ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

常識を自分で確かめる

2019-10-31 07:49:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「みんなそう思っている」10月24日
 お茶の水健康長寿クリニック院長白澤卓二氏が、『楽観主義と健康長寿』という表題でコラムを書かれていました。その中で白澤氏は、『米ニューヨークのマウントサイナイ・聖ルーカス病院のアラン・ロザンスキー博士らの研究チームは、楽観主義が心臓病の死亡率と全死亡率を下げることに有意に関与していると報告した』と書かれていました。
 難しい言い回しをしていますが、要するに『楽観主義的に行動した方が健康長寿への道が開けそうだ』ということです。医学的なことには素人の私もつれあいも、このコラムを読んで、「そりゃそうだろうね。何となくそう思っていたし。そう思っていた人って多いんじゃない」という感想をもちました。つまり、当たり前のこと、常識的な感覚のことをわざわざ調べた、という感じです。
 誤解のないように書いておきますが、アラン博士の研究や、そのことを紹介してくださった白澤氏が、無駄なことをしていると言っているのではありません。私は、教員時代に取り組んだ様々な研究のことを思い出したのです。私もつれあいも、東京都の教員にとって「3種の神器」と言われた、教育研究員、開発委員、教員研究生を経験し、区市の教育研究会でも研究部長等、研究の中核を担ってきたという経歴があります。研究好きだったと言ってもよいでしょう。
 私は教委に勤務するようになってからも、指導担当者として教員の研究の指導に当たってきました。そうした全てを思い出すとき、「当たり前のことを改めて言う」研究だったと思うのです。
 教員が行う研究も、仮説を立て、実際に授業を重ねて検証するという形を取ります。その結果明らかになるのが、「子供の興味関心を生かした学習問題を設定することができれば学習意欲が増す」「学び方を身につけさせると自ら進んで学習を進めることが出来るようになる」「学習過程に他者とのコミュニケーションの場を位置付けると多くの視点から批判的に考えるようになる」というような結論だったのです。
 教員や教員経験者にはもちろん、普通の常識がある大人であれば、「そりゃそうだろう」と感じるものばかりではないでしょうか。自分が興味あることについての勉強ならだれでもやる気が出る、そんなことは子育て中の保護者であれば、誰でも体験的に感じ取っていることに決まっています。では、私が、そして教員の多くが取り組んできた研究というものは、意味のないものだったのでしょうか。私はそうは思いません。
 当たり前だと言われていることを鵜呑みにするのではなく自分で確かめてみる、そうした姿勢を教員がもつことは、子供にも探求心をもたせる上で効果があるはずですし、自分で調べて納得してこそ、そういう授業を目指そうという意欲が強まるはずです。
 また、100の「当たり前」を検証していって結果、1か2でも、当たり前の常識が間違っているという事例にぶつかることがあるかもしれません。そうした「発見」は、小さなブレークスルーとなり、一般的な授業理論を変えていく要因となっていくのです。実はこうした小さなブレークスルーの積み重ねで今日の様々な代表的な指導法が確立されてきたのです。教員の研究とはそういうものなのです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時代が違うのに

2019-10-30 08:19:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「その比較は正しいか」10月24日
 『ブラック校則 もうやめよう』という見出しの記事が掲載されました。『不合理な「ブラック校則」を見直そうという動きが強まっている』ことを報じる記事です。当然のことだと思います。ぜひ、見直しが進んでほしいと考えます。
 ただ、記事の中に気になる記述がありました。『15歳以上の10~50代の男女を対象に2018年に実施した調査では、中学生のときに(略)「眉毛をそってはいけない」「下着の色が決められている」は10代が圧倒的に高く、学校の管理強化の傾向が疑われる』というものです。
