ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

重複の意味

2024-06-12 09:16:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「大人になると」6月6日
 木ノ下歌舞伎主宰木ノ下裕一氏が、『源氏物語が問う孤独』という表題でコラムを書かれていました。その中で木ノ下氏は、『「源氏物語」を初めて読んだのは大学生のころ。残念ながら、あまり面白いとは思えず、「須磨」「明石」の帖あたりで断念(略)光源氏という男が鼻についた。「我になびかぬ女などいない」と言わんばかりの傲慢な振る舞い、その身勝手さ~』と源氏物語との初対面のときのことを書かれています。
  その木ノ下氏が、『最近、必要が生じて、しぶしぶ、読み返してみた。すると、これが面白い!スルスルと光源氏の終焉まで読み終えてしまった。光源氏が心底あわれに思われた縁の薄かった実母の面影を追い求めて、多数の女君との逢瀬を重ねるが、その心はけっして満たされることはない。究極の孤独ではないだろうか』と考えるようになったというのです。
 こうしたことは珍しいことではありません。子供時代、若かった頃読んだ書物を中年以降に読み直してみると、全く違う光景が見えてくるというのは誰にもあることです。私は、最近、あまり本を買いません。でも、読書が好きなので、20年前、30年前に買った本を読み返しています。木ノ下氏同様、当時の自分の浅さ、あるいは逆に前向きなエネルギーが十分にあるときの捉え方が今とは違うことなどを感じています。
 そして私は、40年ほど前の同僚の教員との会話を思い出しました。彼は私に、「社会科っておかしくない?」と言うのでした。それは、「他の教科、例えば数学や理科、英語などは、同じことを二度勉強しない。それまでに教わったことを基に、さらに一段高度なことを学ぶ。それなのに、社会科だけは、小学校で、家康が江戸幕府を開いたと教わり、中学校でも家康が朝廷に征夷大将軍に任じられたと習い、高校でも家康が江戸幕府を開き政治の中心が江戸に移ったと教わる、無駄なんじゃないの」という趣旨でした。
 確かに数学では、中学校や高校で再び分数の足し算を習うということはありません。違うと言えば社会科だけが違っているのかもしれません。かつての同僚は、「だから、社会科(彼が言っているのは歴史だが)は、小中高と視野を広げて、内容を整理して重複をなくせば、一つ一つの学習に時間を費やすことができ、もっと深い学びを実現することができるのでは、ないか」という主張をしていたのです。
 当時は、彼だけでなく同じようなことを口にする人が少なくなかったように記憶しています。しかし、木ノ下氏が源氏物語について感じたように、あるものや事柄に対する感じ方、その基盤となる価値観は年齢を重ねるにしたがって変化し、深みを加えるものなのではないでしょうか。
 少なくとも、文学や歴史など、文系の学びにそうした性質があることは否定できないと思います。だからこそ、歴史の学習は、小中高と目的とするところが異なるのです。年齢を重ね、大人に近づくにしたがって歴史認識が深まっていくのです。小学校では個別の特徴的な事象や人物を基に歴史に興味をもつ、中学校では通史として全体を広く浅く理解する、高校では人間理解に基づいて歴史を深く、多面的に理解するというように。

 

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