ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

いくら出来ても、分かっていても

2021-04-30 07:45:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「分かっているだけ」4月26日
 大場あい記者が、『小学生に分かる言葉で』という表題でコラムを書かれていました。その中で大場氏は、『「小学校3年生に原稿を読み聞かせ、彼らがわかる言葉を選び、何度も書き直しました」。環境NGO「WWFジャパン」の小西雅子の著書「地球温暖化を解決したい」で、最新の研究成果などの説明がとても分かりやすかったのでコツを尋ねると、そんな答えが返ってきた』というエピソードを紹介なさっていました。
 トランプ前大統領に読ませたい、と思いましたがそれはここで述べたいことと関係ありません。小西氏については存じ上げませんが、市民向け講演を数多くこなすなどのことから、地球温暖化問題の専門家であることは間違いありません。また、研究室に閉じ籠っているのではなく、著作や講演などで活動する実践家、つまり、単に知識をもつだけの専門家ではなく、問題について自分で考え自分で解決策を見出し、行動する真の専門家だということでもあります。
 そんな小西氏でも、相手に分かるように伝えるには、「小学生に読み聞かせ~」というような努力が必要なのです。分かっていること=伝えられることではないということです。このことを、全ての教員は肝に銘じておく必要があります。
 私は教委勤務時に、指導力不足教員研修を担当していました。小中高の教員がいたのですが、小学校と中高の教員では、そのタイプが違いました。小学校の教員は指導法が拙いと同時に、基本的な知識が不足している者がいました。理科の授業で「水蒸気は湯気」などと言ってしまうイメージです。
 一方、中高の教員では、担当教科の親学問については、同僚教員に劣らない知識や技能をもっているにもかかわらず、それを生徒に伝えることに無関心な者が多かったのです。ある高校の英語教員は、同僚の中でも一番といわれるほどの英語力をもっていました。しかし、彼の授業は一方的に話し、それで終わりというものでした。分からないのは生徒のせい、分からない奴は馬鹿という上から目線が顕著に感じられ、生徒は質問さえする気が起こらず、教室にはいても授業には参加していないという実態だったのです。
 校長はそんな彼の英語力を「評価」し、「君なら教員などしていなくても、引く手数多なはず」と言い、彼は研修にも身が入らず退職していきました。大変誇り高い人物で、私が「研修に身が入っていない」ことを指摘すると、「お前に俺の真価がわかるか」という目でにらまれたものでした。まあ、実際彼の英語力については、同僚の英語専門の指導主事に聞いて、そうなんだと思っただけですからしかたありませんが。
 このブログで何回も繰り返してきましたが、教員は教える専門家です。いくら自分自身が多くの質の高い知識や技能を身につけていようが、それを相手に応じて伝える技術をもたなければ、宝の持ち腐れであり、教員としての責任を果たすことができません。全ての教員は、小西氏の姿勢に学ばなければならないのです。
 以前も書いたことですが、私には教員としての劣等感があります。それは5、6年生を担任することが多く、低学年の子供に分かるように話すという経験が乏しかったことです。1年生に分かるように話せる教員は、3年生でも5年生でも、分かりやすく話せることが多いのですが、私は1年生の補教がつくと、気が重くなるというダメ教員だったのです。
 頭の中に、受け持ちの子供の2学年下くらいを想定して(理解の遅い子を想定して)伝えるイメージトレーニングを重ねていくことが大切です。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内容に触れずに評価する愚

