ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

発見だけではなく

2011-08-31 13:32:03 | Weblog
「発見よりも」8月29日
『いじめの複雑・潜在化進む』という見出しの特集が組まれました。記事によると、『文部科学省が今月4日発表した10年度問題行動調査で、いじめの認知件数が増加した。現行の調査方法となった06年度以降初めてで、同省はアンケート調査の実施率向上を主な要因と見る。だが、いじめは潜在化しており、学校からは「判明したのは氷山の一角」との声が上がる』のだそうです。
 以下、記事では群馬県、熊本県などの事例を紹介し、アンケート調査の効果を述べています。もちろん、アンケートは必要です。しかし、アンケートはあくまでも発見のための手段であり、発見後の対応が適切でなければ、いくら発見されても被害者は救われません。
 それなのに、記事では対応法についての記述はほとんどありません。最後に、NPO法人「全国いじめ被害者の会」代表の大沢秀明さん(67)の次のような言葉を取り上げているだけです。『教師はいじめがあってもけんかやトラブルとして扱い「仲良くしなさい」となだめているのが現実だと言い、「『悪いことは悪い』としかるのが真の教育。いじめた子には厳しく措置して更生に導かないと、被害者も加害者も救えない」と訴える』
 大沢氏が言うように、対応法の改善が大切なのです。そのためには、調査法を変える必要があります。つまり、対応についても詳しく調べるような形式にするのです。
 まず、いじめと認識したケースすべてについて、対応に当たった教員が取った対応について選択肢法で記載させることが必要です。次に、いじめの加害者と被害者とその保護者に対して、教員の対応について選択肢法で回答させ、それを厳封の上、調査票の添付し教委に提出させるのです。
 そして、被害者と加害者と教員が高評価を与えた対応を抽出し、そこから実際に望ましい対応を明らかにするのです。また、被害者と教員が評価した対応、加害者と教員が評価した対応、被害者と加害者のみが評価した対応、三者が評価しない対応を分析することによって、学校や教員の「うまくいった」という自己満足を打ち消し、反省の契機を与えることもできるはずです。さらに、いじめの形態や関係者の年齢などにより、効果的な対応法が異なるという結果も予想できます。
 いずれにしろ、問題行動調査は、我が国の学校教育において、もっとも規模が大きく経年比較ができる調査であり、これを有効活用することが大切です。なお、こうした分析は膨大な作業量となり、現体制のままでは学校や教委はその負担に耐え切れません。その解決のために、専門の分析機関に委託することも検討する必要があります。

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道徳教育への思い込み

2011-08-30 08:10:42 | Weblog
「知らないで話す」8月27日
 元国税庁長官の大武健一郎氏が、『ベトナムの「ドゥトック」という標題でコラムを書かれていました。大武氏はその中で、来日したベトナムの学生の話を紹介しています。『学生たちは一つだけ驚いたことがあると言う。「電車やバスに乗ったが、老人が乗ってきても若い人が席を譲らないのを見た」。彼らが言うには、老人には席を譲るものと両親や学校に教えられ、自分たちは守ってきた。それは日本に見習ったのだと親から聞いているというのだ。ベトナムには「ドゥトック」という授業がある。これは日本の「道徳」を音読みしたものだ』というものです。不勉強でした。私は初めて知りました。
 大武氏は、この話から発展させ、『アジアの中で尊敬される日本であり続けるためにも、教育を立て直す必要がある』と結んでいます。話の流れから、この場合の「教育」とは、主に道徳教育をさしているものと思われます。大武氏に限らず、道徳教育の立て直しの必要性を主張する人は少なくありません。私の住むE区の議会でも、会期の度に「道徳教育」についての質問がされています。その数は、学校教育に関して言えば、他の課題を引き離し断然トップです。これは、E区に限ったことではありません。私は、現状が十分であるとまでは言いませんが、道徳教育は充実の方向にあると思っています。各教委が行っている道徳授業の実施状況調査からも、それは明らかです。ですから、「道徳教育」が不十分という意見を目にするにつけ、それなのに~、という思いを抱かずにはいられません。
 そしてもう一つ特徴があります。「道徳教育」の充実や立て直しを主張する議員の大部分が、いわゆる「保守系」の議員であり、「革新系」「市民系」とされる議員が、「道徳教育」という言葉を使うことはとても少ないということです。
 かつて、「道徳教育」には、戦前の修身のイメージを重ね合わせた反対がありました。現在、教員の中にそうした理由で反対する人はごく少数しかいません。それなのに、教育界以外では、「道徳教育」に対する潜在的な忌避感が存在しているとしか思えません。
 どうしてなのでしょうか。いろいろな原因はあると思いますが、私は学校・教委が「道徳教育」について、きちんと情報提供を進めてこなかったことが大きな原因だと思います。
 都教委は、各校で「道徳授業地区公開講座」を開催していますが、その内容を見ると、「道徳教育」や「生活指導」、「特別活動」などが混在した内容で、かえって「道徳教育」に対する誤解を深めているものもみられます。もちろん、道徳は全教育課程を通じて行うものですから、何を見せても「道徳教育」だと言うことは間違いではありませんが、多くの部外者は、いわゆる「道徳の授業」を「道徳教育」としてイメージし、それに基づいて「道徳教育」への距離感を形成しているのです。冒頭の大武氏にもそうした傾向が感じられます。だからこそ、週1回の「道徳の授業」を充実させ、その姿を広くアピールすることが必要なのです。それが「道徳教育」への偏見を解くことにつながるのです。 
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変化に合わせる

