ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

職業蔑視

2013-02-28 08:48:24 | Weblog
「職業蔑視」2月23日
 元祖民間人校長ともいうべき藤原和博氏が、仕事について中学生向けのコラムを書かれていました。その中で藤原氏は、ビル・ゲイツが財団を作りボランティアを始めたことを紹介し、それに続けて『アップルやグーグルを退職したエリートたちもインドやバングラデシュで続々と社会起業をしています。社会起業というのは、福祉や教育を含め、社会の諸問題を解決するためのビジネスを起こすこと。これって、公務員より格好いいかもね』と書き、コラムを締めくくっていました。
 私は、公立学校の教員から教委に勤務した元公務員です。そんな私からみると、この文章は大変不快でした。なんでここに唐突に公務員が出てくるのか、と思ってしまったのです。どうして比べられるのが、会社員でもなく、農業従事者でもなく、個人商店の経営者でもなく、スポーツ選手でも芸能人でもなく、公務員なのかと考えたとき、ある想像が浮かびました。
 近年、長引く不況を背景に若者の安定志向が問題視され、倒産しないことを理由にした公務員志望者が増加していることがその象徴とみなされています。若者らしいチャレンジ精神をもて、という主張の裏返しとして公務員志望が非難され、公務員そのものまで「好ましくないもの」とされているのではないか、というのが私の想像です。
 藤原氏個人がそう思われ、自分の考えに基づいてコラムを書かれるのは仕方がないことです。しかし、私がこの文章に着目したのは、こうした「公務員になりたがる若者なんて…」という価値観が、学校における職業についての学習においても広がっているのではないかという危惧があるからです。
 そもそも教育という行為そのものの中に、「刷り込み」とか「洗脳」とかいう要素が含まれやすい性質があります。それらは適切な指導と紙一重であり、その境界はあやふやな状態です。そんな中、指導をする教員に、実現できるかどうか分からない夢に向かって一生懸命になるのは若者らしい行為で教え子にはそんな若者になってほしい、というような価値観が広がっているとしたら、実際に多くの人が実現しているありふれた将来像を描くなんてつまらない奴だという見方が一般的になっているとしたら、それは由々しき問題だと思います。
 公務員は全体の奉仕者です。経済的な損得を離れ、国民のために尽力する尊い仕事です。今、こんなことを言うと笑われそうですが、本質的には間違いではないはずです。優秀な人材が公務員を避けるような事態は、社会にとっても好ましいものではないはずです。中学校の職業教育は大丈夫でしょうか。

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当然の心構え

2013-02-27 07:56:54 | Weblog
「当然の心構え」2月23日
 日本スポーツ法学会事務局長の白井久明氏が、スポーツにおける暴力問題についてインタビューを受けていました。その中で白井氏は、『複数の競技団体が「うちには暴力はない」という発言をしていた。「報告はないが、あるかもしれない」ということを前提とすべきだ。根絶というと、水面下に潜ってしまう可能性がある』と語っていらっしゃいます。
 学校におけるいじめや体罰を考える際にも、この白井氏の指摘に含まれる2つのことを忘れてはならないと思います。まず、「根絶」という発想についてです。
 私は、我が国の国民性の一つに潔癖性があげられると考えています。実際の生活に影響はなくても、ちょっとした汚れも許すことができない性癖です。それが、いじめや体罰問題に向かったとき、「減らそう」ではなく、「根絶」になってしまうのです。いじめや体罰のような汚らわしい行為は0でなければならないと決めつけるのです。そして、「五十歩百歩」という言葉のとおり、校長や教委が、「いじめや体罰が前年度の半分に減りました」と言っても、「まだ○○件もあるじゃないか」と言い、関係者の努力や改善を認めるよりも、0件でないことを努力不足の象徴として断罪しようとするのです。
 また、白井氏のもう一つに指摘である「報告はないがあるかもしれない」という発想は、学校関係者がもつべきものとして重要です。端的に言って、いじめや体罰がない学校などあり得ないのです。「被害者」が、周囲の子供たちの言動について「みんな一緒になって、なんだか感じ悪い」と感じたり、「何も叩かなくてもいいのに」と不快や不満を感じながらも我慢してしまう、我慢できてしまう程度のいじめや体罰は、根絶不可能なのです。
 そして、そうした表面化せず問題として把握されない「小さな事例」こそが、メディアを賑わすような大事件の種なのです。種は地中にありさっと見ただけでは見つけることができません。大事件の種は、アンケートや目安箱のような調査では見つからないのです。ですから、校長や教員、教委の担当者などは、調査ではなかった、子供からの訴えはなかった、ということで安心してしまってはいけません。いじめも体罰も、現場の教員が自ら発見することを第一に考え、いついじめや体罰を発見しても適切に対応できるように、対応力を高めておかなければならないのです。
 突飛な連想ですが、私はいじめや体罰が発覚したとき「子供からの訴えはなかった」「毎月の調査では把握できなかった」という弁解をする関係者を見ると、近くに行ってよく見れば素人でも分かる破損箇所を見落とし崩落した橋について、「点検したときには異常はなかった」と弁解する関係者の姿を思い浮かべてしまうのです。そして、よく聞いてみると、点検というのが車に乗って橋の上を走っただけだということが分かり、呆れられるという結果も。これでは「専門家」という看板が泣きます。教員もそうならないように心掛けたいものです。
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教育が生み出すもの

2013-02-26 08:03:24 | Weblog
「生み出した利益」2月22日
 反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠氏が、『対人支援のインフラ整備を』という見出しでコラムを書かれていました。その中で湯浅氏は、『自殺対策が進んだ結果、例年に比べて5000人の方が「命拾い」した』事実を示し、『厚生労働省は、09年の自殺による経済的損失を1.9兆円と推計した。3万人余が亡くなって損失が1.9兆円とすれば、5000人なら約3000億円~(中略)~言い換えれば、社会に3000億円分利益がもたらされたということだ』と述べていらっしゃいます。
 さらに湯浅氏は、『09~12年度で(自殺対策費)は、137億円。私たちの社会は137億円の支出で約3000億円のリターンを得たことになる。費用対効果や約22倍だ』と解説し、『現代の日本社会でここまで費用対効果の高い事業があったか』と、経済財政的な側面からも、自殺対策のような対人支援の意義を説明しています。
 社会的弱者に寄り添う姿勢を示し続けてきた湯浅氏が、こうした「数値化した冷たい説明」を行う背景には、道路や橋づくりという旧来型の公共事業に先祖返りしている現政府への「皮肉」があるように思います。同じような手法を、学校教育の関係者もとってみる必要があるように思います。
 私は、教育を人材育成の視点からだけ見ることには反対ですが、財政状況が厳しい状況が今後も続く中で、学校教育を重視し予算確保を図るためには、湯浅氏のような発想も有効だと思います。
 子供が自立した労働者となることによる生活保護など社会保障費が軽減される、正しい規範意識が定着することにより犯罪や反社会的行為が減って社会全体が被る損害を免れる、健康への知識や実践力が身につくことによって医療費などの社会保障費が少なくて済む、など「経済財政上のメリット」を算出し、ローリスクハイリターンの投資ですよ、と訴えるのです。
 実は、こうした発想は、学校関係者にとってもっとも苦手なものです。しかし、これからの教育行政を担う人は、こうした発想で財務省や首長部局の担当者と渡り合える能力が求められてくるのかもしれません。
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驕りと勘違い

2013-02-25 07:59:39 | Weblog
「おごり」2月20日
 運動部の堤浩一郎記者が、『高校野球指導者は教員がいい』という標題でコラムを書かれていました。その中で堤氏は、プロ野球経験者が高校野球の指導者になる際の条件が緩和された経緯と事実を紹介した上で、『プロ側の認識の甘さを感じる』と指摘し、『プロの技術さえあれば、高校野球レベルの指導は十分との「おごり」がなかったか』と疑問を呈しています。
 堤氏の「疑問」はもっともです。そしてそこには、学校教育全般に通じる2つの問題点が含まれています。一つは、ある分野における技能や知見=その分野における指導力、という誤解です。例えば、一流のピアニストが音楽の授業を担当すれば、子供たちは音楽好きになり、音楽の技能が高くなるのでしょうか。ある私立女子校に赴任した音楽教員が、専門的な音楽理論を振りかざし、音大志望の生徒ばかりを優遇し、他の生徒から総スカンをくって退職したという事例が、この問いに対する答えを示しています。
 また、私が指導力不足教員の研修を担当していたときに指導した高校の英語担当教員は、TOEICで最高レベルの実力をもっていましたが、全く授業ができませんでした。彼から感じられるのは、「何でこんなことが分からないんだ」という生徒への冷たい視線だけで、大部分の生徒たちは授業を受ける意思を全く示しませんでした。
 このブログで何回も繰り返してきたことですが、教員は教えることについての専門職なのです。もちろん、教えようとする分野の知識や技術をもっていることは大きなプラス要因ではありますが、それだけでは指導は上手くいかないものなのです。
要するに、音楽の専門家と音楽指導の専門家、英語の専門家と英語授業の専門家は異なるものだということなのです。この点についての無理解が、学校というもの、教員という存在についての誤解につながり、学校を巡る論議を混乱させているのです。
 第二の問題点は、こうした誤解が、大学教員>高校教員>中学校教員>小学校教員>幼稚園教員という序列化という別の誤解を生み出していることです。大学の教員ならば高校で教えることなんて簡単、高校の教員が中学校で教えるなんて朝飯前、中学校の教員からすれば小学校での授業なんて楽にこなせるというような考え方です。これは明らかに間違いです。それぞれの学校段階に応じた教えるための専門性があるのです。
 この誤解が学校教育に及ぼす悪影響は、外部からの見方というよりも、教員自身にあります。つまり、高校の教員は自らの存在意義を中学校の教員よりも担当分野における「知識」が豊富という点に求め、教員としての資質向上を図るときに、「教え方」を磨くのではなく、化学や物理、歴史や地理といった学問上の知識を深めようという方向に努力しようとしてしまうのです。こうした発想が、授業法を高めるという本来あるべき研修を低調なものにさせ、授業が分からない子供を増やしてしまうのです。
 教員の原点を再確認しなければなりません。

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教職員組合連合に期待?

2013-02-24 08:05:52 | Weblog
「証拠の提示」2月20日
 『過半数「契約先生」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると『昨年度、東京都内の私立小中高校に更新も含めて採用された常勤教員の過半数が、企業の契約社員に相当する「常勤講師」としての採用だったことが東京私立学校教職員組合連合の調査で分かった』ということです。
 こうした状況に対し首都大学東京教授の乾彰夫氏は、『次年度の契約を考えて短期で実績を出そうとする傾向が強くなる。無理な体罰につながったり、保護者の評判を気にして逆に指導を手控えたりするなど、生徒に不利益が生じる可能性も高い』と指摘し、対応の必要性を説いていました。
 乾氏の指摘どおりです。しかし、見通しは暗いと思います。乾氏の指摘については、別の見方も可能だからです。つまり、「次年度の契約を考えて目に見える形できちんと実績を出そうとし、教員が努力するようになる。また、保護者の評価を得るために、体罰など強圧的な指導が減るなど、生徒に利益が生じる可能性が高い」という捉え方です。教員評価の効果を高め、競争原理を徹底することによって教員の資質向上を推進し、教育の質的向上に結びつけるという考え方に基づく発想といってもよいかもしれません。
 双方の立場で論争になったとき、現段階で予想される子供への影響は、どちら側も推測の域を出ません。一方で、人件費削減効果については、「常任講師」推進派側は、はっきりとメリットを数値化して示すことができます。
 私は教委に教員人事担当者として勤務していたとき、議会から人件費削減について強い圧力を受けました。正規ではなく非正規、常勤ではなく非常勤、無償ボランティアの導入と活用など、様々な人件費削減の提案がなされました。
 さらに、市民からの苦情に対応する際、苦情の本筋とは関係なく、多くのケースで「教員は高い給料もらっているんだから…」という声を聞かされました。教員=楽なのに高給という「思い込み」は、根強いと感じさせられたものでした。
 こうしたことを考え合わせると、どちらも推測で話し合っている限り、「正規教員を可能な限り減らし、人件費を削減するとともに、ぬるま湯体質を脱した常勤講師の活用によって学校活性化」という路線が世論の支持を集めることは必至であるように思えます。
 こうした事態を避けるためには、正規雇用の教員を減らし常勤講師に代替することによって生じる教育上のデメリットを目に見える形で示す以外にありません。今ここでこうした動きを食い止めないと、やがて公立学校においても、正規教員は管理職や主幹など一部だけ、という事態になりかねないと思います。私学の教職員組合連合の皆さんには、是非組織をあげて事例とデータの集積と分析に取り組んでほしいと思います。

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ムードに流されずに

2013-02-23 07:51:42 | Weblog
「改革の落とし穴」2月17日
 京都大学教授の中西寛氏が、『情報体制の改革』というタイトルで、コラムを書かれていました。その中で中西氏は、アルジェリアで起きたガスプラント襲撃事件後に政府が日本版NSC創設を急いでいることに触れ、『不幸な惨劇に伴う悲しみと怒りから、政府に対応を求める声が上がること自然なことである』としながらも、『しかし感情と政治的思惑によって進められる政策は、たとえそれが善意に基づくものであっても、賢明であるとは限らない』と警鐘を鳴らしています。
 また、『経緯も今のところほとんど解明されていない。そうした段階で、これらの政策(NSC設立、駐在武官制度拡充、邦人救出任務の法制化)によって今回のような犠牲を防ぐことができるかのような先入観を国民に与えるのは、将来の政府に対する国民の期待を過剰に高めてしまう』とも述べていらっしゃいます。
 中西氏の指摘は、今回の体罰問題への対応にもあてはまるように思います。ときを同じくして発覚した女子柔道代表候補選手への暴行事件の影響もあり、反体罰の声が高まっていますし、そうした風潮に反対する体罰一部容認派の反論も紹介され、国民的関心事になっています。そうした声に便乗するような形で、体罰根絶に向けて「道徳教科化」という「特効薬」が打ち出されています。これなど、正しく「感情と政治的思惑によって進められる政策」の最たるものでしょう。明治初期から禁止されながら、100年以上も体罰がなくならないだけでなく、いまだに体罰を容認する声が少なくない現状について、きちんとした調査や分析が行われていないにもかかわらず、「特効薬」が提言されている状態も、中西氏の指摘と重なります。
 国民の声を汲み取ったという形をとっているだけに、今回の拙速な対応が失敗した後、体罰をなくすことなんて無理なんだ、というニヒリズムが支配的になり、結果として体罰対策が後退するという状況に陥ることもあり得ると思います。
 まず、国立教育研究所を中心に大学や教委と連携した調査分析体制を構築し、公開性を確保した上で、体罰を巡る状況を解明することに取り組むことから着手すべきだと思います。その冷静さと我慢強さこそ、教育行政に求められる真のリーダーシップだと思います。

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教育の治外法権

2013-02-22 07:38:26 | Weblog
「治外法権」2月16日
 『体罰教職員調査「33校72人115件」』という見出しの記事が掲載されました。大阪府教委が、府立の高校と支援学校計185校を対象に調査を行った結果だそうです。その記事の下に『私立校は49校』という見出しの記事が掲載されていました。同じく大阪府で、私学・大学課が私立小中高校184校を対象に調査した結果だそうです。
 府教委は、関係教員の処分を検討中とのことですが、私立校についての対応については何も書かれていません。調査対象になった校数は、185校と184校でほぼ同じです。そして、体罰発生は33校と49校です。明らかに、私立校の方が発生率が高いのです。調査の詳細が分かりませんし、報告の基準も不明ですので、単純に比較することはできませんが、私立校でも相当数の体罰があるということは確実です。それにもかかわらず、私立校に対しては、教育行政は何もしないのです。私立校には独自性が認められているとはいっても、学校教育法は私立校にも適用されますし、体罰が禁止されているのも公私の別はありません。でも、大阪府は何もしないのです。
 大阪で大きな影響力をもつ維新の会や自民党のネオ文教族の議員の中では、競争にさらされていない公立校はだめだが児童・生徒が集まらなければ経営が成り立たない私立校は必死に努力するので教育の質が高い、という見方が主流となっています。だからこそ、学校選択制や学区廃止で切磋琢磨を、という主張をしているのです。
 実はこうした見方は、メディア全般にも広く浸透しているように思います。私が取材を受けたいくつかのメディアも、私立○、公立×という先入観をもっていたからです。しかし、今回の大阪府の体罰調査報道から見えてくるのは、私立校にも問題はあるということと私立校は一種の治外法権になっており、行政の指導や措置が及びにくいという事実です。
 私には、私立校の教員をしている知人が何人かいますが、彼らの話を聞いて驚かされるのは、「研修」の少なさです。もちろん、教員の研修はOJTが中心であるべきですので、枠として位置付けられた研修が少ないからといって、教員の指導力が劣り、モラルが低いと言い切れるわけではありませんが、企業でも経営効率を過度に重視すると人材育成にコストを掛けなくなるという問題が重なって浮かんできてしまいます。
 そうした構造的な問題に加え、「治外法権」の問題があるとなると、私立校の在り方についても、「教育再生実行会議」の議題とすべきだと思います。
 
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道徳教科化ではいじめは減らせない

2013-02-21 08:12:32 | Weblog
「筋違い」2月16日
 『小中学校で道徳教科化を提言へ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『「教育再生実行会議」の第2回会合を官邸で開き、いじめ対策として規範意識を醸成するため、小中学校で道徳を教科にするよう提言することで一致した』のだそうです。
 道徳教科化の是非については、今回は触れません。問題だと考えるのは、いじめ対策としての道徳教育強化という発想です。まず、現在行われている「道徳」について、委員の方々がきちんと理解しているのだろうかという懸念です。
 道徳では、自分に関すること、他人とのかかわりに関すること、自然や崇高なものとのかかわりに関すること、集団や社会とのかかわりに関することについてそれぞれ指導します。もちろん、濃淡があることを承知の上で言えば、どの内容もいじめ抑制に関係があるでしょう。しかし、直接的には、「他人とのかかわり」についてが中核をなすことになると思われます。つまり、いじめ対策としての道徳教育という発想では、他の3つの内容が軽視されることになりかねないのです。これでは、道徳教育の充実にはなりません。
 また、いじめ対策としての道徳教育強化という発想には、いじめの原因は子供の規範意識の低下であるという考え方が潜んでいます。その認識は間違っています。いじめをする子供や傍観している子供の規範意識が低い、いじめが発生している学級の規範意識が低いという考え方は、ある性質をもつ子供は常にある行動をするという固定化された子供観に基づくものです。しかし、人間とは、そんなに単純なものではありません。ある子供が、相手によって、その場の雰囲気によって、そのときの気分によって異なる面を見せるという動的な子供観こそ、真実ですし、教育の場に望まれるものです。
 一人の子供が専科の教員の指導には素直に従うのに、担任の指導には反抗的という例はいくらでもあります。もちろん、その逆もです。こんなとき、ダメな教員は「あいつは素直じゃない」とその原因を子供の資質に求めようとしますが、優れた教員は「私のどんな言動があの子を素直でなくさせるんだろう」と自分の指導を振り返るものです。
また、家庭で心配なことがあるとき、友達とのトラブルを抱えているとき、いつもは快活な子供がイライラし攻撃的になることがあります。誰しも、自分のことを振り返ってみれば、人間とはそんなものだと分かるはずです。今回の予定されている提言は、こうした「真理」に反するものです。
 ですから、いじめを減らすためには、子供が充実感や満足感をもって学校生活を送ることができるようにすることこそ最良且つ現実的な方策なのです。それには、学校生活の大半を占める授業の充実、分かる授業、成長が実感できる授業、学ぶ楽しさを味わえる授業の実現が必要なのであり、道徳教育強化ではないのです。
 なお、私は道徳教育強化に反対する立場ではありません。同時に、道徳の教科化が、道徳教育の強化につながるとも思っていません。この点については、後日触れたいと思います。

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新たな基準?

2013-02-20 07:54:01 | Weblog
「新たな基準?」2月15日
 『小5飛び込み自殺』という見出しの記事が掲載されました。記事によると『遺書らしきメモには、「どうか一つのちいさな命とひきかえに、とうはいごうを中止してください」と、記されていた』ということで、教委が進める学校統廃合への抗議の自殺と考えられるということです。
 この子供の母親は、『自殺というやり方で世の中が変わると他の子が思わないでほしい』と話しているそうですが、確かに類似の自殺が起こることが懸念されます。いじめ自殺、体罰自殺を受け、大人たちが問題の解決に乗り出し、世論がそれを後押ししている現状を目にして、「自殺」を手段視する発想が子供たちの中に広がりつつあるとすれば、大きな問題です。自殺報道の大原則は、自殺を誘発するような報道をしないということですが、そうした視点から一連の報道を見直し、改善していくことが望まれます。
 ところで、私には別の懸念があります。それは、大人の側が、「自殺という形で訴える子供はいないのだから、それほどの大問題ではない」という論理のすり替えをするのではないかということです。つまり、「確かにいじめはあったが自殺者が出るほど過酷なものではなかった」「体罰は確認されたが、自殺に追い込むようなレベルではなかった」というように、問題を小さく見せる論理として利用するということです。
 自殺者がでなかったことを自分の免罪符として利用する卑劣漢が表れてくるかもしれないと心配になるのです。教育者にそんな奴はいないと思いたいのですが、言い切る自信がありません。そしてそうした大人の卑怯な行為が発覚すれば、それに対抗する形で「死んで見せてやる」と自殺者が出るという悪循環が怖いのです。
 子供の自殺を重く受けとめつつ、一方で自殺に余分な付加価値を与えない対応が求められていると思います。

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餅は餅屋:警察力導入

2013-02-19 08:19:19 | Weblog
「餅は餅屋」2月14日
 『韓国いじめは117番』という見出しの記事が掲載されました。『日本と同様いじめや校内暴力が問題となっている韓国で、警察が積極介入して解決や予防につなげようとしている』という書き出しで始まる記事は、韓国における学校と警察の連携の状況を的確に説明しています。
 その中で生活秩序課係長の徐基溶氏は、『学校暴力で重要なのは状況を明らかにすることだ。教育現場には警察に対する拒否感は残るが、第三者の調査専門家である警察の介入は解決に役立つ』と語っています。まったくその通りです。
 いじめも体罰も校内暴力も、その対応には2つの手段がなくてはなりません。教育的手法と警察・司法的手法です。このことは何も学校での出来事に限りません。例えば、隣家のピアノ練習の音がうるさくて眠れないという事態に対応する場合、まず「市民常識」の論理で対応します。隣家を訪問し、丁寧な言い方で困っていることを伝え、何らかの方法で善処してくれるように頼みます。それに対して、隣家では練習を中止する、夜の練習をやめる、ピアノのある部屋に防音工事をするなどの対応を検討し、それを伝え謝罪します。そして、隣家の対応を聞いた後、実際に我慢できるレベルであれば「まだ、聞こえますが前よりはよくなりました」と、努力は認めて我慢するが完全に満足したわけではないぞというニュアンスを伝えて、再びうるさくなるようなことがないように牽制しておく、というのが「市民常識」による対応です。
 一方、隣家に苦情を言いに行ったとき、「ごちゃごちゃ言うな。うるさかったらどこかに引っ越せ」と言い返され、その後も話し合いに応じてくれなければ、警察に訴え、最終的には裁判で決着をつけるしかありません。そして、このケースでは「市民常識」は有効に作用しなかったとしても、一般的には警察・司法的手法があるからこそ、「市民常識」による対応が有効性をもつことにもなるという構造なのです。しかし、「市民常識」による対応をせずにいきなり裁判での決着を目指せば、それは非常識として、訴えた方が近隣住民から非難されてしまいます。この2つに対応を使い分けるのが「知恵」というものです。
 同じように、いじめや体罰、校内暴力についても、まず学校内で、そして学校だけの手に余るときには教委の支援を受けながら、教育的配慮をもって対応し、そうした対応では解決が難しいと判断したときには、警察の調査専門家としての能力や強力な処罰権という力を利用するという仕組みを作ることが、我が国においても有効に働くはずです。餅は餅屋、専門家の労力を活用しないのはもったいない話です。
 このことは、一部の教員が考えるような教育の放棄でも学校の敗北でもありません。世の中に「お前が引っ越せ」と暴言を吐く非常識人がいなくならないように、学校でも級友を氏に追い込むいじめを笑顔で楽しむ子供、教育の論理では対応できない子供はなくならないのですから。
 また、警察の介入を制度化するということは、教員が楽になり学校が何もしないということを意味しません。学校は今まで以上に、指導の経過を記録したり、関係者の証言を整理保存したりすることを求められるようになるのです。学校が楽をし責任転嫁するような制度では国民の支持は得られません。

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