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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

自分の言葉で自分の考えを

2020-08-31 08:05:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「日本人の考える学校」8月22日
 『自由は自分で手に入れる』という見出しの記事が掲載されました。京都精華大学長ウスビ・サコ氏へのインタビュー記事です。その中に、『日本は「誰かがしてくれる」という気持ちが強い。大切なのは、待たずに自分で動く姿勢をとれるかどうか』という記述がありました。そしてこうした認識を基に、『日本は学校への過度な期待があるとも指摘する。「大学は授業料に見合ったサービスを提供する場ではない。教育する/される側の信頼に基づく共同体であり、みんながどう関わり合うかが重要。お客さんはいません」』と語られているのです。
 私にとっては、とても刺激的な指摘でした。私は古いタイプの学校像から教員生活をスタートさせました。教員という教える人がいて、子供という教わる人がいるという形です。そこでは無意識のうちに教員と子供・保護者が縦の関係であると認識されていました。
 その後、私は教員としても教務主任等の立場につき、自分の学級以外の事にも目が向くようになりました。その頃から、学校サービス機関論が注目されだしました。学校は教育というサービスを提供するところであり、子供や保護者はお客様、教員はサービスを売る店員というような捉え方でした。「お客様は神様です」という言葉通り、客である子供や保護者の意向を敏感に察知し、その期待に応えていくのが大事であるというような学校像です。これは、私が指導主事となり、教委の幹部となっても続きました。
 この学校サービス機関論は、その行き過ぎによる弊害も指摘され、最近では見直しが進んでいます。私自身も、今ではこれは極論であったと考えています。そしてその後、これといった学校像が語られることはなかったように思います。もちろん、学校には次々と新しい教育課題が持ち込まれ、求められる学校の機能、在り方については議論されていますが、学校サービス機関論のような根本的な部分にまでは及んでいないのが実感でした。
  そうした意味でサコ氏の「共同体」論が斬新だったのです。サコ氏は、大学について語っているのであって、小中高については何も語っていません。しかし、「日本は学校への過度の期待~」と指摘した文脈で語られているのですから、小中学校においても、「信頼に基づく共同体」であるべきという見方をなさっていると考えることには無理がないと思います。
 ではその基盤である信頼をどう作るのか、これが次の問題となります。ここでもサコ氏はヒントを出しています。『大学が社会にどう語りかけるのか、私たち教員も伝える言葉を磨かないといけない』と。学校、小中学校においては法的には校長ということになります。校長が社会に対して何をどのように語るのか、が大切になるのではないでしょうか。
 この場合の「社会」とは学区域や保護者というような狭い意味ではなく、市民社会というような広い意味で捉えたいと思います。そして語るのは、我が校の子供の様子というような「報告」ではなく、学校というもの、教員のというもの、教育というものといった「大きなもの」であるべきです。そこに教員という専門家集団を率いる長としての見識を示すことができるかが問われているのではないでしょうか。

