ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

一片の通知では済まない

2016-03-31 07:46:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「責任転嫁」3月26日
 『進路指導の改善 文科省が求める』という見出しの記事が掲載されました。広島の中3男子が謝った万引き記録に基づいて進路指導を受けた後自殺した問題を受けて、文科省が通知を出したことを報じる記事です。
 記事によると、『1年生の時の問題行為で進路を機械的に判断した「推薦・専願基準」を適正化すべき』という趣旨だそうです。その通りだと思います。それが教育現場に相応しい考え方です。人は変わるものだと考えなければ、教育という営みは存在しないのですから。
 しかし、ことはそんなに簡単ではありません。私は小学校の教員でしたが、6年生を担任することが多く、私立中学受験をする子供の内申書を数多く書いてきました。私は教え子が希望の進路に進めるよう、丁寧に詳しく書いてきました。製図用のロットリングを使い、その子供の行動を具体的に書き、読む人がその子供の学校での行動をイメージできるようにしました。
 面接を終えた子供が、「先生、昨日の面接で、『担任の先生はあなたのことをよく見ていてくださってますね。これを読むだけであなたが素晴らしい生徒だということがよく分かります』って言われたよ」と嬉しそうに報告しにきたものでした。
 私は嘘は書きませんでしたが、全てを書いたわけでもありません。その子供にとって、不利になるようなことは書かなかったのです。なぜそうしたかというと、合格して欲しいという思いであったことは事実ですが、正直に言えば、不合格になり、その原因が内申書の記述にあるのではないかと疑った保護者から訴えられ情報開示されたときのことを懸念する気持ちもありました。
  高校への推薦は、私立中学受験とは違います。私立中受験において、各校共通の内申書作成の基準などなかったからです。「1年生のときに万引きをした」という事実を高校側に隠すのは、中学校側としてはできません。そんなことをすれば、あそこの中学校は信用できないというレッテルを貼られてしまうからです。それは、翌年度以降の生徒の進学に悪影響を与えます。であれば、「1年生のときに万引きをしたが、その後悔い改め~」という伝え方にならざるを得ません。それで推薦が通らなければ、保護者から苦情を言われるのは中学校です。訴えられることも覚悟しなければなりません。
 そうした中学校側の懸念を払拭するには、教委の方針で、というエクスキューズを中学校側が使えるようにしておく必要があります。つまり教委が悪役になるということです。教委にその覚悟がなければ、今回の通知は効力を発揮しません。
 高校側に目を移すと、今度は多くの生徒に何らかの問題行動があるという推薦書が集まることになります。適切な言い方ではないかもしれませんが、今までふるいにかけられ一定のレベルにそろえられていた受験生が、雑多なしかもより多く集まるようになるのです。そうすると、それをどのようにより分けるかという基準を作り明示するということが求められるようになります。つまり見抜く目が求められるのです。これは、大きな負担になるはずです。
 行政には、高校側を納得させる取り組みが必要になります。それも公立校だけではなく、教委の管轄下にない私立高校まで。そうした制度設計をきちんとしないで、一片の通知で済む問題ではないのです。

 

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差別か否か、は学校種で違うはず

2016-03-30 07:55:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「差別?、それとも」3月23日
 『岡山短大 視覚障害理由 授業はずす 准教授、地位確認求め提訴』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『ゼミの授業中に飲食していた学生に気づかなかったことや、無断で教室を出る学生を見つけられなかったことなどを理由』に短大側が准教授に対して『来年度から授業と卒業研究の担当を外れ、学科事務に移るよう命じた』ということだそうです。
 この措置に対し、准教授は『指導の質に支障はなかった』『差別が横行する教育現場は学生に示しがつかない』と話しており、短大側は『視覚障害を理由に差別はしておらず、提訴は驚いている。我々は教育の質を担保すると約束している学生の立場に立っている』と述べているそうです。
 どうなんでしょう。私は過去にこのブログで、全盲の小学校教員や今何かと話題の乙武氏の小学校講師について、疑問を呈してきました。私の中に差別意識が皆無であるというつもりはありません。おそらく何らかの差別意識はあることでしょう。しかし、長年人権教員を担当してきたこともあり、障害者差別についても人並み以上の知識と経験は持っているつもりですし、自分の中の無意識下の差別意識を制御する能力も身に着けているつもりです。
 その上で、小学校教育において、子供の安全に配慮し対応できる能力を欠くのは教員として勤務し責任を果たすことは難しいこと、他の教員の補助者としての配置等についてもそのことで生じる組織全体の負担増が長期的に学校を疲弊させること、新たな補助者の配置には長い年月にわたっての財政負担が生じることを市民や保護者が納得するかという問題があること、などを指摘してきました。
  その立場からすると、「授業」中に学生が飲食していたり、教室を出て行ったりする状況は、指導の質が確保できているとは言い難いと判断せざるを得ません。ただ、今回、私が迷っているのは、短大と小中学校の違いです。記事には授業とありますが、短大で行われているのは「講義」でしょう。義務教育である小中学校では、授業を受けない子供を放置することは出来ませんが、短大では、あくまでも学生自身の責任とみなすことも可能です。サボればテストの結果が悪く、単位を落とし留年するということになるだけです。抜け出したり飲食したりしたくなるほど講義の内容がつまらないというのであれば、それは傷害とは関係のない能力評価という視点で適否を判断すればよいだけのことです。
 教育の場に差別があってはならないという主張も正しいですが、学生に教育の質を保証するという考えもまた正しいのです。今回の裁判の結果は分かりませんが、単なる勝ち負けではなく、学校種や担当教科、担当校務等による違いについても、一定の見解を示すような判決を期待したいものです。

 

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本当のことを言えば許す…

2016-03-29 07:19:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「その方法があれば」3月23日
 『告白促す「司法取引」』という見出しの記事が掲載されました。野球賭博問題で処分が注目されていたプロ野球巨人の高木投手に対する処分が、失格1年に決まったことについて報じる記事です。記事では、『正直に告白すれば軽減-野球賭博をそれほど軽く扱っていいのかという思いはある。あおれでも全容解明を優先した「司法取引」ともいうべき作戦だろう』と、今回の措置を分析しています。
 「司法取引」は、捜査力の弱さを補うための武器です。米国では一般的ですが、我が国では拒否反応が強い制度です。自分が助かるために仲間を売るという行為に、薄汚さを感じるのでしょう。では、この「司法取引」を学校に持ち込んだとしたらどうでしょうか。
 学校では、様々な「事件」が起きます。いじめやカンニングといった「重大事件」から、こっそりお菓子を食べたなどというよくある事件まで。こうした事件が発覚すると、学校では子供を相談室等に呼び、事情聴取をします。これがなかなか難しいのです。最近では、「指導死」という言葉が市民権を得るようになってきていることから分かるように、厳しい取り調べはできないのです。
 一人の子供を複数の教員で問いつめる、長時間詰問するなどは、指導死に繋がる行為として許されなくなっています。子供の人権尊重という視点からは当然のことです。しかし一方で、「喫煙していた生徒に他にも喫煙している者はいないか訊いたが、いないということだった」と言って調べを打ち切り、その後大量の喫煙行為が発覚すれば、危機感が足りないと批判されるのも現実です。
 様々な事件を起こすのは、素直で良心的な子供ばかりではありません。教員をなめていたり、間違った正義感で仲間をかばったりする子供は少なくないのです。もちろん、ばれてしまったら今更恭順の意を示しても意味がないという意識をもっている場合も多く見られます。
 そこで、「司法取引」が認められれば、いじめ加害者であっても、真っ先に「自首」し、他の子供のいじめについて詳細に告白した子供は罪を不問にするというやり方をとることができます。自首した子供は口頭注意、後から認めた子供は自宅謹慎、最後まで口を割らなかった子供は強制転校というような差を付けることで、いじめ問題の全容解明を目指すということです。
 間違いなく効果はあります。しかし、そうした行為が教育の場に相応しいかというと別の問題です。以前も述べたとおり、学校や教委の捜査力は非常に乏しいのが現状です。それにもかかわらず、事件後すぐに全容を説明し尽くせないと、「隠蔽だ」「自己保身だ」「間違った仲間意識だ」と批判されます。学校に警察並みの捜査力を求めるのか、信頼という教育的な配慮を認めるのか、是非検討して欲しい問題です。

 

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すごろくのマスには

2016-03-28 07:22:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「すごろく裏表」3月22日
 専門編集委員玉木研二氏が、『すごろくは鏡』という表題でコラムを書かれていました。その中で玉木氏は、『特別企画展「双六でたどる戦中・戦後」は時代の色を鏡のように映しだす』と述べて様々な「すごろく」を紹介し、『1枚の絵すごろくを掲げ、凝縮された一時代の世界観や人生「あがり」の夢を考える学校の歴史授業はどうだろう。教科書から抜け落ちた、生気みなぎる教材である』と結んでいらっしゃいます。
 歴史や社会科の授業について取り上げることの多い玉木氏らしい指摘です。私も社会科の歴史的内容の授業で、「すごろく」を使ったことを懐かしく思い出しました。とはいっても、玉木氏のように主教材をしての「すごろく」ではなく、学習内容を表現する手段としての歴史すごろくでした。
 例えば、織田信長の天下統一について調べたり話し合ったりした後、その単元のまとめとして歴史すごろくを作るのです。何を「マス」とするかということで、その子供なりの個性が出ます。信行暗殺、美濃攻略、桶狭間の戦い、楽市楽座、安土築城、足利義昭追放、右大臣就任、武田征伐、比叡山焼き討ち、秀吉取り立て、光秀取り立て、本願寺和解など、どの歴史事象を取り上げるか、その「マス」を「○マス進む」「一度休む」「○マス戻る」など価値づけることでその子供が描く天下統一への道のりが示されるわけです。
 いわば、玉木氏の「すごろく」が導入・調べ学習の段階であるのに対し、私の「すごろく」はまとめ・表現の段階にあるということになります。
 今、「私の~」と書きましたが、小学校で社会科の授業を研究実践している教員の中では、極めてありふれた手法でした。教育問題に造詣の深い玉木氏には、こうした「すごろく」についてもご理解いただき、教員が様々な工夫をして、暗記教科ではない歴史の授業をしていることを広く伝えていただければと思います。

 

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声高に…

2016-03-27 07:53:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「声高に…」3月22日
 『「民間挑戦」の男子学生 安保法論じぬ硬直性違和感』という見出しの記事が掲載されました。自衛官任官拒否をした防衛大学生を取材した記事です。記事によると、『昨年の安保関連法を巡る国会審議~(中略)~校内で議論はほとんどなく、学校側から法の説明はなかった。「自分たちの将来に関係することなのに議論する雰囲気がない。まるで思考停止のようだ」。安保関連法を機に改めてみえた組織の硬直性。違和感が増した』ということだそうです。
 考え込まされました。学校・教員と防衛大・自衛隊予備軍の共通点と相違点についてです。教員も防衛大生も、学校教育と国防それぞれの分野における「専門家」であり、一般の国民以上に知識を持ち、より深く分析する能力を有しているはずです。
 前者では、文部科学省や教委が打ち出す改革案について、職場でも勤務時間後の酒場でも、何の遠慮もなく話題になります。一般の教員も、校長等の管理職も同じです。もちろん、賛否や議論の視点は異なりますが。ここが、この防衛大生が嘆く「思考停止」状態とは違う点です。
 一方で、共通点もあります。それは、内部での声が外部には伝えられないということです。学校教育改革について現場の教員の声は、メディアの取材等によって匿名で伝えられることはありますが、教員が公式に自分の見解を発表するということはほとんどありません。もし、公立小学校の校長が「小学校に英語教育は必要ない」という意見を公表すれば、間違いなく教委に呼び出され、注意を受けるでしょう。処分されなくても、勤務評定は低位に置かれ、異動等でも不利な懲罰的扱いを受けるでしょう。今回の安保関連法について、自衛隊や防衛大の隊員や学生から積極的な意見発信がなかったのと同じ構造です。
 私はこのブログで、民主主義社会において公教育の内容を決めるのは教員ではなく国民の民意を代表する政治の役割であること、教員は「教えること」の専門家であり、民意が定めた内容を如何に効果的に学ばせるかということに注力すべきであり、内容についての発言は慎むべきこと、を主張してきました。日教組や全教が学習内容を左右するのは望ましくないという考え方につながる見解です。
 同じように、私は、我が国の国防政策についても、シビリアンコントロールの趣旨から政治=民意が決定すべきであり、軍人(自衛官)が決めるべきではないと考えています。戦う専門家である彼らは、定められた国防方針に沿って具体的な行動計画を立て実践に移すのが役割であるべきだという考え方です。
 記事は、全体として安保関連法について議論のない防衛大という組織風土を否定的に描いているように感じました。私もこの学生と同様に、議論のない硬直性には違和感を感じますが、だからといって、自衛官や防衛大生が、安保関連法について声高に語り、それが議論に大きな影響を及ぼすという事態も好ましくないと思います。国防政策における日教組や全教のようなな圧力団体を育ててはいけないと思うからです。
 M紙は、学校教育改革において、教員が積極的に意見表明し、それが政策に大きな影響を与えるような状況を望ましいと感じているのでしょうか。世間の皆さんはどうなのでしょうか。

 

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「政教分離」ディベートでどうぞ

2016-03-26 07:27:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「こんなお題は」3月21日
 『法王訪日の実現「適切な時期に」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、欧州歴訪中の岸田外相がローマ法王庁外務局長との会談で、『「東日本大震災から5年を迎え、復興への励ましを頂きたい」と訪日を招請した』ということです。
 私はこの記事を読んで、ディベートの題材として使えるのでは、と感じました。18歳から選挙権が与えられることに伴い、有権者教育の必要性が叫ばれており、模擬投票やディベート等の学習の先行事例が紹介されています。
 しかし、私は、以前もこのブログで述べたように、高校生にとって利害関係があったり直接的な影響があったりする身近な問題に拘るあまり、我が国の根本をなす民主主義や自由、権利と義務というような「大きな問題」についての理解深化を図る取り組みが少ない、という懸念をもっていました。そこでこの記事です。
 我が国の憲法では、政教分離を謳っています。憲法第20条をめぐっては、過去にも地鎮祭や自衛隊員の合祀問題などが法廷で争われてきました。さてそこで、今回の訪日要請です。岸田氏は、閣僚として、公務で、公費を使い、カトリックの総本山であるバチカンを訪れ、カトリックを代表するローマ法王に訪日を要請しているのです。当然、岸田氏個人の考えではなく、政府の方針だと思われます。
 カトリックは今なお世界最大の宗教であり、同姓婚の否定や望まない妊娠の中絶に反対するなど、基本的な人権の尊重と対立しかねない教義をもっています。男女差別を肯定する側面もなしとは言えません。カトリックに違和感を感じている国民もいるはずです。それなのに、訪日要請は許されるのでしょうか。訪日が実現すれば、その対応に税金が使われるのは確実ですし、公の場でカトリックの立場からの法王の談話なり説話なりが行われることも間違いありません。
 もし、ローマ法王ではなく、東方正教会やカンタベリー大司教といった他の宗派のトップを招くとしたらどうでしょうか。あるいは、仏教やイスラム教の代表者(?)を招くとしたら、どうでしょうか。具体的な人物が思いつきませんが、例えば、大統領の上に立つとされるイランのイスラム教最高指導者を招くとしたら。
 もちろん、常識ある大人である私たちはこの問題の「模範回答」を理解していますが、高校生もしくは中学生にはよい頭のトレーニングになる題材ではないかと思います。国政を担う国会議員を選ぶのであれば、自分にとってどちらが都合がよいかという視点だけではなく、憲法に定められた諸権利について正しい理解という確固たる地盤を築くことを疎かにしてはいけないのですから。

 

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教科書は学術書ではない

2016-03-25 07:40:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「何の学術?」3月18日
 『教科書「領土」記述6割増 安倍政権色強く』という見出しの記事が掲載されました。平成29年度から使われる高校教科書の検定結果について報じる記事です。『政府の意向を反映した教科書』という見方でまとめられています。そのことについて異論はありません。しかし、今回、私が気になったのは高校の教科書というものに対する根本的な見方の問題です。
 記事の最後に教育社会学を専門とされている東大名誉教授藤田英典氏のコメントが掲載されていました。藤田氏は『教科書の内容は、高校生の学習が深化するように考慮し、基本的には執筆者の学術的な知見と判断に委ねるべき』と述べていらっしゃいます。
 前半部分はまさにその通りです。では次に、深化した学習とはどのようなものか、学習を深化させるためにはどのようなことに留意すべきか、が問題になるはずです。例えば、記事にも「政権色」の代表事例として登場する「集団的自衛権の行使容認」を学習の対象とする場合について考えてみることにします。
 この事例について教科書の内容を記述する執筆者とは、国際政治や安全保障、歴史や憲法などの学者が想定されていることでしょう。ではそうした方々が、高校1年生のもつ興味関心や知識の内容、それまでに習得している学習方法、大まかに言えば学ぶ力と称される学力について、どれほど理解していらっしゃるでしょうか、と言えば正直なところ心許ない現状でしょう。
 まず、何時間の授業とするか、どのようにして問題意識をもたせるか、どのような問題意識を想定するか、問題解決のためにどのような学習活動を想定するか、話し合いなのか、話し合いだとすれば全体か小グループか、ディベートなのかただの意見交換なのか個人の意思決定を迫るものなのか、調査活動は文献や新聞、ITを使った情報収集なのか、それらは個人で行うのか、問題意識別の小グループで協力して行うのか、自分なりの「解決」はどのように表現させるのか、小論文か、口頭発表か、リーフレットやグラフや図表を使って視覚化したものか、評価はどの時点で行うのか、誰が行うのか、自己評価か相互評価か教員による評価か、評価基準はどうなるのか、といった事柄について幾通りかの想定をすることなしに、授業即ち学習をイメージすることは出来ません。深化もなにもあったものではありません。
 では、そうした想定をすることが出来るのは誰でしょうか。歴史学者でも、憲法学者でも、政治学者でもなければ、軍事評論家や国際関係学の専門家でもないでしょう。本来であれば、高校の教員であるはずですが、前日も述べたとおり、高校教員の多くは、「集団的自衛権の行使容認」についての様々な見解についての興味はあっても、そのことをどのように教材として加工するかということについての関心も経験も乏しいのが実情なのです。
 となると、実際には藤田氏が言及されているような、学習を深化させるような書き方が出来る執筆者など存在しないということになってしまうのです。実はこの点にこそ、高校教科書の悲劇があるのです。学習のあり方に焦点が当てられない分だけ、内容だけが過剰に問題にされてしまうのです。授業のあり方から教科書の内容を考えるという教科書問題本来の姿を取り戻すこと、そのために授業改革、教員育成に取り組むという長期的な視野が求められているのです。

 教科書は学術書ではありません。もし、学術書だと考えるのであれば、学術書の政府の検定があるなど、それこそ自由主義を揺るがす大問題です。

 

 

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授業分析したことがない

2016-03-24 08:03:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「文化が原因」3月16日
 『記述式導入は教育改革』という見出しの記事が掲載されました。文科省専門家会議座長安西祐一郎氏に対する大学入試制度改革についてのインタビュー記事です。その中で安西氏は、『現在の高校の教育では、従来型の知識を詰め込む授業が主流です。小中学校では、自ら課題を見つけ討論しながら解決策を見出すような授業が浸透しつつありますが、高校では、まだまだという状況です』と語っていらっしゃいます。
 小学校と中学校では、授業スタイルに今でも大きな差があると考える私からみると、小中を一緒にした安西氏の認識には賛同しかねますが、高校の授業についての認識は的を射たものだと思います。
 安西氏は、その原因について、『大学入試が主に基礎知識が問われるものになっていること』と述べていますが、この指摘は正しいのでしょうか。考える授業への転換は、小中学校にだけ求められたものではありません。30年程前から、小中高全てに対して教育行政が指針として打ち出したものです。もし、大学入試だけが原因ならば、大学進学者がほとんどいない高校、30年前で言えば、職業高校の多くや底辺校と言われる学校においては入試のための授業が行われていなかったのですから、小中同様、考えさせる授業への転換が進んだはずです。
 しかし、そうはなりませんでした。15年程前からは、エンカレッジスクールという名称の下、不登校生徒や学校に適応できず基礎学力が低い生徒を対象にした高校がつくられました。都教委の教育委員が「ダメな子の学校」と発言し問題になった頃です。そうした学校でも、受験を視野に納めていたわけでもないのに、考えさせる授業は行われませんでした。特色として取り上げられたのは、小中学生が使うような計算ドリルや漢字書取ノートを使った補習授業の実施であり、話し合いも調べ学習もなかったのです。
 私は、教員時代に中高の教員と歴史教育について共同研究し発表する機会をもちました。また、指導主事として高校籍の教員出身者たちとも共に仕事をしてきました。それらの経験を通して感じたのは、そもそも授業というものについての認識が全く違う、ということでした。
 私が接してきた高校教員は、研究会で発表したり、指導主事になったりと、比較的向上心が高く一定以上のレベルの教員であったと考えてよいでしょう。しかし、そんな彼らであっても、彼らは例外なく、自分の知識や技能の多寡や質の向上に拘りをもつものの授業の進め方というものには無関心でした。何を教えるか、ということに関心はあっても、どう学ばせるか、ということについての関心は乏しかったのです。なにしろ、自分の授業の記録を取って分析するということをしたことがない者がほとんどだったのですから。
 彼らは、都教委の幹部になり、校長などの管理職になり、全国の高校教員で構成する研究団体等の幹部になっていきました。そして、自分の経験を基に部下の教員を育成していくのです。どう考えても、考えさせる授業が定着するはずはありません。
 もちろん、ごく一部の例外はあるでしょう。しかし、これが高校教員界の伝統であり、文化なのです。その根は深く、大学受験が変わっても容易には変わらないと考えます。文化の変容には気の遠くなるような時間が必要だからです。その困難な道を意識して地道な改革を進める根気が問われているのだと思います。

 

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考えさせない授業推進?

2016-03-23 07:30:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「訓練?」3月15日
 『小学英語 短時間学習で』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『中央教育審議会の小学校部会は14日、高学年での英語教科化に伴う授業時間数増に、10~15分間』の短時間学習で対応するとの案を大筋でまとめた』ということです。やはりな、という思いです。
 45分を1単位とする授業時間を増やすことが難しい、という現実が背景にあるわけですが、こうした取り組みは過去にも行われてきました。もちろん、モジュール学習というのは立派な考え方なのですが、「行政」が短時間学習を持ち出すとき、そのほとんどは教育的な配慮に基づくものではなく、表面を取り繕うための苦肉の策であるのです。
 実は私自身にも、教委勤務時代に同じような経験があるのです。「ゆとり教育」の導入で学力低下が懸念されていたとき、小学校45分間、中学校50分間という本来の授業時間数とは別に、朝会や帰りの会の時間に10分の学習時間を設けさせ、管轄の小中学校すべての教育課程届けに短時間学習を書き込ませたのです。それを基礎基本を学ぶ授業の時間は減りません、という市民向け、議会向けアピールに利用したのです。
 計算上は、週5日、1日に10×2=20分、合計100分になります。つまり、小中共に2単位分の授業時間数を生み出すことが出来たのです。しかし、その分学力向上または維持という成果がみられたかと言われれば、俯くしかありません。それでも、当時、私が関わった短時間学習は、まだ救いがあると思います。10分間は、計算問題や漢字の書き取りなどの「訓練」に使われたからです。
 もちろん、「訓練」も知識や技能の定着を図る大切な学習です。しかし、本来的な意味での「学習」は、学習者(学校では子供)の知的興味関心を基盤に仮説設定・調査・試行錯誤・思考・対話などの過程を経て、問題の解決を図る一連の知的活動をイメージするものです。10分ではそれは不可能です。小学校6年生の発達段階からすれば、何日間もある問題意識を継続し、追究のエネルギーを維持し続けることは望めません。つまり、10分間に問題発見から解決までの過程を詰め込むことは出来ず、通常の授業4単位分の問題解決過程を組もうにも2週間経つうちに、「もうやる気なくなっちゃった」という状態に陥ってしまうのです。
 中教審の案は、小学校の新教科英語は、学習ではなく訓練として行え、という指示に他ならないのです。知識注入型の授業を排し、考える力に重点を置いた授業への転換を提唱する文部科学省が、国際化への対応として目玉政策に据える小学校英語では、考えさせずに叩き込む授業を推奨する、これが矛盾でなく何なのでしょうか。

 

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オールウェイズマイノリティ

2016-03-22 07:19:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「常に少数派」3月14日
 『後戻りできぬ復興事業』という見出しの特集記事が掲載されました。記事の中に『法統は「縮退の時代」の復興に見合った計画を立てるべきだったが、震災直後にそんな雰囲気はみじんみなかった』『これから復興、という時に「人口が減るから小さな街をつくります」という後ろ向きなことは言えませんでした』という、東大教授羽藤英二教授ら2人の専門家の言葉がありました。そして過度に前向きな議論を経てつくられた復興計画は『ひずみが表面化しても復興事業は後戻りできない』という惨状を呈しているのです。
 羽藤氏は当時を振り返り、『常に少数派だった』とも語っています。立派に復興させたい、安全確保のためには大きな防潮堤を、という善意の熱気の前では、羽藤氏のような発言は、やる気のない、後ろ向きな、被災者側に立たない、とんでもない奴だとみなされてしまったのでしょう。
 話が飛びますが、以前、「ユダヤ式決定術」について書かれた本を読んだことがあります。そこでは、全員一致で決まった決定は疑え、という趣旨のことが書かれていました。全員一致ということは、参加者の自由意思が封じられた状況での決定である可能性が高い、即ち英知の結集ではなく多数派の強烈な抑圧の結果である、ということです。付和雷同性が高い我が国の国民性を考えたとき、常に胸に秘めておくべきテーゼだと思います。震災復興計画策定においても、多数派の強烈なそして無言の圧力があったことは確実でしょう。
 学校教育を巡るここ10年間の議論は、常に学校に何をさせるか、という議論でした。ある人は英語教育の拡大を言い、ある人は日本人らしさの教育が必要と主張し、さらに別の人は心を育てる情操教育に充実を説き、理数教育にこそ重点を置くべきと力説する人もいる、という状況でした。何を重視し充実させるかという点での違いや対立はあっても、今以上に何かを取り入れていこうとする発想は共通しているのです。
 こうした状況下では、部活は社会教育に移行すべき、子供の食事は基本的に家庭が担うものなので給食は廃止した方がよい、躾は親が責任をもって行うべき、学校外の非行や問題行動は地域と家庭が対応する、などの学校負担軽減により学校教育の活性化を図るという意見は、常に少数派で口に出すこともはばかれるということになります。
 もちろん、少数派が正しいなどという暴論を吐くつもりはありません。ただ、ある方向の意見だけで議論が進むことは、長い目で見たとき、後戻りできない苦しみを味わうことに繋がる危険性を高めることにつながりやすいのです。
 少数派も臆せずに発言できる雰囲気が大切です。

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