に力を入れなければなりません。
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本当に必要なのか

2010-06-26 08:05:45 | Weblog
「似合わない」6月22日
 「大学ランキング」という標題のコラムが掲載されました。国際的な「大学ランキング」に影響力の強いデータを提供している英国の高等教育専門誌のベイティ副編集長が、衝撃的な講演をしたというのです。『「欠陥があった」という告白に始まり、今年から評価方法を抜本的に見直すことを明らかにした。ベイティ氏は「新しい順位はかなり違ったものになる」と述べ、聴衆の大学関係者からは「これまでも信頼性は高いと言っていたのに、なぜあなた方を信じられるのか」という手厳しい質問も出た』のだそうです。
 さらに、ベイティ氏は「大学は単純に計測できない」とも認めたそうです。筆者は、こうした状況を受け、『順位をあげるための場当たり的な施策は教育機関に似合わない』と結んでいます。
 私は、このコラムから2つのことを感じました。まず、小中学校に比べ、引用された研究論文の数など具体的且つ客観的な「指標」が得やすいと思われる大学でさえも、ランクづけは容易ではないというのであれば、小中学校においては、それ以上にランクづけは困難なのではないかということです。しかも、大学ランクづけの難しさは、「素人」が言っているのではなく、世界的な権威、その道のプロが言っているのです。ここからは、小中学校に対する安易なランクづけは、筆者が言うように「順位を上げるための場当たり的な施策」を助長するだけなのではないかという疑問が生じてきます。
 そして、ランクづけは難しいと言いながらも、まだランクづけを続けると言っていることが、2番目の驚きです。難しいから、今までのやり方に欠陥があったから止めるというのではなく、それでも続けるということは、何が何でもランクづけが必要なのだという考えであることを示しています。そしてそれは、講演会の聴衆である大学関係者にとっても当然のこととされているのです。理詰めに考えるならば、不確かな方法に基づくランクづけは止めよう、今後研究が進み、より正確な方法が発見・開発されるまでは中止しよう、という考えをもつ人が多くてもよいと思うのです。
 どうして教育機関にランクづけが必要なのか、という原点に返ってもう一度考え直してみる必要があるように思います。在日米軍基地問題ではありませんが、あって当然という思い込みに縛られていては、問題の本質を見失ってしまうのではないでしょうか。

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科学的に教える

2010-06-25 07:57:24 | Weblog
「戦争を教える」6月21日
 『「6・25」朝鮮戦争60年 「風化」急速に』という見出しが付けられた記事が掲載されました。今月の25日で、「朝鮮戦争」勃発から60年を迎えることから、韓国における「戦争の伝承」の現状と問題点を述べたものです。記事では、『我が国の歴史教育は十分とは言えない。小学生に「6・25では誰と戦ったのか」と尋ねると、「知らない」と答える児童がいる。中学や高校では、教える側の先生に十分な知識がない』という識者の声を紹介するとともに、「朝鮮戦争」を題材にした連続ドラマを製作したプロデューサーの『朝鮮半島のすべてを破壊し尽くした朝鮮戦争は、戦争体験世代にとって早く忘れたい出来事だった。しかし、韓国が高度経済成長に入り、次の世代に体験を伝えようとした時、韓国は民主化闘争の中にあった。「反共」を掲げた戦争の体験談に、息子世代は拒否感を示した。その息子世代が40~50歳代を迎え、孫世代に戦争体験を伝える人がいなくなってしまった』という話も紹介していました。
 我が国との類似性に驚かされてしまいます。我が国でも、日米が戦ったことを知らない若者のことが話題になったことがありますし、「日帝」の侵略戦争に拒否感をもった団塊の世代の存在という「社会の雰囲気」も似ています。平和ボケと揶揄される我が国とは違い、北朝鮮との緊張状態があり、兵役がある韓国でさえ、戦争を伝承していくことは難しいことなのでしょう。
 しかし、日韓で大きく異なっている点もあります。ソウル市内にある「戦争記念館」での60周年特別展の内容に、日韓の意識の違いが表れています。記事には『会場でまず目に飛び込むのは、韓国製の最新型戦車「K2」の実物だ。天上からは朝鮮戦争時代のプロペラ機がつり下げられている~中略~「3月に起きた韓国海軍哨戒艦「天安」沈没の資料展示の準備を進めている」と明かした』と書かれています。
 つまり、軍事をタブーとしていないのです。軍事を抜きに戦争を理解することはできません。しかし、我が国では、戦争を伝えるということは、戦争に悲惨さを伝えることを意味し、兵器や戦闘について触れることは、「好戦的」「反平和的」という批判を浴びせられてしまいます。これでは情緒的な扱いしかできず、子供たちに戦争を理性的に理解させることなどできません。情緒的な反戦は情緒的な好戦に反転する可能性があり、本当の反戦にも平和教育にもなりません。戦争を科学する研究が行われ、その成果が「戦争の伝承」に活かされる仕組みづくりが必要なのだと思います。自民党よりも「反戦・平和」的政党と思われている民主党政権が始めれば抵抗感は少ないと思うのですが。
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継続取材の必要性

