ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

裏の事情

2014-08-31 08:15:50 | Weblog

「裏の事情」8月25日
 『全国模試を代ゼミ廃止 来年度から』という見出しの記事が掲載されました。『校舎の7割を閉鎖する方針の大手予備校代々木ゼミナールは25日、来年度から全国模擬試験を廃止する』ということを報じる記事です。私事ですが、40年以上昔、高3の夏休みに通ったのが代ゼミでした。老舗の予備校で、私のパソコンで今回初めて、「よぜみ」と入力したのですが、代ゼミと変換されるほどの認知度です。
 同予備校が事業縮小を決めたのは、少子化により受験生が減少しているという現状に対応したものです。これは、同予備校固有の問題ではなく、子供を対象とした産業、塾や通信教育、子供用教材販売などに共通する問題だと言えます。
 ここで私は、15年ほど昔のある行政の管理職の方から伺った話を思い出してしまいました。それは、行政の課長補佐、課長クラスを校長や副校長として配置するという人事構想案についてでした。新しい人事制度のねらいとして聴かされたのは、学校のことしか知らない校長や副校長といった従来の学校管理職では学校を変えることが出来ない、法令と予算という視点から組織を動かす経験が豊富な行政管理職の登用によって学校を機能する組織体に変える、というものでした。しかし、その本当の狙いは、団塊世代が管理職を占め、管理職適齢期の者に割り振るポストが足りなくなったため、学校の校長や副校長を新たな管理職ポストとして用意するということだというのです。
 どうしてこうした話を思い出したかというと、近年、新たな取り組みとして紹介されることが多い、塾の授業を学校に導入する、塾や予備校の授業について教員が学ぶ、教材会社と共同で授業で使える教材作りに取り組む、といった教育産業と学校のコラボレーションの背後に、少子化で先細りが懸念される教育産業の経営維持や事業継続のための戦略が潜んでいるのではないかと考えたためです。
 本来の意図を隠し、表面的には子供のためと言いながら、実は別の思惑を秘めているという構図の類似性を疑ってしまったのです。従来、学校教育は「利権」とは遠いところにあると思われてきました。しかし、学校教育がもつ「利権」が注目される時代になったのかもしれません。それに合わせるように、教育行政の権限が政治家である首長に移される形の改革が進むということは、と考えてしまうのは私が疑り深いからなのでしょうか。

 

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あいまいでいい?

2014-08-30 06:54:33 | Weblog

「業界の常識との乖離」8月25日
 読者投稿欄に、伊勢崎氏の公務員服部氏の『抽象的な音楽の学習指導要領』というタイトルの投書が掲載されました。その中で服部氏は、『現行の各社の教科書は満足できるものではないと思う。なぜそんな教科書しかないのか。先日、学習指導要領の音楽の部分を読んでみて、原因はここにあると思えた。なぜかというとその記述があまりに抽象的あるいは総論的であるからだ。これでは執筆者は執筆に当たって手がかりを得られない』と書かれています。
 服部氏は、学習指導要領はより具体的な記述がなされるべきと考えていらっしゃるようです。我が国のような自由な社会においては、ある問題について様々な意見が存在するのは当然ですし、健全なことです。ただ、その意見が正しい事実認識に基づいていることが前提です。少なくとも一読した限りでは、事実誤認もしくは理解不足があるように思えてなりません。
 学習指導要領については、ほぼ10年ごとに改訂が重ねられてきましたが、底流として、教育内容に対する国家統制という視点から一定の合意があるということを知っておく必要があります。戦前の国家主義的な教育への反省から、国(政府)が詳細な内容まで決定するのではなく、あくまでも大綱として示すという基本方針です。国定教科書から検定教科書へ、というのもこの流れの中で理解されるべきです。
 実際には、準国定化を求める立場と完全自由化を理想とする立場の勢力があり、せめぎあいを行ってきたのは事実ですが、結局は中間点で決着してきたという歴史があるのです。服部氏の主張は、大綱化を否定し、国(政府、文部科学省)が細部までつめた内容を示せ、という主張をしていることになります。もちろん、そのことを承知でおっしゃっているのであれば問題はありませんが。
 また、抽象的・総論的だから執筆者が手掛かりを得られない、という見方は事実と異なります。文部科学省は、教科書会社の担当者を対象に説明会を行いますし、個別に各社ごとに質疑応答の場を設けてもいます。さらに、学習指導要領の改訂に合わせて、解説書が作成されます。解説書は、学習指導要領の記述について、その解釈や考えられる具体事例、実際に学習計画を作成する際に留意することなどについて詳述したものです。解説書に「法的拘束力」があるか否かということについては現在も意見が分かれていますが、教科書の執筆者は、かなり豊富な手掛かりを得て執筆をしていることは間違いありません。執筆者が苦労するのは、限定された内容の中でどのようにして他社との差別化を図るか、という点なのです。A社は「○○」という曲を取り上げているから、わが社は「◇◇」という曲で行こう、というようなことです。
 そもそも論的に言えば、教科書執筆者自身が、数少ない専門家として、学習指導要領の改訂や解説書の作成に関わっている場合が多いのです。ですから、手掛かりを得られないなどということは考えにくいのです。
 もちろん、以上のようなことが、業界内の閉鎖的な体質を表している、一部の者の密室協議で決められている、国民の目に見えにくいところで談合が行われていると批判する立場があってもよいかもしれませんが、それは別の話です。