 私は60代前半なので、もしかしたら時代が違っているのかもしれませんが、中学生のころ、体育等の着替えの際に色付きの下着を履いている者は皆無でした。全員が白、ただ一人、以前もこのブログで取り上げたO君だけが白の角型パンツでしたが、他は白のブリーフでした。洋品店に行っても、白い下着しか置いてなかったのですから、色付きの下着を履くなどということは頭の片隅にも浮かばなかったのです。また、私の母校は下町にあり、近隣の中学校とケンカ沙汰などもありましたが、その中心になっていた不良連中でも眉を剃っている者はいませんでした。
 そういう時代だったのです。そういう時代でしたから、当然のことながら、下着の色や眉剃りに関する校則はありませんでした。実態がないものを規制するきまりなど必要なかったというだけのことです。ポケベルのない時代にはポケベル禁止の校則がないのは当然ですし、スマホ全盛の現代にポケベル禁止の校則など意味がないでしょう。
 校則は、ブラックかホワイトかとは別に、時代とともに変わっていくものなのです。その点を無視して、ある項目の有無だけで、管理強化の傾向が強まっていると分析するのは問題があると言いたいのです。
 あることを見直し換えていこうとするとき、その実態を正確に把握することが前提であり、出発点です。校則の問題についても例外ではないはずです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今までできなかったのですが・・・

2019-10-29 07:52:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「大改革」10月24日
 『いじめ加害教諭給与指し止めも 神戸市・条例改正検討』という見出しの記事が掲載されました。教員間いじめ問題で、『有給休暇扱いとなった加害教諭4人について、市が給与を指し止める条例改正を検討している』ことを報じる記事です。
 記事によると、『処分決定まで給与が支給されることに市民から批判が相次いでいる』ためで、『一般職や教職員が刑事事件で起訴される恐れがある場合などに休職させ、その間は無給とする方向』での改正が検討されているということです。
 正直なところ、とても驚きました。服務事故を起こした教員の処分については、このブログでも何回も触れてきました。その際、体罰やわいせつ行為をした教員から聞き取りをしている期間や再発防止のための研修を受けさせている期間にも給与が支払われていることに対して、都民から反発や疑問の声が出されることが多いと説明してきました。当然の感情だと思います。
 しかし、悪いことをした奴に税金から給与を払うなんてけしからん、という感情論では済まないということも併せて説明してきました。公務員は労働者です。この点に異論をはさむ人はいないと思います。そして、労働者は、労働の対価として給与を受け取ります。そして労働=勤務中には上司の命に従う義務を負います。この点についても異論はないはずです。
 そして、このことを逆に言えば、給与という対価が支払われないのであれば、労働する必要はなく、勤務中ではないのですから、上司の命に従う必要はないということになります。論理的に当然の帰結です。ですから、教委に出向いて聴取に応じなさいと命ずるには、給与を支払わなければならないのです。校長にも、教委にも、勤務中でない教員に対して命令を発する権限はないのです。対価を払わずに強制力を発揮することができるのは、警察だけなのです。
 もっとも、地方公務員法では、起訴休職の規定があり、職員が刑事事件で起訴された場合、休職処分(無給)とすることができます。これは、起訴の時点では有罪か否かは定かでないまでも、犯罪捜査の専門家である警察・検察が判断したということで、起訴されるということは犯罪が疑われる行為があった可能性が極めて高いと考えられるからです。
 一方、今回、神戸市が目指す条例改正は、起訴される前の段階で、犯罪捜査については素人で権限のない市教委が判断を下すということであり、後日、犯罪行為がある可能性は客観的に見て極めて低かったにもかかわらず、恣意的で不当な処分を受け、名誉を傷つけられると共に金銭的な被害を受けた、と訴えられる可能性が高いのです。また、首長や教委が、強すぎる権限をもち、教職員の権利を侵害する危険性も指摘できます。そして、職員を過剰に委縮させる弊害も。だからこそ、今まで、多くの自治体が、市民の素朴な処罰感情を知りながらも、手を付けずにきた部分なのです。
 神戸市の改正が問題なく機能することが明らかになれば、多くの自治体で同様な改正が行われると思います。まさに「大改革」なのです。注目したいと思います。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異空間?

