goo blog サービス終了のお知らせ 

ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

いくら無知でもそこまでは

2019-11-30 08:58:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「大使の嘘?」11月25日
 『八村選手 ベナンとの懸け橋』という見出しの記事が掲載されました。NBAで活躍する八村選手の『父の出身地である西アフリカ・ベナン』のアデチュブ駐日大使に、『八村選手の活躍の影響や応援の思い』をインタビューした記事です。
 インタビューの本筋とは関係がないのですが、大使のある発言に驚かされました。大使は『日本の一部の人はアフリカが一つの国だと思っています。アフリカは54カ国ある大陸です。それぞれの国で別々の文化があります~』と語られているのです。本当なのでしょうか。大使が全国紙のインタビューでウソをつくはずはないのですが、信じられません。
  社会科を専門とする指導主事を長く務めてきた者として恥ずかしい話ですが、私もアフリカに詳しくありません。今現在54カ国という数字も正確には知りませんでしたし、地図を見て国名を言えるのは半数以下です。首都を聞かれれば答えられるのは10カ国程度、大統領や首相の名前となるとさらに少なくなってしまいます。
 しかし、アフリカという一つの国がある、というレベルは通常の大人では考えられません。小学校の社会科では、確かに欧米やアジアの国々が取り上げられることが多く、アフリカは身近ではありません。しかし、貿易や五輪、地域に居住する外国籍の人の文化、などの形でアフリカの国々が登場する機会はあります。まして、中学校の社会科では、きちんと学習内容に位置付けられています。それなのに…と驚かされてしまうのです。
 私自身の教員時代の経験で言えば、新聞記事を基に感想を書き合う活動など、教科の学習以外でもアフリカの国々は登場してきましたし、教室の読書コーナーなどにも、具体的な国名をあげて書かれた小説や物語があったものです。それなのに…。
 もし、私たちが外国に行って「日本?中国のどの辺りだっけ」などと言われたら、どんな気持ちがするでしょうか。私なら不愉快になります。大使は、日本の非常識を責める言葉は述べられませんでしたが、内心呆れていたことでしょう。国際親善も国際理解もあったものではありません。
 小学校における外国との交流や理解を図る活動をどうするか、総合的な学習の時間における取り組みを中心に、もう一度検証してみる必要があるように思います。それにしても、総合的な学習の時間を英語の学習に振り替えることを進めた改悪の影響が、ここにも出ているように思えてなりません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劣等生気分

2019-11-29 08:34:41 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「学ぶ教員」11月22日
 コラムニストジェーン・スー氏が回答者を務める人生相談欄に、42歳女性からの『娘を他の子と比べてしまう』という悩み相談が寄せられていました。まあよくあることでしょう。スー氏の回答も基本的な心構えを説く常識的なものでした。
 ただ、その中に一つ具体的な提案があり、とても面白いと思いました。スー氏は相談者に対し『なにか苦手なことにチャレンジしてみてはいかがでしょうか(略)そうすると、できない側の言い分や気持ちが手に取るようにわかるのではないかと思います。その時初めて、お子さんと「そうは言っても、なかなか難しいよね」と同志のような関係になれるのではないでしょうか』と提案しているのです。
 私は、スー氏のこの提案は、教員にも当てはまると思います。教員は教える側、子供は教わる側、教える側は教わる側に対して「どうしてこんなこともできないのか」「ちゃんと話を聞いているのか」「そもそもやる気がないのでは」などと、不満をもちがちです。こうした不満は教員であれば誰でも程度の差こそあれもつものです。しかし、常にこうした不満に囚われている教員もいれば、めったにこうした負の感情に囚われることがない教員もいるのは事実です。もちろん、後者が良い教員です。
 後者になるためには、スー氏の提案のように、教員自身も教わる側、より正確には学ぶ側に立ってみる経験が必要です。つまり、経験にあぐらをかいて自己研鑽を怠るのではなく、教員自身が目標をもちその目標に向けて試行錯誤、悪戦苦闘を続けるということです。
 私は授業が下手な教員でしたし、学級経営もうまくありませんでした。子供の良いところよりも出来ないことに目が向いてしまう子供理解の未熟な教員だったのです。こうした欠点を改めるために、授業記録を作成し授業分析をする、学級だよりを毎週発行し必ず子供の良い行いを書く、子供カルテを作り子供の良い方向への変化を記録するの3点を自らに課しました。
 初めは嫌で嫌で堪りませんでした。授業記録分析が出来ず、今日は忙しかったからと後回しにし、そのために授業自体も一日延ばし、子供からどうして時間割が変わったの、聞かれることも度々でしたし、学級だよりでは、なかなか良いところが見つけられず、読書カードの枚数などランキングで誤魔化してしまうこともありました。
 正直、授業力も子供理解もあまり向上しなかったのですが、自分も大したことはない人間なんだな、という自覚だけは少しだけ深まりました。元々変にプライドが高かった私にとっては、それだけのことでも、子供との接し方が変わる要因になったように思います。
 学ぶ人間だけが、学ぶことも難しさや苦労に共感できるのです。
 なお、形骸化が指摘される教員研修ですが、小学校の英語やプログラミング教育など、多くの教員が苦手な事に取り組むのは、そういう面では意味があるのかもしれません。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

