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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「当たり前」が難しい

2015-12-25 07:28:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「本当は大変なことなんだけど」12月20日
 日本医大特任教授の海原純子氏が、『「あたりまえ」に潜む傲慢さ』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、上司が自分の働きを認めてくれないと嘆く会社員とのやりとりを紹介しています。『「よかったねとか、いい結果だとかはないんですか?」ときいたところ、「いえ、それはあたりまえ、それが給料だろ、って」』と。その上で、『「あたりまえ」という意識に潜む傲慢さが嫌なのだ』と書かれています。
 さらに、『いくら給料をもらっていても、給料だけでそこに感謝やねぎらいや共感がなければ、喜びは生まれない』とも主張なさっています。その通りだと思います。海原氏は、この問題を個人対個人という関係の中で述べていらっしゃいますが、もっと大きく集団対集団という関係で考えることも重要だと思います。
 私は、教員という「集団」と社会という「集団」という対置で考えてみました。教員の仕事は、うまくいって「あたりまえ」という性格をもっています。つまり、不登校にならずに卒業するのは「あたりまえ」、学校で事故に遭わずに過ごすのが「あたりまえ」、いじめに遭って悩み苦しむことがないのが「あたりまえ」、全ての子供が授業を理解できて「あたりまえ」、授業中に騒がしくなく立ち歩く子供がいないのが「あたりまえ」等々。しかし、実際には、こうしたことはかなり大変なことなのです。
 私自身、新卒の頃は、授業中に大声で怒鳴らなければならないこともしばしばでしたし、不登校やいじめは中堅教員になってからも何回も直面させられました。事故についても、医師から「覚悟しておいてください」と言われた深刻な状況に至ったこともありました。幸い奇跡的に回復し後遺症も残りませんでしたが。
 もちろん、こうした不都合な事態のときには、責められなじられ怒鳴られるわけで、そのことは当然だと受け止めるだけの覚悟はありましたが、考えてみれば、普通な平穏な状況を維持して、感謝されたこともねぎらわれたこともほとんどありませんでした。
 教委に勤務するようになると、首長部局から異動してきた上司から、「教員免許があるんだから授業なんかできて当然」と言われ、指導力不足教員の研修など無駄遣いのように言われました。「30人の子供を毎日、一定時間教室内の椅子に座らせておくだけでも結構難しいことで、あなたにできるものならやってみろ」と、言いたくなるのを抑えている日々でした。
 そうした経験を通し、私は世間の人が教職に抱いているイメージについて、「デモシカ教員と言うぐらいで、教員などは大学を卒業してもいい企業に就職できなかった無能者だったり、民間企業の厳しい競争を嫌った怠け者だったりした連中がなるもので、子供相手に、普通の大人なら誰でももっている程度の知識の切り売りをしていればすむ気楽な商売なのに、給料だけは人並み以上」とでもいうような見下し感を感じるようになりました。もちろんここにはある程度の被害妄想が含まれているのは理解しています。でも、そんなに間違っていないように思います。
 その結果が、感謝もねぎらいも共感もない、という状況なのです。だから、教職に喜びを感じることができない教員が増えているのです。それは教員の意欲低下につながり、最終的には、教育の質を低下させていくのです。まあ、橋下前大阪市長のように、政治家が率先して教員攻撃を繰り返すような状況下では、望むべくもありませんが。

 

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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教師の相手は子どもでは (菊池 浄)
2015-12-25 15:19:29
私も20年前まで教師でした。
いつも当然と思うのは仕組みの上の方で、
私には関係なく、子どもが毎日新鮮だったから、飽きずに面白く40年近くを過ごしました。田舎の小学校です。
子どもには当然は無いと思ったら日常が面白いのでは無いでしょうか。
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Unknown (ブログ主)
2015-12-26 07:30:31
菊池様、コメントありがとうございました。今後も適宜ご意見をちょうだいできればありがたいです。
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