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間違った、でも重い物語

2020-08-30 08:36:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「被害者意識」8月22日
 書評欄に、『白人ナショナリズム アメリカを揺るがす「文化的反動」 渡辺靖著』に関する書評が掲載されていました。本書は白人至上主義的な思想をもつ白人への取材に基づいて書かれたもののようですが、その中に『本書の登場人物は、むしろ高学歴で礼儀正しい人が多い。彼らは、自分たちが現体制の被害者だとする。非白人の移民らが白人の国を脅かしているとも考える』という記述がありました。
 大変興味深い事実だと思いました。第三者的に見ると、米国においては今なお、高学歴の白人は恵まれた人たちです。階層社会の上位に位置し、人種差別問題ではむしろ差別をする側、加害者側という見方が普通でしょう。しかし、彼らの主観では「被害者」なのです。自分たちを被害者だと定義すれば、「差別」は正当な復権のための行動となり、後ろめたさを感じることがなくなります。こうした意識が「差別」解消の壁となっているのではないでしょうか。
 そしてこうした構図は、実は学校におけるいじめでも見て取ることができるのです。いじめというのは、その定義からして当然のことですが、多数から少数もしくは個人へ、集団内の上位集団から下位集団に属する者へ、強者から弱者へ行われるものです。ところが加害者側には、複雑な自己認識が存在します。自分たちが多数派であり強い立場にあるという自覚はあります。だからこそ、反撃されることに対する恐怖心をもつことなく攻撃に専念できるのです。
 しかしその一方で、彼らには、自分たちは正当に評価されていない、という認識や怒りがある場合が多いと感じます。「私たちは勉強ができるのだからバカな子よりも認められるべき」「私たちは綺麗にしているのだからセンスがなく薄汚れたあいつらよりも称賛されるべき」、とでもいうような不満を抱えて学校生活を送っているのです。こうした不満が、教員に向けられている場合もあれば、自分の保護者に対する場合もあります。意外と少ないのが、こうした承認欲求の不満が級友に向けられるケースです。
 そして、本来は得られるべき承認欲求が満たされない不満を、弱者をいじめるという不道徳な行為で満たそうとするのです。それは、白人が不道徳な行為である「差別」を正当な行為と思い込むことで自分を被害者に置く発想に似て、「いじめ」も自分たちが不当に低評価されていることへの代償行為、もしくはいじめによって、自分たちは実はいじめという不道徳な行為さえも許される特権的な立場にいると確認する行為、としてしまうのです。
 いじめが発覚し、個別面談で指導を始めると、彼らは、自分たちが正当に評価されてこなかったという物語を語り始めます。その物語をいったんは受け入れる姿勢を身さない限り、彼らは自分の非を見つめようとはしません。教員は、彼らの心情を受け止めると同時に、その論理は否定するという対応が必要になります。
 差別する白人の思いは受け止めつつも差別という行為の不道徳性に対する追及は止めない、というのと同じです。差別する人を糾弾するだけで差別はなくならないと思います。いじめをする人を責めるだけではいじめもなくならないのです。

 

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例示は重い

2020-08-29 08:31:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「理由を知りたい」8月21日
 『小学校も教科担任制』という見出しの記事が掲載されました。このこと自体は昔から言われていることなので特に驚きはありません。賛成でもありませんが、その理由は既にこのブログで何回か述べてきているので、ここでは触れません。
 今回気になったのは、『対象の教科として、小学5,6年で20年度から正式教科となった英語のほか理科と算数を例示した』という記述でした。異議あり、というのではありません。ただ、どうして、体育科でも、国語科でも、社会科、道徳でもなく、算数と理科なのか、その理由が知りたいと思うのです。
 記事には「骨子案のポイント」として結論が書かれているだけで、中教審の特別部会での議論の詳細は紹介されていないからです。教科担任制導入を議論する際の視点として考えられるのは、多くの教員が指導するのが難しいと考えている、学力に関する調査の結果当該教科の指導の実態に問題が多いと考えられる、調査の結果子供が授業に不満をもっている、などであるはずです。
 ところが、私が不勉強なだけかもしれませんが、そうした調査結果等を目にした記憶がないのです。私が現職の教員時代も、教委に勤務しているときも、教員から算数の指導が難しいという声を聞かされたことがありません。ちなみに、算数の指導内容は過去数回の学習指導要領改訂を経ても大きく変わってはいません(プログラミング教育の導入は別)。
 確かに、理科については、算数よりもそうした声が若干多いのですが、同時に理科が楽しいという子供の声も算数よりも多いのが実情です。そして、国語や社会よりも。
 私も独自に調査をしたことがあるわけではないのですが、「体感」として、国語・社会・体育の授業の方が、授業がうまくいっていないケースが多いように感じています。例えば体育ですが、何となく見様見真似でそれらしい授業をしている教員が多いのです。準備体操ひとつとってみても、その日の学習内容との関連で行う体操を変えているわけでもなく、体操の際の動作についても、どの関節や筋肉を正しく動かすためには何に留意すればよいのかを理解しないまま、何となく手足を動かしている教員が少なくないのです。端的な例でいえば、ラジオ体操を正しくできる教員は半数にも満たないというのが現状です。
 国語も、何となく形になっているレベルの授業が多いですし、社会科に至っては、特に教科書とは関係のない自分たちが住む地域を舞台にした学習では、教員間の格差が非常に大きくなっている現状があります。
 つまり、大雑把に言えば、どの教科にも問題はあるにもかかわらず、なぜか理科と算数が唐突に出てきたという感じがしてしまうのです。科学技術立国を目指すという目的が先にあるから、というのは邪推でしょうか。あくまでも例示です、と逃げるのではなく、きちんとした説明がなされることを期待します。

 

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10年後、20年後の学校

2020-08-28 08:18:50 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「未来の学校は」8月21日
 余禄欄に、オンライン化された大学についてのコラムが掲載されました。その中に、『収まらない感染を背景に秋学期も原則オンラインとする方針が相次いで示され、学生から不満や不安の声が上がる』という記述がありました。また、『退学を視野に入れて今後を考える学生が1割近い』という立命館大学新聞の調査結果も示し、コロナ禍の大学の在り方について検討を進めるべきであるという趣旨の記述もありました。
 3月に唐突に出された全国一斉休校要請後、オンライン教育、リモート授業の大切さが叫ばれるようになりました。それは小学校から大学まで、全ての校種で、喫緊の課題となりました。地球温暖化等の影響を受け、今後も様々な感染症のパンデミックが起きることが予想される現在、確かに対応が必要な課題であることは否定できません。
 しかし、多くの学生がオンライン教育に不満をもっているのも事実なのです。これは放置できない問題です。そしてその不満や不安は、今はまだ不慣れで準備不足であるオンライン教育やリモート授業について、教官や大学側が十分な準備をし、経験を積み重ねていけば解消されるものなのか否か、早急に明らかにしていく必要があります。もちろん、学生の側の馴れについても考慮する必要がありますが。
 そして、いくら経験や準備を重ねても、非対面型の教育には限界と問題があるということになれば、学校とは対面で学ぶ場であるという学校像を日本社会全体で共通認識し、今後の教育政策を考えていくことになるはずです。
 さらに言えば、もう一段深いレベルの考察も必要になるかもしれません。人は環境に馴れる生き物です。典型的な旧人類である私は、どうしてもスマホやタブレットごしの人間関係構築に違和感を捨てきれません。しかし、生まれた時からデジタル機器に囲まれ、幼児期からスマホを捜査して遊んでいる今の子供は、むしろオンライン教育、リモート授業の方が安心感があり、リラックスして学習できると言うかもしれないのです。
 つまり、大学生も、そして小中高の児童・生徒も、オンライン教育、リモート授業のほうが学習内容の理解が良いという研究調査結果が出たときのことについても考えておくべきだということです。それならば未来の学校はオンラインでいきましょうと短絡的に決めてしまってよいのかということの検討です。私は、教員にしろ、同世代の友人にしろ、人との触れ合いなしに成長していくことは好ましくないという考えです。何らかのデータに裏打ちされたものではなく、長年の経験に基づくカンに過ぎません。しかし、私のように考える人は一定程度いると思います。
 学習の当事者である学生や生徒・児童の意向とは別に、学校とは、学校教育とはという原点についての骨太の議論が必要だと思います。文科省は、そうした議論の場を設けるべきではないでしょうか。

