ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

やってみたのはいいけれど

2016-04-30 07:15:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「投票に行きたくなる?」4月25日
 『組み体操 生徒は「賛成」』という見出しの記事が掲載されました。豊島区立明豊中学校で行われた模擬投票について報じる記事です。記事によると『同校では毎年6月の運動会で、3年生男子が組み体操のタワーやピラミッドを披露してきた。小林校長は「運動会の安全を考えるきっかけにしたい」と考え、教員だけでなく生徒にも組み体操への賛否を問うことにした』のだそうです。
 結果は、『投票率57.2%で賛成票が6割弱と反対票を上回った』とのことで、校長は『皆さんの意見を踏まえて、先生とも話し合って判断する』と語ったそうです。主権者教育の事例として紹介されていますが、首をかしげてしまいます。
 小林校長は、都の指導主事の後輩にあたる方で、主権者教育についての造詣も深い方です。でも今回の模擬投票は、生徒に誤った概念を植え付けかねないと思います。まず、教育課程に位置付けられた特別活動の保健体育的行事の内容について、生徒が意思表示することが望ましい、という誤解です。これが拡大すれば、遠足でどこに行く、社会科見学で何を見る、学校祭をいつ何日か行う、全て生徒が「口を挟む」ことが望ましいということになりかねないのです。それは、校長の教育課程編成権を犯す行為です。
 また、あくまで参考に聞き置く、という位置づけであれば(おそらくそう思われる)、6割の賛成にもかかわらず、実施を決めた場合、生徒に、「私たちの意見を聞くとは言うけれど、形式的なものに過ぎない」という思いを抱かせる可能性があります。これは、自分が投票したところで何も変わらない、という若者が選挙で棄権する原因とされる、民主主義への懐疑や冷笑を培うことにつながりかねません。
 さらに、民主主義国家の宿命である、複数の民意調整問題についても、配慮が足りません。複数の民意とは、普天間基地県内移転を進める政府への国民全体の支持と県外移転を求める沖縄という当該地域の民意、というようなことです。今年組み体操の当事者となるのは3年生の男子生徒です。他の生徒は当事者ではありません。そして3年生の組み体操反対は66%に対し、1年生は70%、2年生は65%が賛成と、「民意」は対立しているのです。この受け止め方、解釈をきちんと伝えなければ、民主主義とは多数決というあまりにも単純な誤解を受け付けることになってしまいます。その点について何も触れられていないことが不安です。
 最後に、生徒の感想として取り上げられた内容についても疑問があります。3年生の生徒の感想として『~投票の仕方もよく分かった』が紹介されていました。取り上げられていた感想はこれだけですから、M紙は、この感想が主権者教育の成果を表す事例だと判断したのでしょう。でも、投票の仕方とは、予行練習をしなければ理解できないようなものでしょうか。学校で予行練習の経験のない我々熟年世代は、初めての投票でやり方が分からず戸惑ったでしょうか。そんなはずはありません。投票所に行けば、係員の指示を受け、掲示された説明書きを読めば小学校の高学年の子供でも簡単にできる程度のものです。投票の仕方が分かることは、必要な学習成果ではないと思います。
 M紙には、続報を期待したいです。

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それは違う-国連暫定報告書

2016-04-29 07:35:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それは違う」4月25日
 『放送法と秘密法 国連専門家批判』という見出しの記事が掲載されました。我が国における「報道の自由」に関する状況調査のために訪日した特別報告者デビッド・ケイ氏の見解を報じる記事です。本文では触れられていないのですが、記事の中の『暫定報告書(要旨)』という囲み記事に、『歴史教育と報道の妨害』という項目がありました。
 そこには、『中学校の歴史教科書から慰安婦の記述が削除されつつあると聞いた。第二次大戦中の犯罪をどう扱うかに政府が干渉するのは、国民の知る権利を侵害する』とありました。私は、ケイ氏の指摘通り放送法第4条に関わる総務相の発言や特定秘密保護法に懸念を覚えています。総体として適切な指摘であると考えています。しかし、上記の「歴史教育~」という指摘については違和感を禁じ得ません。
 今までもこのブログで述べてきたことなのですが、中学校の社会科教科書と歴史研究書とは全く違うものです。教科書はある時代の無数にある歴史的事実の中から、学校教育の目的に応じて、取捨選択して取り上げる事例を決めて掲載するものです。ですから、ある時代のある事例が掲載されていないということは当然なのです。ですから、中学校社会科の教科書を歴史学者が読めば、「○○時代を理解する上では、△△について考えることが不可欠であるのにもかかわらず、記載がない」というような批判や不満はあって当たり前なのです。
 実際、私が教員時代に全歴研という団体で小中高の教員が合同で奈良時代の授業の比較検討を行ったとき、より歴史学者に近い発想の高校教員からは、あれがない、これも足りないという趣旨に感想がもたらされました。その通りでした。しかし、彼の指摘を全て受け入れれば、小学校におけるなら時代の授業は1カ月近くを要することになってしまったでしょう。限られた授業時間の中で、学習指導要領の狙いを達成するためには、大胆な切り捨てが必要になるのです。つまり、政治的な思惑や思想上の統制ということではなく、純粋に教育上の必要から、教科書に取り上げられる歴史事象は精選されざるを得ないのです。
 一方、歴史学は調査分析によって明らかになった歴史的事実に基づき、歴史事象の全容を明らかにし、その価値や意味を考察する学問です。学問研究に於いて、事実と異なる結論を強制することは、許されることではありません。もちろん、慰安婦はいなかった、ということは×です。南京大虐殺はなかったも×です(数値や強制の問題はまた別)。
 もし日本政府が、慰安婦はいなかったという結論を導き出せとか、慰安婦はすべて本人の希望で集まった売春婦ということにせよ、というような圧力を歴史学者や真実を報じることを使命とする報道機関にかけたとすれば、それは絶対に許されません。しかし、教科書の記述問題は、それとは違うのです。
 私は、保守派ですが、個人的には慰安婦問題も南京大虐殺も、教科書に記述すべきだと思っています。ただし、確定した事実と、様々な見解がある部分とを明解にしつつ、です。だからといって、外国や国連から、教科書の記述の有無について言われるのは筋違いだと考えます。それは、国家主権の問題だと思います。暫定報告書には、国民が、中学校の教科書以外に慰安婦問題について、情報を得ることができないという状況ではないことも、きちんと触れてくれなければ、バランスを欠くと思います。

 

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もう一つの教委改革、昔は議論されたが…

2016-04-28 06:56:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「近年は話題にならないが」4月23日
 『自民党内に厚労省分割案 若手議員ら主張 塩崎氏は反発』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、自民党の「2020年以降の経済財政構想小委員会」が、『「巨額予算を抱える厚労省で1人しか大臣がいない」と指摘。少子化対策や社会保障費の急増に対応するため、厚労省の分割など組織に関する提言』をまとめるとのことです。
 省庁再編で一緒にしたものをまた分割か、という思いもしますが、そのことについて語るだけの知識はありません。ただ、組織の分割といえば、以前は教育委員会についても盛んに論じられたということを思い出しました。
 地方自治体の教委は、大きく分けて学校教育と社会教育を所管しています。私が勤務した区市では、前者が指導室・学務課、後者が生涯学習課・スポーツ振興課というような構成になっており、全体を庶務課が統括するという形でした。後者は、体育館や図書館といった施設の運営、維持、管理、補修や新増設、様々な社会教育団体の窓口として調整などを所管していましたが、基本的には首長部局の仕事、区民課や地域振興課などと大きな違いはありませんでした。学校教育関係課のように、国歌斉唱や国旗掲揚、教科書採択など思想信条の自由を掲げた団体との微妙な問題もなければ、数百人という教職員の人事管理という課題、いじめや不登校など社会の注目を集める危機対応、学校や教員への指導助言という専門性が求められる場面などはなく、同じ教委内の組織であっても、ほとんど没交渉だったのです。
 そこで、学校教育だけを教育委員会が所管する形とし、社会教育関係は首長部局とするという案が、常に検討されていたのです。もちろん、実現には地方教育委員会の組織及び運営に関する法律を始め関係法令の改正が必要であり、実現に向けて具体的な取り組みが進んだことはないのですが、長い間、水面下では議論されていたのです。
 こうした議論が下火になったのは、学校週5日制が導入され、教育における過度の学校依存を正す、という方向性が示されたことが大きな影響を与えたからです。生涯学習という概念が浸透し、学校教育と共に「教育」の2本柱として、教委が管轄することが望ましいとされたからです。
 しかし、ゆとり教育批判から学力向上へと国民の関心が移り、授業時間の確保が土曜日の授業復活へと進むにつれ、生涯学習という概念すら忘れられがちとなり、今では、当時の理想は影もありません。そうだとすれば、教委分割は改めて検討する価値がある課題です。首長の教育行政関与を強める改革が実行され、今教委改革を言う人はいませんが、教委分割により、学校教育は教育長に、首長は社会教育にのみ直接関与という形を検討して欲しいものです。

 

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カッコイイ

2016-04-27 07:37:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「カッコイイ」4月22日
 数学者ピーター・フランクル氏へのインタビュー記事が掲載されました。その中でフランクル氏は、両親から『財産になるのは頭と心だけ』と言い聞かされて育ったという経験を話されていました。そして、両親の影響で『知識があることがカッコイイ』と考えるようになったこと、日本に定住を決意したのは『「ものごとを知っている人、努力をする人が尊敬される。「財産は頭と心にある」という価値観を理解してくれる国だ」と感じたからだ』と語っていらっしゃいました。
 何だか恥ずかしくなってしまいます。もしかしてこの言葉は、フランクル氏の皮肉なのではないかと思い、全文を何回か読み返してみましたが、そうではないようです。
 私はこのブログで、教員は必要な知識を教えることを躊躇ってはいけない、知識の蓄積はあるレベルを超えると質的に変化し有機的に繋がって認識や思考の枠組みを作る、知識なしに独創的な発想も創造も生まれない、など、学校教育に於いて、知識注入主義、暗記型教育の名の下に、知識を与えることを問題視する風潮に疑問を投げかけてきました。
 ですから、フランクル氏が「知識があることがカッコイイ」という考え方には大賛成です。しかし、フランクル氏の考えを皮肉かと疑わざるを得ないほど、我が国では知識は悪者にされています。有識者といわれる人の中には、知識が自由な発想の邪魔をしていると言う人がいるくらいなのですから。
 そして、知識以外でも、フランクル氏の言う「努力する人が尊敬される」も、今の日本人の意識とは大きくかけ離れているように思えます。努力はダサいこと、黙々と努力するなんて面白味がない、と冷笑されるのが現実です。
 ユダヤ人であるフランクル氏が日本定住を決意したのは1988年だそうです。時代が昭和から平成に移り変わろうとしていた時期です。昭和の日本にはあった「知識と努力」を重んじる気風が、平成に入ってなくなってしまったということなのでしょうか。戦後の昭和は発展の時代で、平成は停滞の時代といわれます。もしかしたら、それは「知識と努力」の軽視がもたらしたものなのではないかという気がしてなりません。もう一度、物知りと努力家がカッコイイという価値観を復活させたいものです。

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固定観念打破

2016-04-26 07:20:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「固定観念」4月22日
 前橋支局の三木陽介記者の『疲弊する教育現場 時代遅れの教職員配置』という表題のコラムが掲載されました。三木氏は、社会部在籍のころ、主に教育関係を担当し、学校教育の現状をよく知る方です。
 コラムの中で三木氏は、『小中学校の教員を取り巻く環境が深刻だ』と指摘し、『対応すべき課題は多様・複雑化している。少子化で子どもの数が減っているといえ、学校に人手が足りないのは明らかだ』と主張してくださっています。的確な指摘です。さらに具体例を挙げ、指摘の正しさを分かりやすく述べています。『50代の男性教員は連日午前7時に学校に出勤し、部活動を指導する~(中略)~授業準備に入るのは午後10時過ぎだ』『学校に寝袋を持ち込み泊まり込む若手教員もいる』など。
 また、具体例だけでは特殊な事例を拾っていると思われる方もいるかもしれないとの配慮でしょうか、『1週間当たりの勤務時間は日本が53.9時間と最長(参加34カ国・地域平均は38.3時間)。内訳をみると、部活動など課外活動指導が7.7時間と平均(2.1時間)の3倍超。書類作成など事務作業も5.5時間と平均(2.9時間)のほぼ倍。文科省の調査でも1日の平均勤務時間10時間36分のうち休憩はわずか14分』と客観的なデータも示されています。しかも嬉しいのは、『「忙しいのは先生だけじゃない」。そう思われる方もいよう。しかし、同列に扱うのは違う。相手は子どもたちだ』と教職における多忙化がもたらす悪影響をきちんと指摘していらっしゃるのです。
 大変ありがたいことです。でも、こうした現状に対する処方箋には問題があるのです。三木氏は、教員以外の職員の配置を増やすことを掲げていらっしゃいます。スクールソーシャルワーカーやスクールカウンセラー、部活指導員などの常勤化、人件費の国庫負担を求めているのです。
 我が国の財政状況は先進国の中でも最も厳しい状況にあります。経済状況も、高齢化、成熟化が進む中で、かつてのような高度成長は望めません。国民の関心事は、保育や介護などの社会保障の充実に向かっています。とても、教育予算の大幅な増額が認められる状況ではないと思います。
 そんな中で求められる解決法は、仕事量に応じて人を増やすのではなく、人に応じて仕事量を減らす発想です。三木氏の調査を借りれば、部活を社会教育に完全に移行するだけで、勤務時間は46.2時間になります。多くの欧米先進国のように給食と清掃をなくせば、14分の休憩時間は1時間になります。しかもこうした対策は、他の教育的効果も見込めるのです。
 部活についていえば、以前落合論説委員が提唱なさっていた「緩い部活」、つまり、週に1回ぐらい仲のよい仲間とレクリエーションとしてテニスがしたいという生徒、頑張って中学校生活の思い出に県大会に出場したいと毎日練習する生徒、テニスの特待生として早朝も休日もハイレベルの練習がしたい生徒などが同じテニス部に所属する、が実現できるのです。勝利至上主義が指摘され、一部は体罰の温床となっている部活が正常化するのです。それは、各種調査で明らかになっている、運動する子しない子の二極化を防ぐことにもなります。
 学校の仕事を減らし、それを社会や家庭の中で担っていくという教育本来の形、原点を見つめることも必要です。

 

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マッチポンプ

2016-04-25 07:11:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「想像力の欠如」4月21日
 『過去の問題で学テ対策』という見出しの記事が掲載されました。『今年の全国学力・学習状況調査を巡り、成績を上げるために2月ごろから生徒に過去の問題をとかせていた地域があった』ことに関する記事です。記事によると、こうした事態を受け馳文部科学相が『学力テストは点数の競争ではなく指導改善につなげるためのもの。本末転倒だ』と怒りを露わにしたそうです。
 なんだかなぁ、という気がします。善悪の問題以前に、こうしたことは事前に十分予想されていたはずです。もし、馳氏が本心から「想定外」だというのであれば、その頭の悪さには驚かされます。
 学力テストを巡っては、結果公開の有無が問題になってきました。結果の公開を求めてきたのは知事などの政治家です。教委や学校から公開を求める声は皆無でした。当初は公開に反対の姿勢であった文部科学省も、こうした政治家たちの声に押され、公開を認めるように方向転換しました。付け加えるならば、こうした首長の多くが、馳氏と同じ自民党系の政治家でした。
 そこには、今は往事の面影もない日教組や全教に対する不毛な敵愾心に基づく教員怠惰論があり、ぬるま湯に浸かった教員たちにショックを与えて頑張らせるためには競争原理を導入し、成績の悪い学校の教員=怠け者の教員というレッテルを貼り、そうした教員たちに世論によるバッシングを集中させて頑張らせる、頑張れない者はいたたまれなくして退職に追い込む、という共通した発想があったのです。
 それでも、教委や学校には、「学テ対策」という発想は乏しいものです。13年前、全国学力テストに先駆けて。都教委が行った学力テストで、私が勤務していた市がトップの成績を収めました。そのとき、メディアは騒ぎましたが、都内の私のような指導室長やその部下である指導主事たちの間では、大きな話題にはなりませんでした。学校や地域をよく知る「専門家」の間では、地域や家庭が学力に及ぼす影響は大きく、原則最長6年間で異動を繰り返す教員の授業力には地域間格差はほとんどないことは周知の事実であり、関係者だけに公表された結果を目にしても、分かり切ったことが改めて示されたという以上の意味はなかったのです。そして、我々「専門家」の中では、学校や教委、教員などについて、教委の企画力や危機対応力、校長の管理能力や人材育成力、学校単位での子供理解や授業力などについて、かなり正確な「評価」が存在していたのです。そうした「評価」は、学力テストの結果によって左右されることはありませんでした。専門家は専門の価値を知る専門家仲間の評価こそが、本当の評価であることを認識していたものです。もちろん、学力テストの結果を受け、教員の授業力向上策で競い合うことはありましたが。
 しかしそんな状況の中でも、私の市では、首長部局からは「よくやってくれた」というお褒めの言葉をいただきましたし、A区では、首長が「来年は汚名返上を」と檄を飛ばしたのです。つまり、政治家というのはそういうものなのです。当時は教委改革以前で、教育行政の権限と責任は首長にはありませんでした。それでも…、だったのですから、現在のように首長が学テの結果を自分の手柄としてアピールするようになれば、教委や学校に強烈なプレッシャーが加わり、無言のうちに「対策」を求めるようになるのです。
 そうであれば、最も手軽な対抗策として「学テ対策」が横行するというのは、誰でも少し頭を働かせれば分かることです。実際、多くの指揮者がそうした危惧を表明していました。それなのに、大臣や官僚がその程度の想像力すら働かないはずはないのです。つまり、分かっていながら分からなかったふりをしているのです。悪質です。
 教員経験のある国会議員として、長年文教政策に携わってきた馳氏は、怒ったふりをするのではなく、真摯に反省すべきだと思います。

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「正解」があるはずだと思ったが

2016-04-24 07:45:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「やはり技量が」4月21日
 前東京芸大学長で文化庁長官の宮田亮平氏へのインタビュー記事が、『そこが聞きたい 文化庁の京都移転』という表題で掲載されました。その中で宮田氏は、『日本の教育現場では「美術」の存在感が低いと思います』という記者の質問に対して答えています。そこに次のような記述がありました。
 『美術を教える人が、本物の美術に感動していないんですよ~(中略)~教育課程の中で芸術に触れる時間を増やしたいですね。これからの時代、素晴らしい人材を育てるには幅広い教養と多彩な感性が必要です~(中略)~日本は技術も高いし、世界に誇れる作品も作ってきましたが、どうもそのことに気づいていない~』というものです。
 私のブログを読んでいただいている方はお分かりだと思いますが、私は、図画工作・美術科という教科について、発想や感覚と技術というものの関係について、評価の視点から再三言及してきました。専門家ではない私は、こうあるべきという意見があるのではなく、分からないということを正直に述べてきたつもりです。ただ、保護者や子供に対して説明責任があるという立場から、教員の主観が評価を左右していると思われることは極力避けるべきであり、そのことから技能という客観性が強い視点が重視されることになるのではないか、という感触をもっているということも述べてきました。そして、多くの図画工作・美術科教員は、私の「感触」とは違い、発想や感覚を重視する傾向があるという指摘もしてきました。
 宮田氏のご意見を目にして、さらに分からなくなりました。宮田氏は教える人の「感動」を重視しています。感性が必要とし、芸術に触れる時間を増やすことを提唱しています。私の捉え方がゆがんでいるのかもしれませんが、「芸術に触れる」行為とは、創作よりも鑑賞のイメージです。ここまでは、技術的な視点は軽視されているように受け取れます。しかしその後、日本の作品は技術的に高評価であると述べていらっしゃいます。技術に目を向けているのです。混乱してしまいました。
 権威に弱い私だけなのかもしれませんが、東京芸大は芸術教育の頂点であり、学長は我が国有数の美術教育についての見識を有する方であるはずです。その言葉には、図画工作・美術科における発想・感覚と技術についての「正解」があるはずだと思ったのですが。

 

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校長は言わなかったのか

2016-04-23 07:20:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「誰もいなかったのか」4月20日
 日本家族計画協会クリニック所長北村邦夫氏が、『中学生から衝撃的な批判』という表題でコラムを書かれていました。その中で北村氏は、中学校での講演で、お産をした母親の第一声が、『ほぼ毎回「うちの子、五体満足ですか」だった』ことを話してきたことを「白状」した上で、感想文に綴られた「衝撃的な批判」について言及されています。
 『僕は北村先生を尊敬できません。大勢の中学生を前に、産み終えた直後に母親が発する言葉は「五体満足ですか」で、それに対して「ご安心なさい五体満足ですよ」と返すと、母親は安堵のため息を漏らすと言っていましたよね。生まれながらにカラダの不自由な僕の友人が、どんな気持ちで聞いていたかを考えるだけで腹が立ちました』というものです。この指摘を受け、その後北村氏は、「五体満足」という言葉を使わなくなったということです。
 正直なところ、最初私は、北村氏に対して、「こんな初歩的なことも分からないような人権感覚が欠如している人物が…」と非難する思いを抱きました。教員にとっては、あまりにも当たり前のことだったからです。
 しかし、しばらくして別の大問題に気が付きました。それは、北村氏が、この「五体満足」をあちらこちらの中学校や高校で口にしていたにもかかわらず、このときまで誰からも、批判も指摘も受けていなかったという事実です。
 講演会には、その学校の教員はもちろん、校長か教頭という管理職が同席していたはずです。人権教育を担当する教員もいたはずです。学年主任、教務主任、生活指導主任といった指導的立場の教員もいたはずです。
 それにもかかわらず、誰も北村氏の「問題発言」を指摘する人はいなかったのです。その場で講演を中断させて指摘するという行為が、講師に対して失礼だと躊躇う気持ちは理解できます。でも、講演終了後、校長室や応接室等でお茶を飲みながら懇談する機会が設けられていたはずなのです。そこで、「先ほどの講演の中で…」と指摘することはできたはずなのです。
 私が校長であれば、生徒を行動に待たせておき、講師の同意を得た上で、もう一度講師に登壇していただいて、講師自らの口から取り消しと訂正をしていただきます。実際に、教委勤務時代には、休憩後に再会した講演会で訂正をしていただいたことがあります。そのときの講師は「業界」の大御所的存在の方で、問題発言を指摘するときは、びっしょり汗をかきましたが、それが自分の務めだと思いました。
 我が国の校長は、事なかれ主義者ばかりだったのか、と暗澹たる気持ちになりました。中学生の批判は、校長を含む教員全体に寄せられたものだと受け止めるべきです。

 

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待っていてくれるか

2016-04-22 07:18:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「長い目で」4月17日
 日本医大特任教授海原純子氏が、『長く続ける』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、医師として研究者としてのご自身の半生を振り返り、『長年の細々とした仕事の継続は、確実に私自身をかえてくれたと思う。若いころの自分をふり返ると、どうしようもない子どもだった。しかし、どうしようもない子どもでも医師という立場になると相手の話をきちんときき、共感しないと仕事にならない~(中略)~仕事はすごい力をもつものだと思う。わがまま勝手な若者だった私を大人にかえてくれた。いや、仕事の力がすごいのではなく何事も細々とでも長く一生懸命続けることは力をもつのだと思う』と書かれていました。
 本当にそうだなぁ、としみじみ思います。海原氏の感慨は、レベルは違いますが、私自身のものでもあります。22歳で教員となったころ、私はとてつもなくいびつな若者でした。短期間の家庭教師以外に働いたこともなく、親と同居していた私は、身の回りのことはすべて親任せ、目上の人に対する口の利き方もよく分からず、初対面の人にどう挨拶すればよいのかも知らず、他人の家を訪問したときどうやって靴をそろえればよいのかも考えたことすらありませんでした。そして、何もできず何も知らないくせにおかしなプライドだけはもっているという手の付けられない人間だったのです。
 そんな私が教員を続け、指導主事になり、やがて指導室長となって、偉そうに校長会で話すようになっていったのです。いったい、いつの間に私は変わっていったのか、ふり返ってみるとよく分かりません。何がきっかけで変われたのか、どのような経験が私を撓めたのか、全く自覚がありません。
 言えることは、長く続けてきた、ということだけです。少し付け加えれば、このブログでも再三触れてきたように、授業記録と社会科授業法の研究をシコシコと続けてきたことかもしれません。
 この4月に、教員となった若者がいるはずです。その中には、かつての私のように、教員と呼ばれるに相応しい中身の伴わないことに気づき悩んでいる人がいるかもしれません。でも、くじけないで欲しいと思います。不足を自覚しつつ、それでも前向きにあがき続けてさえいれば、いつか変わった自分に気が付くはずです。
 ただ、牧歌的だった私の若者時代のように、今の保護者や先輩教員や校長が、根気強く待っていてくれるかどうか、不安ではありますが。

 

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私のカネだ!

2016-04-21 07:34:18 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「きっちりと」4月16日
 同志社大教授浜矩子氏が、『人はなぜ税金を払うのか』という表題でコラムを書かれていました。パナマ文書問題を取り上げているのですが、私が気になったのは、主題である税金回避についての指摘ではなく、浜氏の税金そのものについての解説でした。
 『税金というものに、1対1の見返りを期待するのはおかしい。税金とは、要するに他人のために払うものだ。そこが基本なのだと思う。むろん、自分が享受する公共サービスへの対価でもある。だが、そもそも、公共サービスのどこまでが自分に帰属するもので、どこからが他者のためのものなのか。それを切り分けることができるのか・それができないところに、公共サービスの本源的な特性がある』というものです。
 公立学校は、税金によって営まれる公共サービスの一つです。だからこそ、納税者である保護者や市民からの要望や苦情に対応する義務があるのです。このことを裏返して言えば、納税者である保護者や市民には、学校や教委に対して要望したり、苦情を言ったりする権利があるということになります。
 そこまではよいのです。私も教委勤務時代には、時間をかけてきちんと話を聞き、丁寧に対応してきました。もちろん、予算や制度、教育の専門家としての見解等に基づいて、「ご要望には添えません」とお答えすることが多かったですが。
 しかし、上記の権利を、要望や苦情を言うだけではなく、要望が叶えられ、苦情が受け入れられる権利があるというレベルまで拡大して捉えている人がいることが問題なのです。私が納めている税金で教員が給与を受け取り、校舎が建てられ、備品が整備され、日常的に使う消耗品が購入されているのだから、私たちの要望は全て受け入れられ実現されなければならない、という発想の人たちがいるのです。いわゆるモンスターペアレンツといわれる人や、トラブルメーカーとされる人たちは例外なくこうした発想を背景にしています。
 一部の特殊な人だけではなく、メディアや有識者と呼ばれる人、市民活動家の中でも、こうした発想は幅を利かしています。実は、学校で教えられる「民主主義」もこうした考え方を肯定しています。おそらく、現在の中高生にこうした「納税者の要望は実現されなければならない」という命題について話し合わせれば、多くの生徒が同意を示すはずです。
 しかし、浜氏は、税金は自分に見返りを期待するのではなく他人のために納めるものだと言っているのです。浜氏の立場に立てば、納税者は万能の権利を持つ者ではなくなります。少なくとも、要望が叶えられるべきだと期待してよいのはほんの一部分にすぎないということになります。
 「我が家ではミネラルウォーターでお米をといでいるのですから、給食でもそうしなさい」という要望は、絶対権力者の命令ではなく、1/100の少数意見に過ぎないと自覚するということでもあります。
  保護者は、我が子のが受ける学校教育は、自分が納めている税金の対価としてのサービスではなく、大勢の他人が納めてくださっている税金のお陰、と自覚することが大切です。その上で、意見を言う権利を行使してください。

 

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