ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

論理的説明とカン

2012-11-30 08:00:06 | Weblog
「論理とカン」11月25日
 心療内科医の海原純子氏が、『エビデンスに基づく仕事』という標題でコラムを書かれていました。エビデンスとは「根拠」のことで、コラムの中で海原氏は、『アメリカで研究活動をしている間、なにかというと「エビデンスは?」ときかれた。その問いに対する論理的な回答とデータ、参考文献をきちんと準備するのがいつか習慣となり体に染み着いて今も続いている』と述べています。
 これは我が国ではあまりきちんと根付いていない「文化」だと思います。海原氏はその具体例として、田中文科相の大学設置不認可騒動をあげています。『大学の質の低下の基準はなになのか、大学の数と質の低下の相関のエビデンスは示したのか、審議会委員に大学関係者が多いと反対しにくいいうのはデータをとって証明されているのか、、逆に関係者が少なく部外者が多いといい決定ができるというデータはあるのか』と米国の大学教授らが議論していたというのです。
 反省させられる話です。私はこのブログで、学校教育について、様々な意見を述べてきました。それらはほとんどすべて、「エビデンス」に基づかない、『あやふやな経験や直感』に基づくものだからです。でも、自分に甘いという非難は承知の上で言わせてもらえば、一個人としてはこんなものだと思います。ねつ造や悪意による切り捨てはしていないつもりですし、研究者ではない人間が何かを言うときに研究者と同じレベルで「エビデンス」を求められれば、何も言えなくなってしまうからです。もちろん、政治家や責任ある立場にある官僚や学者には、「エビデンス」を重視してもらいたいとは思いますが。そして、昨今の教育論議には、こうした「エビデンス」主義とは正反対の乱暴なものが多いという思いもしています。
 一方で、私はこんなふうにも考えてみるのです。学校の教員にも「エビデンス」主義は求められるのか、ということです。カンを排し、データに基づいて授業をするのが望ましいのかということです。私の「カン」では、そうではありません。いくら膨大な数の子供を対象にしたアンケート結果であろうと、それが目の前にいる子供にとっても有効であるという保証はありません。子供の発言や行動に対して、瞬時に次の指導の手立てを決め行動に移すことが必要な授業中に、データを照会する余裕はありません。教員は、研究者や学者ではなく、職人なのです。豊富な経験に基づく暗黙知としてのカンこそが、良い教員の条件だと思います。違うでしょうか。

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間違った現場主義

2012-11-29 08:16:28 | Weblog
「現場を尊重する」11月25日
 東京大学大学院ものづくり経営研究センター特任研究員の吉川良三氏が、『日本企業は出稼ぎを』という標題でコラムを書かれていました。その中で吉川氏は、『経営者に求められる最も重要な役割は、高い視点から産業の先行きを見通し、大きな方針を示すことだ。しかし、日本ではいつからか経営者が工場に足を運ぶことを美徳化し…』と述べています。
 よく分かります。一国のトップである野田首相も街の小さな企業や認知症施設を視察し、自らの政治姿勢をアピールしているくらいですから。要するに、日本人全体の気質として現場重視主義が根付いているのでしょう。
 私は、現場から遊離した空理空論を推奨しているわけではありません。現場を知ることは大切です。しかし、その方法が間違っているといいたいのです。私が教委に勤務しているときにも、議員や首長、教育委員などの学校視察が行われていました。受け入れる学校側は、事前に視察計画に沿った準備をします。教室の掲示物を点検し、ボロが出ないような授業を設定し、日常の教育活動を見栄えよくまとめた資料を準備して力のある教員に学校の現状を説明させるわけです。
 それは普段の学校、本当の学校の姿ではありません。それにもかかわらず、そんな上辺だけの見聞を基に、学校教育のあり方を考えられては、迷惑なだけだというのが本音でした。このように書くと、それならば飾らずに普段の姿を見せればよいと言うかもしれません。でも、「評価」される立場にある者が、できるだけ「欠点」を隠したいと思うのは人情です。では、不意打ちで行えばよいという考えもあるかもしれません。私はそうした考えにも懐疑的です。
 私が指導室長をしていたとき、議会待機の日というのがありました。予算委員会や決算委員会のときに、議員からの質問に備えて議会控え室で待機するのです。朝の9時から、長いときは夜の11時まで、昼食休憩を除いて、待機するのです。その間、一度も質問がされないこともあります。当時の私の時給は、4000円くらいでした。ただ一日冷暖房が完備された部屋で座って目を閉じているだけで、3万円以上も給料をもらっていたわけです。もちろん、答弁のための資料づくりには大きな労力を費やしてはいますが、そんなことは見ているだけでは分かりません。もし、「教育委員会の指導室長とはどんな仕事をしているのだろう」と誰かが見学していたとしたら、「なんて楽な仕事なんだ。税金泥棒だ」と思ったかもしれません。
 「現場」は、数時間視察したり、短時間立ち話をしたりしても理解できないのです。現場を知り、現場を尊重した改革をするためには、トップの業務の中に日常的に現場からのヒアリングタイムを設けることが必要なのです。具体的なイメージを言えば、管轄下の教職員全員に番号を振り、アトランダムに5人程度をピックアップし、当日の朝に所属校に知らせ、午前11字から1時間懇談するという形です。これを週1回、一年間継続すれば、現場への理解は飛躍的に深まります。なお、ここでいう「トップ」とは、首長や議会の文教委員などの人たちです。蛇足ですが、教職員から無作為に選ばれた人たちは所属校も氏名も明かさず、番号で話すようにすれば、さらに本音が聞かれるようになります。
 このシステムは、形式的な現場尊重のポーズをとるトップだけでなく、現場を敵視しトップダウンで何でも決めようとする例の人たちにも取り入れてほしいものです。
 
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偽物

2012-11-28 08:04:13 | Weblog
「偽物」11月24日
 『偽首相「仕事鬼だるい」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると『「ツイッター」の普及が進む中で迎える今回の衆院選。政治家の利用が広がる一方、なりすましも後を絶たない』のだそうです。こうした状況に備えるためには、『政治家は自己防衛のためにも「これが本物」といえるツイッターのアカウントを抑えておくべき』ということです。
 考えさせられる問題です。先月、保護者会についての「愚痴」をツイッター上でつぶやいて処分された教員がいました。これは本人も認め反省していたケースですが、政治家同様、教員についても悪意の偽ツイッターに対する対策が必要になってくるように思うのです。
 このようなことを書くと、考えすぎだといわれるかもしれませんが、そうではありません。私が教委に勤務していたとき、ある教員の学級が荒れ、教委が指導に乗り出したことがありました。私もその学級に入り、表面的には落ち着いてきたのですが、新たなトラブルが持ち上がりました。「A先生は教室でエロ本を読んでいる変態」「A先生の奥さんは勤務校の校長と不倫している」などの噂が保護者の間で広がっていったのです。もちろん事実無根の話でした。噂を流したのは誰か分かりませんでしたが、担任の交代を求める保護者が数人おり、その中の誰かではないかと思われました。
 当時は、携帯電話をもつ人がまだ珍しい時代でしたので、ツイッターもブログもほとんど普及していませんでした。狭い範囲の噂でしたので、打ち消すことができましたが、もし、今、ツイッターやブログ等で、「噂」を広められればての打ちようがなかったでしょう。しかも、職場の教員や教え子になりすまされれば、お手上げです。
 例えば、「職場の同僚のA先生。奥さんがいるのにしつこく誘ってくる」と同僚の若い女性教員の名でつぶやかれては、否定するのは大変です。教え子を騙り「部活のときにやたらに体を触ってくる」とつぶやかれても、犯人捜しは難航するでしょう。
 特に一般の教員よりも、校長や副校長などの職にある者は、多くの人の「標的」にされやすいので注意が必要です。「校長にセクハラされた」というつぶやき一つで、学校は大混乱に陥ってしまいます。  
 個人での対応には限界があります。教委は教員を守る仕組みを早急に整える必要があると思います。

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いじめ緊急調査から分かること

2012-11-27 08:15:54 | Weblog
「いじめ緊急調査から分かること」11月23日
 文部科学省が実施したいじめ緊急調査の結果が報じられました。その中から重要な点をいくつか指摘したいと思います。
 記事には、『最多だった鹿児島県の認知件数は3万877件。11年度の問題行動調査(395件)の78.2倍だ』という記述があります。半年間の数値ですから、実際のは156.3倍ということになりますが、それは大した問題ではありません。そうではなく、鹿児島一県でも、それだけの「いじめ」が発生しているということの意味を考える必要があるのです。鹿児島県が特別に「いじめ」が発生しやすいとは考えられませんから、同じような調査をすれば、全国で同じ程度の頻度で「いじめ」が発生していたと考えることができます。概算で年間400万件となります。私がこのブログで言ってきた、「全国で数百万件」という数字が正しかったということです。
 「いじめ」対応については、「いじめは犯罪」という主張の下、警察への通報や出席停止、強制転校などの措置をとるべきだという意見がありますが、年間400万件もそんな対応が可能だと考える人はいないでしょう。実際記事では、『重大ないじめ278件』としています。全体の1/10000の割合です。私が繰り返し主張してきた「いじめのほとんどは学校で教員が対応すべき」「犯罪というべきいじめは警察に委ねることを躊躇わず」という考え方が適切だったということが分かります。
 また、「重大ないじめ」とされた主な内容を見てみると、『冷やかしやからかい、悪口や脅し文句』が57.6%と断然トップで、『遊ぶフリで軽くたたかれたり蹴られたりする』が30.6%、『仲間はずれ、集団の無視』が12.6%などとなっています。つまり、「重大ないじめ」でさえ、怪我するような暴行や金品を盗られるのは、少数なのです。まして、「重大ないじめ」以外では、ほとんどが冷やかしやからかい、無視といった形なのです。いじめが陰湿化しているといわれますが、依然として大部分は従来型のいじめなのです。ちまり、教員の力で解決できるいじめがほとんどであり、カウンセラーの配置などの体制整備の前に教員の指導力の向上こそが必要なのです。
 さらに、いじめの内容についての調査結果から、冷やかしやからかいといったいじめから暴行や金品の強要にエスカレートしていくといういじめの発展型がうかがえます。このことは、「初期消火」の必要性を示唆しています。それでは早い段階でいじめに気付くのは誰かといえば、日常的に子供と接し長い時間を共に過ごす教員なのです。決して、カウンセラーや相談所の職員ではないのです。この点からも教員の指導力がカギを握っていることが分かります。
 9999/10000に当たる「よくあるいじめ」を早い段階で解決する教員の存在こそが、いじめ対策の基本なのです。

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教育リベラル派の奮起を

2012-11-26 07:56:33 | Weblog
「リベラル派は?」11月23日
 元内閣府参与の湯浅誠氏が、社会保障における自助派と共助・公助派を取り上げコラムを書かれていました。その中で湯浅氏は、『「自助」を唱える人々が、外交では強硬路線、経済では競争至上主義、組織論ではトップダウンを主張する一方、「共助・公助」を唱える勢力は、外交では協調路線、経済では創意工夫・内発的発展・環境調和、組織論では多様性の尊重を唱え、政治理念や路線、政策の「パッケージ化」が進みつつある』と述べていらっしゃいます。
 確かにそう思えます。ただ、学校教育を巡る議論だけがそうなってはいないのではないでしょうか。学校教育についても、保守派は、「自虐史観」脱却という強硬路線を唱えると共に学校選択制や学校の外部評価、教員の業績評価の導入など競争原理を信奉し、首長直轄のトップダウン型教育行政を志向しています。まさに湯浅氏の指摘通りに一つのパッケージになっているのです。
 では、リベラル派はというと、首長によるトップダウンではなく住民代表による学校理事会制度のような多様性尊重の組織論を展開しているものの、「自虐史観」脱却に対する理念は提唱できていません。また、学力テストの結果公表に反対するなど一見すると競争原理に反対しているようですが、「特色ある学校」推進は「特色」競争に陥っており、競争原理の導入に肯定的とも取れる有様です。
 つまり、教育改革においてもパッケージで政策を打ち出している保守派に対して、リベラル派は、きちんとした対抗軸を打ち出せていないのではないかと思うのです。ちなみに、湯浅氏のコラムが掲載された同じ日に、元祖リベラル派社民党の選挙公約が掲載されましたが、そこには学校教育に関する項目はありませんでした。
 私は基本的には保守派に近い人間ですが、学校教育についていえば、教委の廃止や競争原理の導入という主張には疑問を感じています。リベラル派には、保守派に対抗する意味での真の愛国主義、学習者である子供の知的好奇心や探求心の充足を重視する学力観、特色よりも基礎基本の徹底に重きを置く義務教育の再興など、新たな教育政策パッケージを提示してほしいものです。そうでなければ、学校教育論議は、論争のないまま保守派の勝利となってしまうのではないでしょうか。教育は国家百年の計と言われます。それに相応しい熱の籠もった論戦が必要なのだと思います。
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多ければいいのか

2012-11-25 08:18:25 | Weblog
「数の論理」11月20日
 作家の高村薫氏へのインタビュー記事が掲載されていました。その中で高村氏は、『私学に入れるお金持ちの子にしかきちんと勉強する機会がないなんて悲劇です。国家予算を教育に重点配分し、公立学校の先生を増やして底上げを図るべきです。一人一人の子どもたちをきめ細かくサポートし生きる知恵を学んでもらう』と今後の我が国の採るべき道を示しています。
 公教育の充実に目を向けてくださったのは、本当にありがたいことです。ただ、気になるのは、教員の数を増やせば、学校教育の底上げがなされるともとれる認識です。
 我が国において、少子化が問題になり様々な議論が盛んだったとき、ある識者の指摘に目から鱗が落ちる思いがしたことがあります。その識者は、問題なのは少子化ではなく劣子化である、という主張をなさっていました。少子化を懸念する理由の中で最大のものは、我が国の経済の衰退、国際競争力の弱体化等によってもたらされる国力の低下、三流国への転落でした。そうした視点から考えれば、質の低い労働者や生産性が低く親や社会に「寄生」して生きる若者が増加することは、大きなマイナスであり、自立に必要な知識や技能を身に付けることができず自立しようという意欲もない子供が増えることこそ大問題であるというのが、その識者の主張の眼目でした。
 彼の指摘は、量の問題ばかりではなく、質の問題にも注意が必要だという教訓でもあります。学校教育における教員の問題も、教員数だけではなく、教員の質の問題への着目が必要です。8人のまともな教員と2人の問題ある教員を抱えるくらいならば、9人のまともな教員だけで教育活動を行う方が、成果は上がるのですから。実際、指導力不足教員や不適格教員の問題が無視できなくなっている現状があります。
 教員の質は、人件費を増やせば解決できる問題ではありません。高村氏のように学校教育の重要さを理解し、教育がその国の全都に及ぼす影響の大きさを理解してくださる方にこそ、教員の質に言及してほしいと思ったのです。
 教員の質の向上には、国民の教職への理解の深化、専門家としての教員への敬意の醸成が欠かせません。それには予算の投入だけでなく、教育に関心をもつ識者主導の国民運動の進展を待たなくてはなりません。もちろん、教員が専門家としての自覚をもち、厳しい自己研鑽に励むことが大前提ですが。

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「思い」に反しても言う

2012-11-24 07:54:41 | Weblog
「思いに反しては?」11月20日
 臨床チャプレンの岡田圭氏の医療関係者を対象とした講演を題材に、永山悦子記者がコラムを書かれていました。臨床チャプレンというのは、『病や死と向き合う人の心のケアに携わる』資格なのだそうです。コラムの中で永山氏は、『患者さんとの対話では、皆さんが「こうしたい」「分かってほしい」というニーズを混同せず、患者さんの話に集中することが大切です。皆さん自身がどう思われるかを気にすることは患者さんには関係ないことですよね』という岡田氏の言葉を紹介し、『困っている人、弱っている人のためと考えている仕事が、自己満足になってはいないか』と問題提起しています。
 分からないのです。自己満足に陥ってはいけないということは分かります。自分の評価にばかり関心が向いてしまってはいけないと言うことも理解できます。しかし、医療に携わる専門家が、「こうしたい」という思いをもち、それを患者に「分かってほしい」と考え、そのために説明したり説得したりというような努力をすることがいけないことだと言われると、分からなくなってしまうのです。
 教員も、子供の思いを理解することが大切だと言われます。そのために、まず子供の言葉に虚心に耳を傾けることが求められています。例えばいじめの場合、いじめを受けている子供が「先生に話を聞いてもらったからすっきりしました。もう大丈夫です」と言うことがあります。また、「他の先生や親には言わないでください。本当に困ったら先生に相談しますから」と言うこともあります。あるいは、「クラスのみんなには黙っていてください。勇気を出して○○君にぶつかってみますから」という意味のことをつぶやくこともあります。
 そんなとき、子供の言葉に耳を傾け、子供の意思を尊重すればよいのでしょうか。いじめ問題に対応したことのある教員であれば、上記のような言葉が当てにならないということを知っています。もし、教員が「分かった。先生は見守るようにしよう。辛くなったらいつでも先生に話に来なさい」と言って、「子供の言葉」を尊重し、新たな対策をとらなければ、必ずいじめは深刻化します。つまり、いじめを受けている子供が何と言おうと、教員は自分の専門的な知見に基づき、動き出さなければならないのです。
 つまり、子供の言葉に表された「意思」を尊重せず、「君はそう言うが…」と、子供を説得しなければならないのです。本人が望んでいたから、本人の気持ちを尊重して、ということを「言い訳」の種にせず、専門家としての責任で最善と思われる策を実行に移すという姿勢は時代遅れなのでしょうか。 
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「改善」では満足できぬ

2012-11-23 08:10:57 | Weblog
「理想の自分」11月19日
 同志社大学教授の浜矩子氏が、『再選オバマは鏡が怖い』という標題でコラムを書かれていました。その中で浜氏は、米国内で「我ら99%」の人々とティーパーティーの人々が、共にオバマ改革について不満を抱いている現状を紹介し、『これはおかしい。普通、このようなことはないはずである。何かを変えれば誰かが怒る。それは当然だ。だが、何を変えても全員が怒るというのは、実に理にかなわない』と述べていらっしゃいます。
 社会民主主義的な主張で大きな政府・社会保障充実を求める「我ら99%」と、自助を旨とし自己責任主義で小さな政府を求めるティーパーティー、その主張は正反対なのですから、どのような改革をしたとしても、どちらかの勢力からは支持されるはずなのに、そうはなっていないという指摘です。確かにその通りです。そしてその理由として浜氏は、『そこに自分の理想の姿がある。だからこの鏡をのぞきこんでしまったものは~(中略)~そして、全く現実が受け入れられなくなる』と述べています。つまり、理想に固執する余り、現実が一歩改善されても、理想に到達していないことの方に意識が向いてしまい、不満を持ち続けるというやっかいな症状に陥っていると言っているのです。
 これは、米国だけの話ではなく、同じように豊かな先進民主主義国家である我が国においても見られる現象だと思います。学校教育改革を巡る議論も同じ迷路に迷い込んでいます。いくつか例をあげてみましょう。
 例えば、小学校における英語教育です。高学年での実施について、導入反対派が評価しないのは当然ですが、導入推進派も、不十分だと批判しています。とりあえず一歩前進と評価し、数年経った後に検証して新たな方向性を打ち出そうという現実的かつ建設的な態度を取れない人たちが少なくありません。
 学校運営の正常化についても同じです。職員会議を諮問機関化したことについて、職員団体は反対しています。当然でしょう。しかし、改革を主導した側においても、「不十分だ。職員会議は連絡伝達の場としてのみ存在すべきだ」というような極論がくすぶり、不満をもつ人がいます。
 国旗国歌問題もそうです。長い年月を掛け、卒業式等での国旗掲揚、国歌斉唱は定着してきました。しかし、それに満足しない人々は、懲戒免職という厳罰の適用を求め、それを「公約」に掲げようとする政治家も現れています。
 私は、小学校への英語導入には反対、学校運営や国旗国歌問題では改革推進派です。それぞれに不満はありますが、これらについては「革命」的に一挙に変えるのではなく、漸進主義が望ましいと考えています。学校教育というもの自体が、継続性を重視すべきものだからです。しかし、どのような「改善」にも批判が寄せられる状態が続けば、「改善」ではなく「革命」が志向されるようになってしまいます。
 現実を見つめ、理想は遠い目標としておき、そこへの遅々たる歩みを堅実に評価する、そんな姿勢が教育論議に必要な気がします。

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先人の苦労を知る

2012-11-22 08:29:02 | Weblog
「飲水思源」11月18日
 書評欄に佐高信著「飲水思源」の書評が掲載されました。その中に『署名の「飲水思源」とは中国の諺で、井戸の水を飲む時は井戸を掘った人間のことを思え、という意味だそうである』という記述がありました。
 聞いたことがあるはずです。日中関係を報じる記事で、「中国側は日中国交回復を成し遂げた田中角栄元首相の…」という形で使われることが多いように思います。私もこの言葉は知っていました。氏はこの考え方を、教育委員会制度についてあてはめてみたいと思います。
 今、教育委員会制度は、まったくの悪者になってしまいました。事なかれ主義、隠蔽体質などの悪評が一般的認識となっているといってもよいと思います。しかし、現実に60年以上教育委員会制度は機能してきたのですし、今も機能しているのです。いわば、毎日教育委員会制度という井戸の水を飲んでいる状態なのです。教育委員会制度創設のころのことを思い出してみてもばちは当たらないはずです。
 昭和21年に米国の教育使節団が訪日し、マッカーサーに報告書を提出しました。そこで、他の改革と併せて教育委員会制度の創設がうたわれ、23年7月になって教育委員会法が制定されることになったのです。その第1条では、「この法律は、教育が不当な支配に屈することなく、国民全体に対し直接責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする」とされたのです。そして、法が制定されても、当時の我が国では、教育委員会を設置するだけの準備が整っておらず、全国の市町村に教育委員会が設置されるには、なお4年の年月を要したのです。
 多くの関係者の尽力により発足した教育委員会制度でしたが、教育委員に特定政党の色彩が強い人が選ばれるという問題が発生し、「教育の政治的中立と教育行政の安定性の確保」(事務次官通達)のために現行の仕組みに改められ現在に至るのです。
 ポイントは、「政治的中立」と「国民全体に責任を負う」という2点です。この2点が担保された上で、「地方の実情に即し」という概念が意味をもつのです。ですから、今、教育委員会制度について論じるとき、まず、「政治的中立」の問題について考えるべきなのです。特に、首長が教育行政を担うとした場合、民意の反映などという抽象的な表現で問題点の吟味を曖昧にしてはならないと思います。
 また、学校ごとに住民代表が教委に代わり学校運営の主体となる仕組みを採用する場合、「国民全体に責任を負う」という視点からの検討が必要となります。我が子にこんな教育を、うちの街ではこんな教育を、という思いや願いだけではいけないということです。
 教育委員会制度は、戦前の学校教育への反省に立ち、それでも旧来の思考に囚われた日本人の力だけでは実現できず、米国からの「圧力」を借り、それでも長い期間を要してやっと実現したものなのです。先人の苦労や思いを知らずに、安易に廃止してしまうのは軽率というものです。
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仕組みを変えて何をする?