2021-04-29 07:48:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「盲従」4月25日
 『信念貫くのが大事』という見出しの記事が掲載されました。『君が代訴訟 原告集会』の様子を報じた記事です。処分を受け裁判を起こしていた教員は、私も面識があり、彼女の授業についても見知っています。彼女については、私なりの判断がありますが、ここでは触れません。ただ、記事の内容については、恐ろしいほどの偏りがあることだけは指摘しておきたいと思います。
 記事によると、『早稲田大学の岡田正則教授は「教育者としての信念を生徒たちに伝えることは大事」』と評価なさったということです。おそらく、実際にはもっと詳細に語っていらっしゃるのだと思います。そうでなければ、とんでもない暴論だからです。
 この表現をそのまま受け取れば、公立学校の教員は、学習指導要領など無視してよいと言っていることになるからです。それでは、公教育は成り立ちません。このように書くと、学習指導要領は一方的な価値観を押し付けているのだから、それに抵抗することは「善」であるというような趣旨の反論をなさる方がいそうです。
 そうした反論をなさる方には、「南京大虐殺などなかった」「先の戦争は欧米諸国の圧政に苦しむアジアの人々を開放するという高い志に基づく聖戦だった」という信念をもった教員が、受業で自らの信念に基づいた授業をしたとき、とても良いことだと評価するのかと問いかけたいと思います。イエスと答えるならば、私の考えとは異なりますが、少なくとも一貫性があることは認めますが、ノーであるならば、結局、自分の考えや価値観にあった信念は評価するということに過ぎなくなってしまいます。それを偏向教育というのです。
 また、『教科書に載らない歴史も資料を出して生徒に考えてもらった。教員になってからずっと同じ姿勢でやっていた』という原告の彼女の声を肯定的に紹介していました。私も社会科を研究教科とし、教員時代も、指導主事になってからも、全国大会や各種研究会で実践研究を発表してきました。その全てで「教科書に載らない資料」を使いました。
 そんなことは当たり前です。教科書は主たる教材であり、「主たる」という意味は、必要に応じて他の資料等を使うことには何ら問題はない、ということです。ですから、私を含め多くの教員が、「教科書に載らない資料」を探し、作成して、活用しているのです。そして、「教科書に載らない資料」を使ったからといって、そのことだけを理由に処分されることもありません。
 問われるのは、その資料の内容なのです。どんな資料をどのように使ったか、その結果子供の学びがどのように深まったり、刺激を受けたりしたか、なのです。そのことに触れず、「教科書に載らない資料」を使ったこと自体を、何か特別な価値がある行動であるかのように位置付けるのは、とんでもない間違いです。
 新聞記事には、字数やスペースの制約があります。記者はその中で、膨大な情報を整理し、圧縮して示さなければならないのでしょう。その過程で省略しなければならない部分があることは理解できますが、そのやり方次第では、重要な論点である、信念の中身、資料の内容の適否について誤った印象を与えかねないことに留意してほしいものです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二流ですが何か

2021-04-28 08:08:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「義務教育全てに通ず」4月23日
 読者投稿欄に、江別市の塾講師I氏の『一流目指さずこつこつ』というタイトルの投稿が掲載されていました。その中でI氏は、大リーガー大谷翔平選手、マスターズ制覇の松山英樹選手、五輪代表に復活した池江璃花子選手について、『人の見えないところで努力した結果』と称賛しています。
 その上で、『私は一流を目指しません(略)おごらず実直な二流講師としてこつこつ努力を続けていきます』と書かれているのです。では、I氏は怠惰で無気力な人物なのかと言えば、『授業の予習は、仕事から帰宅した深夜から朝方にかけてしています。家族はみんな寝静まっています。1コマの授業に対する予習には、だいたい倍の時間をかけます』という努力家なのです。
 好きです、こうした考え方が。そして、I氏の姿勢は、義務教育という場において、とても大切なものだと思います。まず、義務教育は、特別な天才やエリートを育てるためのものではありません。二流という言い方が良いのかは分かりませんが、普通の人に平凡な生き方ができるだけの知識や能力を身に着けさせることを狙いとしたものです。小中学校の体育の授業では、池江選手のような泳力や、大谷選手のようなパワー、松山選手のような体幹とバランス感覚を身に着けさせようとはしていません。ゆっくりでも50m泳げ、草野球を楽しめるだけの体力や運動神経が育てば御の字なのです。
 つまり、教員は、一流選手を育てる名コーチである必要はなく、その代わり広く大勢の子供にスポーツの楽しさを味わわせ、スポーツへの興味をもたせることを狙うべきなのです。それを二流の指導力というのであればそれでよいと考えるべきなのです。
 教員論をもう少し続けます。教委勤務時に指導力不足教員の研修を担当しました。また、教育研究員の指導や各校の校内研修の講師などの機会を通して、多くの教員の多くの授業を見て、指導してきました。その際心掛けていたのは、普通の教員を育てるということでした。
 世の中には、メディアに取り上げられ、注目される教員、仮にスーパーティチャーとでも呼ぶべき人たちがいます。教育法則化運動を主導した向山洋一氏、夜回り先生として今も活躍している水谷修氏などです。お二人には私もお目にかかったことがあります。立派な方々でした。こうした方々の活躍は、人々の学校というもの、教員のという者への関心を高め、考えるきっかけを与えてくれたという意味でも貴重なものです。
 しかし、東京都だけでも、4万人を超す義務教育諸学校の教員すべてが、そんなスーパーティになれるはずはありません。そうでなければ教員失格というのであれば、東京都には10人の教員も残らないでしょう。教員としての合格点が65点だとすれば、100点満点や95点の教員を全員が目指すのも、教委や校長が95点を目指せというのも無用のプレッシャーを与え教員をつぶしてしまうという、弊害が大きいだけです。
 I氏のように、遅くまで授業準備に費やして頑張っても、多くの教員は二流どまりなのです。それでいいではありませんか。ただし、努力を続けなければ二流であり続けることもできないというのが教員の世界なのです。昨日まで二流でいられたからといって、怠ければ二流の地位も保てないのです。ですから、二流は誇るべき勲章なのです。
 全国の教員のみなさん、二流をキープし続けていますか。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

健康に良い職場

2021-04-27 07:31:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そうだとしたら」4月22日
 千葉大予防医学センター教授近藤克則氏が、『「暮らすと健康」なまち』という表題でコラムを書かれていました。その中で近藤氏は、『小学校に近いところで、うつが少ないことが分かった』と書かれています。具体的には、『小学校から400㍍以内に暮らす人に比べ、より遠くに暮らす人たちで、うつが6~7%多かった。ただし、性差があり、女性のみで見られた(略)子どもの声や姿がある方が、にぎやかで明るい気分になりそうだ』ということです。
 学校について、今まで考えたこともない視点からの調査結果です。どのようなメカニズムでこうした結果が得られたのかは、今後の研究課題のようですが、とても興味深い事実です。この調査結果を基に、いくつかのことが頭に浮かびました。
 まず、近年、児童数の減少などを理由に小学校の統廃合が進んでいますが、健康政策という視点から、小学校を存続させるということのメリットが増えるということです。社会の複雑化に伴い、精神を病むケースは増えることが予想され、それに対応して医療費が増加することも確実です。小学校の存在がその減少につながるということならば、考えることは無駄ではないはずです。
 また、同じようなことですが、小学校を含む子供施設の建設ということについても、影響がありそうです。昨年、東京の一等地港区青山で、児童養護施設の建設に反対運動が起こりました。土地の資産価値が減ずるという理由からでした。この事例に典型的に表れているように、子供の声や登下校時の通行は、当該児をもたない住民にとって、うるさい、散らかす、邪魔などマイナスでしかなく、学校や児童施設は迷惑施設化していました。
 しかし、子供の声や姿には健康効果があるということになれば、人々の意識も変わってくるかもしれません。
 最後に、小学校の教員採用への影響です。女性にとっては、子供の声や姿は健康にいいということは、女性にとって魅力ある職場ということを意味します。実際、小学校の教員には女性が多いのですが、もしかしたら無意識のうちにこの健康効果を感じ取っていたという可能性もゼロではありません。教員志望者の減少が問題となっている現在、こうした点をアピールしてみることを採用担当者も考慮すべきかもしれません。もっとも、これ以上男女比率が偏るのは困るという考え方もあるかもしれませんが。
 そして個人的な疑問として、どうして中学校や高校ではこうした効果がないのかが気になります。確かにあまり可愛くはありませんが。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「天賦」では救われない

2021-04-26 08:05:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「専門職同士なのに」4月20日
 映画監督山田洋次氏が、『人間的魅力「いい人」』というタイトルで、先日亡くなった俳優田中邦衛氏への追悼文を書かれていました。その冒頭、山田氏は、『映画俳優にとって必要な資質は、一にも二にもその人が持って生まれた人柄、つまり人間的魅力であり、演技力はその後である』と書かれているのです。
 私は俳優というのは、専門職だと考えていました。演じるということにおいて、素人とは違う高度な能力を有している人たちだと思っていたのです。一方で、教員も専門職であるというのも、私の持論です。教えるということについて、より具体的に言えば、一定の規模の集団に対して、決められた内容を決められた時間で教えること、つまり授業の専門家ということです。そして、専門職というのは、何よりもその分野における能力こそが重要であると考え、教員にとっては授業力こそ大事であり、その能力なしには、如何に「いい人」であったり、高潔な人格者であっても、教員を名乗る資格はないと考えているのです。
 ですから、名監督の山田氏が、俳優は人間的魅力が大事と語ることに違和感を覚えたのでした。もちろん、何の職であれ人間的魅力はないよりもあった方がよいと思います。孤高の芸術家とでもいうならばともかく、組織で働く人間であれば、人間的魅力は人間関係を円滑にし、協力を成り立たせ、職場の雰囲気に好影響を与えるでしょう。しかし、100kmの速球しか投げられないピッチャーはプロ野球では必要とされませんし、かすれ声しか出せない歌手はオペラの舞台には立てないでしょう。
 もちろん、映画俳優については何も分かりませんから、山田氏のおっしゃっていることが間違っているというつもりはありません。ただ、こうした「持って生まれた人柄、つまり人間的魅力」を重視する考え方は、そうした資質に恵まれなかった人は努力しても無駄ですよ、と言っているのに等しいという点で、受け入れがたいのです。
 私は教委に勤務しているとき、指導力不足教員研修を担当していました。そこでの基本的な考え方は、教員に向き不向きや能力の差はあるが、努力(研修)を重ねれば、一流の教員にはなれなくても「普通の教員」にはなれるはず、でした。そうでなければ、研修や努力は意味を失います。そして、教育という営み自体が、「持って生まれた~」、つまり遺伝決定論ではなく、人は環境によって変わることができるという考え方に立たなければ存在理由を失うものなのです。
 私は末っ子に生まれ、人に甘えることは得意でも、人を優しく受け入れ包み込むことが苦手な性格です。私のことをよく知る両親や姉は、私が教員になると聞いて、「無理なんじゃないの」と言いました。私も内心、同じ懸念を抱いて教員になりました。そして、やはり向いていないと思いました。でも、教員の在り方を行動で示してくれる大先輩と出会い、その後姿を追ってそれなりの「努力」を続けることによって、平均点の教員として教職を続けることができたと思っています。
 「持って生まれた~」論に反発を覚えてしまうのは、そんな自分の教員人生を否定されたように感じるからなのかもしれません。本当のところはどうなのでしょうか。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名教員の虚名

2021-04-25 08:23:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「誰しも思い当たる」4月20日
 川柳欄に、箕面市のM氏による『摘んだ芽の数は問われぬ名コーチ』という句が掲載されていました。私はこの句を目にして、20年ほど前に読んだコーチングの本を思い出していました。
 そこでは、スポーツの分野を例に、自分の経験に頼り、選手の個性をや考えを認めず、一方的な指導を押し付けるコーチや監督の姿が描かれていました。野球のイチローの振り子打法を認めず、変えようとしないイチローを一軍に上げようとしなかった某打撃コーチ、アウトボクシング型の選手にファーター型の自分のスタイルを押し付ける元五輪選手のコーチたちの愚かしさを指摘する内容でした。
 その中に、「○○は俺が育てた」というのが口癖の野球のコーチが登場します。○○は確かに名選手であり、そのコーチの指導を受けていたのですから、言っていることに嘘はありません。相性が良かったのでしょう。しかし、その陰に隠れて、入団時にその将来性を嘱望されていたにもかかわらず、そのコーチの指導で「(良さを)潰された」選手たち、若くして球団や球界を去っていった選手たちの姿も描かれていたのが印象に残っています。しかも、その中の何人かは、他球団に移りタイトルを獲得したり、米国に渡り3Aではありますが中心選手として活躍したというのですから、コーチの手腕のなさが浮き彫りになっていたのです。
 私はスポーツの話をしたいのではありません。学校の教員にも、自分が摘んでしまった芽のことは考えずに、結果として大きく成長した芽だけを自分の手柄、自分の教員としての能力の高さとして誇り、自己満足している輩がいるのではないかということを言いたいのです。
 私自身は、授業も学級経営もあまりうまくなかった教員であることは以前にも述べました。しかしそんな私でも、立派な教え子は何人かいます。早くに母親を死別しながらも、母の死から介護事業に目を向けるようになり、訪問介護の会社を立ち上げ、その後老人だけでなく子供の成長にも視野を広げ、新たな組織をつくり上げ、区の事業者団体の会長や委員会の委員としても活躍している女性。担任していたときから美術方面に優れたセンスを感じさせた男児は、その後デザインの世界に身を投じ、多くの列車をデザインするとともに、デザイン会社を経営し、大学でも教鞭をとっています。この例など、私は図工をの授業は一時間も担当していないのですから、まさに自分の手柄という要素は少しもありません。
 でも、自分が担任していた子供であることには違いがありません。彼らを「悪用」して自分の教員力をアピールすることも不可能ではありません。実際、私が某雑誌に原稿を掲載した後、編集者から、「先生の主張に力をもたせるために、教え子の方を紹介させていただき、その方に先生について語っていただきたいのですが」という申し出を受けたことがあります。私がつい口を滑らし、雑談の中で、「教え子に今こういうことをしているのがいて~」と話してしまったことに食いついてきたのです。もちろん、断りました。編集者が聞いた挙句、「ダメな先生だった」などと言われては恥ずかしいですから。
 一方で、私にマイナスの感情を抱いている教え子が膨大な数いることも確かです。さっと思い浮かぶだけでも、十数人はいます。「冷たい対応をしてしまったな」「一方的に決めつけて叱っていたな」「本当は困っていたのを感じていながら無視してしまったな」「自分の感情をぶつけてはけ口にしてしまったこともあったな」など、具体的な場面とともに、そのときの教え子の顔が浮かびます。
 将棋のプロ棋士は、勝った対局は忘れ、負けた対局のことは記憶に刻み込み、敗因を検討し、次の対局に備えると言います。教員は、子供自身の力でたまたま上手く成長してくれた教え子だけを思い浮かべて、自分は名教員と思っているようでは、指導力不足教員への道を突き進んでいるということを自覚すべきです。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガス抜き、でよいわけはない

2021-04-24 08:11:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「各論は?」4月20日
 『ブラック校則の見直し 子どもの人権守る視点で』と題された社説が掲載されていました。地毛申請や校則違反の下着は脱がせるなどのブラック校則の例を挙げ、『子どもの人権は尊重されなければならない。学校のルールづくりに主体的に関わる取り組みを全国に広げる必要がある』と訴える内容です。
 子供の人権尊重、いわゆる自己決定権の尊重が大切であることには異論はありません。ただ、この社説を書かれた方が、「(子供が)学校のルールづくりに主体的に関わる」ということについて、具体的にどのようなイメージを持たれているのかが分からないのです。
 子供たちがルールについて、意見を表明する機会を設けるということなのでしょうか。もしそうであれば、意見のある者は所定の用紙に自分の意見を書き決められた期日までの提出するというようなシステムが考えられます。
 あるいは一歩進めて、集会のような場で自由に議論し、その結論なり、討論の経過なりを報告するという形も考えられます。また、こうした際の「議題」についても、学校側がこのルールについて意見が欲しいという形を採るのか、子供側がこのルールについて意見を述べたいと発議するのか、という点も重要になります。
 さらに、見直しの問題も考えておく必要があります。子供側の意見を取り入れて決定したルールは、どれくらいの期間をおいて、どのような手続きで変更が可能になるのかということです。これを明確にしておかないと、ルールが安定しません。短期間で異議申し立てが行われ、ルールがころころと変わるというのでは、ルール遵守の姿勢が育たないのです。
 そして最大の問題点は、ルール決定権を誰にもたせるか、ということです。組織においては、権限と責任のバランスが大切です。決定や執行の権限がないのに結果については大きな責任を負わせるというのも、その逆に、権限をもつのに責任を負わないというのも、組織を混乱させるのです。学校という組織体は、校長が経営権をもつというのが従来の解釈です。教職員運動が活発な頃、職員会議を学校の最高決定機関と見做そうという動きがありましたが、今では明確に否定されています。もちろんそれは、校長独裁を肯定しているのではなく、校長は教職員や保護者地域住民等の見解を十分考慮しながら、最終的に自分の責任で決断するということなのですが、形の上では権限と責任のバランスが取れているのです。
 社説の主張は、校則については、校長の決定権を認めないという趣旨なのでしょうか。それとも、手続きやシステムはどうあれ、校長には子供の意向を覆す権限を認めるということなのでしょうか。この点を明確にしなければ、子供がルール作りに主体的に関わる仕組みづくりは進めることができないと考えます。
 最後にもう一つ、子供の意思決定に教員の関与をどうするかという点についても整理が必要です。一部の教員が子供を巧みに誘導し、子供に自分たちの意思を代弁させ、子供の意向というということを錦の御旗に押し立てて、学校運営に影響力を及ぼすという事態への懸念があるからです。実際、「子供たちは卒業式に君が代は歌いたくないと言っている」と言い、卒業式に出席させないという圧力を用いて、卒業式の国歌斉唱を当日になって中止させた事例を経験しているからです。
 社説を書かれた方の詳細なイメージをお聞きしたいものです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マニュアルでは解決できない