2019-10-28 07:50:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「特別な場所」10月22日
 客員編集委員玉木研二氏が、『学校という真空地帯』という表題でコラムを書かれていました。その中で玉木氏は、神戸市立小学校で起こった教員間の暴力問題について触れ、学校と旧軍を比較なさっています。旧軍については作家野間宏氏の「真空地帯」の記述を基に、『兵営の古参兵が初年兵らをいじめ、暴力的に支配する仕組みは、敗戦後もさまざまに変容しながら生き残った』と述べ、そうした体質が神戸問題の根底にもあるとの認識を示されています。
 そうなのかもしれません。ただ、私がより考えさせられたのは、それに続く、『無事除隊を迎える古参兵の鬼の形相が急に穏和になり(略)入営前のように「腰の低い、善良な市井の人」に戻ったりする、何事もなかったように。怪談のような怖さがある』という記述でした。
 つまり、暴行を繰り返す人物が異常なのではなく、ある組織や環境が異常なのであり、そこに入れば誰もが異常になり、そこを出れば誰もが本来の姿に戻るという魔界であるということです。学校もそうした魔界なのではないか、という指摘なのです。
 玉木氏は、そこまではっきりと書かれてはいませんが、神戸市立小学校で若い教員に暴行や人権侵害を繰り返した4人の先輩教員も、一般常識をわきまえ、他人の痛みや苦しみを共感的に捉えることができる優しさをもった善良な社会人であり、家庭や学校外の社会では何の問題もない温厚な人物なのに、学校という魔界にそれらの人を狂わせる空気が澱んでいる、と言いたいのだと思います。
 私が教員時代、教委に勤務していた頃、よく言われた言葉に「学校の常識は世間の非常識」がありました。学校は他の企業や官庁、業界とは異なる常識や価値観・感覚に支配されているということです。私自身、それは否定できないと考えていました。何しろ、何の社会経験もない22歳の若造が、20歳近く年上で、多くの経験を積んできた保護者から「先生、先生」と持ち上げられ、お世辞を言われ、ご機嫌を取ってもらえるのですから。
 虎の威を借る狐ではありませんが、学校・教員という権威を背に、自分のミスをごまかし、子供の所為にして怒鳴りつけても、それが通ってしまうのです。考えてみれば、怪談どころではない怖い空間なのです。30代のある時期、短い期間ではありますが、私も天狗になり、いい気になっていたときがありました。校長の「お気に入り」でもありましたし。嫌な話ですが、そんなとき、学校はとても楽しい場所でした。たいていのことを自己肯定的に考え、怖いものはないという感覚だったものです。
  つまり、今回の犯人教員たちと紙一重だったのです。たまたま標的になるような人がいなかっただけで、別段高潔な人格者でもない私は、同僚の中に弱い人がいれば、いじめていたかもしれません。さすがに暴行はしなかったでしょうが。
  子供の健全な成長を担う場である学校が、そんな魔界や異空間であってよいわけがありません。しかし、そう書いた途端、もう一方では、学校が企業や官庁と同じであっても良くないという思いが湧いてきます。コストや数値、効率や規律が優先され、子供と教員という人と人が醸し出す温かい感情や雰囲気といった、目に見えにくく数値化されにくい何かが重視される「学校文化」というものがなくなってしまえば、それは望ましい学校とは言えなくなってしまうように考えるのです。
 時代によっても、校種によっても異なる、普通であることと学校の独自性、その理想的なバランスを探り続けることが必要です。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いじめはあったの?体罰は?