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分化の時期

2020-08-27 08:18:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「分化の時期」8月20日
 連載企画『コロナ危機 経済の視点から』は、オリックスシニア・チェアマン宮内義彦氏へのインタビューでした。その中で宮内氏は、『日本は人を雇ってから仕事を割り当て、チームで成果を上げる「メンバーシップ型雇用」が主流で、一人一人の職務を明確に定めた欧米の「ジョブ型雇用」ではない(略)メンバーシップ型では世界に伍していけないことは、数十年にわたる日本経済の停滞からはっきりしている(略)職務を明確にしないと、専門的な知識や技術を持つ人材は育たない』と語っていらっしゃいました。
 表題にある通り、あくまでも「経済」について語っていらっしゃるはずですが、それでも心配になりました。我が国では、民間企業のやり方が、行政機関よりも先進的で優れているという考え方をし、取り入れていこうとする発想が強いからです。
 宮内氏は、雇用契約を結ぶ段階で、既にそれぞれの個人はある業務についての適性や資質をもっていてそれは明確に判断できる、というお考えのようです。しかし本当にそうなのだろうか、というのが私が抱いている疑問です。私は企業に勤務した経験がないので、企業の人事については触れませんが、教員の採用、育成については、長年携わってきた経験から、採用段階でこの仕事に向いていると判断することはできないという確信をもっています。
 小学校は、学級担任制ですが、長年教職を続けるうちに、その人の得意分野というべきものができてきます。私の場合は社会科でしたし、つれあいは国語でした。もちろん、教科に限らず、学級経営について豊富な知見をもつようになるものもいれば、教育相談の実務に長けた者も出てきます。もっと特殊な事例では、学生時代に一切経験がなかったにもかかわらず、たまたまバレーボールクラブの指導を担当し、チームを小学生の全国大会出場にまで導いた教員も知っています。
 採用時に担当教科が決められている中学校でも、それぞれの教員がもつ「得意分野」は異なります。社会科のM教員の授業は退屈でレベルの低いものでしたが、ボート部の指導に情熱をささげ、全国大会で優勝するまでに育て上げました。保健体育のN教員は、生活指導面で生徒理解と素早い行動力を発揮し、区内中学校の生活指導主任会の中核を担って、隣接区の警察・児相にまで太い人脈を持って問題行動の対処に当たっていました。彼の「名声」は、他の教委にまで知れ渡っており、異動に際しては「是非うちの区に」という引き合いが殺到したものでした。
 拙著「教員改革」でも触れたことですが、教員の「専門性」は、大学での専攻などよりも、実際に教員になってからの担当業務や力のある先輩との出会い、研究仲間の存在、偶然遭遇したトラブルへの対処などにより、特定の分野での能力を大きく伸ばすという事例がほとんどです。つまり、宮内氏が否定的な「メンバーシップ型雇用」後に、OJTを経て形成されていくというのが実態なのです。雇用契約時に、あなたは大学で児童心理を学んでいるから教育相談主任として、あなたは大学院で教育行政論の部屋にいたから教委との接触が多い教務担当に、というような「ジョブ型雇用」は現実的ではないのです。
 教員採用もジョブ型に、というような議論が進むことが心配でなりません。

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体罰を肯定する思想

2020-08-26 08:04:07 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「体罰の思想」8月19日
 専門記者大治朋子氏が、『「ゆがんだ正義」の正体』という表題でコラムを書かれていました。その中で大治氏は、過激なテロや虐殺行為の際に見られる『間化の認知』について、『他者を人間以下の愚劣なモノと見なすことで何をしてもよい、と自分の攻撃行動を正当化し、なおかつ自尊心を高める』ものだと書かれていました。
 そして、テロも虐殺も、その実行者には『反社会的人格障害や精神障害があり、ナルシストやサイコパスが多い』という見方は誤りで、こうした特別な人が起こすのではなく、『普通の人』が『間化の認知』に陥ることで引き起こされるという最新の研究に基づく知見を披露されているのです。
 とても納得できる考え方だと思います。私は教委勤務時代に、服務事故を起こした教員の処分や指導に関わる業務を担当していたことがあります。服務事故の中で最も多いのが体罰でした。体罰をしてしまった教員と面接し話を聞くと、まさにこの「間化の認知」が起きていたのです。彼らは、子供を自分とは違う未熟な不完全な存在と見なしていました。それはある意味間違いではありません。私の中にもそうした見方はあります。おそらく、多くの教員、多くの大人の中にこうした見方があると思います。
 しかし、まだ発達途上だから少々の失敗や逸脱は仕方がないと受容する方向に意識が働くか、自分より下の存在として、対等な相手には許されないような過酷な罰も許されるという考え方に行き着くか、そこには大きな違いがあります。
 多くの教員は、多くの場合、前者の考え方に則って行動します。そこでは体罰も暴言も起きません。しかし、一部の教員は、ときとして後者の考え方に従って行動してしまいます。その場合、引っ叩こうが蹴飛ばそうが、良心が痛むことはありません。それどころか、泣いたり、必死に謝ったりする子供の姿を見て、劣った存在に対して絶対的な権力をふるう自分は偉大な立派な存在であるかのような高揚感につつまれてしまうのです。もちろん、「正気」に返った後、風船がしぼむように高揚感は消え失せてしまうのですが。
 大治氏は、『「歪んだ正義」がもたらす過激化メカニズムの解明が喫緊の課題である』という言葉でコラムを終えていらっしゃいます。もし、このメカニズムが解明され、対処法が明らかになれば、それを学校現場に応用することで体罰や暴言によって子供が傷つけられるという状況を減らすことができるかもしれません。研究の進展が待ち望まれます。

 

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ダメでも認められるのが・・・

2020-08-25 08:10:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それは相互理解ではない」8月19日
 論点欄は、戦後75年の節目を意識し、『スポーツと平和』というテーマで3人の識者がインタビューに応えていました。その中で、2012年ロンドン五輪代表横田真人氏の言葉に着目させられました。横田氏は、ご自身の経験として、『現役時代、米国を拠点にしていた。日常生活では、話しかけてもアジア人というだけで舌打ちされることが多々あった。しかし、陸上クラブでは一人のアスリートとしてリスペクトを受けた。スポーツには人種や文科を超えて理解し合える力がある』と語っていらっしゃったのです。
 おかしい、と思いました。私には、横田氏がこのエピソードを、スポーツの力を肯定的に評価するものとして語っていらっしゃるように受け取れました。でもこれはけっして「いい話」ではありません。ある特殊な才能をもっている人はたとえアジア人であっても受け入れられる、と言っているのであって、もし何の才能もない、例えば私が米国にいたら、いつまでも舌打ちをされる存在であるということを意味しているのです。私と同じように無能であってもWASPであれば受け入れられるがアジア人はダメという差別を是認しているのです。
 このように書くと、「だったら横田氏のように努力し、認められるような存在になることを目指すのが向上心のある人の生き方だ。お前もそうなるべきだ」という趣旨の反論がなされるかもしれません。でもそれは間違いなのです。ある人は何の努力も実績もなしに受け入れられ、別の人は努力なしには受け入れられないという状況を差別であるというべきなのです。
 学校でも、こうした差別意識が見られます。いじめられた子供、仲間外れにされた子供、馬鹿にされた子供に対して、「頑張って○○さんたちよりうまくなって見返してやれ」的な激励をする教員がいます。保護者の中にもこうした言動をとる人がいます。中には、自分も小さい頃辛い目に遭ったが頑張って勉強してテストで一番になったら誰も何も言わなくなった、というような経験を語り、子供を鼓舞しようとする人もいます。
 間違った対応です。その理由は主に以下の3点になります。いじめや差別の原因を被害者に求めるというとんでもない発想であること。いじめや差別に苦しんでいる子供に「私には無理だ」という絶望を与える行為であること。仮に努力で見返すことに成功したとしても、今度はその子供に「ダメな奴は努力をしていない怠け者なんだからいじめてもいいんだ」という間違った価値観を刷り込んでしまうこと、です。
 大丈夫ですか。あなたは間違った激励鼓舞型の対応をしてはいませんか。いじめも差別も、まず加害者への「治療」が最優先で行われなければなりません。

 

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予算はないので、ここはひとつ先生方に頑張っていただいて

2020-08-24 08:12:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校にも許されるか」8月18日
 連載企画「コロナで何が変わるのか」で、東大准教授熊谷晋一郎氏が、語っていらっしゃいました。その中で熊谷氏は、『非常時に対応するキーワードの一つは「リダンダンシー」(冗長性)です。ここでいう冗長性とは、一つの目的を達成する手段に、余分なことや重複がある状態です(略)平時の効率性の観点のみでできている社会は、有事に脆弱です』と述べています。コストパフォーマンスが重視されがちな風潮に対抗する貴重な指摘だと思います。
 コロナ禍を受け、医療や福祉の分野を念頭に発せられた言葉ですが、学校教育にも通じる考え方だと思います。今、リモート教育の体制拡充が叫ばれていますが、平時になればリモートではなく対面の従来型の教育が復活するはずです。そうなれば、リモートに対応した体制、機器の整備や教材・カリキュラムの準備、教員の増員などは、「無駄」になります。それでもなお、世論はそのための支出を容認するのでしょうか。
 今夏、新型コロナウイルス感染が再拡大したとき、東京都は春に確保していた隔離のための宿泊施設を解約しており、そのことを菅官房長官が責めるという一幕がありました。都の行為を先見性に欠けると非難するのは簡単ですが、使われない施設に契約料を払い続けることに対し「予算の無駄遣い」という批判があり、そうした都民や議会の声をうけての措置だったことを忘れてはなりません。市民はそれくらい「ケチ」なのです。活用されないリモート教育のために毎年多額の負担を認めるとはとても思えません。
 コロナ禍に関連して、休校による学習の後れを補うために、心身のストレスを抱える子供の支援のために、消毒や子供の体調管理業務における教員の負担軽減のために、などの理由で教員の増員が必要だとされています。また、将来的な感染症対策として、教室内の密状態を回避するために一学級当たりの子供の数を減らすべきという観点から、教員増を求める意見も出されています。
 これらの対策にも膨大な予算が必要となります。私は「ケチ」な市民とその市民の声に押された議員の力によって、結局は効果的な予算措置が取られないまま、教員に対し「もっと頑張れ」「子供のためにできるはず」といった精神論で大きな負担が押しつけられる結末を懸念します。数値を出した緻密な議論を期待したいものです。

 

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あなたの社会と私の社会

2020-08-23 08:38:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「私は我慢強くない」8月18日
 専門記者大治朋子氏が、『我慢社会の限界』という表題でコラムを書かれていました。その中で大治氏は、『日本社会は「人は我慢するもの」という前提で動いているので他者への配慮が大いに期待される』と書かれていました。つまり、社会の構成員全員が何らかの不満を抱えながらも我慢しており、自分の抱えている不満を他人が察し、あえて苦情や文句を言わなくても自分の不満を解消する方向で動いてくれることを期待しているということです。
 それはさらに進んで、我慢している自分に気づいた他人が「よく我慢しましたね」と認め褒めてくれることを期待する感情、自分の我慢に気づかない能天気な他人を非難する感情を正当化する社会であることも意味するように思えます。たしかに私にもそんな感情の動きがあります。
 しかしそう考える一方で、大治氏の指摘にはかすかな違和感も覚えます。それは、日本人には、見ず知らずの相手には我慢しない、という側面があるように思うからです。「旅の恥は搔き捨て」という言葉があります。誰も知っている人がいない旅先であれば、破廉恥なことをしてもかまわないという意味です。実際、自宅の近くでは、食べ歩きをしたり、ごみやたばこの吸い殻のポイ捨てなどしない人が、旅先では平気でソフトクリームを食べながら歩き、ごみ箱のないところで捨ててしまう、という光景を目にします。我慢どころかしたい放題です。
 つまり大治氏がいう「日本社会」とは、1億3000万人の住むこの国土全体を差すのではなく、学校とか会社、ご近所、様々な「仲間」、そうしたコミュニティを意味するのではないかということです。日本人は常に我慢しているのではなく、特定の時間と相手と場においてのみ、我慢社会を形成しており、それ以外では、むしろ傍若無人な、利己的なふるまいをしているのではないかというのが私の感覚なのです。
 学校と家庭とでは、全く異なる顔を見せる子供がいます。学級と部活、授業中と放課後など、学校内でも人が違ったような言動を見せる子供もいます。それらを裏表があるとみなすのではなく、子供理解には、その子供にとっての「社会」はどのようなものなのかを理解することが絶対に必要だと思います。今、旅先にいるのか、ご近所さんに囲まれているのかを。

 

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私は普通の子

2020-08-22 08:45:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「その見方に賛成」8月17日
 法哲学者住吉雅美氏が、『無垢な存在がはらむ残酷』という表題でコラムを書かれていました。その中で住吉氏は、『無垢というのは自分の中に悪がないと信じている分、残酷だということだ。思春期まで大人からきれい事だけを教え込まれてきた人は、それらに反する人や考えを容赦なく攻撃するようになる』と書かれています。
 また、『善悪は分かれていて、自分はずっと善の側で育てられたから善良なのだと思っているからこそ、過ちを犯した他人を責めることができる』とも書かれていました。どちらも同じことを言っているのです。子供を育てるにあたって、「あなたは良い子」と思い込ませることの怖さを指摘しているのです。
 今、日本人は自己肯定感が低いと言われています。特に、子供や若年層においてこうした傾向が顕著であるとされています。その対応策として、良さを見つけて伸ばす、褒める教育が大切だという主張をする識者が少なくありません。私はこのブログでそうした主張に懐疑の念を述べてきました。
 褒めることが悪いというのではありません。ただ、行き過ぎや間違った褒め方が問題であると言ってきたつもりです。我が子の問題点を見ようとせずに「うちの子に限って~」という保護者が行き過ぎの典型例であり、「あなたは賢い子」と具体的な行為を褒めるのではなく、全人格的な決めつけを行う事の問題点を指摘してきたのです。
 それらは、あくまでも「技術的」な懸念でした。しかし、住吉氏の指摘は、子供との接し方において、もっと本質的なことを指摘しているのです。子供の「自分は良い子」「自分は善の側に立つ人間」と思わせることそれ自体が危険だと言っているのです。
 あなたは完全ではない、あなたも間違うことがある、あなたは人を傷つけ「悪人」と言われるかもしれない、という認識をもたせなければいけないということなのですから。
 私はもちろん、数々の悪事を働いてきました。大人になってからだけではなく、子供のときから。小学生のとき、からかわれている子を一緒になってからかったことがあります。その子には何の恨みもなかったのにただ何となく雰囲気で。中学生のころ、ちょっと成績の良かった私は、同じクラスのM君が頓珍漢なことを言ったとき「だからバカは嫌なんだよな」と言いました。何か思い上がっていたのでしょう。大人になってからの悪事は憚りがあるのでここには書けません。
 私は少しボヤっとした子供で、自分が何者であるかなど考えたこともありませんでした。当然、善人であるとも悪人であるとも、考えませんでした。強いて言うのであれば「普通の子」だと漠然と思っていたような気がします。それでよかったのだと思います。当時はみんなそんな調子でした。でも現代は、自己肯定感は低いのに、自分は正義の側にいると思い込んでいる子供や保護者が多いのではないでしょうか。
 自分は悪いことや卑怯なこともする「普通の子」という自己認識を育てる教育こそが必要なのではないでしょうか。

 

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