 

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「教育側」の専門家選出

2014-08-29 07:46:04 | Weblog

「キャッチボール」8月25日
 『いじめ対策に脳科学活用』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『いじめや自殺などの対策に脳科学や心理学の研究成果を生かすため、文部科学省は、感情の動きである「情動」を研究する大学や教育機関をネットワーク化し、各分野の専門家と教育関係者が横断的に連携する仕組みづくりを始める』ということです。
 記事では、現状を『いじめや不登校などへの対応は教員の経験に委ねられることが多く、脳の働きや心理学に基づく科学的なアプローチはほとんど行われていなかった』としていますが、そのとおりです。この試みに期待したいと思います。その際に必要なのは、科学的なアプローチを優先したり、教員の経験を優先したりしないことです。
 望ましいのは、経験と科学の間で対等で真摯な意見交換が行われることです。科学は普遍性をもっていますが、入力されたデータに基づいた結論しか出せないという欠点があります。重要な要素を外したままいくら詳細な分析を行っても、役立つ指導法にはつながりません。
 また、経験というと非科学的かつ個別的な印象がありますが、その中には当事者が意識していないだけで、普遍性につながる貴重な暗黙知が潜んでいることが少なくないものです。つまり、両者が補い合ってこそ、真に役に立つ指導原理に結びつくことが期待できるのです。
 そこで問題になるのが、「各分野の専門家」とは誰か、ということです。脳科学者や心理学者については、学会等の推薦という形で問題はないと思われます。しかし、教育の方の「専門家」については、懸念が残ります。教育系の学者や評論家、あるいは全国教育長会代表といった人々が選ばれる可能性が高いように思われるのです。それでは、科学と経験のキャッチボールではなく、単に学者間の協議になってしまいます。
 全国からいじめ事例を発掘し、その中でいじめ問題が解決した事例を抽出し、さらにその解決に教員の指導助言が有効に機能したと思われるケースを選び出して、関わった教員を「専門家」としてピックアップするのです。そして、夏季休業日等に集中討議の場を設定し、本当の現場の意見が生かされるようにするのです。教育側の「専門家」の選出がこのプロジェクトの成否のカギを握っていると思います。

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免罪符を与える

2014-08-28 07:19:28 | Weblog

「かえってあいまいに」8月23日
 『橋本氏 キス騒動謝罪』という見出しの記事が掲載されました。『日本スケート連盟会長の橋本聖子参院議員がソチ冬季五輪後の宴席で、フィギュアスケート男子の高橋大輔選手にキスを強要したなどと週刊誌で報道された問題』についての記事です。この件に関しては、橋本、高橋両氏ともに「強要」を否定しています。JOCの調査でも「強要」はなかったと結論付けられています。
 この問題は、当初、セクハラ、パワハラ問題として話題になりました。以前、都議会のヤジ問題のときにも書いたことですが、セクハラやパワハラという用語が安易に使われ過ぎると感じます。
 このケースは、セクハラでもパワハラでもないことは明白です。最も重要な要件である「被害者」が「強要」されたと感じ、尚且つ「強要」された行為について不快に感じていること、満たさないからです。もちろん、実際には「強要」と「不快」を感じていたが弱い立場の「被害者」が真実を言えないという可能性については慎重に検討される必要がありますが、引退を考えている高橋氏にとって、6か月も我慢している必要はないと考えるのが妥当です。
 誤解のないように言っておきますが、私は今回の「キス」という行為を問題なしと考えているわけではありません。国会議員という責任ある立場の人間として、橋本氏の行為は非難されるべきだと考えています。だからこそ、セクハラ、パワハラとして取り上げることに反対なのです。
 ややこしい言い方になってしまいましたが、最初にセクハラ、パワハラとして問題にしていくと、セクハラでもパワハラでもないとなったとき、それでは問題ないということになってしまい、問題をはらんだ行為が免罪されてしまうことに懸念を覚えるのです。橋本氏の、下品で軽率で思慮に欠ける行為という本質が見えなくなってしまうのです。
 実は、学校教育で問題になる「いじめ」「体罰」についても同じことを感じています。「いじめ」か否か、「体罰」があったかどうか、という問題の迫り方をしていくと、調査の結果、「いじめ」には該当しない、「体罰」とまでは言い切れないという結論になった途端、追及がにぶり、「加害者」が免罪され、かえって「被害者」救済につながらない事態に陥ってしまうことが少なくないのです。
 「いじめ」の定義には該当しないが、不用意に他人を傷つける行為があった、「体罰」とまだは断定できないが教員として不適切な指導であることは間違いない、という認識の下に指導や再発防止のための行動が可能になるケースの方が多いのです。
 セクハラやパワハラ、いじめや体罰という卑劣な行為を憎むからこそ、安易な決めつけはやめてほしいのです。

 

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サムシング・ニューイズム

2014-08-27 07:32:45 | Weblog

「サムシング・ニューイズム」8月22日
 『「教育復興」の福島の新高校 秋元氏が校歌制作』という見出しの記事が掲載されました。『来年4月に広野町に開校する県立ふたば未来学園高校の校歌を、作詞家の秋元康氏が制作する』ことを小泉進次郎復興政務官が発表したことを報じる記事です。結構な話です。ただ、この記事の後段の記述が気になりました。
 『「ふたばの教育復興応援団」を発足させ~(中略)~、小泉氏は「応援団として、年間で最大100時間の授業を考えている。全国が注目する、前例のない教育を作りたい」と語った』のだそうです。100時間の授業といえば、毎週2時間以上もある計算になります。小中学校で言えば、「総合的な学習の時間」よりも特設道徳の授業よりも、図画工作や音楽の授業よりも多い授業数です。つまり新しい教科を設けるのに匹敵する授業数なのです。
 それだけの「時間的投資」をして、どのような効果を期待しているのか、記事からは全くわかりません。気になったのでネットで調べてみると、秋元氏以外にも俳優の西田敏行氏などの著名人が授業をする予定のようですが、イメージが浮かびません。
 まさか、各界で活躍する著名人のお話を伺う、というわけでもないでしょう。自ら考え自ら解決する力の育成を目指す現代の学校教育において、そんな受け身の授業に100時間も費やすはずがありません。また、著名人の話なら有益だろうというのも安易すぎる発想です。それぞれの専門を生かし、生徒が主体的に学び追究する能動的な学習を意図しているのであればよいのですが、お忙しい著名人の方が一定の期間同校で生徒の学習状況をみとって指導助言できるのでしょうか。
 私には想像もつかない斬新な方法が構想されているのかもしれませんが、「前例のない教育」という言い方に懸念が募るのです。13年前に読んだある本の中にあった「サムシング・ニューイズム」という言葉が浮かんできてしまうのです。ちなみに、「サムシング・ニューイズム」については、『マスコミは何でも新しいことには飛びつくが、陳腐なことには見向きもしない。社会も新しい試み過大視し、制度を変えることばかりに腐心している』という記述にあるように、新しい試み=善という価値観です。中身を慎重に比較検討することなく、新しければよいという発想で、既存のものとの差別化を図ることを優先する考え方が、ふたば未来学園高校の応援団授業にあるように思えてしまうのです。もしそうであれば、不幸なのは生徒たちです。

 

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氷水といじめ

2014-08-26 07:31:37 | Weblog

「いじめとの共通点」8月21日
 『山中教授も、孫社長も、ブッシュ前大統領も』という見出しの記事が掲載されました。『運動機能が失われ、全身の筋肉が動かなくなる「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の患者を支援するチャリティイベント「アイス・バケット・チャレンジ」』の広がりを報じる記事です。私は氷水をかぶった人が次にかぶる人を3人指名するという話を聞いたとき、「不幸の手紙」を連想してしまいましたが、そうした趣旨の批判はないようです。
 ただ、私には、この「アイス・バケット・チャレンジ」には、学校でのいじめと共通する要素があるように思えます。まず、他人には他人の事情があるという想像力の欠如です。心臓が弱い人が氷水をかぶったりしたら命に係わる大事になりかねません。もし、心臓に病を抱えている人がいて、そのことを周囲の人は知らずいた場合、「指名」されることは大きな困惑をもたらします。隠していた病を公表したくはないし、自分だけかぶらないということで仲間外れにされたくないという葛藤が生じるわけです。この「アイス・バケット・チャレンジ」を面白がる人は、他人はみな自分と同じという考えをもつ幼い人であるという印象がぬぐえません。他人の痛みに鈍感であるというのは、いじめ加害者に多く見られる傾向です。彼らはいじめが問題になると、いじめているつもりはなかった、そんなに嫌がっているとは思わなかった、と自己弁護するのです。
 そして、こうした批判に対して必ず出てくる意見が、嫌ならば断わればいい、というものです。これこそ、いじめの本質を無視した考え方と共通するものなのです。人間は、嫌だからといって嫌と言えるような強い人ばかりではないのです。それにもかかわらず、嫌だと言わなかった人に責任があるという論理で、「被害者」をさらに追い詰める、まさしくいじめの典型的構図です。
 また、自分が面白いと感じることは他人も面白いと感じるべきだという発想もうかがえます。これは、同じ意見・感性の人だけを囲い込み、自分とは違う人を排除する行動につながりやすいものです。仲間外れはいじめの第一歩であることはご存じのとおりです。
 さらに、「指名」という行為には、他人を意のままに動かそうという傲りが感じられます。少なくとも、「やってくれますか」という相手への配慮はありません。こうした人に限って、勝手に「指名」したにもかかわらず、相手を非難するのです。いじめ加害者の多くが、独りよがりな理由でいじめの原因を相手に押し付けいじめを正当化する論理に通じます。
 最後に、集団対個人の構図です。「指名」をする人は今までに氷水をかぶった多くの人たちを味方にしその集団内に自分を置きます。数万人が自分と同じだぞという数の論理をふりかざし、まだ氷水をかぶっていない個人に圧力をかけるのです。こんなに大勢の人がしていることを君だけはしないつもりか、と自分を多数派、強者の立場に置き、反撃されない安全圏から個人を見下ろすという形です。いじめの構図そのままです。
 数多くのいじめ問題に取り組んできた私には、どうしても「アイス・バケット・チャレンジ」を好きになれません。

 

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問題の立て方

2014-08-25 07:20:36 | Weblog

「問題の立て方」8月19日
 『中学校に警察 是か非か』という見出しの記事が掲載されました。記事は、『4~6月、埼玉県内の男子中学生6人が、教諭への暴行や傷害の容疑で同県警に相次いで逮捕されていたことが分かった。いずれも「胸ぐらをつかんだ」「胸を殴った」などで学校側が通報し、警察官が現行犯で逮捕した。被害の程度軽いケースでも学校への警察介入を進めるべきなのか』という書き出しで始まっています。
 私は、是か非かという以前に、問題設定のあり方について興味をもちました。まず、中学校という限定の仕方についてです。高校以上であれば、「警察介入」は当然であるという前提なのでしょうか。小学校では、「警察介入」は当然だという意識なのでしょうか。私が教委に勤務していたときには、小学校の高学年の子供にけがをさせられた教員がいました。私は被害届を出すように指導しましたが、小学生は小さくて非力だから殴られても教員は我慢できるはずという発想なのだとしたら、あまりにも現場を知らないと言わざるを得ないと思います。
 また、「警察介入」という表現はどうなのでしょうか。介入という言葉には否定的なニュアンスが込められています。いじめや不登校の問題にはカウンセラーが関わることが必要という言い方をし、カウンセラーが介入すべきという言い方はあまりしません。「介入」という表現を使うことによって、警察が関わることに対して否定的方向に誘導しようという意図を感じてしまうのは私だけでしょうか。例えば、連携という表現であれば、大分印象が異なると思うのですが。
 さらに、「被害の程度が軽いケース」という条件提示についても疑問があります。私は教員が暴行を受けた場合、診断書をとるように指導してきました。診断書というのは、とてつもなく軽いけがでも作成されるものです。立場は逆ですが、教員の体罰事例では、担任の男性教員が整列しない子供の手をつかんで引っ張ったという事例で、子供の母親は全治3日という診断書をつきつけてきました。校長の目視では、子供の二の腕に教員の指の跡が3つついていたという程度で、翌日には跡形もなくなっていたそうです。
 もし、記事で『胸を殴るなどした』とある事例で教員が直ちに医師の診断を受ければ、全治○日の打撲傷という診断書がつくられて可能性は極めて高いと思います。そうであれば、それは軽いケースではなくなるのでしょうか。
 私は「警察との連携」を強く支持する立場です。もちろん違う考えの方がいることは理解していますが、少なくとも偏った問の立て方でミスリードするのはやめてほしいと思っています。
 最後に、教育評論家尾木直樹氏のコメントにある、『生徒の評価権という絶対的権限を持つ教諭が~』について一言言っておきたいと思います。教員の評価権は、評価を気にする子供に対してのみ影響力をもちます。教員の暴力をふるう生徒は、教員の評価を気にして憚ることがない生徒がほとんどであるという事実に目をつむってしまっては、議論を誤ります。
 

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教育現場の言葉

2014-08-24 08:06:41 | Weblog

「教育の言葉」8月19日
 音楽評論家の沼野雄司氏が、『音楽は「時」「鳥」「風」』というタイトルのコラムを書かれていました。その中で沼野氏は、『現代日本のクラシック作品にどのようなタイトルが付けられているか、簡単な統計を取ってみたことがある』と書き、統計の結果として『もっとも多く用いられていた単語は「時・時間」だった。面白いのはその後の順位で、2位から「鳥」「風」「歌」「夢」「光」「風景」と続く』のだそうです。
 また、法学や経済学に関する用語はほとんど見かけないそうです。沼野氏は、『「管弦楽のための行政訴訟」とか「ピアノのためのデフレスパイラル」なんていうタイトルは想像し難い』と書いていますが、こうした表現を思いついた沼野氏の発想力に脱帽したい思いがするくらい、相応しくありません。
 私は音楽についてはまったくといってよいほど知識がないのですが、沼野氏の統計結果については、何となくそうだろうなという気はします。それぞれの分野に親和性の強い言葉があるということです。ところで、学校で行われる校内研究や教委が指定する推進校などの研究テーマ、あるいは教員研究生や研究員などの個人が行う研究テーマなどに使われている言葉についても、ある傾向がみられるのではないでしょうか。
 たまたま手元にあった平成元~6年の研究冊子を見てみると、「自ら」「主体的」「豊か」「意欲」「関心」「個性」「基礎」「学びあう」「考える」「表現する」「見つめる」「見方・考え方」「身近」などの用語がつかわれているケースが多いようです。また、こうした用語には流行り廃りがあるというのも、今まで述べてきたとおりです。
 学校等での研究テーマの特徴を一言で言えば、情緒的ということになります。別の言い方をすれば、定量的ではないということです。例えば、私が専門としてきた社会科研究においてよく使われている「身近」という用語についていえば、これを定量的に定義するということはあまり行われていませんでした。心理的身近、物理的身近という概念はあるのですが、あまり意識されていません。東京の下町に住む韓流ファンの女子中学生にとって都内の檜原村とソウルはどちらが身近なのかといえば、おそらく後者でしょう。しかし、それを証明することはほとんど行われていません。
 どちらが心理的に身近かということを測る尺度として、ある集団の子供が1週間に接する文字情報や映像情報・音声情報などの中で、両者に関する情報が何件あったかというような分析が必要なのですが、そうしたことはせずに教員が感覚で判断してしまうのです。
 「豊か」な表現とか、「豊か」な学びというとき、豊かさは数値化されません。「豊かな表現」が実現しているか否かを、文字数、修飾語の数、語彙数でカウントするというような研究を行えば、そんな単純なものではないという批判が殺到することでしょう。私もそうした批判をすると思いますが、本来は数値化された指標なしに子供の成長を客観的かつ説得力をもって提示することはできないはずなのです。
 「管弦楽のための行政訴訟」や「ピアノのためのデフレスパイラル」ほどのインパクトはなくても、「授業において教員の指示・命令の発言数と子供が書く作文の文字数及び語彙数の対称性の証明」とか「教材ビデオ{Jリーグにおけるシュートシーン}の視聴時間とゲームにおけるシュート成功率の推移」というような、古いタイプの教員が違和感を感じるような研究が行われるようになると、学校教育が変わると思うのですが。

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因果関係か、相関関係か

2014-08-23 07:22:33 | Weblog

「因果関係か、相関関係か」8月19日
 『推進校 学テ好結果 総合学習で成績向上』という見出しの記事が掲載されました。1面トップです。記事によると、『積極的に総合学習で探究活動に取り組む学校ほど全国学力テストの結果が良く、学習意欲も高かった』というのです。しかし、記事を何回読み直しても、どのようにしてこうした結論が導き出されたのかが分かりませんでした。
 確かに、アンケートで「探究的な学習に取り組んでいる」と回答した子供とそうでない子供の学テの結果を比較したデータは示されています。そこでは、「取り組んでいる」に当てはまると回答した子供の方が、当てはまらないと回答した子供よりテストの結果が良いことが示されてはいます。でも、だから何だというのでしょう。私には、この結果は誰でも予想できた相関関係を証明したものとしか思えないのです。
 つまり、元々勉強がよくできる子供がいる、そうした子供が多い学校では探究活動を取り入れた学習を構想しやすい、だからその学校や教員は「総合的な学習の時間」において探究活動を取り入れた計画を立て実施する、保護者に対しても我が校では探究活動を積極的に取り入れていると広報する、子供たちも「自分たちは探究活動をしている」と自覚する、探究活動はうまくいけば学ぶ楽しさや充実感をえることができるので子供の自己肯定感は強くなる、成功体験を積み重ねることによって自信が付き意欲も高まる、意欲的に学ぶ習慣がつくので学力が向上する、という図式が存在するのです。
 一方、元々勉強ができない子供がいる、そうした子供が多い学校では探究活動は成立しにくい、だから仕方なく教員主導型の授業が多くなってしまう、子供たちは探究活動をしているという自覚はない、教員主導型の学習では達成感を味わうことは少なく学習への意欲も高まらない、従って学力も低迷してしまう、という図式が考えられます。
 または、探究活動が成立しにくい状況にもかかわらず教員や学校が教委等に迫られ探究活動を強引に導入してしまう、探究活動に必要な能力・脂質を備えていない子供たちは学習が空回りしてしまい探求が途中で挫折してしまう、挫折を繰り返した子供は自己肯定感が低下し学習への意欲も低下してしまう、その結果基礎的な知識さえ身に着けられないままの状態に陥るということもあり得ます。
 もちろん、すべて仮説ですが、私自身社会科の授業を中心に問題解決学習(探究活動と親戚のような関係にある)を追い求めてきた経験から、また教委に指導主事として勤務し「総合的な学習の時間」の定着のための指導をしてきた経験から、学校の実情に即した仮説であると考えます。分析を担当した方には、探究活動の実施と学テ結果は、因果関係なのか相関関係なのか、を明らかにしてほしいと思います。そのためには、ある時点で学テの結果がほぼ同じであった学校を数百校抽出し、その後の探究活動の実施度の推移と学テ結果の推移を比較するという作業が必要です。さほど困難ではないと思うのですが。

 

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「総合学習」の着目点

2014-08-22 07:44:29 | Weblog

「着目する点」8月18日
 『地域の未来 総合学習で理解』という見出しの記事が掲載されました。江東区立八名川小学校の持続発展学習(ESD)の実践について報じる記事です。その中に、ぜひ着目してほしい記述がありました。
 『何人かの児童の発表を聞いた後、講師が授業を先に進めようとしたところで、傍らで見守っていた手島校長が「待った」をかけた。ここがこの授業の最大のポイントだったからだ~(中略)~簡単に教え込んでしまっては、子供が理解し、納得する時間を奪ってしまう』という部分です。
 「総合的な学習の時間」は、従来の教科とは異なる新しい発想の下に行われる自主的自発的な学習です。このことを表面的に浅くしか理解していない人は、従来型の授業における教員の指導力は役に立たないかのような議論をしがちですが、そうではないのです。
 どのような形の授業であれ、事前の教材研究で子供がつまずいたり、こだわりを感じたりしやすい点を予想し、授業中の子供の表情や視線、つぶやきなどから子供の内面を把握して、再質問、補足説明、新しい資料の提示、新たな体験の提供など適切な支援を行うことが出来る能力が教員に求められているのです。
 今回紹介されている授業では、企業に勤務する「知の専門家」が講師を務めています。その専門知識は、手島校長を大きく上回っていることでしょう。しかし、それだけではより良い学びは生まれないのです。子供と授業を知り尽くした手島氏という熟練の「授業の専門家」が存在してこそ、真の学びが生まれたのです。
 今回の記事のような新しい試みを報じる場合、どうしてもその新しさに目が向いてしまいがちですが、伝統的な指導力の上に新しい試みが成り立っているという視点で報じ、また記事を読むという姿勢を忘れてほしくありません。

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