2019-10-27 08:39:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「盲点」10月22日
 『貧困層に「機会の平等」』という見出しの記事が掲載されました。五常・アンド・カンパニー社長慎泰俊氏へのインタビューです。慎氏は、低所得層の人々に小口融資などを行うマイクロファイナンスを展開し注目されている企業家だそうです。記事を読むと素晴らしい理念に基づき着実に歩まれている方のようで、とても感銘を受けました。
 しかし、今回私が着目したのは、そんな本筋とは全く関係のない、慎氏の学生時代にエピソードでした。『朝鮮学校にいたのですが、中学、高校の先輩には絶対服従で、ずいぶんいじめられました~』というものです。
 朝鮮学校については、このブログでも過去に何回か取り上げてきました。そのすべてが、授業料無償化の措置から朝鮮学校が外されていることの是非に絡み、朝鮮学校の教育内容、教育課程を論じるものでした。我が国の学習指導要領との違い、未だに続く金一族への個人崇拝、一方的な歴史観などの問題点を指摘してきたのです。
 私自身、教委に勤務していたときには、朝鮮学校を訪問していますし、人権教育の一環として在日外国人差別の実態を話す研修会の講師に朝鮮学校の校長を招いたこともあり、その際の経験併せて論じたものでした。
 しかし、「学校」というものを論じるにあたっては、教育課程や教育目標だけを対象とすればよいというものではありません。もちろん、それらは大変重要なものですが、あくまでも表向きのペーパーに過ぎません。同じ教委管轄下の公立学校であれば、どこもに多様な教育目標を掲げ、教育計画を作成していますが、一方に落ち着いている、学力が高いと評価される学校があれば、他方には、子供が荒れている、不登校の子供が多いと陰口をたたかれている学校があるのが現実です。
 そんなことは常識であるのですが、朝鮮学校についていえば、その学校でどのような問題が発生しているのか、どのような対応が取られているのか、私はあまり考えたことがありませんでした。子供が集団生活を送っていれば、いじめやケンカがあるのは当然ですし、学習理解が遅い子供もいるはずです。中高生の年齢になれば、様々な非行にはしる子供もいるはずですし、教員による体罰等の問題も皆無というわけにはいかないでしょう。いくら「偉大なる主体思想」の下に教育活動が行われているといっても、問題がないわけがありません。もし、関係者が「我が民族の学校には何も問題はない」と言い張るとしたら、それはウソをついているとしか考えようがありません。
 我が国では、公立校はもちろん、私立校においても、学校が抱える問題は、何らかの形で表面化し、広い意味で国民の批判にさらされます。それは、補助金や助成金などの形で公費が使われている以上当然のことです。今後、朝鮮学校への公費の導入が議論されるとき、この公開性、透明性の問題についても議論の材料とすべきだと考えます。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目指すのは解決?

2019-10-26 07:58:46 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「解決とは」10月20日
 『増え続けるいじめ 現場任せでは解決しない』と題された社説が掲載されました。いじめ件数の推移を述べ、『教師は様々な業務に忙殺されている現場任せの対応には限界がある(略)外部の力を取り込み、学校の対応力を高めなければならない』と主張する内容です。間違ったことを言っているわけではないのに、何だか違和感を覚えました。
 それは、「外部の力を取り込む」例として、『各地でスクールカウンセラーの配置が進む』『スクールロイヤーの配置も広げようとしている』があげられているからです。この社説は、表題で「解決」を掲げています。一方、結びは「対応力を高めなければならない」です。解決と対応の関連が見えてこないのです。
 いじめ問題に関しては、いじめの発生を減らす防止と、いじめにより歪められた集団内の人間関係を修復する解決の2つの機能が求められるはずです。対応とはこの2つを意味しているのです。しかし、社説の表題は解決のみを掲げ、具体策であるスクールロイヤーもスクールカウンセラーも、いじめ発生後に機能するもので防止効果はほとんど期待できません。
 いじめが起きる学級や部活の現場に、スクールカウンセラーもスクールロイヤーもいません。前者は傷ついた被害者のケアをしたり、加害者の心の中にある満たされない思いを見つめ自省を促しますし、後者は被害者の人権を守るため加害者の登校停止や転校などの法的措置を進めます。確かに、加害者が強制転校させられる姿を見せることは、一定の抑止効果を有無でしょうし、スクールロイヤーがいじめ=人権侵害という授業を行うことで思いとどまる子供もいるかもしれません。しかしそれは本質的な対応とは言えません。
 いじめを防ぐために重要なのは、子供が満ち足りた学校生活を送ることが出来るように授業や学級経営の質を高めることですし、いじめ解決の第一歩であるいじめの発見は『子どもの最も身近にいる教師がアンテナを高く』することが必要です。つまり、「学校の対応力を高める」ためには、教員が中心にならなければならないのです。
 そう考えれば、いじめ問題への対応力を高める方策とは、社説内でも指摘されている、教員は「様々な業務に忙殺されている」状況を改善するものであるはずなのです。つまり、スクールロイヤーやスクールカウンセラーの配置よりも前に、学校と家庭・地域との関係の見直し、学校事務の外部委託や事務員の増員、部活・給食・清掃の廃止、多すぎる教育課題の整理などに取り組むべきだということです。
 そうした根本的な議論を始めるべきです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分でできると思いたい

2019-10-25 08:48:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「でもときに反することも」10月18日
 連載コラム『掃苔記』は、『退院する母の自尊心』というタイトルでした。その中で筆者の滝野隆浩氏は、お母様が退院する前日の言い争いについて記しています。『病院は「退院後はつえが必要。買ってほしい」と言う。ところが母は「要らない」の一点張り。かたくなだった。スタッフから相談されて、私が説得してもダメ。最後は「なら、オレが買う」と院内の売店に行った』と。
 そんなお母様でしたが、退院の日は当たり前のように杖を使っていらっしゃったそうです。そして、数日後、『病院は心配ばっかり。一回も転んだことはなかとに「転ばんごとしてね」とすぐ言う。風呂入れるか、食事つくれるか、庭の段差は大丈夫かって。何でも自分でやれるとに。つえもそう。本人に決めさせんで息子に相談した。私、透明になったごたった・・・』と吐露されたということです。
 お母様のつぶやきに接した滝野氏は、『専門的見地から、周囲が病院外の生活の心配をするのは正しい。だけど、その「正しさ」は高齢者の自尊の心を少しずつ削っていく』と書き、『大事なことを、私は自宅に戻った母から学んでいく』とコラムを結ばれていました。
 心を打たれる話です。私も高齢の父母を見送りました。その間、当然のように私がすべてを取り仕切ってきました。もちろん、主観的には大部分を父母への愛情と善意で、です。きっと、私も父母の自尊心を、ゴリゴリと削り取ってきたことでしょう。ごめんなさい。
 この「正しさ」と自尊心の問題は、高齢者に限らず、全ての人間関係に共通する問題です。子供と教員という人間関係においても同様です。一般的に教員は、「正しさ」が好きです。私もそうでした。一個人としては、けっこう小さな不正をしてしまうこともあるのですが、子供の前では、「正しさ」を強く押し出してしまうという傾向があるのです。もちろん善意と使命感によるもので、これがなければ教員失格です。
 しかし、それが行き過ぎてしまい、自分の言動が子供の自尊心を削り取っているのではないか、と自省する習慣をもたない教員がいるのは問題です。困っていても困ったとは言えない、悲しいのに大丈夫と言う、助けてほしいのに自分で何とかできると言う、分からないのに分かっているふりをする、本当はいつもできないのに別の理由をつけて今だけできないと言う、みんな子供の自尊心のなせる業です。自尊心を傷つけられても、相手がそのことを認識していて済まなそうにしているのであればまだ少しは気も晴れますが、君のためにしてあげたんだよと「ドヤ顔」をされたのでは、余計に傷ついてしまいます。でも、相手が「先生」だから、苦情を言うこともできません。
 では、こんな子供の思いをくみ取り、子供の「強がり」を尊重すればよいのかと言えば、そんな単純な話でもありません。滝野氏のお母様の言うとおりにして杖を買わなければ、お母様は退院した日から生活に困ってしまったことでしょう。ですから、相手の意に添わない対応をしなければならないこともあるのです。その見極めを間違わないことも教員に求められる能力ですし、その際、できるだけ自尊心を傷つけないアプローチの仕方を身につけることも求められているのです。
 そしてもう一つ、厄介な問題があります。それはおそらく滝野氏の中にもわずかながらあったはずですし、介護中の私にもあった心の動きです。自分が楽をしたいという心理です。正直に言うと、私は父母の介護中、できるだけ私の助けなしに父母に出来ることは少しは自分たちでやってほしいという思いがありました。毎日、父母の家や介護施設に通ってはいましたが、私には私のしたいこともあり、そのための時間も欲しかったのです。ですから、杖と歩行器は買ってあげるから、近所のスーパーには一人で行ってほしい、重い荷物があるときは一緒に行くから、というような思いが、杖を買うという行為の中にあったことは間違いありません。開き直るわけではありませんが、珍しい心理ではないと思います。
 しかし、こうした心の動きは、どういうわけか相手に伝わるものです。そしてこうした思いが伝わってしまったとき、相手を傷つけてしまうことも事実です。教員が、子供に働きかけ指導する行為の中にも、手間を省きたい、時間が惜しいという心理が隠されていることがあるのです。そしてそれが、「先生は私のためにと言っているけど本当は~」という不信感の土壌となっていってしまうのです。
 こうした問題に特効薬はありません。ただ、時に懐疑的に自分の行為を振り返ってみるという習慣をもつことだけは忘れてはなりません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

非難の論理

2019-10-24 08:31:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「神戸市、もう一つの分権問題」10月17日
 余禄欄に、教員の集団いじめ問題とは別の神戸市教委の「問題」が提起されていました。『市立の小中学校30校で、運動会の組み体操の練習中、8月末から1か月余りで計51人がけがをしていた』という件についてです。
 余禄欄によると、『市長の中止要請にもかかわらず、市教育委員会が「すでに練習している」と応じず、自主的中止は一部にとどまり、市長が「やめる勇気を」と呼びかけた』ということです。余禄欄の筆者は、『待ったをかけない市教委とは何のためにあるのか』と疑問を投げかけています。私も、神戸市教委の対応は間違っていると思います。
 しかし、ここでも以前このブログで神戸式教員異動について触れたときと同じような疑問を感じるのです。記述を詳細に読むと、市長の要請にもかかわらず教委は従わなかった、学校の多くは市長からの要請を知りながら自主的な判断を優先させた、という2点が問題だという論理展開になっています。これは逆の言い方をすれば、教委は市長の要請には常に従うべきであり、学校も市長の要請には常に従うべきで、自分たちの判断で行動してはいけない、と言っていることになります。
 それでよいのでしょうか。世の中の趨勢として、「中央」が全てを決定し「地方」はその手足として言われるままに行動すべきという考え方は望ましくないという方向で動いてきているはずです。いわゆる「地方分権」という考え方で、教育においても、各教委、各学校が主体的に判断して決定し実行するという「地方分権」を目指していたのではないでしょうか。そうした流れからして、市長に従わないという視点での批判には違和感を覚えるのです。確かに市長は選挙というシステムによって民意を代表する存在です。しかし、その判断が常に正しいというわけではありません。ときに間違うこともあるでしょう。教委も校長も、教育の専門家としての経験と知見に基づいて、市長に異議を申し立てることがあるのは、むしろ健全な状態だと思います。
 誤解のないように言っておきますが、組み体操の強行が正しいと言っているのではありません。明らかに判断ミスです。ただ、子供の安全確保を最優先するべき教委や学校が判断を誤っているという趣旨から、批判の記事が書かれるべきであり、市長の要請に従わなかったという視点で論じるのはおかしいのではないかと言いたいのです。
 それにしても神戸市教委、ダメですね。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「自ら学ぶ」不良たち?

2019-10-23 08:05:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「中立」10月17日
 『「不登校」に代わる呼称を』という見出しの記事が掲載されました。『社会派アイドル「制服向上委員会」が「不登校」に代わる新たな呼称を募集し、18日にお披露目会を開く』ことを報じる記事です。記事によると、『学校に行けない子どもが「不登校」をマイナスな言葉ととらえ、さらに傷つく状況をなくしたい』という思いからの募集だということです。
 感慨深いです。不登校という呼称については、既に一度改められています。かつては、登校拒否と呼ばれていました。様々な統計でも、この呼称が使われていました。やがて、大半の(学校に通っていない)子供は学校に行くことを拒否しているのではない、行きたいのに行けないということで苦しんでいる子供が大多数を占めている、拒否という言葉はその実態を正確に伝えないばかりか、間違ったイメージを与えかねない、という指摘がなされ、単に登校していないという状況を表す言葉として不登校が使われるようになったのです。今回の取り組みを否定するわけではありませんが、こうした過去の経緯が十分に理解されているのかどうか疑問です。
 今述べたように、不登校は単に状況を表す言葉であり、そこに善悪の価値判断は含まれていません。その点が重要なのです。状況を表しているだけですから、不登校の原因は様々です。学校に行きたいのに行けない子供もいれば、児童虐待の被害者で保護者が発覚を恐れ登校させないという場合もあります。現在の公立学校制度に否定的な信念をもつ保護者が登校させない場合もあれば、深夜徘徊・飲酒喫煙・不純異性交遊などを繰り返しているいわゆる不良も含まれます。
 保護者の学校制度否定が原因の場合、家庭ではある意味学校以上の高度な学習が行われているケースもありますし、「不良」のケースでは高校生の年齢になっても分数の計算も分からないという低学力も珍しくありません。
 記事では、新名称として「自学生」などが候補に挙げられています。もし、「自学生」という呼称を使うようになれば、そこには「深夜徘徊・飲酒喫煙・不純異性交遊などを繰り返しているいわゆる不良」も含まれることになりますが、それは明らかに間違った印象を与えますし、したがって対応策も適切になされない可能性が大きくなります。
 私は、不登校という呼称は、中立的だと考えています。だからこそ様々な原因や実情を包含することができているのです。負のイメージをなくすことには反対しませんが、虐待や素行不良にプラスのイメージを付加することの危険性にも気を配ってほしいものです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハイスコア239

2019-10-22 07:03:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「一定レベルを維持」10月16日
 りんくう総合医療センター産科医和田和秀氏が、『ジャズとプロの仕事』という表題でコラムを書かれていました。和田氏は、若いころプロのジャズ演奏家を本気で目指していたことがあるそうです。自らのジャズ演奏家としての才能に見切りをつけ、医療の道に入り、今度は医療のプロを目指したというわけです。
 そんな和田氏は、コラムの中で『僕は医療のプロになりたいと思いました。どんな局面でも、どんな時でも、どんな人たちともアベレージ以上の仕事ができる』と書かれています。私はこの言葉に注目させられました。ポイントは「アベレージ以上」です。
 アベレージとは、元々は平均という意味だと思います。しかし、一般的には、総和を試行回数で割った値という数学的な意味ではなく、その人がコンスタントに出すことが出来るレベルを示すために用いられます。和田氏もそうした意味で用いていると思われます。
 人は得意不得意があり、体調その他の波があります。それは自分が慣れ親しんだ分野においても同じです。私は20代のころ、ボウリングで239というスコアを出したことがあります。いわゆるゾーンに入った状態で、絶好調でした。このスコアをコンスタントに出せればプロになれるでしょう。しかし私は、プロになろうとは考えませんでした。当たり前です。次のゲームでは150台、その次は疲れて110台のスコア、つまり239は、奇跡のスコア、二度と出せないスコアだったのです。私の真の実力は100の前半というところだったでしょう。
 私は、プロ、専門家と呼ばれるには、何回かに一回ものすごく出来がいいとか、特別な条件のときだけ良い結果を出すことが出来る、というのでは資格がないと考えています。1回だけ100点満点だけど、あとは20点だったり、30点だったりというのはプロではないのです。逆に、最高点は90点だけど最低でも75点というのがプロの条件なのです。
 教員の仕事も例外ではありません。理由は分からないけれど、今日の授業はたまたまうまくいったけれど、次の日は子供たちが興味を示さず、騒がしいまま授業が終わってしまったというのでは教員失格です。教員も人間ですから、体調が悪いときがあります。個人的な悩み事に心を奪われているときもあるでしょう。校務に追われ、授業の準備が十分に出来ないで臨むときもあれば、子供同士にトラブルが発生し落ち着かない雰囲気の中で授業をしなければならないときもあります。そんなときでも、あまり盛り上がらなかったけど予定した内容を理解させることは出来た、というのでなければ教員としての資格はないのです。
 教委にいて、指導力不足教員研修を担当していたとき、彼らの多くは「自分は指導力不足ではない」と主張しました。そしてその根拠として、自分の成功体験を話すのでした。○○の授業では子供たちが楽しいと言っていた、テストの出来がよかったなどと。しかし、仮にそれが事実だったとしても、それは私の239のスコアと同じだということに気が付いていないのでした。一回だけの239で、自分には才能があると思い込んでしまったようなものだったのです。
 私がこのブログで授業記録を取ることを勧めてきたのは、自分のアベレージを知るという意味もあったのです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする