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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

時代が求める能力

2017-11-29 08:13:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「これから求められる能力」11月22日
 『他人と協力 問題解決 和の国 日本2位』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『経済協力開発機構は21日、2015年の学習到達度調査で、52カ国・地域の15歳計12万人を対象にした「協同問題解決能力調査」の結果を発表した。他の人と協力して効果的に問題解決する力を測る調査で、日本の平均点は2位だった』とのことです。
 私はこの記事を読んで、社会科の指導法の研究に取り組んでいた頃のことを思い出しました。社会科の学習過程は、問題解決過程と捉える考え方が主流であり、私も、「問題解決」をキーワードに、様々な文献を読み、メモを作成していました。
 今そのメモを取り出してみると、「難問に直面したとき、人は周囲の人々の知恵を借り、勇気づけられ、逆に自分も他人にそうしたことをする。問題は一人では解けない」とか、「他者との温かい交流は達成の喜びを増幅させ、効力感を導く」「仲間からの是認、関心、感謝が、自己の存在意義を自覚させ、活動の源になる」「教え合いは、教える者の自信、自己肯定的イメージを促す」などの文言が記されていました。
 それだけに、この見出しを見たとき、大いに関心をもって読んだのですが、どうも「調査」に使われている問題や正答があやふやなのです。例えば、小グループの調べ学習に於いて、『あかねさん:私は「人口」をやるわ。三郎君:ちょっと。それは僕がやりたかったのに』という争いになったとき、『みんな、なぜその分野がいいのか説明してくれるかな』と対応するのが正解、というようなテストなのです。正直なところ、こんな調査で協同問題解決力が測れるのか、と疑問に思いました。
 それはともかく、私が気になったのは、なぜ今回から「協同~」の調査が始まったのかということです。この程度の調査であれば、問題を作成することは簡単だったはずなのに、今までは行われてこなかったのですから、何か理由があるはずです。一般的にある調査が始まるときには、その項目が重要であると考えられるようになったという背景があるはずです。つまり、大胆な言い方をすれば、今までは個人の能力こそが重要と考えられていたけれども、これからの世界における諸問題を解決していくためには、一人の天才の存在よりも、多くの人々の知識や経験、能力を統合して活用していくことの方が重要である、という価値観の転換が起きているのはないか、と考えたのです。そうであれば、学校教育のあり方も変わってくるはずです。
 近年、学校教育への競争原理導入が叫ばれてきました。しかし、競争環境では、人々の協同的な問題解決が行われにくい、というのは心理学では当たり前の見解です。今回の調査は、あくまでもOECDが行ったものですが、我が国の教育関係者は同じ問題意識を持っているのでしょうか。『和の国日本』の良さを消してまで競争原理に拘っていくのか否か、我が国と世界の教育界が同じ方向を見ているのか、今後の動向が気になります。

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偉人の「いじめ」

2017-11-28 08:05:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「いじめ加害者の自己弁護」11月21日
 北康利氏による連載、京セラ創業者稲森和夫氏の伝記『思い邪なし』の34回が掲載されました。学童時代にガキ大将であった稲森氏による陰険且つ巧妙ないじめ事件についての内容です。いじめの発端は、教員による全家庭への家庭訪問です。
 『東京から引っ越してきた(略)おとなしくて頭もよく裕福な家の子(略)子ども心にもきれいなお母さんで、礼儀正しい人だった。すると急に先生の態度が変わった。これまでは店先で立ち話だったのに、家に上げてもらって話し込んでいるではないか』『キミ(稲森氏母)は忙しく仕事をしていたが、わざわざ手を休めて先生を出迎えた。ところが実に“素っ気ない態度”であっさりと家庭訪問は済んでしまったのだ』という家庭訪問における担任教員の態度に接し、『母親が侮辱されたよう思えて不愉快であった(えこひいきではないか!)子ども心にそう思った。それからである。稲森がその子をいじめだしたのは』という経緯です。
 私は、今回の記述内容から、いじめについて3つのことを感じました。まず、稲森氏や北氏のいじめに対する認識です。紹介されているいじめは、『自分でいじめるのではなしに、自分の子分を使っていじめるのです(略)今日はあっちへ走っていったから、お前はあっちへ回って、あの角で待っとれとか言って指示する』というような悪辣なものです。
 当時は、現代とは異なり、地域間の文化や習慣の違いが大きく、東京から鹿児島に引っ越してきた転校生は、異国にでも来てしまったような心細さを感じていたことでしょう。その弱者を、集団で、しかも自分はばれないように陰に隠れ子分を操って毎日いじめる、いじめの中でもその悪辣さ、酷さ、陰険さは、怒りが湧き上がるほどです。
 もし、稲森氏が、暴行傷害事件や強姦事件を起こしていたとしたら、決してそのことには触れずに伝記が書かれたはずです。それなのに、稲森氏はこんな悪行を平然と話し、北氏も淡々と書き連ねています。つまり、ご両人とも、この程度のいじめは大したことではない、とお考えなのです。世間では、「いじめは犯罪」と認識すべきだという主張をする人が少なくありません。そうした主張をする人たちは、この伝記を目にして、稲森氏を犯罪者と非難するのでしょうか。それとも時代が違うというのでしょうか。あるいは、相手が自殺したわけじゃないし、と大目に見るのでしょうか。それとも、稲森氏の偉大な業績を免罪符とするのでしょうか。自分が関係していないいじめについては、「立派な意見」を述べる人も、自分のこととなると違う理屈を持ち出すと言うことがあるのではないか、そんなことを感じました。
 2番目は、教員の言動がいじめの原因になることがあるということです。今回の記述を見る限り、いじめ被害者の転校生自身は、何もいじめの誘因となることはしていません。担任教員が、転校してきて慣れない環境の中で学校生活に適応できているか心配し、転校生の保護者に時間を掛け話を聞いたというだけのことが、誘因になっているのです。じっくりと話すためには家に上がることも必要だったでしょうし、出されたお茶や菓子に手をつけ、笑顔を見せることも、相手の心を開かせるためには意味のある行為です。それを「依怙贔屓」と見たのは、稲森少年の主観に過ぎません。でもそのことで、実際に陰惨ないじめが起きてしまったのです。教員は、常に子供の目を意識して、子供の心情を考えて、保護者や他の子供に接する覚悟が求められるのです。厳しいことですが、仕方がありません。
 3番目は、いじめ加害者の論理についてです。島津家支配の時代から、鹿児島には郷中教育と呼ばれる地域単位の教育活動がありました。『「弱いものいじめをするな」というのは郷中教育の三つの戒めの一つだが、稲森の中では彼(転校生)は“強者”に映ったのだ』
という記述からは、稲森少年なりの自己正当化が読みとれます。郷中教育の教えは素晴らしいと思います。それは、道徳教育として、今も有効な内容を含んでいます。そして、賢い稲森少年は、郷中教育の教えを自分なりに血肉化していたのでしょう。だからこそ、人望もありガキ大将になることができたのだと思われます。
 しかし、肝心な「弱いもの」について、間違った捉え方をしていたのです。私は教員として、教委の職員として、多くのいじめ事例に関わってきました。その中で共通して感じたのは、いじめ加害者とされる子供たちのほとんどが、自分たちなりの、それは一面的であったり、身勝手であったりはしましたが、いじめを正当化する理屈をもっていたことです。盗人にも三分の理、と言いますが、悪辣ないじめをする子供たちにも彼らなりの理由はあるのです。当然のことながら、その多くは感情的なものです。
 だからといって「それは言い訳だ」と切り捨てるのではなく、感情は受け止め理解を示し、その上できちんとした論理でいじめたという行為は許されないと諭すということが大切なのです。稲森少年のような賢い子供でも、間違いを犯すのですから。

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独り熟考

2017-11-27 08:03:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「2つの対話」11月19日
 書評欄に、『チョムスキー言語学講義 ノーム・チョムスキー、ロバート・C・バーウィック著』について、三浦雅士氏による書評が掲載されました。その中に次のような記述がありました。『言語はコミュニケーションではない。思考だというのである』。また、『統計的に言うと、言語が圧倒的に使われるのは内的-つまり思考のためだ』という記述もありました。
 考えてみれば当たり前のことです。「来月の母の法事の後の会食は会席料理がいいか、若い人が多いから拘ることはないか。乳児を連れてくる人もいるから、椅子席ではなく畳の部屋がいいんだけれど。でも○○は、駐車場がないし…」、と昨日私が考えたことも、日本語という言語がなければ成り立ちません。
 しかし、言語というとコミュニケーションツールという捉え方をしてしまう人が少なくないような気がします。私は教員時代に、「子供の思考力を育てる社会か授業」というテーマに拘って研究を続けていました。そこで得た結論は単純なものでした。小集団や学級での話し合いによる意見交流=外的対話と沈思黙考=内的対話を効果的に繰り返し、認識を深化させていく授業、を目指すべきということでした。
 でも「言うは易く行うは難し」でした。話し合いという活動は、ある程度教員が見て評価することができますが、沈思黙考は把握することも評価することも難しいのです。考え込んでいるのか放心しているのか、見ただけでは判断できませんし、声を掛けることで思考を中断させてしまうかもしれないので、「どんなことを考えているの」と訊くこともできないし、というわけです。当然、助言することも、ヒントを与えることもできません。こうした状況は教員にとってとても居心地の悪いものなのです。
 また、現在、アクティブ・ラーニングが重視され、教室の中がシーンと静まりかえって一人一人の子供が考え込んでいるというような授業は古臭いとみなされやすくなっています。そんなこともあり、今、学校において一人一人の子供が頭の中で内的対話・自己対話を重ねるような授業は敬遠されています。
 しかし、内的対話なしに考える力が育つことはありません。それは私が言うだけではなく、言語学の泰斗、チョムスキーが「言語は思考だ」と言っていることからも、真実なのです。一人でじっくりと考えることの復権が必要です。

 

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無能者の対応

2017-11-26 08:34:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「殴打事件に学ぶ」11月16日
 『同席の白鵬関、謝罪「ビール瓶手から落ちた」』という見出しの記事が掲載されました。横綱日馬富士による殴打事件について、その場に同席していた白鵬関が取材に応じたという記事です。記事によると、白鵬関は、『放送されているような、ビール瓶では殴っていません。馬乗りの事実はない』と話したということのようです。
 今までの合同と異なるこの発言の真否は分かりません。ただ、縦社会である相撲界で、歴代最高の成績を上げている横綱がこうした発言をしてということで、今後、関係者が横綱と異なる発言をすることを躊躇うという懸念が捨て切れません。学校や教委の関係者も学ばなければならない危機対応の基本が、この記事の中にあるのです。
 学校も組織であり、教委、学校管理職、一般の教員と主幹や主任、先輩と後輩、職員団体の幹部と一般の教員など、様々なしがらみがあります。相撲界とは正反対のフラットな社会ですが、それでも周囲の思惑を意識するのは人間の性です。まして我が国には、今年認知度が急上昇した「忖度」という文化が根付いているのですから、上位者、影響力の強い者が、「○○です」と言ったということが伝わると、他の関係者が自分が認識している「真実」を口にするのをためらい、「嘘」の供述をしてしまうという危険性が高まってしまうのです。
 いじめ問題や、教員間のセクハラやパワハラ、体罰問題など、学校でも様々な事件が起き、その解明のために調査が行われます。そのとき留意しなければならないのが、聞き取りの結果が決して漏れないようにすることです。「Aさんがこう言ったらしい」などという噂が広まると、それに影響され発言を変える人が出たり、既にしてしまった発言を責められる人が出たりといった混乱が生じ、真実の解明が難しくなるだけでなく、人間関係や雰囲気に長期にわたって悪影響を及ぼしてしまうのです。
 望ましくない例を挙げておきましょう。いじめ問題のときなど、関係者として名前が挙がった子供をまとめて相談室に呼んで聞き取りをするというような対応をする教員がいますが、とんでもないことなのです。そんなことをすれば、子供間の力関係によって事実が歪められるのは必至なのですから。
 そういえば、別のニュースでは、日馬富士と高ノ岩が握手をしていたという情報が流されていました。これなども、いじめ問題の解決として、加害者と被害者に握手させて「これで終わり。これからは仲良くしよう」などという方法をとる教員がいることを連想させました。いうまでもなくこんな茶番は何の解決にもなりません。相撲界は遅れていますね。

 

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一線を越える

2017-11-25 08:09:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「質問されたら」11月15日
 『「印象操作」「一線を…」なぜ落選 2017新語・流行語大賞 私ならこれ』というタイトルの特集記事が掲載されました。その中で作家山口恵以子氏は、「一線を越える」を取り上げていました。記事では、『「妻帯者なので“一線を越えてはいけない”と思い…」とのコメントを発表。これに対し「一線とは何か?」「越えなければ許されるのか」と一気に炎上した』と今井参院議員の発言を紹介、解説していました。
 私も当時の騒動を思い出しました。その後も続いたいくつかの不倫騒動でも、「一線を~」発言が使われ、確かに流行語には相応しいと感じました。それはともかく、この「一線を越える」という言葉について、あるワイドショーでコメンテーターが、「どういう意味?」と子供に訊かれたら困るという意見を言っていたことを思い出しました。
 私ならどのように答えたでしょうか。さすがに、「そんなこと、子供が知らなくてもいいの」というような対応はしないでしょう。その代わりに、「辞書を引いてごらんなさい」という答え方が考えられます。しかし、子供用の辞書には掲載されていません。「一線を画する」はあるのですが。しかもこうした対応は、「何か言いたくないことを隠している」という疑念を子供に抱かせます。そこから、「人前では口に出来ないエッチなこと」という想像を働かせることになります。
 飛躍するようですが、実はこうした対応をとってしまう大人の意識こそが、望ましい性教育を阻害する遠因なのです。「一線を越える」は、男女が肉体関係をもつことです。今の若者のことは分かりませんが、私が10代、20代のころは、異性と肉体関係をもつということは、それまでの人間関係がそこからはっきりと質的変換を遂げるというイメージでした。それまでの友人、仲間、同僚というような関係が、もっと重い関係に変わることを意味していました。「肉体関係をもってしまった以上、きちんと結婚しなければ」というような考え方は珍しいものではなかったのです。
  そのことは逆に言えば、「肉体関係をもつ」ということが、大人として社会的にある責任を負うことを意味したり、相手に対する愛情の意思表示であったりするという行為であるという意味もあったのです。ですから、「一線を越える」は、セックスは好奇心や欲望を満たすためだけのものではなく、相手への愛情や相手の人生に対する責任を負う決心を伴う行為であることを知らしめる意味も生じてくるのです。「一線」はけじめであり、はっきりと区別する意味なのですから、この相手は私にとって他の人とは異なる価値をもつ人なのだ、と自覚することが、「一線を越える」際に求められていることになるのです。
 でも、咄嗟にこんな風に応えることができる大人は希でしょう。私などは今でもどこかに「性的なことは隠しておきたい」という潜在意識をもっています。そうした意識が、性は隠すもの、隠さなければいけないものは汚らわしいもの、性は汚らわしいものという三段論法で、性について語る性教育を隠微な存在に貶めることにつながっているのです。
 「一線を越える」が流行語大賞にノミネートされ、一線の意味についてきちんと語られるようになれば、そのことが性教育の望ましい充実につながったかもしれません。

 

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貴ノ岩と貴乃花

2017-11-24 08:16:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「既視感」11月15日
 『日馬富士関が暴行 捜査』という見出しの記事が掲載されました。テレビのワイドショーやニュースでも取り上げられている大相撲の横綱によるビール瓶殴打事件についての記事です。注目が集まっている事件ですが、私はまったく問題になっていないある記述が気になりました。
 記事によると、『貴乃花親方は10月下旬に鳥取県警に被害届を提出した』のだそうです。入院をしなければならないほどの怪我をさせられたのは貴ノ岩関です。貴ノ岩関は、27歳のれっきとした成人です。怪我をしているといっても、意識不明というわけではなく、10月下旬の時点では日常生活が出来ていたようでもあります。どうして貴ノ岩関本人が被害届を提出していないのか、ということが気になるのです。
 貴ノ岩関はモンゴル国籍の外国人だからなんでしょうか。でも、十分に日本語で意思疎通できるのです。親方が善意で「代行」してあげたということなのかもしれません。それにしてはおかしいのが、親方が「被害届を取り下げることはない」と語っていらっしゃる点です。被害届の提出も取り下げも、貴ノ岩関本人が決めることです。もし、親方が「代行」しているのであれば、「貴ノ岩は、取り下げないと言っている」という表現でなければおかしいはずです。
 なぜこんな些末なことにこだわるかというと、学校を舞台にした暴行事件との類似性が気になるからです。学校で子供による暴力行為で教員が怪我をした場合、警察に被害届を提出するか否かが問題になることがあります。そのとき、怪我をさせられた教員本人の意思を無視し、校長が被害届の提出を止めさせるという事態が起こりがちなのです。
 私はこうしたケースでは、直ちに被害届を提出することを強く指導してきました。それが、部下である教員を守ることにつながりますし、子供たちに物事の正邪をきちんと伝える指導としての効果もあるからです。さらに、提出をしない場合、教員の間に管理職への不信感が芽生えたり、後日事実を知った保護者や近隣住民が、「学校には事件を公にしたくない弱みがあったらしい」という憶測を生じさせたりもします。「体罰を繰り返していて、その仕返しをされたので、訴えられなかったらしい」などというデマが拡散していくのです。
 しかし、以上のようなことを話説得しても、「校長がダメだといっているので今回は被害届は出しません」と教員本人から言われてしまうことも少なくないのです。この、被害にあった教員を貴ノ岩関、親方を校長と置き換えると、被害届の提出の有無が、本人の意思なのか、上位者の意思なのかという疑問が浮かんできてしまったというわけです。
 今回は、被害届が提出されているので一見すると逆のようですが、被害者本人の意思が見えないという点では共通なので、第三者のなんらかの思惑が影響を与えているのではないか、と疑ってしまったということです。
 組織の事情や上位者の面子などで、被害届の提出という被害者の権利が阻害されることがあってはいけません。今ではそんな校長はいないことを願っています。

 

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ブラック容認

2017-11-23 07:51:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ブラック容認」11月10日
 『過労死ライン越え 中学教諭7割 都教委調査 部活指導原因か』という見出しの記事が掲載されました。調査の結果自体には目新しいものはなかったのですが、ある記述に目を疑ってしまいました。『都教委はこの日「学校における働き方改革推進プラン」の中間まとめも公表(略)土日のどちらか一方は必ず休養することなどを盛り込んだ』と書かれていたのです。
 官公庁は、週休2日制になっています。多くの企業でも同様です。また、労働者は週40時間労働が原則です。しかし、都教委がこれから目指すのは、「土日のどちらか休み」という、時代の流れに逆行するものなのです。現状がこうであるというのであれば理解できます。そこから改善していくというのであればですが。しかし、最初からこんなに低い目標を立てるという神経が分かりません。そもそも改善策というのは、目標を立ててもそこまで到達することが出来ないまま、それでも高い目標を掲げたから一定の改善が見られるというケースがほとんどなのです。それなのに、「土日のどちらかは学校で部活の指導をする」というに等しい目標を掲げているのです。
 調査の結果予想もしない実態が明らかになり、すぐには抜本的な改革を構想することが出来なかったというのであれば同情の余地がありますが、そうではありません。都教委の勤務する数十人の中学校籍の指導主事は、今回の調査で明らかになった実態について、十分すぎるくらい認識していたはずです。意地の悪い言い方をすれば、調査するまでもなく分かっていたことなのに、あたかも知らなかった振りをし、驚いたふりをして、出来る限り急いで改善策をまとめました、というポーズを取ったのではないかとさえ思えます。
 あるいは、実態を知る指導主事が、以前から改善の必要性を訴えていたにもかかわらず、行政職出身の教委の管理職が、聴く耳を持たず先送りしてきたのでしょうか。都教委内で進む指導主事軽視の動きを考えると、そんな可能性も捨て切れないと思います。
 まあ、想像でものをいうのは止めますが、この低い目標に基づいて教員の論道環境の改善に取り組むのだけは止めてほしいと思います。独自政策を打ち出し、ときに文科省の施策を先取りしてリードする気概のあった都教委には、全国に先駆けて意欲的な部活改革を打ち出してほしいと思います。部活を廃止し、社会教育への意向を打ち出すのが最善だと考えますが。

 

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星新一:ライオンとタイプライター

2017-11-22 08:09:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「星新一」11月10日
 『あす明大駿河台キャンパス 日本ことわざ文化学会 お題は「理科」』という見出しの記事が掲載されました。同会の第8回大会開催を伝える記事です。会の内容ですが、『テーマは「理科とことわざ」。「暑さ寒さも彼岸まで」「三寒四温」など天気や気象に関するもの、水の浸食作用を示した「点滴石をうがつ」など、理科的な解釈と説明ができることわざは多数ある。シンポジウムでは「理科の視点からことわざを視る」「俗信『雷が多い年は豊作』に関する一考察」などのタイトルで発表がある』とのことです。
 面白い!と思いました。そして、「理科とことわざ」には、教材開発の基本をなす考え方が含まれているとも考えました。理科とことわざという一見すると無関係なもの、というよりも遠く離れたものと考えられているもの同士を結びつけることによって、子供の興味・関心を高め、発見の喜びを感じさせ、最終的に「異質なものを結びつける」という発想法を身に着けさせる、とても優れた効果が期待できると思います。
 特に、総合的な学習の時間や自由研究などに向いているでしょう。また、私は「社会科屋」ですので、この記事に触発され、「社会科とことわざ」という視点でも考えてみました。例えば、「暑さ寒さも彼岸まで」ということわざと日本各地の彼岸のときの気温を重ね合わせてみるのです。根室は既に炬燵が必要な気温なのに、鹿児島では夏日ということに気が付くはずです。そこからこのことわざが生まれたのは、本州中央部であり、当時は文化は本州中央部のものだった、というように展開していくのです。
 あるいは、「雷が多い年は豊作」を取り上げても面白いでしょう。豊作とは何の作物についてなのか、と問い、雷=稲妻と発展して稲=米、我が国が米作りを中心とした経済・文化体制の中で歴史を積み重ねてきたということが理解できるのです。
 私は、教員の頃から、この「異質なものを結びつける」を心掛けて教材開発を考えてきました。それは学生時代に読んだショ-ト・ショートの神様星新一氏が書かれていた小説の中で「舟とロケットというような共通点(乗り物)が誰でも分かるものではなく、ライオンとタイプライターのように、普通では頭に浮かばないような2つの言葉をくっつけてみる」という発想法の趣旨の記述が印象に残っていたからです。退職後、「ライオンとタイプライター」というタイトルで原稿を書き出版社に送ったことさえあるくらいです。この記事を見て、久しぶりにその頃のことを思い出しました。
 若い教員の皆さんには、頭が固くならないうちに、この発想法による教材開発法を身に着けてほしいものです。

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染毛宣言

2017-11-21 08:10:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「みんなが指摘しないこと」11月10日
 『地毛登録6割導入 大阪府立高ほぼ全校が頭髪指導』という見出しの記事が掲載されました。『懐風館高校の女子生徒が、生まれつき頭髪が茶色いのに黒く染めるよう強要されたとして府に損害賠償を求めた訴訟』をきっかけに行われた調査結果を報じる記事です。この記事では、アンケートに寄せられた言葉を羅列するだけで新聞社としての見解は示されていませんでしたが、他の面の関連記事では、学校の管理体質に厳しい批判が掲載されていましたし、読者投稿欄にも同趣旨の投稿が掲載されていました。
 私もこの高校の対応には批判的な考えです。人権無視、管理優先、学校の対外的な評判重視など、批判すべき点は山ほどあります。しかし、私が気になったのは、実は誰も触れていない、ある点だったのです。
 ある高校が、受験の際の生徒の服装や髪型などを合否基準にしていることが批判されたことがありました。そのときに書いたことですが、私は学校が独自に選考基準を設けることについては問題ないという立場です。ただ、その基準を非公開にして隠しておくことは問題だと指摘しました。今回も同じ指摘をしたいと思うのです。
 懐風館高校では、生まれつきの茶髪でも黒く染めさせるのだ、それは茶髪の生徒が多いと不良の集まる学校だと思われて評判を下げるからだ、だから染毛剤で頭皮がボロボロになっても例外は認めないのだ、それが嫌なら退学扱いにしてしまうのだ、ということをきちんとHPに掲載し、学校案内に記載し、学校説明会で丁寧に説明すべきだ、という指摘です。
 学校は、学校独自で様々な校則を設定する権能を有しています。ですから、明らかに違法であるというような決まりでない限り、それが世間では一般的ではあり得ない決まりであっても設定することが許されていると考えます。そうでなければ、学校は機能しないという一面をもっているのです。
 例えば、スマホを授業中に使わせないという決まりについて考えるならば、ほとんどの企業や官庁ではそんな決まりはあり得ないでしょう。外部との連絡や仕事で必要な情報検索に活用できなくては、業務に支障をきたしてしまいます。しかし、学校では、スマホを自由に使わせることは弊害の方が大きいと考え、禁止しているのです。この決まりを是認する人は多いはずです。要するに、学校はある意味で特別な場所なのです。
 そして現在では、「特色ある学校」が求められているのですから、義務教育ではない高校に於いて、学校ごとにユニークな決まりがあってもよいのです。ただ、それを隠していた、入学後にその決まりを適応することはよくありません。入試を受ける以前であれば、この学校の方針は合わないと選択肢から外すことが出来ますが、入学後には合わないから辞めるという選択肢は実質的にはありません。つまり、退学すると大きな損害を被るという立場の弱い生徒や保護者と強い立場にある学校の間で不公平な力関係が存在するようになってしまうからです。
 懐風館高校は、染髪の方針と実際の対応をきちんと広報すべきです。それでもなお、その方針が多くの保護者や受験生に支持されるという信念があるのであれば、です。あるいは、そうした見通しがなくても、教育者としての信念に基づいて、染髪方針を貫くのであれば、生徒減を甘受しても、方針を貫くべきです。それが教育者としての矜持というものです。今回の報道で染髪の実態が知られ、受験生が減りそうだということで、前言撤回し、方針転換するようなみっともないまねだけはしてほしくありません。

 

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少女A

2017-11-20 08:12:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「薄っぺら」11月9日
 作家高村薫氏の連載小説『我らが少女A』、とても面白い小説です。ある事件をきっかけに過去の迷宮入り事件の捜査が動き出すという展開ですが、その中に次のような記述がありました。『何か事件が起きると(略)語られるそれらはなぜか判で押したような定型になる。やさしい子。明るい子。ちょっと暗い感じの子。礼儀正しく、会えば挨拶する子。勉強のよく出来た子。スポーツ少年。クラスの人気者などなど。上田朱美も同様で、中学時代の担任はみな、いい子でしたと、枕詞のように口を揃えた』というものです。
 考え込んでしまいました。もちろん小説の中野記述ですから、作者が創造したものです。フィクションです。でも、実際に多くの教員が10年前の教え子について尋ねられたとしたら、こんな言葉しか出てこないような気がします。私もその一人です。仕方がないことだという気がします。
 しかし、今受け持っている子供について訊かれたとしたらどうでしょうか。それでも高村氏が描く教員たちのように、毒にも薬にもならない定型のことしか言えないとしたら、その人は教員失格です。それは2つの理由からです。
 まず、子供の一面を見て決めつけているということです。例えば「優しい子」です。飼育係として小動物の面倒をよく見る子供がいたとします。確かに「優しい子」に見えるかもしれません。でも、家では、弟に暴力を振るう子であるかもしれません。人間は誰でもいくつもの顔をもち、その場に合わせ、相手に合わせて使い分けているものです。一面的な見方で子供を理解指摘になっているのは、未熟な教員と言わざるを得ません。
 また、「○○な子」という見方をしている教員の多くは怠け者だと思います。私は教員時代に、中3になる卒業生が補導され、家庭裁判所から意見書の提出を求められたことがあります。とてもしっかりとした子だった印象があったので、触法行為を犯したことにとても驚きましたが、現在はともかく小学校5.6年のときにはこんな少年であったということを伝えたいと思いました。私は、かなりの長文になりましたが、「球技大会のときに~」「班学習では~」「クラスの代表委員として~」「友人の父が亡くなったときに~」「遠足で車酔いした友人に~」と具体的な出来事を列挙し、彼の人物像を浮かび上がらせて伝えようとしました。「しっかりとした正義漢の強い子」というような表現では、彼の人間性を伝えきれないと思ったからです。
 つまり、「○○な子」という見方をして満足している教員は、実は日頃の子供の言動を細かく観察し、記録していない教員だということです。だから怠け者なのです。薄っぺらな定型文でしか子供を語れない教員になってはいけません。

 

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