「学校の原型」5月27日
東京外語大学の学生酒井友花里氏が、『バングラディシュの学生たちはいま』というコラムを書かれていました。酒井氏によると、バングラディシュは日本以上の学歴社会だということで、最難関のダッカ大学の学生に対しては、町の人の視線も変わるのだそうです。そうした逸話も興味深いのですが、最も印象に残ったのは、酒井氏が、小中高の児童生徒に話を聞いているところです。
『「学校生活の思い出は?」という質問に、何人もの学生が明るい顔でこう答えるのだ。「特に何もないよ」と。彼らにとって学校は「高得点を取るために授業を受ける場」に過ぎない。部活、行事、人間関係と、充実した時間そのものを学校に求める日本。学校に望むものがそもそも異なる』という内容です。そして、酒井氏はこのコラムを、『複雑な社会にぼんやりと光る「高得点→高学歴→高収入」という構図。一人一人の個性さえもそぎ落としたそのシンプルさが、人々に希望を与えていた』と結んでいました。
まさに、バングラディシュの学校に、学校というものの原型を見た思いです。わが国においても、明治初期に学制が定められたときの学校という存在は、バングラディシュに近いものでした。貧しい家の子供でも、家族や士族の子供でなくても、「勉強」を頑張ることによって立身出世を夢見ることができるという「希望」の宿る場所だったのです。もちろん、男女差別を初めとする差別はありました。経済的理由で学業を断念しなければならないケースもありました。そうではあっても、そこは学力という万人共通の物差しで勝負することが許される別世界だったのです。
時代は移り変わり、今、学校は学力以外の様々な物差しで評価が行われる場所になりました。もちろん、それにはよい面もありましたが、弊害も少なくなかったように思います。
本来ならば、人見知りで人間関係づくりが苦手な子供でも勉強を頑張ることで認められ自分の存在価値を確かめることができるはずだったのが、通知票には「お友達が少ないのが気掛かりです」と書かれてしまいますし、「体を動かして遊ぶようにしましょう」「リーダーとしての活躍を期待しています」「音楽や図工も心を豊かにするものですか、もっと興味をもつようにしましょう」など、次から次へと苦手な課題を押し付けられ、ホッとする間が持てなくなってしまうのです。
また、いじめや不登校などの学校不適応問題の多くは、部活や行事、係活動や委員会活動といった授業以外の場で原因が生じます。新しいことを知るのは好き、勉強だけして帰るのなら学校は楽しいところなのに、と考えている子供は少なくありません。
さらに、学校に多くの機能を望み求めてきたことにより、家庭が担うべき教育機能が低下し、箸の持ち方やぞうきんの絞り方、洋服のたたみ方まで「学校でお願いします」となってしまっています。
学校とは何か、このシンプルな問いについて、改めて考えてみることは無駄ではないと思います。
東京外語大学の学生酒井友花里氏が、『バングラディシュの学生たちはいま』というコラムを書かれていました。酒井氏によると、バングラディシュは日本以上の学歴社会だということで、最難関のダッカ大学の学生に対しては、町の人の視線も変わるのだそうです。そうした逸話も興味深いのですが、最も印象に残ったのは、酒井氏が、小中高の児童生徒に話を聞いているところです。
『「学校生活の思い出は?」という質問に、何人もの学生が明るい顔でこう答えるのだ。「特に何もないよ」と。彼らにとって学校は「高得点を取るために授業を受ける場」に過ぎない。部活、行事、人間関係と、充実した時間そのものを学校に求める日本。学校に望むものがそもそも異なる』という内容です。そして、酒井氏はこのコラムを、『複雑な社会にぼんやりと光る「高得点→高学歴→高収入」という構図。一人一人の個性さえもそぎ落としたそのシンプルさが、人々に希望を与えていた』と結んでいました。
まさに、バングラディシュの学校に、学校というものの原型を見た思いです。わが国においても、明治初期に学制が定められたときの学校という存在は、バングラディシュに近いものでした。貧しい家の子供でも、家族や士族の子供でなくても、「勉強」を頑張ることによって立身出世を夢見ることができるという「希望」の宿る場所だったのです。もちろん、男女差別を初めとする差別はありました。経済的理由で学業を断念しなければならないケースもありました。そうではあっても、そこは学力という万人共通の物差しで勝負することが許される別世界だったのです。
時代は移り変わり、今、学校は学力以外の様々な物差しで評価が行われる場所になりました。もちろん、それにはよい面もありましたが、弊害も少なくなかったように思います。
本来ならば、人見知りで人間関係づくりが苦手な子供でも勉強を頑張ることで認められ自分の存在価値を確かめることができるはずだったのが、通知票には「お友達が少ないのが気掛かりです」と書かれてしまいますし、「体を動かして遊ぶようにしましょう」「リーダーとしての活躍を期待しています」「音楽や図工も心を豊かにするものですか、もっと興味をもつようにしましょう」など、次から次へと苦手な課題を押し付けられ、ホッとする間が持てなくなってしまうのです。
また、いじめや不登校などの学校不適応問題の多くは、部活や行事、係活動や委員会活動といった授業以外の場で原因が生じます。新しいことを知るのは好き、勉強だけして帰るのなら学校は楽しいところなのに、と考えている子供は少なくありません。
さらに、学校に多くの機能を望み求めてきたことにより、家庭が担うべき教育機能が低下し、箸の持ち方やぞうきんの絞り方、洋服のたたみ方まで「学校でお願いします」となってしまっています。
学校とは何か、このシンプルな問いについて、改めて考えてみることは無駄ではないと思います。