ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

学校の原型

2011-05-31 08:14:00 | Weblog
「学校の原型」5月27日
 東京外語大学の学生酒井友花里氏が、『バングラディシュの学生たちはいま』というコラムを書かれていました。酒井氏によると、バングラディシュは日本以上の学歴社会だということで、最難関のダッカ大学の学生に対しては、町の人の視線も変わるのだそうです。そうした逸話も興味深いのですが、最も印象に残ったのは、酒井氏が、小中高の児童生徒に話を聞いているところです。
 『「学校生活の思い出は?」という質問に、何人もの学生が明るい顔でこう答えるのだ。「特に何もないよ」と。彼らにとって学校は「高得点を取るために授業を受ける場」に過ぎない。部活、行事、人間関係と、充実した時間そのものを学校に求める日本。学校に望むものがそもそも異なる』という内容です。そして、酒井氏はこのコラムを、『複雑な社会にぼんやりと光る「高得点→高学歴→高収入」という構図。一人一人の個性さえもそぎ落としたそのシンプルさが、人々に希望を与えていた』と結んでいました。
 まさに、バングラディシュの学校に、学校というものの原型を見た思いです。わが国においても、明治初期に学制が定められたときの学校という存在は、バングラディシュに近いものでした。貧しい家の子供でも、家族や士族の子供でなくても、「勉強」を頑張ることによって立身出世を夢見ることができるという「希望」の宿る場所だったのです。もちろん、男女差別を初めとする差別はありました。経済的理由で学業を断念しなければならないケースもありました。そうではあっても、そこは学力という万人共通の物差しで勝負することが許される別世界だったのです。
 時代は移り変わり、今、学校は学力以外の様々な物差しで評価が行われる場所になりました。もちろん、それにはよい面もありましたが、弊害も少なくなかったように思います。
 本来ならば、人見知りで人間関係づくりが苦手な子供でも勉強を頑張ることで認められ自分の存在価値を確かめることができるはずだったのが、通知票には「お友達が少ないのが気掛かりです」と書かれてしまいますし、「体を動かして遊ぶようにしましょう」「リーダーとしての活躍を期待しています」「音楽や図工も心を豊かにするものですか、もっと興味をもつようにしましょう」など、次から次へと苦手な課題を押し付けられ、ホッとする間が持てなくなってしまうのです。
また、いじめや不登校などの学校不適応問題の多くは、部活や行事、係活動や委員会活動といった授業以外の場で原因が生じます。新しいことを知るのは好き、勉強だけして帰るのなら学校は楽しいところなのに、と考えている子供は少なくありません。
 さらに、学校に多くの機能を望み求めてきたことにより、家庭が担うべき教育機能が低下し、箸の持ち方やぞうきんの絞り方、洋服のたたみ方まで「学校でお願いします」となってしまっています。
 学校とは何か、このシンプルな問いについて、改めて考えてみることは無駄ではないと思います。
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知っているようで知らない