処分という指導法

2019-11-28 08:22:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「間違った対応」11月22日
 『小学教諭暴言6年』という見出しの記事が掲載されました。『下関市の市立小学校の50代の男性教諭が、同僚教諭や児童に暴言を放つなど不適切な指導をしていた』ことが明らかになったと報じる記事です。
 具体的な事例として、『児童の目の前で別のクラスの担任女性教諭を泣くまで怒鳴るなどした。この様子にショックを受けて取り乱したり、泣き出したりした児童もいた』『児童が授業中に答えられないと大声で怒鳴ったり、劇の練習中に「そんなに太ったシマウマはいない」と児童の体型をなじった』などが指摘されていました。
 ひどい話です。しかし私が驚いたのは、その暴言の酷さとは別の点にありました。『学校や市教育委員会は6年前から教諭の行為を確認する度に注意や指導をしたが、行為は続けられており、「指導が十分でなかった」と認めている』という点こそ、驚きです。
 どのような組織であっても、必ず数パーセントは、何らかの問題を起こしてしまう構成員がいるものです。教員も例外ではありません。市立学校の教員が1000人いれば、その中に2~3人の「問題教員」がいるのはむしろ当然です。学校、つまり校長や市教委は、そうした「問題教員」に対応するのが職務の中でも重要なものになります。
 今回の事例では、校長も教委もその職責を果たすことができなかったということになります。それも、6年間も継続して。どうしてこんなことが起きてしまったのでしょうか。私は、「注意や指導」という点に問題があったと考えています。
 私は、教委勤務時に、指導力不足教員研修を担当し、その後服務事故再発防止研修を担当し、最終的に教員の人事に携わってきました。つまり、多くの「問題教員」といわれる教員たちの問題に関わってきたのです。その経験から言えるのは、「問題教員」と十把一絡げに捉えて対応するのではなく、それぞれの抱える問題に相応しい対応をする必要があるということです。
 今回問題となっている男性教員について言えば、必要だったのは「注意や指導」ではなく、さらに一歩踏み込んだ「処分と指導」であったと考えます。男性教員は自分の行為が、それほど酷いとは考えていなかったのです。だから「まあ、校長も立場上言わなければならないんだろう」「教委も保護者からの苦情には、ちゃんと注意しましたよ、というアリバイが必要なんだな」という程度に理解し、自分の行為も本心部分では校長や教委に受け止められていると考えていたと思われるのです。校長の『指導力のある教諭で、ありがとうと言ってくれる保護者もいた』というコメントが、そうした許容的雰囲気を物語っています。
 これでは、「注意や指導」も全く意味をもちません。パワハラ行為による懲戒処分等をきちんと行い、お灸を据えて、「こんなことを続けていたらクビになるかも」とビビらせてから、諄々と説き聞かせ、言葉だけでなく実際に校長や指導主事が児童場面に立ち会うなど、本気を見せることが必要だったのです。
 指導も処分もともに教員を育てる武器になるのです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

分かったつもり

2019-11-27 08:33:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「畳の上の水練」11月21日
 『生きづらさ 分かち合う』という見出しの記事が掲載されました。『精神疾患や性的マイノリティーなどの当事者4人が、生きづらさを抱える人たちをウェブ上でつなぐポータルサイト「生きづらさJAPAN」』を開設したという記事です。
 その4人のうちの一人である平野氏の言葉に注目させられました。『すべての人の平均や多数派を合わせて作り上げられた「マジョリティー人間」という幻想が社会にあると思うんです。本当はそんな人は存在しないのに』という言葉です。
 全ての教員が心に刻み込むべき一言だと思います。私も大学で教育に関する様々な講義を受け、本を読まされました。また、文科省を初めとする官公庁や大学等の研究機関から子供に関する調査が次々に公表されます。もちろん、そうした情報やデータは貴重です。しかし、そこに描かれている子供像は、平野氏が言うところの「マジョリティー人間」でしかありません。いくらデータや情報を読み込んでも、それは、教員にとって目の前にいる35人の子供を知ったことにも、理解したことにもならないのです。なにしろ、そんな人間は存在しないのですから。
 私は教員の仕事は職人芸だと言い続けてきました。それは、実際に子供と接し、様々な失敗を重ね、その教員なりの子供の見方・理解の仕方を身につけ、一人一人、ケースバイケースで、子供の言動に隠された思いや心情をつかみ取っていくしかない、という意味でもありました。
 職人芸の対極にあるのが、科学でしょう。科学は同じデータを入力すれば同じ結論が得られます。入力されるデータは、数値化された記号です。ある状況における子供の雰囲気や表情、口調などはデータ化できませんが、実はそれらが大事なのです。それらを感じ取ることができるのが教員という職人なのです。
 繰り返しますが、科学も情報もデータも、平均値も多数が示す傾向も、無意味だといっているのではありません。知識としては大切です。しかし、そこで子供理解を止めてしまうのではなく、自分の感性のアンテナの精度を増す努力を積み重ねる事が必要だと言いたいのです。
 畳の上の水練は役に立ちません。溺れることを恐れず、実際に子供という荒海に飛び込んでみることが、教員を育てる唯一の道だと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

間違ったモデル

2019-11-26 08:24:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「間違っているモデル」11月21日
 『教員の負担減思惑先行』という見出しの記事が掲載されました。教員の働き方改革についての記事です。記事の中に『多忙解消策の一環として、法改正と並行し、教員の業務の「仕分け」を進めている』とあり、中教審が示した仕分け案が掲載されています。
 それを見ると、納得できるものもありますが、どう考えても間違いだとしか思えないものもあります。前者の例としては『学校以外が担うべき業務-●放課後や夜間の見回り、児童・生徒が補導された時の対応●地域ボランティアとの連絡調整』があります。
 しかし、これも、誰がどのように担っていくのかを具体的に考えていくと、負担軽減になるか疑問を感じます。補導の場合で言えば、その状況について学校は知る必要がありますし、「担当者」が少年非行について不慣れな者であれば、結局学校が警察に再度連絡をすることになります。保護者が「担当者」の対応に不満をもって学校に相談に来れば対応せざるを得ませんし、「担当者」が教育的に見て誤りのある指導をしてしまったら、学校が指導に乗り出すことになります。また、補導事案がメディアの報ずるところになった場合、その対応まで「担当者」が担うことが可能とも思えません。
 そもそも、その「担当者」がどんなに有能な人物であっても、当該児童・生徒について知らなければ対応のしようがありません。深夜に補導された子供について、夜中に電話で起こされ、子供についての情報提供を求められるのであれば、教員にとって負担解消とはなりません。細部の詰めを綿密にしてほしいものです。
 後者の例としては、『教員の業務だが負担軽減が可能なもの-●授業準備●学習評価や成績処理』があります。そもそもベテラン教員であれば、全く準備なしでも45分なり50分なりの授業を無難に行うことはさほど難しいことではありません。しかし、そんなことを重ねていれば、1か月、1学期というスパンで見たときに、授業の質の低下は隠しきれないレベルになります。それ以前に、授業準備に手を抜こうというような考えの者は教員として失格だと考えるべきです。
 街の個人病院の医師を例に考えればわかります。何の準備もせずに診察室に行っても、大きな問題なく1日を終えることはできるかもしれませんが、そんな日々を続けていては、医師としての技量は低下していくことでしょう。常に、医療関係の資料を詠んだり、学会の出掛け最新情報に触れたりして自己研鑽に励むことが求められていますし、それが医師の良心というものでしょう。教員も同じなのです。授業準備は、軽減を図る対象ではなく、他の業務を軽減して授業準備に専心できる環境整備が必要なのです。
 また、学習評価も軽減対象とされていますが、ここにも評価というものに対する理解不足があります。評価という行為に基づいて次の授業の構想ができるのです。子供が、どういう理解の仕方や考え方をしているか、躓きや誤解している点は何か、それらの原因は指導のどの部分にあるのか、そうしたことを踏まえずに次の授業計画を考えられるはずがないのです。このモデルを考えた人たちは、評価をテストの○付けと同一視しているのではないかと疑いたくなります。
 教員の負担軽減策の作成は、教員の実務をよく知る者の手で行うべきです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体罰に見られる典型的な5つの要素

2019-11-25 08:17:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「十年一日」11月20日
 『小学バレー監督体罰』という見出しの記事が掲載されました。『全国大会に出場経験がある大分県日出町の小学校女子バレーボールチームで、50代の男性監督が、練習中に女子児童に平手打ちや蹴るなどの体罰をしていた』ことを報じる記事です。
 私はこのブログで体罰問題については数十回も取り上げてきました。それなのにまた取り上げることにしたのは、今回の事例があまりにも典型的であり、体罰問題を理解するのに適した事例だからです。
 記事によると、①『県小連は体罰の認定を見送ったが、日小連は隠蔽された疑いもあるとして今月、県小連に再調査を指示した』②『監督は長年指導にあたっており、現在は小学校で教頭も務める』③『別のチームのコーチは、監督が練習中に女児の脇腹を蹴っているのを目撃したと証言』④『県小連が調査に乗り出したころ、一部の保護者が「指導者を関係協会などに訴えない」などとする誓約書を保護者全員に求めた』⑤『(監督は)「私の愛情が伝わってほしかった。子供に許容される範囲だと思った」と話した』とのだそうです。
 まず、①です。加害者に身近で加害者の実績や人柄(熱心な指導者という評価の場合が多い)をよく知る関係者は、加害者に同情的で事を大きくしたがらない、という傾向があります。ぴったり当てはまっています。
 次に②です。ここでのキーワードは、「長年」です。絶対権力は絶対腐敗する、のです。一つのポストを特定の個人が占め続けると、周囲の人は意見を言えなくなり、当初は謙虚だった人も驕慢になり、独裁者と化してしまうのです。こうなってしまうと、自分の思い通りにならない子供にはどんな罰を加えてもよいという思い込みが始まってしまうのです。
 続いて③です。体罰が起きる環境というのは、体罰軽視の風潮が特定の個人だけでなく広く浸潤しているのです。今回体罰があったチームだけでなく、日出地域のバレーボールチームの指導者全般に濃淡の差こそあれ、この程度ならいいか、という意識が蔓延していたのです。だからこそ、変な言い方ですが、安心して堂々と体罰ができるのです。
 そして④です。③とも関連しますが、体罰容認の意識は、多くの場合、保護者の一部にも広がっているのです。今回のケースでも、そうした保護者が加害者を擁護する動きを見せています。チームを強くしてくれた監督に感謝の念を持ち、もし監督がいなくなったらチームや弱体化し、バレーに打ち込んでいる我が子が悲しい思いをする、という論理での行動なのですが、そこには体罰を訴えて監督を追放しようとする保護者こそ加害者であり、悪者であるという倒錯が起きているのです。加害者は、こうした自分への支持を敏感に感じ取っており、それが体罰を正当化する根拠になってしまっているのです。
 最後に⑤です。典型的な「体罰=愛のムチ」論です。もちろん、少しでも罪を軽くするための言い訳なのですが、③や④がこうした言い訳を生む土壌となっているのです。
 体罰を減らすには、①~⑤全てに対する対応が必要なのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無味乾燥

2019-11-24 08:15:46 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「無味乾燥な授業も」11月20日
 『自閉症支援にロボットを』という見出しの記事が掲載されました。国立精神・神経医療研究センター児童・青年期精神保健研究室室長熊崎博一氏へのインタビュー記事です。その中で熊崎氏は、『ASDの人は、変化への対応がうまくできないことや、人とのコミュニケーションに苦手意識を持っていることがあります。ロボットは感情的反応が少なく、動きが一定で安定感があります』と語っていらっしゃいます。
 要するに、ASD(自閉スペクトラム症)の人にとっては、生の人間に、それも表情豊かに働きかけられるよりも、ロボットと交流する方が負担が少なく、コミュニケーションも容易だということです。熊崎氏は、医師ですので治療に使っていらっしゃるわけですが、コミュニケーションという点で考えれば、教育においても同様な効果があると言えるのではないでしょうか。
 あえて悪意のある言い方をすれば、機械的な、無味乾燥な働きかけの方が、ASDの子供には良いということです。私はこのブログで、教員のあり方、授業のあり方について数多く論じてきました。そうした教員論や授業論を基に、学校改革についてもいくつもの主張をしてきました。その際、授業は生の教員と生の子供たちとの触れ合いであるという立場で発言してきたのです。だからこそ、義務教育段階におけるビデオによる遠隔授業に反対し、教員の仕事は職人芸だと書き、介護など人と触れ合う職から学ぶことが多いとしてきしてきたのです。
 しかし、人と人との触れ合いや交流に不可欠だと考えてきた感情が、マイナスに作用する場合もあるということになると、今までの主張を見直さなければならなくなるのではないか、と考えてしまったのです。高校時代の世界史の教員は、私たち生徒の方を見ずに、黒板の隅から隅まで板書をし、書き終わると消してもう1回墨から墨まで書いて50分の授業を終える人でした。そんな教員が、授業が、良いケースもあるということなのでしょうか。
 そういえば、その教員の授業には、妙な安心感がありました。指名されることもなければ、ノートを取っているか確かめられることもなく、ボーッとしていても何も言われないのですから。それでも受験校であったにもかかわらず、生徒からも保護者からも苦情が出なかった(受験でそれなりの点数を取ることができていたということ)のですから、授業として成立していたのだとすれば、………。
 無味乾燥の利点、あまり考えたくはないのですが、考えてみる必要があるのかもしれません。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英語の達人

2019-11-23 07:43:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「達人」11月19日
 『「セクシー」は「長続きして」の意』という見出しの記事が掲載されました。小泉環境相が、自身の「セクシーに取り組む」発言について語ったという記事です。記事によると、『長続きしてみんなが取り組めるように、良い仕組みを入れていく思い』が真意なのだそうです。また、『我慢ばかり。それだけじゃだめだ』とも話されたそうです。
 そして小泉氏は、具体例として『水道水の利用促進を挙げ「コストがミネラルウオーターの100分の1。そしておいしい。将来は銀座や渋谷の交差点に観光地になるような水飲み場が作られ、マイボトルで水を入れたりすると良い」』と語ったそうです。
 よく理解できたでしょうか。実は私は、「セクシー」発言について、何となく分かったようなつもりでいました。しかし、今回の記事を読んで、かえって分からなくなりました。小泉氏は、アメリカに留学経験があり、英語力には自信をもっているそうです。通訳を入れず外国要人と話すことも多いと言われています。英語の「達人」なのでしょう。
 今、文科省は英語教育の充実を進めていますが、そこでイメージされている「英語を使いこなせる人」とは、セクシーの意味するところを正しく感じ取り、適切に使える人なのでしょうか。小泉氏の「セクシー」発言については、野党の国会議員もよく理解できなかったようです。野党議員の質問に対して閣議決定した答弁書でも、『文脈によって意味するところが異なる』とされ、高偏差値のエリート官僚や、大臣のみなさんでも明確には説明できなかったようです。普通の国民に、東大卒のエリート官僚以上の英語力を求めるのでしょうか。
 随分皮肉な書き方をしてしまいましたが、政治家の言葉遣いを揶揄するつもりではありません。言語には長年の文化の積み重ねが反映されており、ある言語のある言葉はその基盤になる文化を知識として理解するレベルではなく、感じ取り体に染み込ませるレベルでないと使いこなせないことがあるということを言いたいのです。「セクシー」もその一つでしょう。
 私はこのブログで、英語教育拡充論議に欠けているのは、どのレベルの英語力を目指すのか、それは全ての国民に求めるものなのか一部の「希望者」だけでよいのか、を明確にすることだと言い続けてきました。その具体的な例として、「セクシー」を使いこなせる英語力を目指すのか否か、識者に議論してもらいたいと思いますが。どうでしょうか。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常識の範囲内、が難しい

2019-11-22 08:44:14 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ではどうする」11月18日
 『働く服装まだ不自由』という見出しの記事が掲載されました。連合が行った『職場での服装や身だしなみに関する規定について、労働者に対するアンケート調査』の結果を報じる記事です。記事によると、『約6割が「決まりがある」と答え~』『「男性はピアスをしてはならない」「女性は化粧をしなければならない」などの選択肢を示したところ、それぞれ2~3割について「ある」との回答』、『また自由記述では、髪の色について「男性は黒、女性は派手でない茶」』などの具体例が挙げられていました。
 男女で異なる規定が女性差別に当たるという指摘は当然です。しかし一方で、こうした服装等に関する規定がすべて悪なのかという点については、もう少し議論が必要だろ思います。記事の見出しからは、規定があること自体が望ましくないと言っていると誤解されかねないと感じました。
 かつて、教員の服装については、多くの批判がありました。ジャージで出勤する教員がいたり、夏にはサンダル履きの教員がいたりして、社会人として非常識だと言われたのです。学校の常識は世間の非常識、の代表例として。
 また、話は少し堅苦しくなりますが、教員を含めた公務員には、信用失墜行為を禁止する規定があります。私の感覚では、髪を緑のモヒカン刈りにし、いくつものピアスをつけ、髑髏マークのTシャツに短パンで出勤してくる男性教員がいれば、それは教職に対する信用を失墜する行為であると注意・指導したいと思います。
 服装等はすべて個人の自由ということになれば、そうした指導はできなくなります。それで何も不都合が生じないのであれば構いませんが、実際には、保護者や市民から苦情が来るでしょうし、議会等でも問題にされる可能性が高いと思います。そうした声に対して、何も手が打てない校長や教委は無能という批判にさらされ、教育行政全般に対する不信感を醸成することになる危険性が高いと、私は考えます。
 当然のことながら、子供に対する指導についても、ピアスもタトゥーも、化粧も金髪も注意できないことになります。「先生だってやってるじゃん」の一言に、大人はいいんだというのでは、説得力はありません。
 教員の服装の在り方については、丁寧な議論が必要だと考えます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それは問題ではない

2019-11-21 08:55:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それは違う」11月16日
 『教諭いじめ野放し』という見出しの特集記事が掲載されました。神戸市立小学校で起こった教員間の暴行事件に関する分析記事です。記事では長期化の背景として、『学校や市教委のハラスメントに対する認識の甘さや組織風土の問題が挙げられる』としています。
 当然、そうであろうと思います。しかし、記事の中にあった『9月の報告書で、校長が「自らが最後の砦」と認識する傾向があり、「市教委の支援や指導に頼らない風土を生んでいる」と指摘した』という記述には納得がいきません。校長が、最後の砦という意識をもつのは当然ですし、悪いことではありません。私が教委勤務中に接した校長の多くは、最後の砦意識をもっていましたし、私自身指導室長としてそうした意識をもつように指導してきました。
 校長は学校で唯一の意思決定者です。学校教育法に規定されていますし、同法に基づいて各教委で定められる学校管理規則においてもそのことは明確です。記事では上記の記述に続き、『重大な問題や情報を矮小化し、結果的に事態を悪化させた』と、最後の砦意識を悪者扱いしていますが、おかしな話です。
 企業でも、支店長は支社長は、支店なり支社なりについて、自分が全責任を負って事に当たるという決意であるはずですし、本社もそれを求めているはずです。いちいち本社の指示を仰がなければ何も決定できない支店長など、管理職失格の烙印を押されるでしょう。
 また、学校改革論議において、校長のあり方について、経営者としての自覚と権限の拡充を求めてきたのは、メディアを含めて世論であったはずです。何でも教委にお伺いを立てるような校長は責任感に欠け判断力が不足していると批判の的だったのです。
 組織というものは、それぞれの段階における「長」が、自らの権限を正確に理解し、その範囲においてはトップの自覚をもって決断実行し、自らの決断によって生じた事態については責任を取るという原理で動いているものです。大切なのは、ある事態の処理が自らの権限の範囲内か否かを見極める能力なのです。神戸市の事件で問題なのは、最後の砦意識ではなく、どんな状況のとき教委に指導や支援を仰ぐかという判断が間違っていたことなのです。
 そしてその原因は、多くの場合、校長側ではなく、教委側にあるのです。校長からすれば、問題となるし対が発生したとき教委に報告すると、自分の不手際を責められ人事などで不利益を被ると考えれば、報告を躊躇うのは人間として当然です。もちろん、褒められたことではありませんが。
 一方、学校という、教職員と子供、さらに保護者まで広げれば数百人の関係者がいる組織においては、いくつかの問題が発生するのは当然であり、そのことをもって校長を責めるのではなく、その対応に当たっていかに迅速且つ適切な行動を取ることができるか否かによって校長を評価するという教委の姿勢が明確であれば、校長は報告を躊躇うことはありません。
 私は校長会などで、いじめや体罰などが起きたことをもって校長を評価することはない、適切な対応を見せていただければむしろその対応力を高く評価したいという趣旨の話をし続けました。人は失敗から学ぶのです。問題が起きてそれに対応し解決した経験は校長を強くする、そうした考え方を広く共有できれば、神戸市教委のような醜態はさらさずに済むのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする