「6年間は」5月22日
『人生の目標 正しく選ぼう』というという見出しの記事が掲載されました。前回に引き続き、マルテラ氏へのインタビュー記事です。またまた良い言葉を紡ぎ出してくれています。『「我々がやりがちな間違いは、人生をプロジェクトとしてみることです」。プロジェクトは、大きな目標を定め計画を立て、ひたすら努力する。人生をプロジェクトとしてとらえると、人生の価値はプロジェクトが成功するかどうかで決まってしまう。マルテラ氏はこう続けた。「人生はむしろ物語とみるべきなのです」。良い体験も悪い体験も物語の一部。プロジェクトも、あくまでも物語の躍動感を高めるためのものなのだ』と。
とても考えさせられました。まず、マルテラ氏が言う「人生」とは何なのか、という疑問についてです。生まれてから死ぬまで、という意味なのでしょうか。もしそうであるならば、人生全体は物語だが、人生のある時期を切り取って考えたとき、それはプロジェクトであるという考え方が成り立ちます。
なぜそんなことに拘っているかというと、学校教育はプロジェクト型だからです。目標があり、それを達成するために意図的、計画的に営まれるものなのですから。俗な言い方をすれば、掛け算九九も覚えさせずに小学校を卒業させることは、プロジェクトに失敗ということです。
もし、マルテラ氏が人生のどの時期を切り取ってみてもプロジェクトではなく物語であるべきだというのであれば、学校教育は幸せをもたらさないシステムであるということになってしまいます。
あるいはこんな解釈もできます。人生は物語だが、ある部分はプロジェクトだという解釈です。人生100年の中で小学校時代も当然物語だが、小学校時代にも、家庭での生活、地域での生活があり、意図的な教育の場ではない家庭や地域における生活が物語であれば、生活の一部に過ぎない学校がプロジェクトであっても構わないという考え方です。この考え方を採用すれば、学校は幸せな場ではないが必要悪として、存在する意味があるということになります。必要のしろ「悪」というのは少し寂しい気がしますが、完全に否定されるよりはましという気がします。
地域や民族が異なっても、学校というシステムはいつの時代もどこの文明でも、その原型をみることができます。つまり、人類にとって学校は不可欠なものなのだと思います。そして、学校と名がつくものは、ほとんどがプロジェクト型のシステムになっています。しかし、その学校が幸せをもたらさないものであったり、必要「悪」であったりするというのは、納得がいかないのです。それとも私が不勉強なだけで物語型の学校が世界には存在するのでしょうか。
おかしなことを考えてしまいました。