2011-05-30 06:44:03 | Weblog
「知ったかぶり」5月27日
 放送作家の山名宏和氏が、「乱調テレビ用語」で、バラエティーとドラマのスタッフの違いについて書いています。細かな違いについては省略しますが、山名氏はこのコラムを、『今回紹介したドラマスタッフの詳しい仕事内容は、実は僕も最近知った。それぐらい同じテレビ番組でもバラエティーとドラマでは世界が違うのだ』と結んでいます。
 私のような門外漢からみれば、なんとなくテレビ局の人たちはお互いの仕事のことをよく知っていると思ってしまいます。テレビ業界、業界人というような言い方があるくらいなのですから。また、私は、バラエティー番組の公開放送を何回か見に行ったことがあります。私自身が討論番組やインタビュー番組に出演したこともあります。そうした際の経験から、テレビ業界人をイメージしてもいました。しかし実際には、山名氏のように放送作家として長年テレビに関わってきた人でさえ、自分が関わってこなかった分野については知らなかったのです。
 同じことは、教育界についても言えるのです。小学校の教員は中学校の教員のことを分かってはいませんし、同じ小学校の教員でも、学級担任は養護教員や専科の教員のことをよく知りません。特別支援教育の担当教員のこともよく分からないというのが現状です。そして教員は副校長や校長といった管理職の仕事も苦労も理解できていないのです。さらに、教員も校長などの管理職も、教委の仕組みや職務については疎いですし、教委内部においても、教育課程や学習指導、教員研修などの指導行政の担当者は人事行政には疎いものです。
 ですから、教育現場の声といっても、それはごく一部の声である可能性が高いのです。そんな中、唯一学校現場全体を広く浅く理解しているのが、教員出身で指導主事を経てきた「指導課長」というポストのある人たちなのです。手前味噌のようで恐縮ですが、私もそのポストの経験者です。
 「指導課長」は、教員でしたし、教委に勤務したとき、小中すべての学校を担当します。そして、校長や副校長はもちろん、主幹クラスから初任者まで、養護教員や専科教員すべてと関わりをもちます。そして、「指導課長」になれば、人事行政と指導行政の双方を管轄します。
 私自身の経験で言えば、区教委の6年間の指導主事時代には、小中の初任者、生活指導主任、教務主任、副校長、校長、特別支援教員のすべてを担当しました。都教委勤務時代には、指導力不足教員や服務事故を起こした教員にも関わりました。
 学校現場の声を吸い上げ教育施策に生かすためには、今は校長として現場にいる、こうした「指導課長」経験者を活用することが有効だと思います。彼らの知見は教育改革の宝だと思います。

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初等教育

2011-05-29 08:02:35 | Weblog
「初等教育」5月23日
 「大学NOW」欄で、明治学院大学心理学部教育発達学科の取り組みが紹介されていました。その中に気になる部分がありました。『学科の設置にあたっては、従来の大学の教育学部が中学・高校の教科教育に重点を置くケースが少なくないことから、初等教育に照準を定め、差別化を図りたい思惑もあった』という部分です。
 同学科の『学校現場で役立つように実践を重視する』『どの授業も現場を想定していて勉強になる』という在り方には賛成ですが、上記の『 』部分については疑問を感じてしまうのです。
 それは、「従来の大学の教育学部が中学・高校の教科教育に重点を置く」という部分なのです。私はどうしてもそうは思えないのです。失礼な言い方ですが、そうした認識自体が間違っていると思うのです。私流に言えば、従来の大学の教育学部は、「中学・高校の教科の土台となる親学問を学ばせることに重点を置く」であったとしか思えないのです。
 日本史についての知見を深めることと社会科の授業を行う能力との間にはあまり関係がありません。日本文学についての知見を深めることと国語科の授業を行う能力との間にもあまり関係がありません。そして、絵画や造型についての優れた技量を身に付けることと図画工作・美術科の授業を行う能力との間にもあまり関係がありませんし、ピアノの演奏力と音楽科の授業を行う能力との間にもあまり関係がありません。
私は、従来の大学の教育学部が、各教科の授業についての学びを軽視してきたと考えているのです。それは、教員は授業をする人、教えることの専門家であるということの否定であり、教員の資質低下、学校教育への不信感醸成などにつながり、学校教育における様々な問題の元凶であるとさえ思っているのです。
 初等教育においては、中学・高校以上に、「親学問」よりも「教える技術」が重要となります。ですから、初等教育に特化し「差別化」を図るのであれば、「教える技術」に重点を置いた教員養成に取り組むべきであると思うのです。
 教員はカウンセラーとは違いますし、マンツーマンが基本である家庭教師とも違います。理想はどうあれ、少なくとも今後10年以上の間、一人の教員が大勢の子供を動かして授業をする形態が変わることはありません。そして、学校生活の大半を占める授業の充実なしに子供たちの学校生活が実りあるものになることはありません。教員ならば誰でも知っていることですが、授業の下手な教員、自分を伸ばしてくれない教員に子供が心を開き、敬意を抱くことはありません。
 同学科の目指す『子供に寄り添う教員の育成』とは、授業の巧みな教員の育成と重ならなければならないのではないでしょうか。
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タフな子供を

2011-05-28 07:04:45 | Weblog
「真実は」5月21日
 演出家テリー伊藤氏が、震災後のテレビ放送の在り方についてコラムを書かれていました。その中で伊藤氏は、『人は生きていれば、苦しいことや辛いことだらけ。そういうことが分かっていれば、苦しいときでも何かをつかんだり学んだりできる。しかし、「人生とはハッピーなもの」「テレビはいつも楽しいもの」ということだけを求めていると、苦しいことを異物と感じ、がまんするのが難しくなってしまう』と書いています。
 確かにそう思います。長く生きるほど、そうした人生の真理を感じることができるように思います。しかし、現在の学校教育においては、こうした「真理」が無視されていると思わざるを得ません。
 「楽しい学校」という考え方はあっても、「苦しさに耐える学校」という発想はありません。そんなことを口にしようものなら、頭がおかしくなったのか、と言われかねません。楽しい授業、面白い授業が重視されることはあっても、「楽しくないけれども必要なことを身に付ける授業」「退屈な繰り返しを我慢して知識や技能をたたき込む授業」という考え方は否定されてしまいます。
 そして、退屈さや単調さに耐えることができない子供が悪いのではなく、そんな学習を強いる教員が非難されるのです。学習だけでなく、学校生活や友達関係、教員との関係においても苦しさ辛さを我慢することは無用なこととされているのです。
 もちろん、こうした状況に至ったのには理由があります。一言で言えば、それまでの学校教育に対する反動ということでしょう。教育という営みにとって大事なのは、中庸ということですから、行き過ぎを正す動きは意味のあることです。しかし、是正が行き過ぎれば、新たな偏りが生じます。苦しさや辛さを排した教育からはひ弱な子供が育ってしまいます。
 特色ある学校づくりが進められています。「辛さに耐えるタフな子供を育てる」という方針の学校があれば、注目を集めると思うのですが。

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官製研修の限界

2011-05-27 07:56:18 | Weblog
「官製研修」5月21日
 東レ経営研究所特別顧問の佐々木常夫氏が、『「知る」と「識る」は違う』という標題でコラムを書かれていました。その中で佐々木氏は、『仕事は知識をもっているだけでは良い結果が出ない』とし、『私は研修などの開講のあいさつで、「このような研修を受講しても何の役にも立ちませんよ。ただ皆さんの中で10人に1人か2人、この研修で学んだことを職場で実践する人がいます。そういう人のためにこの研修を開いているのです」と言うことがある』と書いています。
さらに、『「いい話を聞いた」「いい本を読んだ」「いい映画を見た」など、ただそれだけでそのことを自分の行動に落とし込まない知識をいくら積み重ねても何の役にも立たないと思う』とも書いています。同感です。私自身、教委に勤務し、様々な研修会を企画してきました。そのとき、佐々木氏と同じことを感じたものです。義務として研修会に参加し、ひたすら時間が過ぎるのを待っている人が6割、「よかった」「つまらない」など感想をもって帰途につく人が3割という感じでした。
 また、私自身が教員であったときのことを思い返してみても、教委主催の研修会で学んだことはほとんどありませんでした。私の教員としての骨格をつくったのは、区の社会科研究会での教材研究・指導法研究、自主的に参加していた社会科勉強会での研究でした。いずれも、自らの問題意識に基づいた研究、教わるのではなく創り上げる研究でした。自分一人で取り組むのではなく、刺激し合う仲間や助言を与えてくれる有能な先輩がいました。
 教員の資質向上についての議論では、必ず「研修」の重要性が指摘されます。それは間違いではありません。しかし、初任者、主任など経験や年齢、校務分掌に基づいて機械的に参加を強制する研修会、大勢で講師の話を聞いたり、同じレベルの教員が小グループで話し合ったりするような研修、一度限りで継続性のない研修の効果は薄いものです。佐々木氏流に言えば、「自分の行動に落とし込んでいない」のです。
 教員は日々の授業で勝負します。日々の授業にこそ、悩み、問題意識を抱えています。の授業を計画し、記録し、分析し、それをもちよって仲間と議論し、先輩のアドバイスを受け、それらを基にまた授業を計画し、という主体的な研究を継続することが大切なのです。教員の資質向上を考えるならば、教委の関係者はそうした取り組みの機会を設けることを考えていかなければなりません。

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支援者

2011-05-26 08:17:07 | Weblog
「支援者」5月20日
 jリーグ京都のコーチである森岡隆三氏が、「指導者はサポーター」という標題でコラムを書かれていました。その中で森岡氏は、『選手にものを伝える立場にいる指導者は何にあたるのだろうか。師匠?親方?先生?カテゴリーや監督とコーチの違いもあるだろうが、どちらかというと、という前置きがついた上で、私の頭に浮かんできた言葉がある。それは「サポーター」だ』と書いていました。
 森岡氏の言葉に反論する気はありません。おそらく森岡氏の経験に基づく実感だと思うからです。しかしそれはあくまでも、jリーグのコーチという立場での話です。
 「サポーター」とは支援者です。ゆとり教育が導入された頃、教員の役割について、「指導者ではなく支援者」という言い方が流行りました。子供の意志に反して何かを強制するというニュアンスが強い「指導」ではなく、子供の興味・関心を尊重し、子供の主体的な学びを温かく見守る「支援」が大切であるという考え方でした。厳密に言えば間違いではないのですが、こうした考え方が誤解され、「指導」はいけないことという発想で、子供を放置してしまう教員が少なくありませんでした。その方が楽だということ、自分の無能が目立たないということもそうした傾向を後押ししました。
 しかし、一般の子供とjリーグの選手とは違います。前者は未熟な存在ですが、後者は天才の集団です。全国のサッカー少年のうちjリーグに所属できるのは1/100にも満たないのですから、天才と呼んでもおかしくありません。さらに、子供は学校で様々なことを学びますが、その中で興味・関心をもつことができるのはごく一部です。一方、jリーグの選手は、サッカーに対して強烈な興味・関心をもっています。
 このように、まったく異なる集団におけるコーチ(指導者)は、その役割がまったく異なるのが当然です。子供の能力資質を過大評価したとき、支援者という発想が力をもったのです。学校教育は、架空の、理論上の子供像に基づくのではなく、実際に目の前にいる子供を見つめて行われなくてはなりません。子供を未熟な存在と見ることは、子供に対して失礼なことではありませんし、人権侵害でもありません。そうではなく、分からずにいる子供、できずにいる子供を「支援」の名の下に放置していることこそが、人権侵害なのです。
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我も人なり

2011-05-25 07:56:35 | Weblog
「属性」5月18日
 群馬大学講師の井上彰氏が、「決死の作業は正当か」という標題でコラムを書かれていました。その中で井上氏は、東電や関連会社、自衛隊・警察・消防の人々が命がけの作業をしていることについて、『任務を果たすように求めることを道徳的に正当化ものとは一体何か~(中略)~しかし、彼らは東京電力や関連・協力会社の社員である以前に、われわれと変わらぬ一般市民である。彼らにもわれわれと同様、家族もいれば交友関係もある。そうしたさまざまな属性を一顧だにせず、「東京電力との密接な関わり」という属性だけで熾烈極まる作業にあたる責任を当然視するのは、あまりにも暴力的である』と書いています。
 まったく同感です。ただし、「当然視」する人たちの多くが、冷酷な人であったり共感性を欠く人であるというわけではないと思います。おそらく、作業にあたっている人の話を聞けば「辛いだろう、ありがとう」という気持ちになるのでしょうし、彼らの家族の不安な心情に触れれば思わず涙することでしょう。しかし、「東電・関連会社・自衛隊・警察・消防」という一般名詞を聞かされたとき、一人一人の顔や生活、取り巻く人々の姿が消えてしまうのです。
 私は、教員聖職論に反対してきました。それは、聖職という言葉の中に、無限の自己犠牲を強要する響きを感じるからです。勤務時間にとらわれずに子供のために深夜まで自分の家族を犠牲にしてでも走り回るのが教員の務めであり、子供が溺れていたらたとえ「金槌」であっても飛び込むのが教員というものであり、貧しい家の子供には自腹を切って食事と摂らせるのが当然であるというような見方です。
 より現実的にいえば、保護者がどんな理不尽な要求を突きつけてきても拒んだり反論してはいけない、暴力を振るう子供がいても反撃したり警察に「売り渡したり」してはいけない、というような考え方です。実際、先日、教員が保護者を訴えるという事件が報じられたとき、「親を訴える教員がいるなんて世も末だ」というような意見が見られたものでした。
 教員にも、家族や友人など大切な人がおり、私生活があります。老親の衰えに心を痛め、我が子の受験や就職に心が揺れ、愛する人との出会いに心をときめかせるものであり、それは許されなければなりません。そもそも、豊かな私生活をもっている人の方が教員に相応しいはずです。
 教員にまつわる諸制度について論じるとき、生身の人間としての教員像に基づいてほしいものです。
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教員がすること

2011-05-24 07:15:19 | Weblog
「教員の役割」5月17日
 西部報道部の河津啓介氏が、「記者の目」で、『原発事故で子供の屋外活動制限』という標題で書かれていました。内容はともかく、私がこの署名記事で注目したのは、学校のことを取り上げているにもかかわらず、教員が一切登場しないことでした。
 『同省(文部科学省)担当者や被ばく医療の専門家が「基準を超えても現状では健康に影響はない」と繰り返したが、会場には冷ややかな空気が漂っていた』『「福島の子は多少の火の粉がかかっても仕方ないということか」と説明会で声を荒げた保護者』など、登場するのは、役人、原発関係の専門家、保護者、政府や学校という組織だけが登場するのです。
 河津氏が、子供が校庭で遊ぶことができず、土いじりもダメという状況で教員は何をすべきだと考えているのかはよく分かりません。しかし、私はこうしたとき、教員がなすべきことは、保護者と一緒になって行政を突き上げることでもなければ、職員会議で校長をつるし上げることでもないと考えています。それは、保護者の思いを無視しろということではありません。
 目の前に子供がいて、毎日学校に通ってくるのです。そして、望ましい環境でないからといって、教育活動を中止するわけにはいかないのです。そこで嘆いたり、愚痴ったりしているのではなく、教育の専門家として、与えられた条件の中で最善の方法を工夫し、子供のためにベストを尽くすことが教員の役割なのです。
 外遊びができないストレスを軽減する遊びの工夫は、体育館でも十分な運動量を確保する体育の授業の在り方は、と知恵を絞るのが教員の役割なのです。以前、大風呂敷を広げて目の前の子供を見ないのは教員ではないということを書きました。福島の教員の皆さんには、今こそ地に足のついた取り組み、専門家の知恵が感じられる工夫で責任を果たすことを期待したいものです。

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独占インタビュー

2011-05-23 07:45:26 | Weblog
「独占インタビュー」5月17日
 「赤坂電視台」で、タレントの松嶋尚美さんが「ザ・今夜はヒストリー」という番組について書かれていました。その中で松嶋さんは、『この番組は、歴史的事件が起こった日にタイムスリップして、事件をワイドショー風に紹介していくバラエティー。「関ヶ原の戦い」を取り上げた時は、合戦現場からのまさかの生中継や石田三成への独占インタビューがありました』と書いています。
 松嶋さんは、その発想の斬新さをアピールしたかったのかもしれません。でも、私は「テレビマンって、この程度のアイデアしかないのか」という思いがしてなりませんでした。
 歴史上の人物にある場面を設定してインタビューするというのは、実は小学校の社会科では最も一般的な指導法の一つなのです。私もたくさん使ってきました。
 「長篠の戦い」で、織田信長に語らせたり、蘇我入鹿暗殺の場面で入鹿と中大兄皇子のどちらかを選ばせて語らせたり、慶安の御触書を読んでいる農民につぶやかせたりという場面設定をし、子供たちにそれまでの学習を基に考えさせるというような手法です。
 教育について詳しくない「有識者」とされる人たちが、「年号や人物名を暗記するだけの歴史教育」というような紋切り型の批判をしますが、そんなことはないのです。少なくとも、バラエティー番組のプロデューサー並みの創造力を発揮して、子供たちの興味関心を高め、考えさせ、表現させる授業を工夫しているのです。
 私は授業が下手な教員でした。そんな私でも、インタビュー形式以外に、歴史新聞、歴史双六、人物相関図、紙芝居など、様々な考えさせ表現させる工夫をしていましたし、その他に当時の農作業を体験させたり、NHKの大河ドラマを教材にしたりといった工夫をしてきました。
 教員が考えさせる授業のために様々な工夫をしていることをもっと多くの人に知ってもらいたいものです。

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高望み

2011-05-22 08:03:32 | Weblog
「改革のためには」5月16日
 ニュース争論『大相撲八百長、根絶できるか』という対談の中で、スポーツライターの二宮清純氏が次のようなことを話していました。『再発防止には「アメとムチ」が必要だ。罰則強化はムチとなり、抑止力が働くだろう。一方のアメが抜け落ちている』という指摘です。
 当たり前の指摘だと思います。しかし、二宮氏の主張が実現するのは難しいと思います。二宮氏は、『月給100万円の十両に対し、幕下は本場所手当はあるが無給。家族を持った力士がその格差を前にした時、八百長の誘惑に耐えられるか』と話しています。要するに、幕下力士にも30万円か40万円くらいの月給を保証するようにすべきだということでしょう。こうした意見には、八百長という不祥事をおこしながら給与が増えるというのでは泥棒に追い銭、焼け太りだ、という批判が予想されるからです。潔癖を好む日本人の多くは、悪事を働いたものには厳しい罰を与えるべきだと考えがちです。ですから、ムチへの共感は得られても、アメへの共感は得られないのです。
 学校の教員の待遇についても、同じ構造が見られます。私は、様々な服務事故を起こした教員に接してきました。のぞきで逮捕された者、自宅近くの工事がうるさいと怒鳴り込んで訴えられた者、泥酔して他人の家の庭に入り込んで検察に突き出された者、みんな免職になりました。教員失格です。とんでもない人間です。私も怒りを覚えました。同じ教職を経験した者として、一般の人よりも怒りは強く深かったように思います。しかし、同時に彼らの事件の陰には、そこまでの大事には至らず表面化しなかった小さなトラブルがたくさん隠れているように思います。そしてその背景には、教員の多忙化、モンスターペアレントという言葉に代表される保護者の変化、成果主義がもたらすプレッシャーなど、かつての牧歌的な時代とは異なる学校を取り巻く環境の変化があると思います。
 こうした状況を改善しない限り、いくら教員を叱咤激励し、管理監督を強め、研修を強化しても、同じような事件はなくならないでしょう。やはり、「アメ」が必要なのです。しかし、そうした主張は、大相撲の場合と同じように、共感は得られず、「甘い!」という非難にさらされることになるのです。
 私は、給与を上げろと言っているのではありません。以前も述べたとおり、教員としてのアイデンティティー、授業の専門家としての誇りを与えられるということだけを望んでいるのですが、高望みなのでしょうか。

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