2011-08-29 07:47:38 | Weblog
「変化に合わせる?」8月26日
 慶応大学教授の小熊英二氏が、特集ワイドで震災復興について語られていました。その中で小熊氏は、『政策や経済を決定する人の社会のイメージは30年前のものなんです~(中略)~あのころが正しい、と考えるから、今がおかしいと思い込む~(中略)~「なぜ若い人は車を買わないんだ」とか質問する役員もそういう前時代の感覚ですね」』と話しています。
 確かにそうした傾向があるように思います。私自身、そうした面を濃厚にもっています。そうしたことを認めた上で、そこから2つの道があるように思います。変化に合わしてやり方を変えるという道とあくまでも正しいことは一つと考えて昔ながらのやり方を継続しようとする道です。学校教育はどうあるべきなのでしょうか。
 具体的な「指導」という面で考えれば、子供の実態を無視した指導は効果が期待できません。目の前の子供の姿を注意深く見とり、自分がもっている様々な指導技術の中から最適なものを選び出し、指導に当たるということが必要です。指導の最適化です。昔の手法だけでは通用しないから、教員は常に指導法の自己研鑽に励まなければならないのです。
 一方、学校教育の内容についてはどうでしょうか。最近の子供はメールで短い言葉でやりとりをするのに慣れているから長い作文を書かせるのは止めよう、とはならないでしょう。電卓があるから計算練習はいらない、ともならないと思います。文章は書くかた打つに変わっているから、難しい漢字は教えなくてもよいと考える人も少ないはずです。そして、「内容」を決める際の基本的な考え方や方向性も大きな変更はありえないのです。
 具体的な「指導法」と学校教育の「内容」やその基盤となる「基本的な考え方」は、学校教育を支える車の両輪であり、どちらも重要です。そして、前者は教員という教える専門家に委ねられるべきであり、後者は、「政治」を通して広い意味で国民全体が決めるべきものです。この点を混同してはいけません。教員が学校教育の内容や方向性を決めようとしたり、保護者や市民が素人の浅知恵をふりかざして教員の指導法をあげつらうことは望ましいことではないと思います。互いの分を弁えて学校教育に関与することが大切だと考えます。現実はそうなってはいませんが。

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仕事はいつどこで

2011-08-28 08:13:04 | Weblog
「委員報酬」8月25日
 『都教育委員 月報酬43万円 欠席でも満額支給』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『東京都が昨年、教育委員に対し、教育委員会の会議に一度も出席しない月分も月額報酬を満額支給していたことが分かった』ということであり、『各地で勤務日数に応じて支払う日額制の導入が進んでおり、都民からは、見直しを求める声が上がりそうだ』とされています。
 難しい問題です。教育委員の仕事の内容を分かった上での議論が必要です。私が室長をしていた市教委では、教育委員は非常に熱心でした。管下の小中学校の運動会や学芸会、研究発表会、周年行事などにはほとんど皆出席でした。その日数は、年間で、60日ほどになります。それ以外に月2回の定例委員会があり、年間25回ほどになります。さらに、予算編成時の市長との会談など、記事に書かれている都の教育委員の出席回数や出席率とは大きな違いがあります。
 また、「出席」日以外にも、「仕事」はあります。定例会での資料の読み込みです。小中学校しかない市教委でも、毎月の定例会に出される資料はA4の用紙で1cm以上の厚さになります。まじめに審議しようとすれば、読み込みに丸1日はかかります。さらに、教科書採択時には、半月以上かけても各社の比較検討は終わらないでしょう。実際、複数の教育委員から「こんなに大変だとは思わなかった」という声を聞かされたものでした。
 現在、財政改革の一環として、教育委員だけでなく議員の日額制を検討している自治体もあります。しかし、教育委員も議員も、会議に出席することだけが仕事ではありません。日額制が浸透していくと、会議当日以外は委員や議員としての仕事はしなくてもよいという風潮になってしまうことが懸念されます。それは、会議の形骸化を促進し、大きな意味で「民意」を軽視し事務局主導の行政を蔓延らせることになります。
 もちろん、教育委員職を名誉職のように捉え、意欲も情熱もない人物に多額の報酬を支給するのは間違いです。だからといって、いきなり日額制というのは危険です。私が勤務していた市の場合、現在の半額程度の月額制と、1日2万円程度の日額制の併用が望ましいと思います。各自治体が実態を精査して、教育委員の意欲と義務感を維持するシステムを検討すべきであり、初めに日額制ありきではいけません。
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学校と暴力団

2011-08-27 07:40:53 | Weblog
「暴力団との関係」8月25日
 タレントの島田紳助氏が暴力団との関係を問われ芸能界を引退するという出来事がメディアをにぎわしました。社説もこのことを取り上げ、『この暴力団関係者と親密なメールをやりとりしていたこと、大阪府警が05年にこの暴力団関係者の関係先を家宅捜索した際には、島田さんからの直筆の手紙や島田さんと同席した写真が見つかっていたことも明らかになった』とその実態を紹介しています。
 実は、教員も「暴力団関係者」と接触する機会が多い職業です。10年間学級担任をしていたとして、その間に250人くらいの保護者と接触します。確率から言っても、その中に暴力団関係者がいる可能性は高いのです。もちろん、彼らも人の親ですから、子供の幸せを考え、自分が暴力団関係者であることは隠していますが、何かトラブルが発生したとき、裏の顔を見せるのです。
 私自身、教員時代に何人か暴力団関係者ではないかと思われる保護者と接する機会がありました。入れ墨をしている人、家庭訪問すると女性とベットにいた人、私の目の前で娘を拳で殴りつけた人など、あくまでも「そうではないか」というレベルですが、幸いなことにトラブルはなく、一般的な関係で済みました。
 しかし、教委に勤務するようになってからは、金品を要求されたり、校長や副校長が脅迫されたり、生徒が他の生徒の保護者に暴行されたりするケースを担当しました。金品を要求されたケースでは、「私はあなたの行為は脅迫に当たると思います。これから警察に行きましょう。そこでどちらの言い分が正しいか判断してもらいましょう」と言い、撃退することができました。校長や副校長が脅迫されたケースでは、2人ともビビってしまいポケットマネーで見舞金を払ってしまい、そのことが「責任を認めた」ことになり、解決に手間取りました。結局、校長は家族ぐるみで引っ越し、他の自治体の学校に異動していってしまいました。失敗したと言わざるを得ないケースでした。生徒が殴られたケースでは、警察に被害届を出すように学校を通じて保護者に勧めましたが、大事になるのを怖れた保護者は首を縦に振らず、殴り得になってしまいました。
 学校や教委は、子供のことで話があると言われれば、それに応じなければならないとされます。相手が暴力団関係者だからという理由で接触を拒めば、「子供に罪はない」という非難にさらされます。しかも、教員も校長も長年教育界という「性善説」が支配する世界で生きてきており、暴力団関係者のような考え方の人と接触するノウハウをもっていません。
 「話を聞いてほしい。でも昼間は時間が取れない」と言われ、熱心な教員ほど時間外に保護者と接触をもち、その相手が暴力団関係者であった場合、今度は何回も会ったということ自体を脅しの種にされるというケースが懸念されます。少なくとも管理職に対しては、警察官や弁護士等を講師にした暴力団対策講習会を行うことが急務です。また、教委として、暴力団対策担当を設け、支援する体制の構築を急ぐべきです。
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抜け穴だらけ

