ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

嫌だなあ、金儲けのための投資という考え方

2024-07-19 08:16:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「あからさまに」7月13日
 『学校の体育で疎外感 近代スポーツの前提に限界』という見出しの記事が掲載されました。『トランスジェンダーの若者は性自認ゆえ、男女で区分けするスポーツや学校体育に疎外感を抱くという』という問題意識の下、スポーツ社会学を専門とされる立命館大岡田桂教授にインタビューした記事です。
 その中に、印象深い記述がありました。『スポーツは進学や就職の機会につながり、学歴と並ぶ「文化資本」と見なされている。そこに性別で差があるのは男女平等とは言えず、大きな問題だ』という記述です。
 全中で好成績をあげた中学生がスポーツ名門校に無試験で入学でき、授業料も免除される、あるいはインターハイや甲子園で活躍した高校生が、大学や企業に誘われたり、プロ選手としての道が開けたり、ということは知っています。我が子が小さいときから、一流選手を目指し、ジム通いに付き添い、活動費を負担し続ける保護者が存在することも知っています。
 ですから、岡田氏が言うように、スポーツに名誉だけでなく金銭的な利益が伴うことも理解しています。でも、学校教育、特に義務教育に関わってきた者として、「学歴同様の文化資本」という言い方は抵抗がありました。私はこのブログで、学校教育について、建前のきれいな言葉で語る偽善性を指摘してきました。子供の知的好奇心に応え、その子供なりの興味関心、個性を伸ばし、生涯にわたって自ら学び続ける態度を培うという「綺麗事」を授業の目的として掲げることを肯定する一方で、高学歴=社会的・経済的成功という保護者の意識を無視した議論は無益だと、指摘してきたのです。
 しかしそんな私でも、スポーツを学歴同様、将来社会的・経済的利益を得るための機会視することには、心理的な抵抗を覚えてきたのです。部活等で熱心に指導に当たる教員、教員の本務である授業のためよりも部活に時間と労力、情熱を注ぐ教員をダメ教員として批判してきた私は、スポーツすら成功の手段とする発想を受け付けられなかったのです。
 それだけに、全国紙という公器で、スポーツを健康とか楽しみの脈絡ではなく、堂々とあからさまに「資本」と呼ぶ時代になったのだと驚かされたのです。でもそれこそ実態の一部を正確に表すことであり、学校におけるスポーツの在り方について議論を進める上で一歩前に進んだことになるのかもしれません。
 私も、教員上がりによくあるタイプの、きれいごと好きの古い人間だったと痛感した次第です。
                              

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教員の一日

2024-07-18 08:13:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員の一日」7月11日
 『子育て支援 「点」じゃ安心できない』という見出しの記事が掲載されました。『日本の少子化傾向に歯止めがかからない中、政治や社会に何が求められているのでしょうか』というテーマで、漫画家瀧波ユカリ氏にインタビューした記事です。
 その中で瀧波氏が語られた次の言葉が強く印象に残りました。『子育ても家事も点ではなく、連続した営みです。洗濯物をたたむとか、子どもの予防接種のスケジュールを管理するとか、やることはたくさんある。そういう連続した地味な営みこそが子育てであり、家事なのです。そこに関わらず時々ピンポイントで子どもの世話をするだけで「イクメン」面をしている人には、安心して子どもを任せられません』という言葉です。
 この「子育てや家事」を、教員の仕事に置き換えてみると、昨今の教員の働き方改革論議に欠けている部分が分かってきます。子育てを知らないイクメンが育児を語るように、教員の仕事を知らない識者が教員の働き方改革を議論しているということです。
 目に見えない家事という言葉がありますが、教員の仕事も、外部の人にはよく知られていない名もなき雑務の集積なのです。
 それでは、学校や教員の実情をよく知るお前が、ここで全て列挙してみろ、という人がいるかもしれません。でも、それはできないのです。主婦や主に子育てを担うことが多いと思われる母親に、あなたの仕事を列挙してみなさいと言っても、出来ないように。
 もちろん、多くの男性、特に頭の古いおっさんが気付いていない「目に見えない家事・育児」について、こんなことがある、あんなこともある、と挙げていくことは可能です。でもすべてを挙げることは難しいのです。後になって、そういえばあれもあった、これもそうだったと思い付くものが出てきますし、突発的なできごとに応じて生じる仕事もあるからです。
 教員の仕事についても、私がいくら思い付くものを挙げていっても、必ず後から、これを言うのを忘れていた、そういえばこんな仕事もあった、というものが出てくるのです。さらに、地域によって特別な業務が一般的に行われているケースがあったり、低学年の担任にだけ特有の仕事があったりと、教職全てについて網羅するのは難しいのです。
 だからこそ、教員の働き方改革について議論するときには、ある案が出てきたら、そこで現場の教員の代表に提示し、欠陥や漏れについて指摘を受けて修正する、という作業を延々と繰り返すことが必要になるのです。そうしない限り、机上の空論と揶揄される改革案モドキが作られるだけです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結果は常に未定

2024-07-17 08:02:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「約束」7月10日
 専門記者赤間清広氏が、『広報人のプライド』という表題でコラムを書かれていました。その中で赤間氏は、『会社の不祥事に、広報担当者はどう動くべきですか』という問いを投げかけ、『逃げるな。隠すな、嘘をつくな。これに尽きます』という回答を提示なさっています。
 全くその通りですし、よく言われることでもあります。私はこの3つにもう一つ付け加えたいと思っています。それは、「することを約束しても、結果を約束するな」ということです。
 私は教委勤務時代、指導室長として、不祥事に際しては広報、つまりメディア担当も務めてきました。教員の逮捕、行方不明、児童虐待、教員の不適切な指導で子供が大怪我など、次々と不祥事への対応に追われました。そこで気がついたのは、相手がメディアでも、議会でも、保護者でも、市民でも、苦し紛れ、その場しのぎに安易な約束をすると、そのことが後々自分の首を絞める結果になるということでした。
 どういうことかと言うと、「当該教員の処分はどうするつもりか」と訊かれたとき、「早急に事実関係を確認し、直ちに適切な処分を行います」と答えたものの、「早急とはいつか」と追及され、「今週中には」と答えてしまうというようなことです。
 そうではなく、「まず事実関係を確認します。そのために、明日から、私と担当係長で、当該教員への聞き取り調査を実施します。その結果明らかになったことについては、今週末までに皆さんにご報告します。なお、聞き取り調査で明確にできなかった部分があれば、校長や同校の教員を対象に再度聞き取り調査を行います。現時点でご報告できるのはそこまでです」というように、教委としての対応については約束するが、それ以上については希望的観測で話さないということです。
 もし、「今週中には~」と答えてしまうと、調査で不明な点が残り処分を行えない結果になったときに、「約束が違う」「隠そうとしているのではないか」と追及をされ、他の者にも、後ろ暗いことがあるのではないかという印象を与えてしまうのです。
 そうしたリスクを避けるため、実施する取り組みについて約束し、結果までは約束しない、という姿勢を取ることにしたのです。不祥事については、誰が、いつ、どのような調査を行い、そこで分かったことは、いつ、誰が、どのような形で伝えるか、そのことについてだけ約束する、それがいらぬ誤解を避け、信用を保つ方法だと考えます。もちろん、校長の立場でも同じです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

矜持

2024-07-16 08:45:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校にも」7月9日
 植草学園大教授野澤和弘氏が、連載企画『令和の幸福論』で、『強度行動障害の背景にあるのは』という表題でコラムを書かれていました。その中にとても印象に残る記述がありました。
 『成功している事業所に共通しているのは、行動障害を起こす利用者に対するポジティブな価値観をスタッフが共有していること、1人に任せるのではなく、法人がチームとして取り組む体制づくりを工夫していることだ。利用者が行動障害を起こすのは自分たちの支援に問題があるという謙虚さと福祉の専門家としての矜持があることも共通している』。
 そっくりそのまま、学校や教員に当てはまります。「子供の指導に成功している学校に共通しているのは、学習遅進、不登校、問題行動を起こす子供に対するポジティブな価値観を教員全体が共有していること、1人の教員に任せるのではなく、学校がチームとして取り組む体制づくりを工夫していることだ。子供が何らかの学校不適応を起こすのは自分たち教員の指導や支援に問題があるという謙虚さと教えることの専門家としての矜持があることも共通している」。
 しかし、実際にはこの真逆だという学校や教員も少なくありません。授業についてこれないのも、飲酒や喫煙、万引きなどの非行を繰り返すのも、子供が悪い、家庭がなってないと考え、そんな子供を担任させられた自分は運が悪い、と思っている教員は確実にいます。問題となる子供を担任している同僚に対し、「大変だよな。本当に○○先生は運が悪い。自分は問題のないクラスでよかった」と他人事として捉えている教員もいるはずです。
 自分の指導を振り返り反省する習慣をもたず、子供からでも保護者からでも、同僚教員からでも管理職からでも、批判を受けると反発するばかりで、自分が被害者のように思いこむ、そんな教員も少なくありません。
 不登校気味のAさんは、スクールカウンセラーにお任せしよう、ヤングケアラーかもしれないBさんについてはスクールソーシャルワーカーさんがなんとかしてくれるはず、などという教員としての使命感や矜持に欠ける人もいるはずです。
 私はとくに、この「専門家としての矜持」がポイントになると思っています。自分を専門家と意識することが、教員にとって不可欠だと思いますし、こうした意識を植え付けることが教員養成・研修の中核をなす目的とされるべきだと考えます。こうした自覚があってこそ、他から強制されるまでもなく、自分で課題や目標を決め、自己研鑽に励むことができるのですし、自分に謙虚になることもできるのです。
 野澤氏の言葉を噛み締めたいものです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「!」と「?」

2024-07-15 08:09:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「!と?」7月8日
 『「あなたのため」が追い詰める』という見出しの記事が掲載されました。『小児科医・高橋孝雄さんに聞く 子どもを「潰す」親とは』ということで行われた、高橋氏へのインタビュー記事です。
 読ませていただいた率直な感想は、「!」もあれば「?」もあるということでした。まず、「!」です。高橋氏は、『子どもたちを追い詰めるものの正体は何なのか。「あなたのためよ」~』と指摘します。同感です。ただ、ではどうしたらよいか、具体的な提言はありません。私は次のような声掛けをすべきだと考えています。「お母さんのためよ。お母さんはあなたが開成中学校に合格してほしいの。それがお母さんの夢。友達にも、親戚にも、おばあちゃんやおじいちゃんにも威張って報告できる。その日のことを考えると、ワクワクしてくるのよ。お母さんのために、勉強してみる気はある?」です。
 決して皮肉や笑い話で言っているのではありません。本音をぶつければ本音を返しやすくなる、と考えるからです。今の中学受験は、小学3年生から始まります。この時期には、母親との一体感が強いですから、お母さんが喜んでくれるなら、と受験に取り組む子供がいそうです。しかし、高学年になれば、自分の価値観で行動できるようになってきます。そのときに、「そもそもお母さんのために始めたことで、自分はやりたくなかったんだ」と気付き、母親自身もそう言っているのですから、子供は親への罪悪感なしに断りやすいのです。(ここで母親としているのは、現状では母親が子供の受験により多く関わる事例が多いためです)
 次の「!」は、『問題は「あなたには後悔してほしくない」という言い回しである(略)高橋さんは「後悔することがそんなに悪いことですか?」と問いかける』です。これにも全く同感です。人生で一度も後悔したことがないという人がいるでしょうか。いるはずがありません。どんな偉人でも、みんな後悔を重ねて生きているのです。人生とは、無限の後悔とつき合いながら年を重ねることなのです。
 もし人生の達人がいるとしたら、それは後悔と上手く付き合う術を身に付けた人だと言ってもよいと思うくらいです。後悔はいくらしてもよい、後悔から学んだり、後悔を噛み締めたりしながら次の一歩を踏み出したりする、そうした経験が宝ものなのだと親が発想を転換することで、中学受験への向き合い方が変わると考えます。
 さらに「!」は続きます。『子どもが勉強し、予想通りに成績が上がれば、快感を覚える。「うちの子はやればできる!」と高揚し、「目標を上方修正しよう」と勝手に決める。そのサイクルは飽きがこない。「もっと、もっと」と教育に依存していく「悪性サイクル」(略)依存状態では、潰れるまで「次」が襲ってきます』。
 親も子も、自分は限界なく伸びていける、競争に勝ち続けることができるという錯覚に陥ってしまうという指摘です。そして当然のことですが、最後まで勝ち続けることができるのはその分野で一人だけです。
 どこで勝者から敗者に転落するかはそれぞれですが、必ず挫折のときを迎えます。おのとき、精いっぱい頑張ったんだから仕方がないと受け入れられるのが健全な精神状態です。でも、「悪性サイクル」に陥った子供と親は、人生が終わったかのような受け止めしかできなくなってしまいます。悲惨ですね。
 高橋氏は、中学受験について語られていますが、私は子供の育て方全般に言えることではないかと考えています。幼い子供は「万能感」を身に付けています。自分は何でもできる、世の中は自分の思う通りになるという感覚です。しかし、社会という集団の中で過ごすうちに、自分よりも力の強い人や優れた存在に気づき、自分の平凡さ、卑小さを見つめ、自分は特別な存在ではないというつらい事実を受け入れていき、平凡で卑小な自分もかけがえのない存在で生きていく価値があるのだということに気づいていく、それが成長だと思うのです。だからこそ、「悪性サイクル」は、勉強だけでなくその子供の人生に長く悪影響を及ぼしてしまうのです。
 最後に「?」を一つ。『高橋さんのアドバイスはいたってシンプルだ。「どうしたらいいかを意識せず、本能的にお子さんと向き合ってはいかがですか」』。高橋氏は、親の「本能」というものを信頼していらっしゃるようです。私は信用していません。親が本能の赴くままに行動すれば、子供はボロボロにされてしまう、という気がしてなりません。中学受験で子供のしりを叩き、追い込んでいく、それは親の本能そのものの発露ではないかと疑っているのです。むしろ、高橋氏をはじめとする子育てに関する専門家の意見や学校の教員の干渉、世間の本音ではなく建て前を報じるメディアなどが影響を及ぼして、親の本能を制御しているから、今の程度で収まっていると感じるのです。間違っていればいいですが。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カネのかからない、はダメ?