2012-11-21 08:16:17 | Weblog
「何をするのか」11月18日
 総選挙の実施が決まり、各党が公約等を発表しています。この日公明党が公約を発表しました。その中に「教育」に関するものもあります。『・各小中学校にスクールカウンセラー等を常時配置し、いじめなどで悩む子どもが相談しやすい環境づくりを推進する、・学校施設の耐震化100%を達成する、就学前3年間の幼稚園・保育園・認定子ども園等の幼児教育の無償化、大学生、高校生のための給付型奨学金制度を創設する、委員選定や委員会の権限をはじめ教育委員会のあり方を抜本的に見直す、秋入学導入を含め大学入学制度を抜本的に見直す』という内容です。
 今回の総選挙では、主要政党が教育について言及しています。大学や大学院のことについては、私には分かりません。私が関心のある小中学校を中心に考えてみたいと思います。
 共通しているのは、教育委員会制度の見直しです。見直しが必要な理由としてあげられるのが、教育委員会制度では民意を反映させるのが遅い、教育委員会は従来のやり方に固執するだけで改革の進取性に乏しい、ということです。そこで、維新の会などは首長が教育行政を所管すると言う方向ですし、民主党は学校単位に市民の代表で構成する理事会等が教委に代わるという方向を打ち出しています。
 しかし、分からないのは、教育行政に関する「意思決定」の主体や仕組みを変えるというだけでどのような学校像を描いているのか、その根底にある国家観や社会観はどのようなものなのかが明らかにされていないということです。上記の公明党の公約でも、その部分は書かれていません。
 現在の教育委員会制度下では、基本的には全国一律であり、学校ごとに大きな違いは生じません(私はそれこそ大切だと思っています)。しかし、首長主導になれば、学校は自治体ごとに大きな違いが生じてくるはずです。維新の会が首長の自治体と共産党が首長の自治体で同じであるはずがありません。もし同じであるならば、首長所管にした意味がありません。市民代表による理事会制度であれば、もっと細かく学校ごとに違ってくるはずです。
 これを国民の側から見れば、自分の願いとは全く異なる方向に学校が変えられてしまう可能性があるということです。例えば、「国旗・国歌問題」を例にすれば、維新の会の首長が所管する自治体の学校では、国旗掲揚国歌斉唱が厳格に実施されますが、共産党の首長が所管する自治体の学校では、国旗も国歌も姿を消すでしょう。ここに国際化時代に生きる子供たちには自国の国旗や国歌に対する意識をもたせることが大切だと考えている保護者がいたとします。このAさんにとって、共産党首長が教育行政を所管する体制は、現在よりも悪い方向に変わったことになります。逆に、国旗国歌の強制は保守反動の象徴と考える保護者Bさんにとって、維新の会首長が教育行政を所管する体制は、現在よりも悪い方向に変わったことになります。
 つまり、仕組みを変えることは必ずしも、一人一人の国民にとって望ましい方向への改革を保証するものではないのです。それにもかかわらず、教育委員会制度の見直しという言葉で括られ、それが国民の総意であるかのように扱われるというのは、大きな問題であるように思います。
 自由と規律、創造と習得、国家有為の人材育成重視と学習者としての子供幸せ重視、平等主義とエリート育成、ジェネラリスト育成とスペシャリスト育成等々、決して二項対立的に捉える必要はありませんが、学校教育を考える際に根底に据えるべき理念や哲学は様々です。まず、そうしたレベルでの各党の論争が必要なのではないでしょうか。

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