「本音が出た」8月30日
『子供の貧困 教育、生活対策重点に』という見出しの記事が掲載されました。政府が29日閣議決定した「子供の貧困対策大綱」について報じる記事です。主な施策として、教育、生活、就労、経済の4分野での支援があげられていますが、主な教育支援としてあげられた4項目を見ると、学校教育に対する政府・文部科学省の本音が見える気がします。
『・SSWの増員、・高校生に対する奨学給付金増額、・所得連動返還型奨学金の導入準備、・生活困窮世帯への学習支援』という4項目ですが、いずれも学校における授業の充実に結び付くものではありません。しかし、経済的に豊かな家庭は子供を塾に通わせたり、家庭教育をつけたり、通信教育等の機会を与えたりしているのに対し、貧困家庭ではそうした措置をとることができないというのが、基本的な格差問題として存在しているのです。
その結果、中学卒業段階で、学力格差が生じ、その後の人生における経済格差を再生産してしまうという悪循環が問題になっているのです。こうした格差を解消する手段として従来は、学校での授業を充実させ、授業が分からないという子供をなくし、塾などに行かなくても希望の高校に進めるようにするという「建前」が語られていました。実際は、家庭の経済力と子供の学力には切っても切れない関係があることは認識していながらも、表向きは、必要な学力は学校の授業だけで身に着けることが出来ます、としていたのです。あたかも、警察庁が「パチンコで換金が行われているとは承知していない」という建前論を述べているように、です。
そうした視点でみると、今回の貧困家庭への「主要」施策から、学校の授業の充実に関する項目、教員の研修や授業時間の確保、教員定数の増加や学習内容の精選といったものが除かれたということは、文部科学省も、子供の学力格差は学校以外の原因で生じる部分が大きい、と認めたことを意味します。
長年、学校教育に携わってきた者として、学校の無力さを指摘されたようで寂しい思いはありますが、一方でこうした方向転換が、全国学力テストの結果を公開し、学力格差の原因を学校の教員の努力不足に還元してその責任を追及するという間違った施策の見直しにつながるのであれば、悪いことばかりではないとも思います。
「いくつもの矛盾」8月29日
論説委員福本容子氏が、『点数にならない力』というタイトルでコラムを書かれていました。その中で福本氏は、『点数で表せる学力で日本は、子どもも大人もすでに世界のトップ級だ~(中略)~でも、誰も考えつかなかったことに挑むとか、価値観の違う相手を説得するとか、バラバラな人たちをまとめるとか、点数にならない力はパッとしない』と述べていらっしゃいます。そして、『学力テストの平均点で数点も差がない他県と競い、出題の傾向分析と対策にいそしんでいる』現状を批判しています。
福本氏の指摘は目新しいものではありません。また、間違ってもいません。そして、簡単に答えが出せる問題でもありません。
全国学力テストを実施し結果を公表するというのは、競争原理により学力向上を狙う政策です。競争である以上、勝ち負けをはっきりさせなければなりません。そのためには客観的な基準が必要になります。それが「点数」です。
では、なぜ昨今急に学力向上が強く主張されるようになったかというと、資源のない我が国が、国際競争力を低下させ、経済成長が鈍化またはマイナスに陥る中で、世界に通用する人材の育成が求められるようになったからです。ここでいう世界に通用する人材の条件こそ、福本氏が指摘している、「誰も考えつかなかったことに挑むとか、価値観の違う相手を説得するとか、バラバラな人たちをまとめる」ような能力なのです。
つまり、目的と手段がずれているのです。だからといって、競争主義を止め「点数にならない力」の育成を目指せばよいのかといえば、そんな簡単な話ではありません。雑な言い方ですが、今では否定的に見る人が多いいわゆる「ゆとり教育」こそ、「点数にならない力」の育成を重視した施策だったのです。
私見ですが、いわゆる「ゆとり教育」が批判されたのは、「点数で表せる学力」が低下したからだったと思われます。「点数で表せる学力」を基礎として確実に定着させることが出来てこそ、「ゆとり教育」による「点数にならない力」の向上が実現できるということ、別の言い方をすれば基礎が身についていなければ応用力も身につかないという当たり前のことが軽視されてしまったのです。
「点数で表せる学力」と「点数にならない力」を対立概念として捉えたり、二者択一的に考えることが間違いなのです。基礎が応用に先行するのは当然です。そして応用過程の中で基礎がバージョンアップされていくというスパイラルの構造が最も妥当な形だと思われるのです。
こうした考え方で、小学校から大学院までの役割や位置づけを考えていくのです。全体としては、小から院に向かうにしたがって、基礎重視から応用重視に移行していくことになるでしょう。細部を見ていくと、基礎→応用→より高次な基礎→よりハイレベルな応用というように、学習内容と学習形態をいくつかのサイクル構造として構築していくことになります。
こうして作り上げられた全体像の中での「点数で表せる学力」を教育施策の評価に基準として用いるということになれば、学力テストも意味のあるものになると考えます。そんなことができるのかという批判もあるかと思いますが、およそ30年前に小学校の社会科という狭い範囲でのことですが、私も末端に連なっていた「社会科勉強会」が提唱した「1週1小単元1サイクルシステムによる典型教材と具体教材の構造」は、そうした発想で作られ、一定の成果を上げたものだったと自負しています。
「厳しい!」8月27日
『避難者自殺判決 東電の責任厳しく指摘』という見出しの社説が掲載されました。自殺に至る経緯について、『原発事故により、女性は生まれて以来ずっと住んできた故郷を離れ、避難生活を余儀なくされた。子供と別居し、働いていた養鶏場の閉鎖で職も失った。野菜を融通し合うなど密接な近隣住民とのつながりも失った。短期間に次々と襲ったこうしたストレスが女性を「うつ状態」に至らしめたと判決は認定した』と書かれています。
亡くなられた女性の苦しみ、遺族が負った心の傷の深さには心から同情します。しかしその一方で、「加害者」にとっては「厳しい判決」という思いも捨てきれません。それは、東日本大震災ではもっと悲惨な体験をされた被災者の方がいたのではないか、そうした中で歯を食いしばって生きている方もいるのではないか、という思いがしているからです。この女性は、夫も子供も無事でいたのですから、それだけでも羨ましいと感じる被災者はいるはずだと思うのです。
社説では、『避難生活を送る人の中には、ストレスに強い人も弱い人もいる。脆弱性といった言葉で切り捨てることは許されない』と書かれています。その通りだと思いますが、それでは「とてつもなく弱い人を基準に責任を問われるのが適切なのか」という疑問も浮かんでしまうのです。
学校には様々な子供がいます。そして、多くのストレス源があります。子供同士のいじめ、教員の体罰、指導や叱責などです。授業中におしゃべりしていた子供に対して、「みんなの迷惑になっていますよ」と注意し、その子供が休み時間に飛び降り自殺したら、教員の責任なのかということが気になってしまうのです。私はこの事例では、教員は適切な指導をしたにすぎず、教員の責任を問うことは酷な気がします。しかし、子供にストレスを与えたことは間違いありません。そこで、「一人一人の子供のストレスへの耐性を理解していない」と非難され責任を取らされるとしたら、怖くて教員などやっていられません。
もっと言えば、子どもを褒める行為でさえストレスを与えることがあるのです。「頑張ったね。○○さんはやればできると前から思っていたよ」という言葉掛けが、子供にとって次はもっと良い結果を出さなければというプレッシャーになり、試験の前日に自殺したというようなケースです。これで責任を問われたとしたら、やはり「厳しい」と思ってしまいます。
誤解のないように言っておきますが、私はこの判決自体の是非を問うているのではありません。ただ、「加害者」だからといって無制限に責任を負わせることが正義であるというような風潮を懸念しているのです。
「指示か。自主的判断か」8月27日
『頭髪の指導巡り小学校恐喝容疑 福岡・両親ら逮捕』という見出しの記事が掲載されました。『頭髪を染めた女子児童への指導内容に因縁をつけて小学校校長から現金を脅し取った』という事件で女児の両親と知人が逮捕されたことを報じる記事です。以前にも類似の事件があり、私はこのブログで、学校や教委は毅然とした態度をとる必要があることを説いてきました。
そうした意味で、私は、『校長が同署に被害届を出していた』ことを支持したいと思います。ただ、気になる点もあります。記事では詳細が不明なのですが、恐喝が行われたのが7月7日であり、逮捕されたのが8月26日と50日間も経っていることです。また、『治療費名目で校長から現金1万3500円を脅し取った』ということについても合点がいきません。
校長はいつ被害届を出したのでしょうか。複雑な事件ではありませんから、捜査は短期間で終わるはずです。そこから、校長が被害届を出すことを躊躇い、事件後しばらくたってから被害届を出したのではないかと疑ってしまうのです。もしそうだとすれば、校長の不見識を責めなければなりません。あるいは、教委に報告相談して指導を受けてから被害届を提出したことも考えられます。そうであれば、校長失格です。教委も、普段から危機対応についての指導を怠っていたことになります。そもそも、「恐喝」と感じたときに警察に通報すべきなのですから。
そのことに関わって、校長はなぜ少額とはいえお金を渡してしまったのか、という疑問が生じるのです。両親らの圧力に屈し、威圧的態度の恐怖を感じて、ということであれば情けない思いがします。また、恐喝の証拠を残すために現金を渡したのであれば、なかなかの戦略家ですが、そうした知恵の働かせ方は教育の場にはふさわしくありません。恐喝をはねつけていれば両親らは恐喝未遂で済んだものを、現金を渡したことによって恐喝既遂となってしまった、つまり教え子の保護者をより重罪に落とし込んだことになってしまったのですから、教育者として望ましい方法ではないのです。
ではどうすればよかったか。事前の対応としては、校長はこの両親がトラブルメーカーであることを察することが出来たはずですから、事前に教委に連絡して指導主事の派遣を求め、校長、副校長、指導主事で対応する体制をとると共に、両親と話し合うという原則を示し、知人の同席を拒否することが必要だったのです。
そうすれば、両親からの「圧力」を減らすことが出来、心情的に言っても金銭要求を撥ねつけることが容易になったはずです。さらに、指導主事に教委との連絡を兼ねて一時退席させ警察に通報することもできます。もちろん、警察への通報は両親に告げたうえで行わなければなりませんが。証人が多いことから立件も容易になります。
どこの教委でもすでに実施しているでしょうが、こうした事例を基に管理職対象の危機対応研修をさらに充実させていくことが必要です。
「裏の事情」8月25日
『全国模試を代ゼミ廃止 来年度から』という見出しの記事が掲載されました。『校舎の7割を閉鎖する方針の大手予備校代々木ゼミナールは25日、来年度から全国模擬試験を廃止する』ということを報じる記事です。私事ですが、40年以上昔、高3の夏休みに通ったのが代ゼミでした。老舗の予備校で、私のパソコンで今回初めて、「よぜみ」と入力したのですが、代ゼミと変換されるほどの認知度です。
同予備校が事業縮小を決めたのは、少子化により受験生が減少しているという現状に対応したものです。これは、同予備校固有の問題ではなく、子供を対象とした産業、塾や通信教育、子供用教材販売などに共通する問題だと言えます。
ここで私は、15年ほど昔のある行政の管理職の方から伺った話を思い出してしまいました。それは、行政の課長補佐、課長クラスを校長や副校長として配置するという人事構想案についてでした。新しい人事制度のねらいとして聴かされたのは、学校のことしか知らない校長や副校長といった従来の学校管理職では学校を変えることが出来ない、法令と予算という視点から組織を動かす経験が豊富な行政管理職の登用によって学校を機能する組織体に変える、というものでした。しかし、その本当の狙いは、団塊世代が管理職を占め、管理職適齢期の者に割り振るポストが足りなくなったため、学校の校長や副校長を新たな管理職ポストとして用意するということだというのです。
どうしてこうした話を思い出したかというと、近年、新たな取り組みとして紹介されることが多い、塾の授業を学校に導入する、塾や予備校の授業について教員が学ぶ、教材会社と共同で授業で使える教材作りに取り組む、といった教育産業と学校のコラボレーションの背後に、少子化で先細りが懸念される教育産業の経営維持や事業継続のための戦略が潜んでいるのではないかと考えたためです。
本来の意図を隠し、表面的には子供のためと言いながら、実は別の思惑を秘めているという構図の類似性を疑ってしまったのです。従来、学校教育は「利権」とは遠いところにあると思われてきました。しかし、学校教育がもつ「利権」が注目される時代になったのかもしれません。それに合わせるように、教育行政の権限が政治家である首長に移される形の改革が進むということは、と考えてしまうのは私が疑り深いからなのでしょうか。
「業界の常識との乖離」8月25日
読者投稿欄に、伊勢崎氏の公務員服部氏の『抽象的な音楽の学習指導要領』というタイトルの投書が掲載されました。その中で服部氏は、『現行の各社の教科書は満足できるものではないと思う。なぜそんな教科書しかないのか。先日、学習指導要領の音楽の部分を読んでみて、原因はここにあると思えた。なぜかというとその記述があまりに抽象的あるいは総論的であるからだ。これでは執筆者は執筆に当たって手がかりを得られない』と書かれています。
服部氏は、学習指導要領はより具体的な記述がなされるべきと考えていらっしゃるようです。我が国のような自由な社会においては、ある問題について様々な意見が存在するのは当然ですし、健全なことです。ただ、その意見が正しい事実認識に基づいていることが前提です。少なくとも一読した限りでは、事実誤認もしくは理解不足があるように思えてなりません。
学習指導要領については、ほぼ10年ごとに改訂が重ねられてきましたが、底流として、教育内容に対する国家統制という視点から一定の合意があるということを知っておく必要があります。戦前の国家主義的な教育への反省から、国(政府)が詳細な内容まで決定するのではなく、あくまでも大綱として示すという基本方針です。国定教科書から検定教科書へ、というのもこの流れの中で理解されるべきです。
実際には、準国定化を求める立場と完全自由化を理想とする立場の勢力があり、せめぎあいを行ってきたのは事実ですが、結局は中間点で決着してきたという歴史があるのです。服部氏の主張は、大綱化を否定し、国(政府、文部科学省)が細部までつめた内容を示せ、という主張をしていることになります。もちろん、そのことを承知でおっしゃっているのであれば問題はありませんが。
また、抽象的・総論的だから執筆者が手掛かりを得られない、という見方は事実と異なります。文部科学省は、教科書会社の担当者を対象に説明会を行いますし、個別に各社ごとに質疑応答の場を設けてもいます。さらに、学習指導要領の改訂に合わせて、解説書が作成されます。解説書は、学習指導要領の記述について、その解釈や考えられる具体事例、実際に学習計画を作成する際に留意することなどについて詳述したものです。解説書に「法的拘束力」があるか否かということについては現在も意見が分かれていますが、教科書の執筆者は、かなり豊富な手掛かりを得て執筆をしていることは間違いありません。執筆者が苦労するのは、限定された内容の中でどのようにして他社との差別化を図るか、という点なのです。A社は「○○」という曲を取り上げているから、わが社は「◇◇」という曲で行こう、というようなことです。
そもそも論的に言えば、教科書執筆者自身が、数少ない専門家として、学習指導要領の改訂や解説書の作成に関わっている場合が多いのです。ですから、手掛かりを得られないなどということは考えにくいのです。
もちろん、以上のようなことが、業界内の閉鎖的な体質を表している、一部の者の密室協議で決められている、国民の目に見えにくいところで談合が行われていると批判する立場があってもよいかもしれませんが、それは別の話です。
「キャッチボール」8月25日
『いじめ対策に脳科学活用』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『いじめや自殺などの対策に脳科学や心理学の研究成果を生かすため、文部科学省は、感情の動きである「情動」を研究する大学や教育機関をネットワーク化し、各分野の専門家と教育関係者が横断的に連携する仕組みづくりを始める』ということです。
記事では、現状を『いじめや不登校などへの対応は教員の経験に委ねられることが多く、脳の働きや心理学に基づく科学的なアプローチはほとんど行われていなかった』としていますが、そのとおりです。この試みに期待したいと思います。その際に必要なのは、科学的なアプローチを優先したり、教員の経験を優先したりしないことです。
望ましいのは、経験と科学の間で対等で真摯な意見交換が行われることです。科学は普遍性をもっていますが、入力されたデータに基づいた結論しか出せないという欠点があります。重要な要素を外したままいくら詳細な分析を行っても、役立つ指導法にはつながりません。
また、経験というと非科学的かつ個別的な印象がありますが、その中には当事者が意識していないだけで、普遍性につながる貴重な暗黙知が潜んでいることが少なくないものです。つまり、両者が補い合ってこそ、真に役に立つ指導原理に結びつくことが期待できるのです。
そこで問題になるのが、「各分野の専門家」とは誰か、ということです。脳科学者や心理学者については、学会等の推薦という形で問題はないと思われます。しかし、教育の方の「専門家」については、懸念が残ります。教育系の学者や評論家、あるいは全国教育長会代表といった人々が選ばれる可能性が高いように思われるのです。それでは、科学と経験のキャッチボールではなく、単に学者間の協議になってしまいます。
全国からいじめ事例を発掘し、その中でいじめ問題が解決した事例を抽出し、さらにその解決に教員の指導助言が有効に機能したと思われるケースを選び出して、関わった教員を「専門家」としてピックアップするのです。そして、夏季休業日等に集中討議の場を設定し、本当の現場の意見が生かされるようにするのです。教育側の「専門家」の選出がこのプロジェクトの成否のカギを握っていると思います。
「かえってあいまいに」8月23日
『橋本氏 キス騒動謝罪』という見出しの記事が掲載されました。『日本スケート連盟会長の橋本聖子参院議員がソチ冬季五輪後の宴席で、フィギュアスケート男子の高橋大輔選手にキスを強要したなどと週刊誌で報道された問題』についての記事です。この件に関しては、橋本、高橋両氏ともに「強要」を否定しています。JOCの調査でも「強要」はなかったと結論付けられています。
この問題は、当初、セクハラ、パワハラ問題として話題になりました。以前、都議会のヤジ問題のときにも書いたことですが、セクハラやパワハラという用語が安易に使われ過ぎると感じます。
このケースは、セクハラでもパワハラでもないことは明白です。最も重要な要件である「被害者」が「強要」されたと感じ、尚且つ「強要」された行為について不快に感じていること、満たさないからです。もちろん、実際には「強要」と「不快」を感じていたが弱い立場の「被害者」が真実を言えないという可能性については慎重に検討される必要がありますが、引退を考えている高橋氏にとって、6か月も我慢している必要はないと考えるのが妥当です。
誤解のないように言っておきますが、私は今回の「キス」という行為を問題なしと考えているわけではありません。国会議員という責任ある立場の人間として、橋本氏の行為は非難されるべきだと考えています。だからこそ、セクハラ、パワハラとして取り上げることに反対なのです。
ややこしい言い方になってしまいましたが、最初にセクハラ、パワハラとして問題にしていくと、セクハラでもパワハラでもないとなったとき、それでは問題ないということになってしまい、問題をはらんだ行為が免罪されてしまうことに懸念を覚えるのです。橋本氏の、下品で軽率で思慮に欠ける行為という本質が見えなくなってしまうのです。
実は、学校教育で問題になる「いじめ」「体罰」についても同じことを感じています。「いじめ」か否か、「体罰」があったかどうか、という問題の迫り方をしていくと、調査の結果、「いじめ」には該当しない、「体罰」とまでは言い切れないという結論になった途端、追及がにぶり、「加害者」が免罪され、かえって「被害者」救済につながらない事態に陥ってしまうことが少なくないのです。
「いじめ」の定義には該当しないが、不用意に他人を傷つける行為があった、「体罰」とまだは断定できないが教員として不適切な指導であることは間違いない、という認識の下に指導や再発防止のための行動が可能になるケースの方が多いのです。
セクハラやパワハラ、いじめや体罰という卑劣な行為を憎むからこそ、安易な決めつけはやめてほしいのです。
「サムシング・ニューイズム」8月22日
『「教育復興」の福島の新高校 秋元氏が校歌制作』という見出しの記事が掲載されました。『来年4月に広野町に開校する県立ふたば未来学園高校の校歌を、作詞家の秋元康氏が制作する』ことを小泉進次郎復興政務官が発表したことを報じる記事です。結構な話です。ただ、この記事の後段の記述が気になりました。
『「ふたばの教育復興応援団」を発足させ~(中略)~、小泉氏は「応援団として、年間で最大100時間の授業を考えている。全国が注目する、前例のない教育を作りたい」と語った』のだそうです。100時間の授業といえば、毎週2時間以上もある計算になります。小中学校で言えば、「総合的な学習の時間」よりも特設道徳の授業よりも、図画工作や音楽の授業よりも多い授業数です。つまり新しい教科を設けるのに匹敵する授業数なのです。
それだけの「時間的投資」をして、どのような効果を期待しているのか、記事からは全くわかりません。気になったのでネットで調べてみると、秋元氏以外にも俳優の西田敏行氏などの著名人が授業をする予定のようですが、イメージが浮かびません。
まさか、各界で活躍する著名人のお話を伺う、というわけでもないでしょう。自ら考え自ら解決する力の育成を目指す現代の学校教育において、そんな受け身の授業に100時間も費やすはずがありません。また、著名人の話なら有益だろうというのも安易すぎる発想です。それぞれの専門を生かし、生徒が主体的に学び追究する能動的な学習を意図しているのであればよいのですが、お忙しい著名人の方が一定の期間同校で生徒の学習状況をみとって指導助言できるのでしょうか。
私には想像もつかない斬新な方法が構想されているのかもしれませんが、「前例のない教育」という言い方に懸念が募るのです。13年前に読んだある本の中にあった「サムシング・ニューイズム」という言葉が浮かんできてしまうのです。ちなみに、「サムシング・ニューイズム」については、『マスコミは何でも新しいことには飛びつくが、陳腐なことには見向きもしない。社会も新しい試み過大視し、制度を変えることばかりに腐心している』という記述にあるように、新しい試み=善という価値観です。中身を慎重に比較検討することなく、新しければよいという発想で、既存のものとの差別化を図ることを優先する考え方が、ふたば未来学園高校の応援団授業にあるように思えてしまうのです。もしそうであれば、不幸なのは生徒たちです。
「いじめとの共通点」8月21日
『山中教授も、孫社長も、ブッシュ前大統領も』という見出しの記事が掲載されました。『運動機能が失われ、全身の筋肉が動かなくなる「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の患者を支援するチャリティイベント「アイス・バケット・チャレンジ」』の広がりを報じる記事です。私は氷水をかぶった人が次にかぶる人を3人指名するという話を聞いたとき、「不幸の手紙」を連想してしまいましたが、そうした趣旨の批判はないようです。
ただ、私には、この「アイス・バケット・チャレンジ」には、学校でのいじめと共通する要素があるように思えます。まず、他人には他人の事情があるという想像力の欠如です。心臓が弱い人が氷水をかぶったりしたら命に係わる大事になりかねません。もし、心臓に病を抱えている人がいて、そのことを周囲の人は知らずいた場合、「指名」されることは大きな困惑をもたらします。隠していた病を公表したくはないし、自分だけかぶらないということで仲間外れにされたくないという葛藤が生じるわけです。この「アイス・バケット・チャレンジ」を面白がる人は、他人はみな自分と同じという考えをもつ幼い人であるという印象がぬぐえません。他人の痛みに鈍感であるというのは、いじめ加害者に多く見られる傾向です。彼らはいじめが問題になると、いじめているつもりはなかった、そんなに嫌がっているとは思わなかった、と自己弁護するのです。
そして、こうした批判に対して必ず出てくる意見が、嫌ならば断わればいい、というものです。これこそ、いじめの本質を無視した考え方と共通するものなのです。人間は、嫌だからといって嫌と言えるような強い人ばかりではないのです。それにもかかわらず、嫌だと言わなかった人に責任があるという論理で、「被害者」をさらに追い詰める、まさしくいじめの典型的構図です。
また、自分が面白いと感じることは他人も面白いと感じるべきだという発想もうかがえます。これは、同じ意見・感性の人だけを囲い込み、自分とは違う人を排除する行動につながりやすいものです。仲間外れはいじめの第一歩であることはご存じのとおりです。
さらに、「指名」という行為には、他人を意のままに動かそうという傲りが感じられます。少なくとも、「やってくれますか」という相手への配慮はありません。こうした人に限って、勝手に「指名」したにもかかわらず、相手を非難するのです。いじめ加害者の多くが、独りよがりな理由でいじめの原因を相手に押し付けいじめを正当化する論理に通じます。
最後に、集団対個人の構図です。「指名」をする人は今までに氷水をかぶった多くの人たちを味方にしその集団内に自分を置きます。数万人が自分と同じだぞという数の論理をふりかざし、まだ氷水をかぶっていない個人に圧力をかけるのです。こんなに大勢の人がしていることを君だけはしないつもりか、と自分を多数派、強者の立場に置き、反撃されない安全圏から個人を見下ろすという形です。いじめの構図そのままです。
数多くのいじめ問題に取り組んできた私には、どうしても「アイス・バケット・チャレンジ」を好きになれません。