2024-07-14 08:29:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「エロ本を読む」7月7日
 ノンフィクション作家河合香織氏が、『夏休みの「体験格差」 人生の豊かさを左右』という表題でコラムを書かれていました。その中で河合氏は、『「子どもに夏休みの特別な体験をさせる経済的な余裕がない」(略)この「体験格差」がいま大きな問題となっている』という問題意識を示されています。
 今、多くの方がこの「体験格差」に言及なさっています。その趣旨は理解できます。しかし、何か違和感を拭えないのです。河合氏は、『体験は楽しいだけではなく、子どもの非認知能力にも関係すると言われていて、人生を豊かに過ごすための武器になりうる』と述べ、『体験が重要と聞くと、親が先回りして多様な体験を用意する教育熱心な家庭もある。だが、「体験」の主体は子どもだ。お仕着せの体験では、その効果はどれほどだろうか』とも指摘なさっています。
 同感です。しかしその一方で、『スポーツや文化の習い事、自然体験や旅行』『長期休暇など休日の登山、海水浴、スキーなどの自然体験は~』などと、特定の「カネのかかる」体験についてのデータを示して、格差を強調なさっているのです。
 矛盾していないでしょうか。論理的に考えれば、非認知能力の育成に関係が深い体験とはどのようなものなのか、子供が主体となって取り組もうとする体験とはどのようなものか、を明らかにし、そうした体験についての格差の現状と課題について論じる、ということになるはずですが、そうした記述はないのです。
 時代が違うのを承知で言いますが、私は、小学生時代には、友達20人ほどが集まり、廃材で2階建ての陣地を作り闘った戦争ごっこ、池での手作り筏擬き、野良猫腹を押して出産させたこと、のり弁だけをもって隣の県まで歩いて探検にいったことなど、カネのかからない体験で、人間関係構築の難しさを学び、世間には我が家とは違う多様な家庭があることを知りました。中学生になると友人とエロ本を見たり、本屋でプレイボーイを立ち読みしようとして「子供がそんなものを見るんじゃない」と怒鳴られたりしました。男の友人と秘かに仕入れた猥談を披露しあい、助平なのは自分だけではないと安心したりもしました。
 バレンタインチョコをもらって有頂天になったものの、お返しをどうするか何週間も延々と悩み、小遣いをはたいて買ったぬいぐるみもとうとう渡せなかったという切ない体験、中3の修学旅行で、自由時間一緒にお土産を買いに行こうと女子から言われ、嬉しいのに何を話したらいいか分からず、不安で断ってしまったことをずっと後悔していました。こうした、「体験」が、私を形作ってきたと思っています。
 山登りをして湖畔でBBQ、海水浴に行って岩場でダイビング、冬にはスキー場でスキー教室に参加し、普段の日はピアノを習い、週1で英会話教室に通う、こうしたことが「体験」なのだとするような議論には違和感を覚えます。もし、これらこそが「体験」だというのであれば、昔の子供の大部分は体験無しで成長してきたことになってしまいます。
 体験は大切ですし、経済力が子供の体験に影響を与えることも間違いありません。でも、あまりにも体験と経済を結び付けて語り過ぎるように思ってしまうのです。子供にとっての体験論は、もっと広い視野で考えることが大切なのではないでしょうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「お若い」は年をとっているということ

2024-07-13 08:33:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「お若い」7月6日 
 書評欄に、芸人ヒコロヒー氏による、『「日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション 人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別」デラルド・ウィン・スー著、マイクロアグレッション研究会訳、明石書店』についての書評が掲載されました。
 マイクロアグレッションとは、『些細な攻撃。無意識の偏見や思い込みが言葉や態度に表れ、否定的なメッセージとなって伝わり、意図せず誰かを傷つけてしまう』という意味だそうです。ヒコロヒー氏はご自身の体験として、『君は女性だけど男脳だから話が早いね』『君は日本人だけど物事をハッキリ話すね』を挙げ、いずれも褒めようとした表現だということは分かるが、嬉しく感じられないと述べています。
 分かります。そして、さらに、ヒコロヒー氏が、『マイクロアグレッションにより傷付いた「被害者」に対して周囲は「相手に悪気はなかったのだ」「事を荒立てないほうがよい」と諭す。もちろん彼らにも悪気はないのだが、これがとても気を付けなければならない怖いところだと感じた。心理的に重大な影響を受けた被害者の心までも否定されかねず、ひいては「被害者を非難する」構図まで生まれかねない』と書かれていることもよく理解できます。
 私も、マイクロアグレッションをしてきたことに気づかされました。猛省です。私流の解釈ですが、マイクロアグレッションとは、「~なのに」「~だけど」「~であるにもかかわらず」など、「~」に否定的な事実を述べ、そうした状況や環境であればマイナスの行動や結果、能力が現れるのが当然ということを示唆した上で、でもあなたは違うと持ち上げるという言動だと思います。
 これが問題なのは、~の部分が、レッテル貼りという偏見であり、その偏見を堂々と口にすることができてしまうということです。
 女性は判断力が劣りなかなか決断できない、というのは女性を一括りにし、女性の中にも様々な個性があるという当然のことを無視した偏見です。さらに、女性は決断が遅いということを示す客観的なデータもなく、偏った思い込みに過ぎません。そして、こうした思い込みや偏見は、現代社会に生きる常識ある人間であれば、本心ではそう考えていたとしても、人前で堂々と口にすることが憚られます。
 しかし、「君は話が早い」と相手を褒めるという「良い行い」をするという前提があると、心理的な抵抗なく口にすることができてしまうということになりがちです。その結果、女性は決断が遅いという間違った見方、捉え方を広く世間に伝播させることになってしまうのです。
 教員がこうした言動をした場合、言われた子供がモヤモヤとした違和感を抱いてしまうことが問題なのは言うまでもありませんが、この発言を聞いていた周囲の子供に「女の子は決断力が劣っているんだ」という誤った認識をもたせ、「なかなか決められない方が女の子らしくて可愛いんだ」などと間違った意識を植え付けてしまうことになります。
 しかも、マイクロアグレッション的な言動を責められたときにも、そもそも「褒める」という善行を行うためだったのだから、と自分を弁護し、反省せず、行動を改められないということになりがちです。最悪です。
 教員こそ、常にマイクロアグレッションへの自戒をもち続けなければなりません。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勇気ある指摘

2024-07-12 08:20:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「真っ当な意見」7月6日
 国学院大准教授町田樹氏が、『全中廃止にみる地殻変動』という表題でコラムを書かれていました。『日本中学校体育連盟が、水泳やハンドボール、体操、スケートなど9競技に関して、2027年度以降、全国中学校体育大会(全中)を廃止すると発表した』ことについての考察です。
 その中で、町田氏は、『学校教育現場の労働状況に鑑みる』と『全中廃止は不可避』との見解を述べ、『全中に依存してきたのは、教育界ではなく、むしろスポーツ界や高校・大学の受験制度である』『各競技の統括組織は全中に依存しない競技運営の在り方を早急に模索すべき』と提言なさっているのです。どういうことかというと、『全中に有望選手のスカウトマンが来ていたり、全中の結果次第でスポーツ推薦が決まったりする』という実態があるからなのです。
 その通りだと思います。と同時に、とても勇気ある提言だとも思いました。『私もかつて全中のフィギュアスケート競技に参加した身』とある通り、アスリートであった町田氏にとって、スポーツ界に苦言を呈することは、裏切者という非難さえ覚悟しなければならない行為だと考えたからです。
 今回の全中9競技廃止問題は、学校における部活の在り方問題とつながっています。部活の廃止や縮小を提言すると、生徒が可哀想、我が国のスポーツの裾野が衰退してしまうという批判がなされます。そして、生徒の思いを尊重しない、日本のスポーツ界全体を見る広い視野が欠けているということで学校や教育行政が悪者にされるという構図です。
 全中廃止についても、今まで同じ構造で批判がなされてきました。批判する側=スポーツ界、批判される側=教育界です。そんな中、一流アスリートであった町田氏が、問題はスポーツ界の側にこそあるという指摘をなさったのです。
 私は、現代の学校にまつわる様々な問題は、我が国の過度に学校に依存する風習に原因があると考えます。社会で起きている様々な問題について○○教育という形で新たな教育課題として学校に持ち込まれることが教員の多忙化一因となっていることは紛れもない事実ですし、家庭における躾の問題も学校でお願いします、となっています。虐待やヤングケアラー、宗教2世などの問題も学校に発見と初期対応が委ねられそうな雲行きです。
  今回の全中問題が、学校への過度の依存問題を見直すきっかけになることを願っています。他所の○○界の都合で学校を振り回すのは止めにしてほしいものです。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

A校長の責任は

2024-07-11 08:16:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「校長Aの責任は」7月5日
 『元教え子宅に侵入した疑い 小学校教諭逮捕』という見出しの記事が掲載されました。『元教え子の女子高校生の部屋に侵入したとして、月島署は、江戸川区立上小岩小学校教諭、水野雅史容疑者を住居侵入容疑で逮捕した』ことを報じる記事です。
 逮捕を受け、江戸川区教委教育長は、『被害を受けた家庭に深くおわび申し上げる。教員の逮捕は誠に遺憾で、処分についてはと教育委員会とともに適切に対応する』と述べています。当然の内容です。
 しかし、一つの疑問が浮かびます。水野容疑者は、『以前、中央区内の小学校で、この女子高校生の担任(略)学校行事中に当時6年生だった女子高生の鍵を持ち出し、合鍵を作った』とされています。つまり、犯行の伏線となった「不法な合鍵作り」は、中央区で勤務しているときに行われていたのです。この行為がなければ、今回の住居侵入も起こりませんでした。それなのに、中央区教委や当時の上司である校長の責任は問われないのか、ということです。
 しかも、今年になって行われた住居侵入は、学校の勤務時間外の犯行です。しかし、5年前の合鍵作りは、学校行事中とあるのですから、勤務時間内の犯行になります。校長の管理下にある勤務時間内の行為と校長の管理指導が直接及ばない勤務時間外の行為とでは、前者が重く裁かれるとするのが常識的な考え方でしょう。それなのに、中央区教委のコメントがないのが不思議なのです。時効ということなのでしょうか。そうだとしても、道義的な責任を感じてコメントがなされるべきだと思うのですが。取材するメディアの側に、中央区教委にも訊いてみるという発想は浮かばなかったのでしょうか。
 私が教委に勤務していたとき、過去の教員の非行や指導上の問題について、苦情や問い合わせがありました。当時表面化していなかったとしても、責任を免れることはできないという自覚の下、状況を調べ直し対応をしたものでした。それが教育行政に対する信頼を維持する上で不可欠な取り組みだと考えていたものですが。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それは迷信

2024-07-10 08:33:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「神ではなく」7月4日
 反橋希美記者が、『心の中の「佐々木さん」』という表題でコラムを書かれていました。その中で反橋氏は、元東レ取締役佐々木常夫氏の思い出について書き、『一番印象に残ったのは「育児は自己実現の感触を得にくいもの」という一言だった』と述べられています。
 その理由について反橋氏は、『そう言ってしまってもいいんだと思った。当時の私は「母たるもの育児に喜びを感じねば」という重圧にがんじがらめだった』と語られています。私は育児の経験がないうえに、女性ではないので「母親」というものに対する重圧を十分には理解できていませんが、我が国にはまだそうした、あるべき母親像、母性神話のようなものが根深くあることは理解しているつもりです。
 同じようなことが、教員についても言えるのではないでしょうか。教員は授業や子供の指導に喜びを感じるべき、という考え方が、教員にとって重荷となっている現状があるのではないかということです。
 教え子の成長を実感できたとき、確かに喜びを感じます。熱量の低い教員であった私にもそうした瞬間はありました。しかし、他の仕事でもそうでしょうが、喜びややりがい、充実感や達成感を感じる瞬間があると同時に、その何倍ものボリュームで、辛い、嫌だ、腹が立つ、怒りすら覚えるといったマイナスの感情に支配されることがあるのも事実です。それも、校長や副校長といった上司、同僚の教員、保護者、教委の職員といった対大人関係ではなく、教え子と向き合っているときにも、そうしたマイナスの感情に支配されるときがあったのです。
 思い出は過去を美化する、ということがあります。私も教職を離れ、過去の教え子たちとのあれこれを思い出すとき、「美しい思い出」が多くなっていますが、じっくりと当時のことを思い返すと、私は不機嫌で、その感情のために意地悪な教員であった場面が浮かび上がってきます。
 先程、私は熱量の低い教員だったと書きました。正直、マイナスの感情もあまり強くない方だったのかもしれません。また、教員聖職論とは早くから距離を置いており、子供の喜び=自分の喜びというような感覚自体が少なかったと思います。飾らずに言えば、サラリーマン教員、デモシカ教員的な面が強かったということかもしれません。それでも、負の感情と縁を切ることはできなかったのです。
 ですから、私とは違うタイプ、教職を天職と考え、教員は子供の成長を最大の喜びとすべきという固定概念に囚われ、自らを理想の教師像に近づけようと必死に努力し続けていた教員、彼らは、反橋氏と同じように、理想と現実の食い違いに苦しんでいたのではないかと想像するのです。
 教員専門職論の立場をとる私は、現役の若い教員に、「子供との触れ合いに喜びを感じるのが理想の教員」などという迷信は捨てなさいと言いたいです。必要なのは、子供を成長させる責任感と、その責任感に裏打ちされた専門職としての研鑚だと。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする