「そこまでは言い切れない」2月22日
『米分断 根底は「民主的」』という見出しの記事が掲載されました。東京女子大学長森本あんり氏へのインタビュー記事です。その中で森本氏は、『ワクチンを拒否する陰謀論も、権力への警戒です(略)政府のいいなりになるのは民主主義ではありません。陰謀論も権力への健全な疑いで、根っこは民主的なのだと思います』と語られています。
民主主義には、「権力への健全な疑い」が必要という主張には共感します。我が国においても、政権批判が反日的というような短絡的な発想の言論が存在感をもつ現状があり、危機感を抱いていたところですから。
ただ、ワクチン批判の陰謀論まで、民主的という主張には、どうしても納得できません。政府(権力)に盲従する姿勢が民主主義にそぐわないことは間違いありませんが、その逆に政府に対して何でも反対という姿勢も、思考放棄であり、民主的とはいえないはずです。
ワクチンの中には極小のマイクロチップが入っていいて~というような荒唐無稽な論を信じるのは、ただ単に頭が悪いだけだとしか思えないのです。近年、オシントという概念が注目されるようになってきました。政府の発する公式情報やメディア等で公開されている情報などを詳しく分析することで、多くの知見を得ることができるという考え方です。「スパイ」の活動の多くはこのオシントによる情報分析であり、スパイというと連想しがちな盗聴や潜入、買収や脅し、二重スパイなどによる情報入手は、ごく一部に過ぎないと言われています。
私は、このオシント的な手法で権力を監視することこそ、民主主義に必須の行為であり、陰謀論まで民主的というのでは、社会が成り立たないと考えます。まあ、何が陰謀論で何がそうでないかの判断にはグレーゾーンがあるのは事実ですが。
オシント教育、そんな用語はないと思いますが、そうした取り組みが大事だと思います。高校の現代社会や政経などの「社会科」的な領域で重視されるべきです。
「全部同じ」2月21日
『セクハラ1回で降格』という見出しの記事が掲載されました。『パナソニックホールディングス傘下でIT事業を手がけるパナソニックコネクトが、1回でもセクハラがあった場合に降格を前提とする罰則を導入』したことを報じる記事です。
記事によると、『長期間や複数回のセクハラで降格することはあっても、1回で即降格は珍しい』そうです。同社社長の樋口氏は、『世界的にコンプライアンスやダイバーシティーのレベルが上がっており「風通しを良くしなければ競争に負ける」』と語っています。日本ハラスメント協会代表理事村嵜氏も、『大企業が先陣を切ることで社会的にも抑止力になる』と、同社の取り組みを評価なさっていました。
しかし私は疑問です。教委に勤務し、教員の処分に関わってきた者として、処分が一律であることが現実的ではないと思えてならないのです。セクハラの実相は多様です。「○○さん、少し太ったんじゃない」と言うのもセクハラですし、「たまには一緒に飲みに行こうよ。いいじゃない、一度くらい付き合ったって」と手首をつかむのもセクハラです。宴席で酔って抱き着くのもセクハラですし、無理やりキスするのもセクハラです。
この全ての「セクハラ」において、全て同じように降格とするのでしょうか。もしそうであるならば、それは行為と罰の原則に反します。悪い行いを罰することは組織の秩序の維持、成員の保護のために欠かせません。しかし、単に罰すればよいのではなく、そこに罰せられる者や関係者の納得感があることが必要です。要するに、悪辣度が高い行為は重く罰し、悪辣度が低い行為は軽い処分とするということです。
道に落ちていた100円を拾ってネコババするのも、タクシーの座席に忘れてあった1億円入ったバッグを持ち去るのとでは、罪の重さは違うということです。後者が懲役半年ならば犯人も仕方がないと思うでしょうが、前者も懲役半年では、「犯人」もその家族も強烈な不満を抱くでしょう。そもそも仮に罰金刑であっても前科がつくことにさえ納得できないはずです。当然反省もしません。
もしかすると、同社の制度は、同じ降格と言っても、セクハラの程度によって、課長から課長補佐への降格、係長への降格、主任への降格と差をつけるということなのかもしれません。仮にそうであっても、やはり問題は残ります。
セクハラとは、何をしたからセクハラである、という性質のものではありません。被害者がセクハラであると感じる、ということが前提となります。つまり、「最近太ったんじゃない」という言葉掛けが常にセクハラになるのではなく、そこに人間関係や個人の感じ方が関係してくるということです。そうである以上、AさんがBさんに言ったときはセクハラでなく、CさんがDさんに言ったときはセクハラと認定されるというのが本来の姿なのです。
こうした微妙な問題があるからこそ、処分は細心の注意が必要なのです。被害者がセクハラといっているのだからセクハラ、この考え方は被害者保護のために譲ることができない基本的な原則です。しかし、ケースごとに悪意の濃さには差があり、それに対応するために、より細かい処分基準が用いられるべきなのです。
公務員の場合、口頭注意、文書訓告、戒告、減給、停職、免職など処分が細分化されているのも、そうした配慮があるからです。「最近太ったね」で降格させられた者は、反省するより恨みを募らせるでしょう。それよりも、文書訓告とし反省を促すとともに、次に同じことを繰り返したら戒告か減給になると警鐘を鳴らす、そうしたやり方が効果的だという発想なのです。
言うまでもないことですが、「最近太ったんじゃない」と言われたと訴えてきたAさんに対し、「Aさんも悪気があって言ったんじゃないよ」「Bさん、気にしすぎだよ」「Bさんのことが好きなんじゃない、Aさん、ぽっちゃりが好みだから」などとはぐらかし、真剣に対応しない行為を是認する意図は全くありません。どのようなセクハラにも必ず罰を与えることは重要だと考えています。
「大切な記憶」2月20日
医師・作家の鎌田實氏が、『「忘れる力」を生きる力に』という表題でコラムを書かれていました。その中で鎌田氏は、『一度保持した記憶も、思い出して活用する必要がなければ、記憶の底にしまわれ、いつしか忘れ去られていく。それは悪いことじゃない。忘れられるからこそ、新しい情報や必要な情報を記銘し、保持し、想起することができる』と書かれています。
確かにそういう面はあるかもしれません。しかし、教員の場合、そうもいかないのです。何十年ぶりに教え子に会うことがあります。教え子と私の間には、長い空白の年月があり、共通しているのは教え子の子供時代の思い出だけです。当然、私との間で思い出話が語られることになります。
私の経験では、彼または彼女が語る「印象に残っている思い出」は、私が彼らに関わって保持している記憶とは違う場合がほとんどなのです。Fさんは、体育の時間に私がサッカーのシュートを決めたときの話をします。Fさんがパスを受けようとしたところ、私が走ってきてボール奪い、ドリブルしてシュートを決めたのだそうです。Fさんは、自分のところに来たボールを私が横取りしたことに一瞬悔しい思いをしたそうですが、自分ではシュートを決める自信はなく、私が決めてくれてホッとした(チームメイトから文句をいわれないで済む)と、当時の心情を生き生きと語ってくれました。
Fさんは、主要4教科の成績が良く、図工に関してはとてつもない才能を感じさせた子供でした(現在は、デザイナー事務所の社長をし大学でデザインを教えている)。ただ、体育はあまり得意でなく、特に球技については「ドン臭い」子供でした。ですから私が保持していたFさんの記憶と言えば、卒業文集の表紙を一人で作ったFさんのセンスあふれる作品と30数回書き直したというエピソードが第一に浮かぶのですが、Fさんはそんなことあったっけ、という感じでした。
教え子たちは、自分の大切な思い出を、教員も大事にもち続けてくれていると期待し、その通りであると嬉しそうな顔をします。その逆のケースでは、物足りないような、場合によってはがっかりし傷付いたような表情を見せます。そんなとき、教員にとって忘れることは望ましくないことだと感じるのです。
何十年ぶりに会う教え子の場合は、相手は大人ですし、大した問題にはなりません。しかし、今、受け持っている子供について、半年前、3か月前のことを忘れてしまっては、「先生は私のことなんか~」と思われてしまい、信頼を失ってしまいかねません。教員にとって、忘れてよいことの選別はとてつもなく難しいのです。
「元気の素」2月19日
心療内科医海原純子氏が、『推し』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、『若者たちを応援したりしていると、自然に穏やかで優しい気持ちになってくることに気がついた。どうやら人を応援すると自分の心の元気さが上るらしい。若者が「推し」をしている時もそんな感じなのかしら、と思った』と書かれています。
そうか、これだったのかと思いました。現在、教員志望者が減り、教員採用試験の倍率が下がり、このままでは教員の質の低下が避けられないと懸念されています。教員は、任期のない職になってしまったのです。
かつて、好況期には企業への就職希望者が増える分教員志望者が減り、不況期には教員志望者が増えるとされてきました。現在は、日本経済の地盤沈下が指摘され、失われた30年と言われる長期不況であることを考えると、教職の不人気は、相当深刻な原因があると考えざるを得ません。
限度を超える時間外勤務など教職の多忙化、MP対応の困難さ、小学校英語やプログラミング教育など次々に持ち込まれる新たな教育課題、様々な教職人気低迷の原因が挙げられ、対策が考えられていますが、それらとは別に、海原氏が指摘する「他人を応援すると優しい気持ちになる」という視点が重要なのではないかと思ったのです。
言うまでもなく、教職は子供を応援する職です。小さなところでは、逆上がりができない子供にコツをアドバイスをし、励まし、努力を評価し、出来るようにさせる。出来たと嬉しそうに笑う子供を見て、教員の顔にも笑みが浮かぶ。そのとき教員は『穏やかで優しい気持ち』になっているはずです。それは、幸福感と言ってもよいものです。
こうした感覚を日常的に味わい、多くの幸福を貯めることができる職、それが教職の魅力だったのです。明確に意識しているかはともかく、多くの人が教職に対して、子供の成長の喜びと満足感を感じる職というイメージをもっていたはずです。だからこそ、安月給であっても教職を志望する若者が後を絶たなかったのです。
少し牧歌的に過ぎるかもしれませんが、私が教職に就いた40数年前には、確かにそうした気分が残っていたように思います。私も、教員時代に毎日が楽しいと感じる時期がありました。学級の子供たちとの関係がうまくいっているという実感があり、子供たちの成長を感じることができ、子供たちに好かれている頼りにされているという感覚をもつことができたときです。残念ながら、未熟な教員であった私は、学級経営がうまくいかなかったり、子供との関係が不安定だったりしたことも多く、多幸感に浸っていられることはそんなに多くはなかったのですが、それでも毎日が楽しかったときの浮き上がるような気分は忘れることができません。
今、学校現場からこの「子供たちを応援して得ることができる多幸感」が姿を消してしまっているのではないでしょうか。それが、外部の人にも感じられるようになり、教職の魅力がなくなってきているのではないでしょうか。教員が、「今日も楽しかったな」と一日を振り返ることができるような在り方を考えることが大事だと思います。全国の教員を対象に大規模アンケートを行い、仕事で幸せを感じた瞬間を探ってみることから始めてみてはどうでしょうか。
「秤にかけて」2月18日
『卒業式「歌わずに」 マスク外し発声控えて』という見出しの記事が掲載されました。『都教育委員会は都立学校の今年の卒業式で、国歌や校歌などを歌わない方針を決めた』ことを報じる記事です。記事によれば、小池都知事は、『(マスクを)外すにしても、発声については控えましょうという(都教委の)判断の表れだ』と述べているそうです。
複雑な思いです。都立高の卒業式における国歌斉唱については、長年、学校現場で校長などの管理職と教職員団体の活動家とが、厳しく対立し争ってきた歴史があります。過去には大量の処分者を出し、最近に至るまで裁判で処分の是非が争われてきました。
私も都教委勤務時には、都立高の卒業式に来賓という名目で派遣され、国歌斉唱の状況を把握する業務に従事したこともありました。それらの機会を通して、校長たちの奮闘を直接目にした者として、今回の都教委の「歌わないという決定」には、無関心ではいられませんでした。
以前ほど厳しい状況ではないというものの、全くの無風状態ではありません。校長たちは「今年は職員との対立を避けることができる」とホッとしているのかなとも思う反面、これまでの教委や校長の尽力は何だったのだろうという思いも消せません。
文科省は、『式で歌う場合にはマスクを着ける』という通知を出しています。つまり、卒業式で国歌斉唱を実施するという選択肢は存在するということです。しかし、都教委は違う判断を下しました。生徒の「マスクを外した顔で友達をの思い出にしたい」という思いと秤にかけたとき、卒業式における国歌斉唱は、軽い問題だと判断されたということです。
問題は都立高にとどまりません。区市町村の小中学校も、同じ判断となる可能性が頗る高いのです。仮に一つに区や市が、マスクして国歌斉唱という方針を貫こうとしても、都教委は~、近隣教委は~と言われれば、単独で独自の方針を貫くことは難しいでしょうから、結局は右に倣えとなるはずです。
その程度のことだったのか、と脱力してしまいます。これまでの教委と校長の努力は、そんなに軽いものだったのか、と。多くの市民や保護者、生徒は今回の都教委の決定を歓迎するでしょう。メディアも同じでしょう。長く続いたコロナ禍の自粛生活の苦しさを思えば、生徒たちの思いをかなえてやりたいという気持ちは、私の中にもあります。
それでもなお、数十年の及ぶ苦しかった闘いの努力が無視されたような虚しさは残っています。次年度以降、都教委は、国歌斉唱の意義をどのように説くのでしょうか。
「比較選択する力」2月16日
東洋大INIAD学部長坂村健氏が、『AI時代の教育現場』という表題でコラムを書かれていました。その中で坂村氏は、『昨年11月にオープンAIが公開した「チャットGPT」のユーザーはすでに1億以上』という事実を告げ、チャットGPTが学校教育に及ぼす影響について論じていらっしゃいます。
坂村氏は、『大学の教育現場ですでに報告があるが、チャットGPTを自由に使わせても、リポートの課題をうまく設定すれば、学生の能力の差がちゃんと出る』ことを挙げ、『過去に例のない状況でも、自分で問題設定して言葉にし、解くのはAIでも解決策を選ぶ責任は人間が負う。そういう力を養う必要がある』と結論付けていらっしゃいます。
要するに、問題発見力もしくは問題創造力と多様な解がもたらす状況をイメージするシミュレーション力の育成こそ、これからの学校教育が目指すものだという主張です。この結論自体は、かなり前から文科省も言っており、過去の学習指導要領改訂の際には、生きる力とか、自ら課題を発見し~などと表現は微妙に異なりますが、一貫して提唱してきたところです。
しかし、逆の見方をすれば、ここ数十年言い続けてきたということは、ずっと達成されることはなかったということにもなります。事実そうなのです。でも、AIに解決策の提示を委ねてもよいという坂上氏の主張が的を射たものであるとするならば、少しだけハードルが下がったことになります。自分で一から解決策を構築するのではなく、提示された解決策から最善を選ぶだけでよいのですから。
不十分ながらも問題設定については、これまでの取り組みがあります。それをさらにブラッシュアップしていけばよいのです。今後メインとなる課題は、シミュレーション力です。これは、あまり取り組まれてこなかった課題です。どのような取り組みが有効なのか、早急に研究と実践を開始すべきです。私の直感では、文芸を含めた「芸術系」の教育がカギを握るように思えるのですが。
「学校内学校」2月16日
『保育施設内で有料習い事』という見出しの記事が掲載されました。『保育園や認定こども園を中心に、通常の保育時間中に高額な月謝が必要な習い事を実施するケースがある』ことを伝え、その現状と問題点を報じる記事です。記事によると、『英語や体操教室などが多く、「幼いころからいろいろ体験させたい」と子どもを参加させる一方で、「うちの子だけ参加させないわけにはいかない」といったモヤモヤ感を抱える保護者もいる』ということです。
『家庭の経済状況で園児が分けられる懸念』もありそうです。この問題自体、大変考えさせられるものですが、私は学校でも…と考えてみました。小中学校においても、学校生活の中に、「空き時間」は存在します。休み時間もトータルでは1日1時間ほどになりますし、給食や清掃の時間も、手早く終えて「空き時間」を作る子とは可能ですし、放課後の時間、中学校における帰宅部の生徒にとっての部活の時間などです。
ですから、給食を早めに終えた子供は教室を出てもよいことにし、30分程度の時間を確保したうえで、特別教室を使い英会話教室が主催する英語塾に参加するというような形で、「有料習い事」を行うということは十分に考えられることです。
さらに学校と外部の事業者の協力が進めば、通常2時間目と3時間目の間に設けられる20分程度の休み時間を10分にして、その分昼休みを増やし、より長い時間「有料習い事」の時間を確保するということもできます。
内容も、英会話に限らず、プロのプログラマーによるプログラミング教室、ダンス教室、書家に指導を受ける書道教室や俳優養成講座、あるいは子供に人気のユーチューバー入門講座なども需用があるかもしれません。
保護者は、子どもの様々な学習機会や体験を与えることに前向きですし、学校にしてみれば、多くの子供が「有料習い事」に参加してくれれば、その間の指導や管理の労力を省くことができるというメリットもあります。
記事にもある通り、『外部の事業者から「施設利用料」として支払いを受けているケース』もあるということで、収益を得ることもできます。その収益を、学校の特色ある教育活動に費やすということで、保護者からの理解を得ることもできそうです。外部の事業者から見ても、宣伝効果に加え、施設面での投資なしに教室や講座を開けるというメリットがあります。
このように考えてくると、将来的には十分実現可能性がありそうです。しかし、当然のことですが、負の影響も少なくありません。教育行政に携わる者は、今のうちから研究を始めておくことが求められているように思います。私は大反対ですが。
「2つの道」2月14日
オピニオングループ小国綾子氏が、『ポッドキャスト始めます』という表題でコラムを書かれていました。その中で小国氏は、『毎日新聞のポッドキャスト「今夜、ブルーポストで」に参加することになった』ことを告げ、その理由として『電車で人々のスマートフォンを観察すると、文字を読む人がどんどん減っている。多くは動画かゲーム(略)紙の新聞はいつか消えるかも、と覚悟はしてきたけど、文字コンテンツ自体が読まれなくなる可能性に気づき、新しいことにも挑んでみよう、と思ったのだ』と書かれていました。
なるほどな、と思う気持ちと同時に、そういう選択もあるのかと少し驚きもしました。私なら、文字コンテンツが今後も親しまれていくためにはどうしたらよいか、という方向で考えるとおもったからです。Aが衰退していくという事態に直面したとき、あくまでもAを維持していこうと考えるタイプの思考と、Aに見切りをつけ新たにBやCという道を選択する思考と2つのタイプがあるということです。
これを学校教育に当てはめてみると、例えば、落ちこぼれや浮きこぼしの問題を解決する際に、同一年齢同一学年という現行のシステムは維持しながら改善策を模索するという行き方と、落第や飛び級という新しい仕組みを導入して解決しようとする行き方のどちらを選択するかということになります。
あるいは、不登校問題への対応において、教員の資質向上やカウンセラーの配置などの対策を講ずることで対応しようとするか、リモート授業を標準とし登校という概念をなくしてしまうことで不登校をなくすかを選択することになります。
私は保守的な人間です。長年、学校教育に携わってきて、自分が経験してきたシステムに愛着も感じています。ですからどうしても、今ある学校や教員の現状を微調整しながら改善していくという手法に親しみを感じます。
しかし、漢方薬を飲み、食べ物に気を付け、適度な運動をし、ストレスのない生活を続けても、手術をしなければ改善しない病もあります。学校教育改革はと大上段に構えるのではなく、この問題は微調整主義で、この問題は革命的手法で、と使い分けるのがよいのかもしれません。見極めは難しいですが。
「愛国心」2月14日
専門記者大治朋子氏が、『その胸に抱かれていれば』という表題でコラムを書かれていました。ロシアのウクライナ侵攻という事態を受け、そこに住む人間と土地の結びつきについて書かれたものです。
その中で大治氏は、『ウクライナ政府は約1年前、「市民の詩」を掲示するサイトを立ち上げた』ことを伝え、いくつかの詩を紹介なさっています。『血と心と魂と』と題された詩は、『私の家は世界で最高の場所だ。ここにいると何も怖くない。胸いっぱいに深呼吸して、明日を信じる(略)私はウクライナ人だ』という内容です。
また、『戦士』という詩については、『「敵の刃に私が恐れを感じることはない」と言い切る。「我々の心は矢だ。敵の武具を貫く」。ロシア兵の武具の下にあるのは「弱い魂」だが、「我々の心は戦闘によって受ける屈辱から守る盾であり、進むべき道を照らす」。国土防衛への決意の言葉がめんめんとつづられる』と紹介されています。
そして、コラムは、土地と人の絆と言えば忘れることはできないパレスチナの詩人の詩で締めくくられているのです。『ここの土地で死に ここに葬られれば 何もいらない そしてこの土の下に 私はとけて消えていく それからこの土地に草をおくり 花をおくり このくにが育てた子どもの手で摘みとられる このくにの胸に抱かれて 土になれたら 何もいらない 草に 花になれたら 何もいらない』。
強烈です。くらくらします。私は何事においても平均的な日本人だと思っていますが、これほど強烈に日本の国、その土地を意識したことも愛着を感じたこともありません。生まれも育ちも東京、それも23区から出たことがなく、下町に住み続けて60年余り、地域愛、郷土愛的な感情は強い方だと思っていますが、最後に紹介されていたパレスチナ人のような強烈さとは程遠いところにいます。
外国嫌いで、短期間の旅でも帰国が待ち遠しく「やっぱり日本がいいね」という人間ですが、日本で埋葬されればそれで十分などとは思えません。つれあいに尋ねましたが、彼女もまた私と同じ「薄さ」でした。
大治氏は、『紛争は祖国愛を駆り立てるのだ』と書かれています。ウクライナが、大国ロシアの侵攻に耐えることができているのも、この祖国愛、自らが生まれ育ち暮らしてきた土地との結びつきの強さが重要な要因であると解釈されています。私もそう感じます。
そうだとして、こうした祖国愛や土地への愛着のような感情を、学校教育で育むことについて、どのように考えればよいのでしょうか。愛国心については、保守とリベラルの間で論争が続いてきました。しかし私の知る限りそれは机上の空論、神学論争とでも呼ばれるべき抽象的、観念的なものだったと思います。実際に外国人が軍靴で我が町を踏みにじり、我が家や懐かしい思い出の詰まった街や建物を焼き払い、彼らの国旗を立て…というような状況を目にしたときを想定しての議論ではなかったと思います。
今、我が国は、ウクライナ支援について、与野党を問わず支持している状況ですが、そのことを自分事として捉え、議論することについては低調だと言わざるを得ません。自衛力の増強については話し合われても、それを下支えする国民の意識については、誰も触れません。
リベラル派は、愛国心について触れることは保守派の思う壺にはまると警戒し、保守派はせっかく自衛力強化が実現しそうなのにうっかり愛国心について触れて自衛力増強がつぶれてしまったは元も子もないと敬遠する、そんな図式に見えます。
でも、学校現場では、教員は、いつまでも知らぬふりはできません。私自身はどうしても、故郷を大切な人が暮らす街を守るためならば何も怖いものはない、というような感情を美徳として教えることには抵抗があるのですが。時代遅れなのでしょうか。
番外「チンプンカンプン」WSJ
WSJ日本版に、『現金にそっぽ向く米国の子ども 多くの家庭でお小遣いはゲームの仮想通貨で支給』という見出しの記事が掲載されました。困惑しました。数回読み返してみたのですが、チンプンカンプンなのです。
次のような記述がありました。『家事を手伝ってくれた子どもたちにお小遣いをあげようとした。だが、現金ではダメだということがすぐに分かった。娘たちはロブロックスのオンラインゲームで使われる仮想通貨「ロバックス」で支払われることを望み、しわくちゃのドル紙幣に見向きもしなかった(略)長女のケイリーさんは最近、ゲーム内でルイ・ヴィトンのハンドバッグを買い、次女のジネルさんも同じくグッチのジャケットを手に入れた。いずれの商品もロバックスで5㌦相当に満たない価格だ。「現実の世界でお金を使うとしたら、親に頼んでお店に連れて行ったもらわなければならない」。ケリーさんはこう言う。「ロブロックスでは買うものをコントロールできる」』。
要するに、子供はバーチャルの世界で買い物をし、そこで必要なお金は親がお小遣いとして現金を仮想通貨に替えて振り込みむ、というシステムです。バーチャルの世界では、高価なブランド品も安く購入でき、無駄遣いの危険性は少ないということです。だから、子供は現金を欲しがらず、仮想通貨を好むというわけです。
我が国でも、近いうちにこうした状況が現実のものになるのでしょうか。もし、そうなったとしたら、そのとき、「金銭教育」はどのように行うことになるのか、というのが私が抱いた疑問です。
「金銭教育」などというと大袈裟ですが、今まで普通に行われてきた金銭に纏わる常識が、通用するのか、ということです。遠足のお菓子は300円までということで、予算内で収めるためにいろいろ考え我慢もするという経験、ラジコンを買うためにお小遣いを使わずに貯金するという体験、そういう「学習」が今後も意味をもつのかどうか、イメージが湧かないのです。
記事では、子どもたちは『ロブロックスでゲームや交流をしながら、仮想通貨を稼いだり使ったりしている』ともありました。そうであるならば、節約をして貯金するよりも、稼いだ方がよいということになっていくでしょう(どうやって稼ぐのか私には分かりませんが)。それは、望ましい変化なのでしょうか。現実社会では、10歳の子供が稼ぐことは難しいと思いますが、そこに問題はないのでしょうか。
さらに記事を読み進むと、『貯金箱、あるいは現金という概念でさえ、まさに時代遅れだ』という記述を目にしました。どうにもなりません。貯金なんて無意味、それよりバーチャルの世界でゲームで稼げ、小学生にそう教えることに抵抗を感じるようでは、「金銭教育」はできないということなのでしょうか。老兵は死なずただ消えゆくのみ、がここでも言えそうです。現役の教員の皆さんは大丈夫ですか。