2021-04-23 08:19:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「拒絶されたら」4月19日
 『LGBT 適切な対応を』という見出しの記事が掲載されました。『職員らがLGBTなど性的少数者について学び、当事者に適切な対応ができるよう、足立区が「LGBTガイドライン」を作成した』ことを報じる記事です。
 その中に、『教員が子どもから悩みを相談された場合(略)一部の教員だけで抱え込まず本人の同意を得た上で管理職やスクールカウンセラーらとチームを組織して対応したり、本人に対して何に困っているかを尋ねたりする』という記述がありました。これが曲者なのです。
 一見すると、当たり前なことを述べているにすぎないように思われるかもしれませんが、この方針に沿って対応しようとすると、教員が困惑してしまうケースがあるのです。まず、「本人の同意を得た上で~」ということについてです。素直に解釈すれば、本人の同意がない限り他の教員や管理職、SCなどに話してはいけないということになります。つまり、「先生だけに話すんだから、他の人には絶対言わないでね」と子供から言われた場合、一人で抱え込んでいくしかないということになるのです。
 一人で抱え込んで、適切な対応をとることができず、問題が発生した場合、その教員は周囲から「どうして相談しなかったのか」と言われ、管理職からは「報告があれば助言できたのに」と責められることになります。
 では、子供との「約束」を破り、管理職に報告したとしたらどうでしょうか。管理職からSC、学年主任、生活指導主任、養護教員などに伝えられ。チームがつくられるでしょう。そして、多くに人が関わるようになれば、「秘密」は必ず漏れてしまうものなのです。その結果、子供が教員に裏切られたと思い、心を閉ざし、不登校や自殺等の行動に出た場合、やはりその教員は、子供の信頼を裏切ったと非難されることになります。
 実際には多くの教員が、「絶対に秘密は守るから、○○先生にも話を聞いてもらおうよ」などと言って子供に。組織的対応への同意を求めるはずです。その教員が指導力があり、子供に信頼されている教員であればあるほど、子供は説得されるでしょう。しかし、その際、教員に不本意な対応を強制された、という思いを抱く可能性は無視できません。そして子供がそう感じたとしたら、その後の対応に必要な信頼関係が損なわれてしまうのです。
 また、「何に困っているかを尋ねたりする」というのも、実は簡単なことではありません。現時点では秘密にしているので問題は発生していないケース、何か苦しさを抱えてはいるのだがうまく言語がして表現できないケース、困っていることはあるのだがそんなことでと言われそうで言い出せないケース、自分は自力で解決できる人間だと思われたいという気持ちから教員と言えでも他人を頼りたくないと思うケース、など様々な理由で子供が「大丈夫です」と言ってしまうことが少なくないからです。
 未熟な教員は、子供の言葉を鵜呑みにし、まだ深刻な状況ではないと誤認し、「何か困ったことがあったらいつでも言いに来てね」と言っただけで放置してしまった結果、重大事態を招くというのは、いじめ問題でもよくあることなのです。
 ガイドライン頼りではない、教員の力が求められているのです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弱者で申し訳ない

2021-04-22 08:31:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「弱者で申し訳ない」4月17日
 書評欄に、東大特任講師内田麻理香氏による『文部科学省 揺らぐ日本の教育と学術 青木栄一著(中公新書)』に対する書評が掲載されていました。その中に『文科省は官邸や他省庁などに対して弱腰だが、教育委員会や国立大学には強い姿勢をとる。文科省は外部から十分な予算や妥当な条件を引き出すことができないまま、前線依存の組織文化で現場に努力を促すため、教育委員会・学校や国立大学にしわ寄せが及ぶことになる』という記述がありました。
 そして青木氏は、『文科省に「金目の議論、ロビイング、政治から逃げない」こと、つまり外部とまともに交渉する姿勢を求める』のです。全て頷ける指摘です。私は小学校社会科の教科調査官以外に文科省に知人はいませんが、自分が勤務したいくつかの教委での経験を通して、地方自治体における教委の特質については理解しているつもりです。その特質がまさに青木氏が言う「官邸(首長)や他省庁(他の首長部局)などに対して弱腰」であり、「外部(首長部局や議会)から十分な予算や妥当な条件を引き出すことができないまま、前線依存の組織文化で現場に努力を促す」なのです。
 言い訳ではありませんが、それには仕方のない部分もあるのです。私が某市の指導室長として都教委から派遣され赴任したとき、その役所内に知っている職員はゼロでした。もちろん、議員の中にも知人はゼロでした。赴任してから1カ月ほど後に、市の課長以上の管理職と議会の議員との懇談会がありました。小さな市だったので皆さん顔馴染み、乾杯から30分もたつと、あちらこちらで笑い声が聞こえ、アルコールのせいか参加者は大声で話していました。
 私はといえば、優遇されて(?)市長と議長と同じテーブルでしたが、表面的な世間話以上に話すこともなく、ひたすら時間が過ぎるのを待っている状態でした。そんな状況で、「うちの課でで、どうしてもやらなくちゃいけなくて。○○議員も地域から突き上げられてるってこぼしていたし。ねえ、Aちゃん、頼むよ」と財政課の課長に他課の課長が頼み込んでいるのに対し、私は「この4月に着任してまいりましたBでございます」から交渉を始めなければならないのです。あちらは市役所に入所依頼30年のつきあいで、~ちゃんと呼ぶ関係、こちらは顔も覚えてもらっていないのです。役所内に人脈があるわけでもなければ、どこをどう押せばよいのかという勘所も分かりません。与党の議員を使おうにも話したこともないのですからどうしようもないのです。
 もちろん、だんだんと人間関係を築いていきましたし、部下の課長補佐や係長、教委内の他課の課長などに力も借りて仕事を進めるようにはなっていきましたが、大きなハンデがあったの事実です。そして何よりも、教委には他課との取引材料がありません。こちらの要望を受け容れてもらう代わりに相手の要望を受け容れるという取引材料に乏しいのです。それは与党議員に対しても同じです。せいぜい、質問に好意的に答弁するくらいで、こちらから何かを与えるという取引は難しいのです。
 そんな私でも、区や都での長年の教委勤務歴、統括指導主事という管理職を経ていること、実質的に教員の人事権を握っていることなどを背景に、校長たちはよくはなしを聞いてくれました。私自身はそうしたつもりはなかったのですが、結果として「前線依存の組織文化で現場に努力を促す」ことになっていたのは否めません。
 教育って、利権もないし弱いんですよね。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

認定せず、の過ち

2021-04-21 08:31:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「認定せず」4月17日
 『パワハラを認定せず』という見出しの記事が掲載されました。全空連が練習中に選手を竹刀で負傷させた強化委員長の解任を決めた理事会の経緯を文書で公開したことを報じる記事です。記事によると、『植草が訴えたパワーハラスメントについて「解任した以上、その余の事実の調査には及ばない」として認定しなかったことを明らかにした。今後の判断は練習場所だった帝京大の調査に委ねる』のだそうです。
 驚きました。こんなことが容認されているなんて、いつの時代の話だと思いました。私は、教委勤務時に、教員の処分に関わる職務を担当していました。例えば、子供から教員のわいせつ行為について訴えがあったとします。そのとき、嫌がる子供の手を強く引っ張り、ケガをさせたという事実が判明したとして、そのことを理由に懲戒免職処分をしたから、わいせつ行為の有無は調査しない、今後は校長の調査に委ねる、と言ったらどうでしょうか。
 市民からも、議員からも、多くのメディアも、猛烈な非難を浴びせてくるでしょう。文科省からも直ちに是正を求められるでしょう。何よりも、被害者とその保護者が決して容認してくれないでしょう。
 もし、わいせつ行為を教委として認定しなければ、被害者とその保護者は虚偽の申し立てをした、もしくは針小棒大に、ちょっとした体罰をわいせつ行為にでっち上げ、気に食わない教員を陥れたとみなされてしまうかもしれないのですから。そうなれば、加害者になり、その地域には住んでいられなくなってしまうことさえ考えられます。
 今回の記事は、200字ほどのごく小さな扱いでした。大したニュースではないと扱われたということでしょう。本当にそれでいいのか、とても疑問です。
 私は教委勤務時に、教員ののぞき、体罰、買春、セクハラなど多くの事例の処分に関与してきました。どれも、事実関係を明らかにするために大きな労力を費やしました。正直、一件の不祥事への対応で、数週間、他の仕事が大きく遅れてしまうこともありました。部下にも大きな負担をかけました。それでも、事実を明らかにすることが教育行政への信頼をつなぎとめるうえで重要だと考えて対応してきたのです。全ての教委において、こうした姿勢は今も変わっていないのです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする