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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

教員は職人…。筋道が分からない

2015-04-30 07:40:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「理屈が分からない」4月26日
 『教員免許、国家資格に』という見出しの記事が開催されました。記事によると、『「教員制度改革」を検討している自民党の教育再生実行本部は、学校の教員免許の「国家資格化」を提言する』とのことです。教員の資質向上と待遇改善が狙いだということですが、国家資格にするとどうして資質が向上するのか、待遇改善につながるのか、その筋道がよく分かりません。
 具体的には、『大学での課程を修了後、共通の国家試験を受験。さらに1~2年程度の学校でのインターンを経て免許を与える』という仕組みだそうです。共通の国家試験というのは、筆記テストだと思われます。そうであれば、筆記試験用の「傾向と対策」が各大学で行われるようになることが予想されます。それが、教員の授業力、指導力の向上に結びつくとは考えられません。単に役に立たない教育理論や教育法規などの知識を身に着けるだけで、いわゆる頭でっかちの教員を増やすだけでしょう。
 インターン制度は、実際に子供と接し授業をするということであれば、資質向上に期する部分はあると思いますが、それは国家資格と直接関係ありません。国家資格としなくても、従来の制度にその部分を付加すれば済むことです。
 また、インターン制度の導入については、学校教育への負の影響も十分に検討しておくことが必要です。有資格者の教員と同じように授業や生活指導、学級経営を担わせるのでなければ、本当の意味での資質向上にはつながりませんし、未熟な仮免教員が大挙して学校にいるという状況は、教員の負担が増え、子供への指導が不十分になるというマイナスをどう克服するか、大きな課題が残ります。
 蛇足ですが、筑波大付属や学芸大付属のような教員養成系大学の付属小中学校が、毎年大量の教育実習生を受け入れることが出来るのは、「できの良い子供」ばかり集まっているからです。一般の小中学校では不可能だからこそ、付属がつくられているのです。
 さらに、国家資格化と待遇改善との関係ですが、これも理解不能です。待遇改善が何を指すのか分かりませんが、給与についてならば、単に予算措置をすればよいだけのことです。田中角栄氏が、行ったように。
 もしかして、「難しい国家試験を合格した」ということでなければ給与改善に対して国民が納得しないという思惑があるのだとすれば、的はずれだといわざるを得ません。医師や弁護士について、その好待遇を国民が認めているのは、その希少性にあります。試験が難しくて、常人では合格できないという認識があるからです。残念ながら、教員養成学部の「偏差値」は、法学部や医学部に比べて、格段に低いのが現状です。ある程度の知的能力があれば、入学可能です。広き門なのです。実際問題として、教員免許取得者を現行の1/10に減らすわけにはいかないのですから、狭き門を演出しようがないわけです。
 教員免許の国家資格化について、今の段階では、賛否の述べようがないというのが実情です。詳しい制度設計の前に、まず、どうして国家資格化が資質向上に資するのか、待遇改善に必要なのか、筋道立てて説明してほしいものです。

 

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ドローンが学校の屋上に

2015-04-29 07:55:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「こんなに大変」4月23日
 『ドローン 防犯カメラ分析へ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『官邸屋上のヘリポートが最後に使用されたのは3月23日で、それ以降1カ月間は屋上に人が上がっていなかったことも判明した』のだそうです。
 首相官邸の危機管理、国家としての危機管理という視点で報じられているこの問題について、私の連れ合いは全く別次元の感想を漏らしました。私の連れ合いは校長になる前に5年間副校長を務めていました。その5年間は毎日家では夕食を摂ることができないほど多忙でした。その理由の一つが、毎日行う校内巡視でした。
 朝は始業の1時間半前には出勤し、校舎内と校舎の裏を見て回ります。もちろん、屋上もです。そこで異常を発見すれば、すぐに対応しなければなりません。飼育小屋の兎が弱っている、校舎裏に野良猫の糞が落ちている、裏門のところにコーラの瓶と吸い殻が落ちている、等々、小さな異変は毎日ありました。
 そして放課後にはもう一度校内巡視をするのです。開けっ放しの窓を閉め、流し忘れたトイレの大便を流し、点けっぱなしの電気を消し、と毎日続くとうんざりしてしまうのだそうです。出張していても、区内であれば学校に戻り、校内巡視をするのです。
 そんな経験を持つ連れ合いは、1ヵ月も屋上に誰も上がらないということが信じられなかったようで、「官邸の警備員って楽ね」と言い放ちました。思わず笑ってしまいましたが、そのうち、連れ合いが経験したことは何も特殊な例ではなく、全国の学校で副校長さんたちが今も苦労していることなのだということに思いが至ると、複雑な感情が押し寄せてきました。
 世間の人々は、学校の管理職に対して、リーダーシップに欠けるとか、経営者としての自覚が足りないなどと批判しますが、その職務の中にこんな雑務があることは知らないでしょう。あるいは、上記のような実情を知ったとしても、そんなことは警備員に任せればよい、部下である教員に分担させればよい、というような実態を無視した意見が出されるような気がします。それどころか、そんな雑事に振り回されているから本来の仕事である管理や経営が疎かになるのだというような批判さえされてしまうかもしれません。
 そういう人に限って、教員が校内巡視や安全点検に時間を取られ授業の準備が出来ないということになれば、そんなことは教員の仕事ではないと掌を返すように思うのはひがみでしょうか。
 学校管理職の苦労について、多くの人に関心をもってもらいたいものです。

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ステレオタイプ

2015-04-28 07:59:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ステレオタイプ」4月21日
 精神科医の香山リカ氏が、『科学の目と人間の目』という表題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、『病院や医療の世界を舞台にしたテレビドラマは~(中略)~必ず「良くない医者」が出てくるが、その特徴がいつも同じということだ。患者さんの話を聞かずに短時間診療で終わらせる、診察よりも検査データを重要視する、すぐに薬を出したり手術しようとしたりする…。じっくり時間をかけて手当てをする「医は仁術」的な医者の対極にあるイメージだ』と書かれています。
 香山氏は、そうしたイメージに疑問を呈しています。検査データも必要ですし、一人の患者に長時間費やすことが現実的でないことも、よく考えればわかることです。実は私も、いわゆる「学園ドラマ」に登場する「良くない教員」の描かれ方にかねがね不満をもっていました。
 子供の話をじっくりと聞こうとしない、授業で疑問やこだわりをもっている子供にきちんと対応しない、など。また、必ず校長や副校長といった管理職は、2人とも、もしくはどちらかが悪者として描かれています。自分の出世や学校の評判、世間体を優先させ、子供よりも教委の方に顔が向いているというタイプとして、です。
 私はそんな「学園ドラマ」を見て、ときどき考えることがあります。もし、自分の子供が通う学校で、我が子の担任の教員が、問題を抱える1人の子供の話に耳を傾け、そのために授業を自習にさせたり、他の子供のトラブルを見逃したりしたら、それでも「子供の悩みにとことん付き合ってくれる良い先生ね」と言ってくれるか、と。あるいは、授業中に分からない子供にマンツーマンで教え、その分授業が大幅に遅れたとしたら、それでも「一人も落ちこぼれを作らないっていう信念って素晴らしいわね」と言ってくれるか、と。
 あるいは、教員に対しても、子供に対しても、性善説で一切の管理を「悪」として排除するような管理職がいたとしたら、歓迎してくれるのでしょうか。私が教委に勤務していたときに接した保護者や市民の方々の多くは、教員を思い通りに動かすことができる強い校長や強い教委を求めていたように思います。もちろん、自分の子供にとって有利になるように学校を動かすという意味でですが。
 つまり私の経験からは、ドラマに出てくるような「良い教員」は、実際には保護者も市民も子供でさえ求めてはいないのに、もしそんな教員が出てくれば、「早く授業を進めて」「一人の子供にだけ多くの時間を費やすのはひいきです」などというくせに、どうしてドラマではそうした教員が求められるのだろうという疑問が消えません。
 もっとも私も、病院に行くと40分待って5分しか診てくれなかったという愚痴をこぼし、そのとき、もし、担当医師が一人に30分もかけて診察していたら5~6時間も待たなければいけないとは考えませんし、医師を増やし、その分健康保険料を今の10倍出してもよいとも思わないのですから、他人のことは言えませんが。
 結局は刷り込まれたステレオタイプで判断するのが楽ということなのかもしれません。生産的ではありませんが。

 

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小手先の対応

2015-04-27 07:05:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「根本的な問題は?」4月20日
 『ネット調査 1044人回答 教員サポート 熱意生む』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『「教委や学校の支援体制があり学校内で相談できる環境がある」と答えた511人で見ると、やりがいを「強く感じている」「感じている」は計79%に上った。これに対し、「教委や学校の支援体制がなく相談することができない」と答えた41人では「やりがいを感じている」との回答が4割にとどまった』のだそうです。
 別に意外性のある調査結果ではありません。相談体制や支援耐性は、整っているに越したことはありません。常識でしょうから。そんな当たり前のことを知るためにこの調査が行われたのでしょうか。この調査の目的がよく分かりません。
 記事では、『日本の教員は勤務時間が世界一長い一方、指導力に対する自己評価が極めて低かった』というOECDの調査結果を受けて行われたということでした。そうであるならば、勤務時間の長さという元凶にどのような対応をすべきか、という調査であるべきだと思ってしまうのです。
 多忙という現状には手を付けず、支援体制や相談体制を整備することで問題を解決或は軽減しようというのであれば、あまりにも姑息な発想ですし、それでは我が国固有の「国民の学校依存意識」という長年の課題を放置することになってしまいます。
 特に多忙感が強い中学校において、その要因としてダントツである部活は、本来教員が担う必要のない仕事であるにもかかわらず、家庭も社会も学校に背負わせて当然視しているという現状に手を付けない限り、小手先の対応では改善は見込めません。
 それでいて、『全国学力テストの結果が公表され、教委からも保護者からも学力向上を強く求められる』ことを問題視しているのは、正に本末転倒です。学校は、子供が学ぶ場、教員が授業をするところなのですから。学力テストの結果公表については、私も反対の立場ですが、公表の有無にかかわらず、学力向上こそ学校の使命であり、部活などは社会教育機能が担うべきという本筋の改革を目指す方向を打ち出すべきなのです。
 部活は学校で、という先入観に囚われ、根本的な矛盾を無意識のうちに肯定してしまうことの愚かさに気づかない限り、我が国の中学校は良くなりません。

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浜の真砂は尽きるとも

2015-04-26 07:55:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「浜の真砂は尽きるとも」4月20日
 作家白石一文氏が、『学校と私』欄でインタビューを受けていました。その中で白石氏は、『何かを極めようとしたら、おのずと学校教育からはみ出ますよ。~(中略)~学校に行きたくない時は休んで、一人一人が好きなことをやればいいのだと思います』と語っていらっしゃいます。
 またか、という思いです。著名人のこの手の学校軽視論的な発言にはうんざりです。百害あって一利なし、とは、社会的に成功した、能力に恵まれ、運にも恵まれた、こうした立場の人たちの迷言のことです。
 私の知る限りでは、我が国のノーベル賞受賞者は皆最高学府を経た人たちです。我が国を導いたリーダーたちも、首相経験者で唯一逮捕された田中角栄氏を除いて全員大学まで「学校」に籍を置いていたと思います。白石氏の同業である作家をみても、大多数は大卒です。しかもそうした人たちは、日本人の多くが大学へは進学しない時代に大学まで進んでいるのです。もちろん、白石氏の指摘通り、学校教育からはみ出した「極め人」もいますが、むしろそちらが例外というべきでしょう。
 また、学校に行きたくないときは休んで好きなことをした結果、中年と呼ばれる年齢になっても引き籠りを続けていたり、自立して社会生活を営むだけの能力を身につけることができないまま老親の負担になり続けている若者が少なからず存在する現実をどう考えているのか、訊いてみたいものです。
 さらに、川崎市で起こった中1惨殺事件の関係者、鶴見川の川辺に仲間を放置して死に至らしめた高校生ら、皆、「学校を休んでしたいことをしていた」連中です。白石氏は、好きなことについて、何か創造的なプラスのイメージをもっているようですが、白石氏のような特別な才能に恵まれていない凡人は、10代のころにそんな立派な「好きなこと」などもっていないものなのです。むしろ、「小人閑居して不善をなす」ケースがほとんどなのです。
 真面目に学校に通う、ということを価値を軽く扱ってはならないと思います。成功者が自分の経験で凡人に誤った生き方を語る弊害に気付いてほしいものです。もっとも、白石氏自身は、私立の一流校早稲田大学の卒業生なので、本心ではないかもしれませんが。

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村上春樹氏のお話から

2015-04-25 07:56:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「考え違い」4月19日
 村上春樹氏へのインタビュー記事が掲載されました。その中で村上氏は、『歴史認識の問題はすごく大事なことで、ちゃんと謝ることが大切だと僕は思う。相手国が「すっきりしたわけじゃないけれど、それだけ謝ってくれたから、もうわかりました。もういいでしょう」と言うまで謝るしかないんじゃないかな』と語っていらっしゃいます。
 最も著名な日本人であり、度々ノーベル賞候補になっている現代の偉人の言葉ですが、賛成できません。人間性というものに対して、あまりにも楽観的だと思います。中国も韓国もそんなに甘くはないと思っているからです。そして私は、村上氏の言葉から、中国や韓国への対峙の仕方ではなく、学校におけるMP(モンスターペアレンツ)や趣味的クレイマーへの対応の仕方ということを考えました。
 それは、4月9日付『「公開」の効用』で書いたことに重なりますが、第三者の目を意識するということです。私も歴史認識問題では、中韓に謝罪を繰り返すべきだと考えています。しかしそれは、謝り続ければいつか攻撃の矛を収めてくれると考えているからではありません。彼らは1000年先まで我が国を責め続けるでしょう。そんなことはどうでもよいのです。
 我が国が誠意ある態度で謝り続けている姿を、中韓を覗く国際社会に見せつけることが狙いです。そして、日本はあんなに真摯に謝罪し続けているのにどうして中韓は謝罪を受け入れないのだろう、中韓は何て心の狭い国なんだ、という国際世論を引き起こすことを狙うという戦略として謝罪を続けるということです。
 さらに言えば、相手に揚げ足を取られるような隙を作らないということでもあります。感情的になって反論することは、その隙を見せることになります。
 MP等への対応において、感情的な反発は一切押さえて、ロボットのように同じ説明を根気よく何度でも繰り返すのです。相手が求めれば5回でも10回で話し合いの場を設け、相手の言いがかりにも耳を傾け、でも一歩も譲らず丁寧な言葉で笑顔を絶やさず温厚な態度で、譲歩することなく説明を繰り返すのです。
 そして、他の保護者や地域社会に対して、あるいはメディアに対して、私たちは相手の求めに応じて勤務時間外であっても時間を作り、校長と副校長が顔を揃えて誠意を見せてきた、とアピールするのです。「世論」を味方につける戦略の一環として。
 村上氏の発言は、上記のような戦略的対応、危機管理を考えさせてくれました。MPと中韓を同一視してはお叱りを受けるかもしれませんが。
 

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感傷的な平和教育の失敗

2015-04-24 07:58:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「平和教育の失敗」4月18日
 同志社大教授の浜矩子氏が、『{統一地方選後半戦へ}「こんなはずでは」が怖い』という表題でコラムを書かれていました。その中で浜氏は、『お天気が悪いから選挙に行かない。忙しいから選挙に行かない。よく分からないから選挙に行かない。どうせ何も変わらないから選挙に行かない。これではいけない~(中略)~政治への無関心は実に怖い。政治家たちの行動からあまり目を離してばかりいると、とんでもないことが起こりかねない』と書かれていました。
 まったくその通りだと思います。そして、浜氏が嘆く低投票率が続くことこそ、戦後連綿として行われてきた「平和教育」が成功していないことの証拠ではないかと考えます。なんだか飛躍していると思われる方がいるかもしれませんが、そうではないのです。
 平和教育は、戦争は嫌だという思いをもたせることを目標としていてはいけないと思います。戦争は嫌だと思っているだけでは、戦争は防げません。平和を維持することは出来ません。世界史を繙けば、数多くの戦争がありました。そしてそのほとんどにおいて、ある国の国民が、戦争を待ち望み続けているというケースはありません。できれば平和な中で落ち着いた生活をしたいと考えている国民が、少しずつ、あいつらはけしからん、少し懲らしめてやらなければならない、このままあいつらをのさばらせてはおけない、どんとやっつけろと変わり、戦争を待ち望むようになり、戦争を避けようとする人々を裏切り者、非国民呼ばわりし、強硬論を吐く人物を力強いリーダーと讃えるという経過を経て戦争に至るのです。
 そうした歴史から得ることが出来る教訓は、戦争はまだ目立たない小さな芽のうちに、徹底的に刈り取ることでしか防げないということであるはずです。何気ない小さな一歩が危険なことであると気付くこと、そのとき一人一人が小さくてもよいから行動を起こすこと、その行動の最たるものが投票するという行為であること、こうした認識を徹底することこそが、戦争を防ぐ「平和教育」の基本なのです。
 今までこのブログで再三述べてきたことですが、戦争に至る経緯をつぶさに学ぶのが「平和教育」であり、悲惨な被害に触れ感傷的に戦争は嫌だと言わせる「平和教育」は不十分だということなのです。
 今の状況に、危険な臭いを感じられない若者を育ててしまったという意味で、感傷平和教育は失敗だったのです。

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それはセクハラ

2015-04-23 08:28:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それはセクハラ」4月17日
 『「見つめ」「触り」深まる絆』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『犬と飼い主は、アイコンタクトや触れ合いで、お互いの親近感を高めているとの分析』が発表されたということです。私は動物が嫌いですので、犬については関心はありませんが、人間、特に教員と子供の親近感について考えてしまいました。
 教員と子供の間でも、こうした交流が親近感を深めるとした場合、それは多くの場合成り立つと思いますが、教員が「見つめ」「触り」することは可能でしょうか。少なくとも、現在では「触れる」は、ほぼ100%不可能でしょう。子供の年齢、性別に関係なく「セクハラ」「わいせつ行為」とされてしまうはずです。私が今も教委に務めていたとして、そうした行為があったという情報を得れば、直ちに服務事故として調査することを校長に指示するはずです。そして、実際に触った事実があれば、当該の子供も保護者も不快感を感じていなかったとしても、不適切な行為として、文書訓告にはすると思います。
 私が新卒教員であったとき、担任していた5年生の女児の中に数人、休み時間にはいつも教卓の周りに来て、私の膝の上に座っておしゃべりをする子供たちがいました。あるとき、先輩の女性教員が教室に来て私と女児たちの姿を見て、険しい顔つきで顔を振るのを見て、「あっ、これはいけないことなんだ」と初めて気付いたものでした。もちろん、女児たちは自分から寄ってきたのですが、そんなことは問題になりません。そうした光景を目撃した第三者がどう感じたか、が重要なのです。もし、現在であれば、私も何らかの注意、指導を受けていたことでしょう。冷や汗ものです。のんきな時代でした。
 「見つめ」ることはどうでしょう。これも、「先生、○○のこと好きなんじゃない。ロリコン!」などと噂になり、弁解に追われることになりそうです。ここでも、当事者である子供以外の子供や保護者の感じ方がポイントになります。つまり、教員は、親子や恋人同士などの間で用いられる親近感を高める手法は使えないということです。
 では何を使えばよいのかといえば、言葉だけなのです。知識を伝達するのも、思いを伝えるのも、あるべき規律に従わせるのも、すべて話すことがメインの手段なのです。だからこそ、教員は自分の言葉を磨き、話術や話芸の達人を目指さなければいけないのです。

 

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どう結びつく?

2015-04-22 07:49:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どう結びつく?」4月16日
 東京社会部記者三木陽介氏による、『川崎・中1殺害事件 学外のプロ 積極活用を』という見出しの署名記事が掲載されました。その中で三木氏は、SSWの活用を提唱しています。目新しい提言ではありません。私もSSWの活用は必要だと考えています。ただ、川崎市の悲惨な事件への対応策として、SSWに焦点を当てた記事が書かれることがよく理解できないのです。
 三木氏は、『ある母子家庭の例を紹介したい。小学校低学年から不登校になった女児~(中略)~院内学級が併設されている病院への入院を勧めた~(中略)~女児は1年後に退院し、中学に通えるようになった』とSSW活用の成功例を記載しています。
 不良仲間とつきあう中学生と小学校の低学年、男子生徒と女児、不登校と非行、発達障害と健常児、問題を抱えているという意味では共通かもしれませんが、問題の性質自体は全く別であるという印象を持たざるを得ません。
 SSWに望まれる資格である、社会福祉士や精神保健福祉士がもつ知識や技能が、飲酒と喫煙、深夜徘徊と暴力沙汰を繰り返す屈強で凶暴な連中に対峙するのに役立つとはとても思えないのです。
 「学外のプロ」活用は必要ですが、少なくとも川崎市のような事件に対応するのであれば、警察こそ最適であると思います。しかし、以前も述べたことですが、警察は多忙であり、顕在化していない「犯罪の芽」への対応までは手が回らないというのが実情です。
 そこで現実的な対応策として、警察官OBの活用を考えるべきだと思います。生活安全課で少年事件にかかわった経験を有する元警部補や巡査部長を教委に嘱託として雇い、問題があると考えられる事案に対処させるのです。私も教委勤務時代には、所轄署の生活安全課の係員とは、かなり頻繁に顔を合わせ、ある程度気心が知れる仲でした。実際、退職する係長から、警備会社に再就職が決まっているが、できるなら何らかの形で少年の更生に関わっていたいと言われたこともあり、希望者は少なくないはずです。組織の一員として過ごしてきた彼らは、組織の論理に忠実ですので、教委の一員になれば、教委の方針に沿って行動するはずですので、教育への警察の過剰介入といった心配もほとんどないはずです。検討する価値があると思います。
 

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法か実質か

2015-04-21 07:52:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「法か実質か」4月15日
 中央大教授の山田昌弘氏が、『「家族」の形より中身 パートナーシップ証明書』という表題でコラムを書かれていました。その中で山田氏は、『社会制度や慣習は「家族であれば信頼できるはずだ」という前提で作られている』と述べていらっしゃいます。そして、そうした前提自体が崩れかかっていると指摘なされています。
 確かにその通りだとは思いますし、基本的には大賛成です。しかし、だからといって山田氏が主張するように、『形だけの家族にこだわらず、実質的な家族関係』を重視するという仕組みへの移行は、とても難しい問題を含んでいると思います。
 山田氏は、このコラムを同性愛カップルに焦点を当てて論じていますが、私は、法的家族に代わる実質家族、例えば、学校が、教委が、ネグレクトママではなく、常識ある伯母さんと、子供の今と将来について話し合い協力していくことが可能となるような実質的家族の問題として考えてしまったからです。
 教委勤務時には、この家族、特に親子関係というものの法的な強さの前で、何もできずに悔しい思いをすることがたくさんありました。児童虐待もその一つです。子供がけがをするような暴力行為があれば、何とか対処のしようもありますが、単に登校させない、真冬にランニング一枚しか着させない、何週間も風呂に入れないというようなネグレクトでは、家庭に介入することはとても困難でした。最も近しい血縁関係にある親が「帰ってくれ」と言えば、引き下がるしかなかったのです。山田氏が指摘するように、親が我が子のためにならないことをするわけがない、という侵しがたい常識があったからです。
 それでも警察等の手を借り、とんでもない親からの離脱を図ったこともありましたが、母親の「親権」をふりかざした抗議の前には屈するしかありませんでした。ありていに言えば、法的措置に訴えられた場合勝ち目がなく、敗訴で責任を負うわけにはいかないという「大人の判断」をするしかなかったということです。
 また、偏った子育て方針の下、子供が苦しんでおり、学校が親に助言しても、「この子のことは、自分のお腹を痛めて生んだ私が一番よく分かっています」という一言の前では無力でした。特定の子供と遊ぶことを禁じられたり、母親のバレリーナにしたいという夢のために嫌な習い事を強制されたり、将来親の跡を継ぎ騎手になるために体が大きくなりすぎないように食事を制限されたりしていた子供たちは、教員や周囲の友人に不満や愚痴をこぼしても、親の前では一切反論しないことが多く、そうなれば親の一言の重みには対抗できないのです。
 赤の他人の教員には無理でも、「親戚」ならばということで、良識ある祖父母や伯父母を探し出して連絡を取り協力を依頼したこともありましたが、2等親、3等親では1等親には勝てないのです。むしろ、勝手なことをして親族間の関係を悪くしたと抗議されるケースがほとんどでした。
 渋谷区が導入した「パートナーシップ条例」は、法と血縁を至上価値とする法的家族制度からお互いの思いやりと尊敬の下に成り立っている実質的家族の普及につながるのでしょうか。
  

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