2010-06-24 07:51:37 | Weblog
「迎合せず」6月21日
 細胞生物学者の永田和宏氏が、今回の口蹄疫に関する報道について述べる中で、次のような話をされていました。『新聞記事は、決して読者の興味に合わせてはいけない、というのが私の強い思いである。読者が「またか」と思っても、大切なことは報道し続ける』というものです。
 貴重な指摘です。メディアも商売ですから、提供する情報が「売れ」なければ意味がありません。とはいえ、単なる営利企業とは一線を画するべきでしょう。しかし、現状は、常に読者が関心をもっている話題を中心に報道し続け、一つの問題を息長く追い続けることは稀であるように思えます。
 学校教育に関しても、こうした傾向は顕著です。今、いじめの問題は、たまたま自殺があったときだけ単発的に2.3回取り上げられるだけです。未履修の問題はどうでしょうか。まったく影も形もありません。教員の採用や昇任に関する不祥事に端を発した教委改革についても、その後の動向が報じられることはありません。学力低下問題についても、ほとんど話題になりませんし、学校選択制や学校理事会制度など地方発の改革の動向が報じられることも少なくなりました。モンスターペアレントは、テレビの特番ネタになってしまった観があります。教員免許更新制度の開始によって話題になった「教員の資質」についての報道は、制度廃止をうたった民主党が政権についてからはまったく下火になってしまっています。
 確かに、すべての問題について継続取材をすることは不可能でしょう。しかし、教育は長期的視野で論じていかなければならない問題です。読者が、「まだそんなこと記事にしてるの」と言っていても続ける、そんな姿勢が大切でしょう。そういった意味で、M新聞の「村山学園の一年」などは、好企画です。今後は、どこかのメディアで、「○○市教育委員会の一年」というような企画をしてもらえないものでしょうか。学校と教委、この2つを追いかけなければ、現在の学校教育が抱える問題は浮かび上がってこないと思います。ちなみに、以前「課長の1年」という教育委員会の指導課長の1年間の記録を綴ったブログがありましたっけ。

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無限可能性神話

2010-06-23 07:00:56 | Weblog
「無限の可能性神話」6月19日
 「トップ選手遺伝子に特徴」という見出しの記事が掲載されました。東京都健康長寿医療センター研究所の研究チームが発見したもので、『エネルギー効率を上げるのにかかわっているとされる遺伝子に特徴を持っている人の割合は、サッカーのような持久力の必要な元五輪選手では一般人に比べて2.4倍高いことが分かった。また、筋肉の収縮を調整する関連遺伝子に特徴のある人の割合は瞬発力の必要な元五輪選手で一般人より2.5倍高かった』というのです。私が気になったのは、その続きの部分です。研究に携わった研究員は、『「遺伝子だけで運動能力は決まらない。本人の努力や環境が大切」として遺伝子による選抜をしないよう呼びかけた上で、「今回の成果は、瞬発力か持久力のどちらが必要な競技にするかに迷った時や、トレーニング方法を工夫する際に役立つかもしれない」』と話したのだそうです。
 確かに厳密に言えばその通りなのでしょう。しかし、私は、この研究員がわざわざ「遺伝子による選抜」を否定したことに、我が国特有の「どの子供も無限の可能性をもっている」という建前が影響しているように思えてなりません。この建前に支配された我が国では、こうした捕捉を付け加えないと、過激な平等主義者から、猛烈な非難が寄せられる危険性があることを、本能的に察知しているからだったのではないかと思ってしまうのです。
 研究員自身が述べているように、遺伝子による検査が「瞬発力か持久力のどちらが必要な競技にするかに迷った時や、トレーニング方法を工夫する際に役立つ」のであれば、学校で子供から相談を受けた教員が、「君は自給型の遺伝子が多いから、短距離走よりも中長距離の選手を目指したらどうかな」というアドバイスをすることになります。それは、別の言い方をすれば、「君は長距離選手として可能性がある」ということであり、さらにきつく言えば「君は短距離には向いていないよ」というのとほぼ同じ意味なのです。
しかし、我が国では、特に学校教育の場においては、こうした言い方はタブー視されているのです。なにしろ「すべての子供が無限の可能性をもっている」ことになっているのですから。しかしこうした「神話」は、かえって子供や保護者を苦しめてしまいます。「無限の可能性がある」以上、目標を達成できないのは、子供の努力不足が原因であり、相応しい環境を整えてやることができなかった保護者の責任ということになってしまうからです。
 当たり前のことですが、人には向き不向きがあり、もって生まれた才能の差があります。身長165cm、徒競走ではビリかビリから2番目だった私が、NBAの選手になれるはずはありませんし、なれないからといって私が悪いわけではありません。
 もちろん私も、将来遺伝科学がさらに発展したとしても、すべて遺伝子で決まるというような考え方をしているわけではありません。ただ、こうした研究発表に際してさえ、「本人の努力や環境」という当たり前の常識にわざわざ言及しなければならない点に、我が国の「無限の可能性神話」の強さがうかがえ、そのことが、真面目な子供にあらゆる場面で無限の終わりなき努力を強いる構造に結びついていくのではないかと気掛かりなのです。

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白書の読み方

2010-06-22 07:53:53 | Weblog
「白書の見方」
 文部科学白書について、報じられました。ところが、その取り上げ方は、各紙で微妙に異なっていました。M紙は、『両親の年収が高いほど高校生の4年制大学への進学率が高くなっていることや、低所得層の割合が増加傾向にあることを踏まえ、経済的な困難さからの進学断念が増加し、教育格差が世代を超えて固定化していく恐れを指摘。経済協力開発機構(OECD)加盟国の中で日本は政府支出に占める教育費の割合が最下位であることなどを挙げ、教育への社会的な投資の充実を求める内容となっている』と書いていますが、Y紙は『09年度の全国学力テストの結果などを分析し、就学援助を受ける生徒の割合が高い学校は正答率が低い傾向があること、親の年収が400万円以下の子どもの大学進学率は31%なのに対し、同1000万円超だと62%に達することなどを指摘。子どもの学力の伸長が親の所得に左右される可能性があることなどをとりあげた』と書いているのです。
 どちらも結論は、『「経済的格差が教育格差に影響し、それが格差の固定化や世代間の連鎖につながりかねない。教育に社会全体として資源を振り向けることが喫緊の課題だ」とした』であり、同じなのですが、焦点の当て方は違っているのです。
 M紙は、家庭の経済状況を進路選択の制約という視点からだけ報じていますが、Y紙は、進路選択以前に学力においても経済力が影響を与えているという問題意識をもっています。もし、M紙のような考え方をするならば、貧しい家庭に現金を直接給付すれば、問題は解決することになります。現象面からいえば、400万円世帯の子供も1000万円世帯の子供も同じ進学状況になるということです。
 一方、Y紙の立場に立つと、直接給付により金銭的には進学が可能になったとしても、そもそも進学に必要な学力が身に付くようになるのか、という問題が残ることになります。どちらが現実に即しているでしょうか。私は、Y紙の見方に賛成です。
 そもそも現代の我が国では、家庭の経済状況は、家庭の教育力や教育観、子供観、人生観と密接な関係があります。人生において勤勉や努力というか価値観を重視し、子育てにおいて親の責任というものを自覚している層と高所得層は重なっている場合が多いのです。要保護を受けて振り込まれた金を給食費に充てず、パチンコや飲酒に費やしてしまうのは、経済的側面というよりも「親の質」の問題なのです。こうした家庭にいくら現金を注ぎ込んでも、居酒屋やパチスロ店が儲かるだけということになりかねません。
 白書がいう『教育に社会全体として資源を振り向けることが喫緊の課題』であることは確かですが、その方法については、まだまだ議論が必要です。私としては、教員増を図ること、教員の待遇改善により教員志望者の増加を促し選抜による資質向上を可能にすること、これらの策により公立学校の底上げを図り「普通の学校から東大へ」を可能にすること、などに力を注いでほしいと思います。親としての自覚のない無責任な親へのバラマキでは意味がありません。

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参院選マニフェスト

2010-06-21 07:36:05 | Weblog
「参院選マニフェスト」6月18日
 来月11日投票の参院選の主要政党のマニフェストが公開されましたが、教育、特に小中学校教育に関する具体的な方針は大変乏しいというのが私の印象でした。いくつかの政党に共通してみられたのが、少人数学級の実現と教職員の政治活動への制限強化で、教員の指導力の向上について目新しい提案はありませんでした。
 確かに国民の問題意識は、経済や財政、社会保障など、直接今の暮らしに響いてくるものに向かっています。しかし、菅首相の言う「強い経済」一つ取り上げてみても、そこには長期的視点での人材育成は欠かせません。そして、人材育成というと、科学や技術などの分野で先進的な研究をする人を増やすというような発想が主流となっているようですが、経済発展において大切なのは、実際に社会や組織を動かす「中間層」の質の高さと層の厚さだと思います。ここでものをいうのは、義務教育である小中学校(実質義務化の高等学校)までの教育であり、それを担う教員の質なのです。
 しかし、民主党の教員養成課程6年化も自民党の教員免許更新制の強化も、制度論に終始し、望ましい子供像、あるべき学校像、求められる教員の能力、教員の能力育成のあり方という根本の議論になっていません。
 参院選が近づくにつれて、各党代表者による討論会が開かれることでしょう。今までのような総花的な討論会ではなく、テーマごとに各党のその分野の専門家を出席させ、集中的に討論し、有権者も質問の形で参加するというような企画を10日間くらい連続でやってくれるメディアはないものでしょうか。そうすれば、1回くらいは教育の話もしてもらえると思うのですが。

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