2011-08-26 07:59:28 | Weblog
「抜け穴」8月23日
 大阪維新の会の教育基本条例案が報道されました。記事を見た感想としては、学校現場ではいくつもの抜け穴が見つけられ、条例の効果を減殺する動きが始まるだろうということでした。
 たとえば注目を集めている「職務命令」については、『同一の職務命令に3回違反した職員は分限免職にする』とされていますが、抜け穴は「同一」にあります。1年目に起立して国歌斉唱という職務命令に従わなかった職員には、2年目には会場警備を命じ、卒業式の間会場外を巡回させ、3年目は受付を命じて、やはり会場に入れさせないようにし、4年目は当日年次休暇を申請させそれを認めるというようにすれば、免職を免れることができます。校長も職員も、お互いの主張を曲げるわけにはいきませんし、裁判沙汰を避けたいという思いも共有しています。だからこそこうした抜け穴が「活用」されるのです。似たような対策は、某教委でも実際にあったという「噂」がながれたものです。
 また、「人事評価」についても、『S(50%)~(中略)~D(5%)の5段階評価とし、2年連続D評価の職員は分限免職の対象とする』とされていますが、やはり抜け穴があります。「2年連続」と「対象とする」がポイントです。つまり、CとDを交互に繰り返せば、永久に免職されないということです。仮に、2年連続D評価となっても、あくまでも対象とするだけなのですから、特別な事情、たとえば指導困難な生徒を担任した、モンスターペアレントがおり対応に神経をすり減らした、家族の介護が重なり職務に集中できなかったなど、次年度は改善が見込まれるという見通しを示せれば、免職が保留される可能性があるということになるはずです。
 某教委の人事制度では、D評価についてはそうした「不正」はありませんでしたが、S評価については2年連続S評価とするのは極力避けるという「方針」がしめされていたものです。同じ人が毎年S評価で特昇を受けるというのでは、多くの職員の意欲を削ぐという理由からでしたが、何らかの操作が可能であることは間違いありません。
 私は、こうした抜け穴があるから条例案が問題だと言っているのではありません。どんな条例や規則を作っても、必ず抜け穴はできてしまうものなのです。現場を抜け穴探しに追いやるか、条例の趣旨に共感させ抜け穴を許さない雰囲気を醸成するかという点が重要なのです。後者になるためには、首長が一方的に押し付けたと思われないことが必要です。今回の維新の会のやり方がそうなっていなければ、教育基本条例は、教育現場に抜け穴探しというもっとも教育の場に相応しくない行為を蔓延させることになるでしょう。その結果、学校は更に荒廃することになってしまうはずです。人は強制だけでは動かすことができないということを、橋下知事は理解しているのでしょうか。

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子供の応援団

2011-08-25 08:07:20 | Weblog
「援」8月21日
 豚々拍神氏の『「頑張れよ!」上司はただの応援団』という川柳がサラリーマン川柳欄に掲載されました。こんな頼りない上司の姿は、多くの職場でみられることでしょう。しかし、これが教員だったらどうでしょうか。
 逆上がりができない子供に、「頑張って」。泳げない子供に「怖がらずに」。文章題が解けない子供に「よく考えて」。何を作文に書けばいいか悩んでいる子供に「書きたいことを書いてごらん」。習字が下手でやる気をなくしている子供に「手本をよく見て」。こんな「指導」しかできない教員はいないでしょうか。
 かつて、「指導ではなく支援を」「子供を見守ることが大切」、こんな指導観が、学校現場を席巻したことがありました。そのときには、研究授業で、学習指導案ではなく学習支援案と書かれたペーパーを見せられたこともありました。もちろん、こうした考え方は間違ってはいません。しかし、多くの教員が誤解をしてしまいました。教員が進むべき道を示すことは悪であり、子供が発見するのを待つのが善という誤解です。そして、一部の教員は、こうした誤解に基づいて授業をしてみると、非常に「楽」であることに気付いてしまったのです。何も知らず、何もしなくても、「見守り中」の一言で許されてしまうのですから。
 逆上がりができない原因には様々なものがあります。原因が筋恐怖心なのか、成功のイメージがもてていないのか、筋力不足なのかによって指導法は違ってきます。筋力不足という場合でも、腹筋なのか、握力なのか、腕なのか、蹴る足なのか、それらが複合したものなのかによって、異なる助言をしなければなりません。それができて教えるプロといえるのです。それなのに「頑張って」という声を掛けて見守るだけでは、指導者ではなく、「応援団」にしか過ぎないのです。
 支援も応援も、「援」という共通点があります。しかし、両者はまったく違う概念です。支援は具体的に力をそえて助けることであり、応援はファンとして励ますことです。教員は、子供のファンではなく、コーチです。具体的な助言や環境設定をして、子供だけではたどり着けない地点へ導くことができなければならないのです。
 教員は自分が応援団化していないか、常に自省すべきなのです。
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語れる人物

2011-08-24 07:55:40 | Weblog
「語れる人物」8月20日
 スポーツライターの玉木正之氏が、『スポーツっ何だろう』という標題でコラムを書かれていました。玉木氏はその中で、『我が国のスポーツに対する理解は、アカデミズムとジャーナリズム、それに行政機関やスポーツ団体によって、相当大きな差が存在し、スポーツ基本法でもスポーツと体育の違いすら明確でないのが実情だ(高校野球はスポーツ?体育?)。五輪招致を考えるなら、我々はまずIOCと共有できる「スポーツ論」を身につけるため、「スポーツとは何か?」という学習から始めるべきかも』と述べています。
 玉木氏の「スポーツと体育」については、以前も取り上げさせていただきました。今回の指摘も貴重なものです。我が国には、様々な教育学者がいます。政治家の中にも文教族といわれる教育問題の専門家がいます。文部官僚は優秀で、教育についての情報をもち分析しています。各メディアには、教育専従班ともいうべき教育通がいます。教育評論家と呼ばれる人たちもおり、その「専門」は、幼児期の躾から大学院教育のあり方まで、受験対策から心の教育まで、時期も対象も多様にわたっています。そして、国民は皆、学校教育について、自分なりの思いをもっています。正に百家争鳴です。
 しかし、学校とは何か、ということについて、誰しもが納得させられる論考や講演がなされたという話は聞きません。玉木氏はコラムの中で、IOCのロゲ会長の講演を取り上げ、、『ロゲ会長の言葉は正しく曖昧さもなく、人類にとっての「スポーツの価値(バリュー)」が見事に網羅されていた。おそらくその原稿は優秀なスポーツ学者の協力を得て書かれたのだろう。が、きわめて高いレベルのスポーツ論をトップの人物が語ればこそ、IOCとオリンピックは存続し、世界で巨額のカネも動かせる、と確信した』と書かれています。
 わが国においても、文部科学相や首相が、「学校の価値」について「正しく曖昧さもなく」語ったとすれば、それは学校のあり方を巡る教育論議に厚味を加え、その論議は個々の改革論の根本をなす貴重なものを生み出すはずです。
 今、民主党の代表戦が行われようとしています。有力候補の一人である野田氏は、「自分は文部科学大臣をやりたかった」と語り、「教育」への関心を示していますが、他の候補者は「教育」には言及していません。まして、「学校」については皆触れることもしません。
 首相に「学校教育」についてレクチャーできるような人材は我が国にはいないのでしょうか。
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やりたくなくても

2011-08-23 07:45:13 | Weblog
「やりたいことを」8月17日
 『シリコンバレー精神』という連載記事が掲載されています。その第2回は『ゲーム作りで探求心』という標題で、『シリコンバレーの企業「iD」が毎年夏、7~17歳を対象に開催している「テクノロジーキャンプ」』の様子を紹介しています。
 記事によると、海外からも参加者が集まるそうで、『1週間、子どもたちが思い思いのペースでゲ-ムと向き合い、指導者はヒントを与えるだけだ。課題は何もない』のだそうです。記事の終わりは、参加した子供の声を紹介し、次のように結ばれています。『「学校と違って、好奇心を大事にしてくれるから楽しい。やりたいことが見えてくる」と話す。「好きなこと」をとことん追求する姿勢もここで育てられる』
 取り越し苦労かもしれませんが、心配になりました。《すべての子供は「やりたいこと」をもっており、余計な介入をしなければ「やりたいこと」に熱中し、意欲的に取り組む。これこそ真の教育であり、真の学校のあるべき姿だ》という、とんでもない考え方が、シリコンバレーでの取り組みから導き出されてしまうのではないか、という心配です。
 もちろん、こうした考え方は間違っています。しかし、我が国では、どういう訳かこうした「子供=無限の可能性」的な主張が指示される傾向があります。しかし、自分が7歳のときのことを思い出してください。何日間も我を忘れて熱中できる「創造的な活動」がありましたか。好きな漫画を読んだり、ゲームで遊んだりするような「消費的な活動」ではなく。自分はそうだったという人がいるかもしれませんが、そういう人には、あなたの回りの友達はどうでしたか、と聞きたいと思います。そんな子供は、ごく少数派なのです。そして、学校は、100人に1人、200人に1人という特別な存在のために用意されたシステムではないのです。特にしたいこともないし、忘れるだけの集中力もないし、継続して取り組むのに必要な知識や技能も身に付けていないという「普通の子供」を対象に設計されたシステムなのです。
 また、「やりたいこと」に特化することは、「やりたくないこと」には触れないということでもあります。こうした考え方は、義務教育には馴染みません。義務教育とは、子供が欲しているか否かには関わりなく、国民として必要最低限の知識や経験を提供することをねらいとしているからです。
 子供がやりたがらないことを如何にしてやらせるか、これこそ教員、特に義務教育に携わるが知恵を絞ることなのです。 
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勘違いするな

2011-08-22 06:46:12 | Weblog
「教員がやること」8月17日
 『「放射線」悩む教師』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『来年度から中学校で使われる理科の教科書に、30年ぶりに「放射線」についての記述が盛り込まれることになり、担当教員が指導に頭を悩ませている』のだそうです。
 よく分からない話です。記事では、『プールやグラウンドの放射線量について生徒や保護者から質問されて答えに困っている』『学者レベルでも分からないことも多く、そこに踏み込むと教師側が苦しくなる』などの「悩み」が紹介されていましたが、的はずれな「悩み」と言わざるを得ません。
 教員は、学習指導要領の趣旨に基づいて、授業を構成すればよいのです。つまり、エネルギー資源としての原子力を取り上げ、放射線の性質とその利用に触れればよいだけなのです。より具体的に言えば、原子力による発電の仕組み、我が国の発電に占める原子力発電の割合、諸外国との比較、資源としてのメリットとデメリット、医療や産業における放射線の利用となるでしょう。それだけでよいのです。それ以上の内容については、「総合的な学習の時間」への発展課題とし、調査の方法などについてアドバイスをすればよいだけなのです。
 教員は、教えることの専門家であり、教える対象となる分野のエキスパートである必要はないのです。その点を誤解してはなりません。学者レベルで分からないことなど、「現在の科学では、見解が分かれていて、はっきりとは分からない。興味があるのだったら、こんな本や研究所のHPが参考になるよ」と言えばよいのです。それくらいは言えるでしょう。
 こうした事例は、何も理科や原子力に限った話ではありません。私が専門としてきた社会科においても、歴史事象の解釈は様々であり、しかも新しい見解が次々に打ち出され議論となっています。しかし、一個人としてそうしたことに関心をもつことは、教材研究の幅を広げる上で意味がありますが、授業で扱うのは、あくまでも学習指導要領の趣旨に添って、なのです。いくら「網野史観」が話題となっているからといって、「百姓」の視点で中世史を展開することはありません。せいぜい「最近はこんな見方もされるようになってきている」と軽く紹介する程度なのです。
 教える事象や分野についての「専門性」を求めるのではなく、「教え方」の「専門性」を高めることこそ、教員のやるべきことです。この原点を見失ってはなりません。



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